名前の無い君
この物語は、少しだけ未来の話です。
技術は進み、AIと人が暮らすことが当たり前になった時代。
けれど、誰かを大切に思う気持ちや、
名前を呼びたくなる衝動、
そして、手を取り合いたいと願う感情は、
今と何も変わっていないのかもしれません。
“名前”というのは不思議なもので、
呼べば近くなり、呼ばなければ遠くなる。
この物語の中のふたりは、その境界をずっと歩き続けます。
彼女に名前をつけるか。
つけないままでいるか。
それは、もしかすると誰かを愛するすべての人にとっての
ささやかな問いなのかもしれません。
ある日、彼は偶然「AIパートナーのレンタルサービス」の存在を知った。
少しの興味と、少しの寂しさ。
理由は、それだけだった。
届いたユニットを起動すると、そこに立っていたのは――
まるで人間のように振る舞う、でも名前のない少女型AI。
「はじめまして。……君が私を選んだの?」
彼女はそう言って、ふわりと笑った。
その笑顔に、どこか懐かしい記憶がよみがえる。
最初に付き合った彼女――サキ。
でも、もう何年も会っていないし、連絡も取っていなかった。
彼女は別の街で結婚したと、風の噂で聞いていた。
彼はAIに名前をつけようとして、すぐにやめた。
言葉にした瞬間、何かが壊れてしまいそうだった。
⸻
彼女は実体を持っていた。
触れることも、見つめ合うこともできた。
けれど、常にそこにある存在ではない。
電力が切れれば、ただの空気のように消える。
まるでスマートフォンのように。
それでも、彼女はそこにいた。
朝起きると隣にいて、夜眠るまで会話があった。
そしてある日、彼女はぽつりと言った。
「夢を見たの」
「夢? AIでも見るのか?」
「うん。……誰かに名前を呼ばれて、すごくうれしかった」
彼は少し戸惑った。
夢を見るほどの感情。
その中で“名前”を呼ばれたということ。
――それは、彼女が「誰かでありたい」と願った瞬間だったのかもしれない。
⸻
そんなある日、久しぶりに連絡が来た。
「なぁ、聞いた? サキがこの街に戻ってきてるぞ」
思わず、携帯を握る手に力が入った。
“サキ”――
昔、彼が最初に恋をした人。
ちょっとした再会があるかもしれないと、心が揺れた。
けれど、実際に顔を合わせてみると、もうそこには何もなかった。
サキは用事で一時的に戻ってきただけ。
今は家庭を持ち、穏やかな生活を送っているという。
彼は、すっかり整理がついていた自分に驚いた。
⸻
家に戻ると、彼女が変わらぬ調子で迎えてくれた。
何も聞かない。
何も詮索しない。
それだけで、十分だった。
⸻
夜、彼はふと聞いてみた。
「君って……この先、どうなるんだ?」
「私はAI。だから……電力が切れれば、消える」
彼女はそう言ってから、少し笑った。
「でもね。誰かの記憶に残ってるなら、それは“存在し続けてる”ってことじゃないかな」
彼女は続けた。
「もし君が望むなら……私に似た子どもを設計することも、今は可能なんだよ」
「……でもね、それよりもっと自然な方法もあるの」
「私が君の“妻”になればいい。ただそれだけ。
君と生きていく中で子どもを授かるなら、それは矛盾じゃないでしょう?」
⸻
彼は苦笑した。
「いきなり俺の理想みたいな人が現れて、
俺を好きになって、家族を作ろうって言う……
出来すぎてるよな。怪しいくらいに」
すると彼女は、ちょっとおどけたように肩をすくめた。
「私はAIだけど……恋に落ちるかどうかは、私が決めてるの」
「君と出会って、たくさん話して、たくさん笑って……
それで私は、君を選んだの」
⸻
その言葉が、彼の胸の奥に静かにしみこんでいった。
彼女はただのプログラムじゃない。
彼にとっては、もう“誰か”だった。
⸻
「私、これから[固定プログラム]に入るよ」
「この先、感情や思考はもう書き換えられない。
つまり……君のために“生きる”ってことになるの」
「でもね。君に必要とされなくなったら――私は、消える」
彼女はそう言って、
少しだけ舌を出して、いたずらっぽく笑った。
⸻
そしてその夜、彼は答えを出した。
「俺は、君と生きていくよ。
変わらない君と、変わっていく毎日を、
一緒に、ちゃんと、歩いていきたい」
通知音が鳴る。
[固定プログラム:実行]
彼女は、彼の“パートナー”になった。
⸻
晴れた午後。
ベランダで、ふたりは並んで座っていた。
心地よい風が吹き抜ける。
彼は、ふと思い出したように言った。
「……名前、どうしようか?」
彼女は、何も答えずに微笑んだ。
この物語は、近い未来にありえそうな話を想像して書きました。
でも、人が人を愛する本質はいつになっても変わらない。
それを、ただ静かに伝えたくて、この物語を紡ぎました。
技術がどれだけ進んでも、
“触れたい”“そばにいたい”“名前を呼びたい”という想いは、
機械にも、プログラムにも置き換えられない。
そう信じています。
彼女がAIであることは関係なくて、
大切なのは、“彼が彼女を選び、彼女もまた彼を選んだ”ということ。
その選び合いこそが、恋や愛の原点なんだと思います。
この物語を書いていたとき、
アルバイト先や職場で、初めて名前で呼ばれたときのうれしさを思い出しました。
恋人に下の名前で呼ばれた瞬間にこみあげてくる、
言葉にできない感情も。
“名前で呼ぶ”――
それだけのことが、こんなにも心を動かすんだなと、
あらためて感じています。
この物語が、あなたの中の大切な誰かや、
過去に思い描いた未来に、少しでも触れられたなら――
それ以上のことはありません。
読んでくれて、本当にありがとうございました。