紙魚たれた掛け軸【弐】
店に戻って仕入れた掛け軸から風鎮を外し、印を彫る篆刻家にわたりを付けられそうな売り先を帳簿から探した。懐中時計で短針がひとめぐりする前に見つけた。山崎渤介……たしか『彫り味が石の種類ごとにちがうからこの官能的な質感がたまらないんだ』とかのたまってこの石を根っから好んでいる篆刻家だ。
たぶん木島に声をかければすぐなんとかなるが、声をかけることそのものが億劫である。まあ、おそらく三か月ほど経過すると向こうから「売れてねぇだろ」と声がかかるので、そこで声掛けの件を切り出せばいい。きっと。そうにちがいない。それでいいはず。だって面倒だもの。
美人画は本紙を外して掛け軸を取り替え、見栄え良くなったことに納得すると玄関より入ってすぐ、奥を見回すときに目に入る翳った位置にかける。
なおこの隔理世は現世の浅草から隔たった場にあるため、そもそも日光はほとんど差さない。日焼けの心配がないのは良いことだった。
さて、売り物の方を片付けたらお楽しみの紙魚の掛け軸。
するすると開いて鴨居に刺さった釘に掛ける。
伸びた紙面では、やはりわずかに紙魚が動いていた。
これ、絵のなかで上から散った紙吹雪を食しているのだろうか? のたのたと動くと銀粉をまぶしたような体が時たま、きらりきらめく。どのようなまじないがこれを成立させたのだろうか? どういう意図・用途がここに含まれるのだろうか? 考え出すとじつに面白い。
「うわきもちわるい」
ひどいことを言いますね。と、美也子さんに返しつつ、彼女の表情に宿る「人から隔たったものへの視線」には、先日の触れると死ぬ箱の一件で訪れた絹谷家の面々を思い起こす。
彼らからすると、人の形をしているが人ではない美也子さんが『隔たったもの』として映っているということなのだろうけれど。そんな視線と、美也子さんが虫を見る目に似通ったところがあるというのはなんだか妙な感覚だった。
美也子さんはつづけて、正面に固定された視線(眼球を運動させる機能はついていない人形なのだ)のまま首をかしげて掛け軸の下方を見やり、ぞっとした顔で言う。
「足がうじゃうじゃでちょこまか動くし、コイツ髪の毛とかも食べるんだもの。イヤに決まってる」
ああなるほど。私は合点がいった。
瞳は玻璃と黒曜、肌は白磁で血色は紅、内に宿すは発条と機巧と呪いという人間離れした美也子さんだが、こと髪の毛に関してだけは人毛である。
歌舞伎座や演芸場のかつら屋にお願いして分けてもらい、たまに植えるのを手伝っているとはいえ抜け落ちていることはままある。たぶんそれを齧られているのを見たことがあるのだろう。
その生理的嫌悪、というものはおそらく人間のかたちをしているがゆえに得た身体性、およびそれが(間接的にでも)損なわれることに対するものなので感覚不在の彼女であっても──いや、視覚がすべてならその中で『自分の身体が喪われる』ことへの恐怖はことさら、大きいのだと思われた。
ではまあ、美也子さんがあまり見ない場所に置いておきます。
「悪いね。鷂くんは気に入っているだろうのに」
私の性癖に付き合わせるわけにもまいりません。美也子さんは大事な備品ですし。
「……従業員雇うことがあったら鷂くんぜったい配慮しないよね。もし奉公人とかがやってきたら、私を教育係にしてね」
そりゃ、私は教育なんてこれっぽちもしたくないので助かりますが。なぜ進んでそんな面倒を引き受けてくれるのです。
「性癖に振り回されるかわいそうな人を減らしたいからだけど?」
私だってそのときはきっとその人の性癖に付き合わされていますよ。なんらおかしなところの無い人間など、この世にはいないのですから。
などと返せば美也子さんは信じられないモノを見たという顔つきだった。そんな顔を向けられるいわれはないというか、この店に出入りする人間は全員どこかしらおかしかったという経験則があるのだからそれを否定してからにしてほしい。
結局美也子さんは半目で私をにらんでなにも言わなくなってしまったので、呆れられているのだろうと推測はしながらも無視して私は自室に戻った。店舗の二階にある自室はとくに私が気に入っている逸品を集めた私事趣味室というやつで、精緻な細工の煩悩祓う法具やら西洋伝来の火難避けの龍涎香やら歪んだ鏡面がその人の近く怪我する場所を示す銅鏡やらに囲まれて、うふふと笑っているうちに眠りに落ちていた。
────。
夢を夢と認識することはできないものの、その空間は最初からなにやら奇妙な印象があった。
そこはアンテイクの店内ではある。
ではあるのだが。どこか妙だった。
当店の物品はそれぞれが相互に作用することで呪いを抑制しており、そのために易は納甲にて五行に方位加えてあらゆる縁起に験担ぎはたまた噂に伝承となんでもござれで影響を掛け合い、均衡を保っている。ゆえにすべての物の配置は私と美也子さんの間で共有しており、掃除の手順ひとつ誤るだけで崩れることもあるのでかなり慎重に取り扱いをしている。
そういうわけなので、私がこの店内を見て「変だ」と感じることこそが変だった。すべての物を把握しているはずなのだから。
けれど数舜の後。
ああそうか。気づいた。この景色、別段、完全に見覚えが無いではない。店内の、椅子や岩塩よりも奥の方。壁面であり鴨居に釘が刺さっているあたり。
ただ普段見る景色よりも一歩下がっている。
ああ、柱のあたりだ。そう、『店内の柱にめりこんで店内を見渡したなら』こんな景色だろうと思わせるような。
なぜこんなところに居るのだろう? 私は不思議に思いながらも視線を配る。見慣れた景色も情報がちがえばまた異なる様相を呈す。
しばしそうしているうちに、店の外が白んできた。夜明けなどとは無縁の隔理世、妙なこともあるものだと感じつつも夢のなかではそれを異常と『思う』ことができず。そのまま光に満ちた視界がいっぱいになって────
────。
んむ?
自室で目が覚めた私は薫と、ブイヨンのような肉の香りを嗅いだ。
液状精肉、つまりは英国のボブリルをどうやら湯に溶かして温めているらしい。珍品として我が家に備蓄していたそれを使っているとはいったい。
そう思いながら身を起こし、一階に降りると、美也子さんと目が合った。やあおはようございます、今日は昨日に比べてずいぶん冷え込んでいるのですね。
そう声をかけると彼女は呆れ果てた顔つきで、私に言ったものである。
「三日も寝ていると、寒暖差にもニブくなるんだね。一昨日からずっとこんな気温だよ」
……三日? 私は訊き返して首をかしげた。




