体験プレゼン『ツインズ★エキスプレス』
メインルームで瞑と打ち合わせた後、宿泊棟の部屋に戻り、備え付けのデスクの上にノートパソコンを置いてプロットを作った。彼女に確認をとる前に、僕らのサポーターで、データエンジニアの沢井さんとプログラマーの鎌田さんを訪ねた。沢井さんにチャットすると、二人ともシステム統合管理ルームにいるからと、地下への入口を開錠してくれた。
「いらっしゃい。さっきまでここに城崎さんがいたんだけど、別々に作業してるの?」
沢井さんが紙コップに熱い緑茶を入れて渡してくれた。この人は日本茶好きらしい。
「はい、それぞれの得意分野で分担しようってことになったんです」
「そう。で、湯沢君はどんなご用?」
「沢井さん、鎌田さんに一つずつ相談がありまして」
沢井さんの隣りに腰かけている鎌田さんにも視線を送った。どうぞと彼女が先を促す。
「まずは沢井さんにご相談ですけど、あの……データベースに残っている舞さんのデータを集めて、彼女のノンプレイヤーを創り出して欲しいんです。舞さんは何度かネットにログインしているので、十分なデータが捕捉できているんじゃないかと思って……」
沢井さんと鎌田さんはお互いに顔を見合わせた。
「それはどうしてかな?」沢井さんが訪ねる。
「今日の夕方、ベーシック・ワールドのデモとプレゼンをやりたいんですが、その時にどうしても、瞑さんと舞さんが同時に仮想世界に存在して欲しいんです。もちろん舞さん自身に登場してもらえればいいんですが、ご存知の通り、彼女は引っ込んだまんまだし、もし出てきてもらえても、二人は同時にログインできないし」
再び二人のリケジョは顔を見合わせ、沢井さんが口を開いた。
「あら、さっき城崎さんも同じような相談を持ちかけてきたけど、それなら問題ないわ……もっといい状況を創り出せると思う」
「どういうことでしょうか?」
「うーん、瞑さんからは、湯沢君には内緒にしておいて欲しいって言われてるのよね」
意味深に二人は笑みを漏らす。
「……そうですか。よくわかりませんが、それができるようでしたらお願いします」
「まかせておいて。『舞さんのNPC』を呼び出す設定なんかは瞑さんに説明しておくから」
「よろしくお願いします……で、もう一つの相談ですが、さっき城崎さんと打ち合わせをしていて、お二人から『量子コンピュータのデータ処理能力や演算能力はかなり当初の想定を超えているらしい』と聞いたんですが、ベーシック・ワールドの時間や空間を『多層化』することはできるんでしょうか?」
「『多層化』? どういうことかしら。確かにデータ処理能力は格段に上げられることはわかったけど」
「えーっと、そこで起きる出来事が微妙に違う世界が層状に存在するというか……」
「マルチバースみたいなことかしら?」
「あ、はい、そうです。やっぱりちょっと難しいですか?」
僕の難問に今度は鎌田さんが答える。
「無茶苦茶かけ離れた世界でなければ、十分可能よ」
「そ、そうですか!……でも『すぐに』っていうわけにはいかないですよね?」
「あら、わりとカンタンよ。」
「え! どうやって?」
鎌田さんは、世界生成AIの管理画面を大きなモニタに映した。そこには『Past』というサブ・ウィンドウが開いており、二つのボタンが表示されていた。ひとつは『Big Incident』。 もうひとつは『Trimming』……そういえば、この機能が何であるか、確かめることが瞑から僕に課された最初の宿題だった。
「この『Trimming』ボタンをオフにするだけ」
彼女は事もなげに答えた。
「え! これは過去の細かい出来事を除去・修正する機能ではないんですか?」
「まあ、あなたもこのボタンに気づいてたのね……惜しいけど、ちょっと違う」
鎌田さんが悪戯っぽく微笑む。
「どういうことですか?」
「ざっくり言うとね、この仮想世界って、いろいろなデータを集めてできてるじゃない。その中には人々の記憶データも含まれている……あの冷えピ〇、じゃなくて『センス・ブースター』を使って集めたもの。でもね、そこには『事実』に基づくデータだけじゃなくて、その人の勘違いや妄想で生まれたデータも含まれてしまう。そうすると、リアルの世界で起きていることとブレができてしまうし、その余計なブレの再現にコンピュータのリソースが食われてしまうから、他のデータと付け合わせて不要なデータを削除してるの。だから、その『Trimming』をオフにしたら、人々の『記憶や妄想の個人差』によって、いくつもの世界が生まれるわけ」
『Trimming』とはそういう意味だったのか。僕はさらに疑問を投げかける。
「ということは、そのスイッチをみんながオンにすると、際限なく微妙に異なる仮想世界が生まれてしまうんじゃないですか?」
「確かにそうね。でも、今までの実験だと『Trimming』をオフにしたままだと、ログインするたびに色んな世界が生まれてカオス状態になるってわけじゃなくて、最初にログインした時の時間・空間が、ログインし直してもそのまま継続されるみたい。おもしろいことに、個人個人が別々の世界を創っても、類似性が高いとAIが補正してそれらを統合してくれることもわかったわ。それにこの『Trimming』スイッチをオンにすると、その人個人で創った世界がリセットされて、リアルの世界と同じような舞台設定になるの」
それがどんな風にコンピュータの中で処理されているか皆目見当つかないが、僕がデザインしようとしている世界には都合がいい。
「湯沢君と同じような質問が城崎さんからあったけど、今の話をしてあげたら『私の予想と違った』と随分悔しがってたわ」
と沢井さんがつけ加えた。
僕は、城崎瞑による体験デモは、Trimming機能をオフにしてやりたい旨を伝え、地階のルームを後にした。
・瞑と舞が同時に存在する
・現実世界と微妙に異なる時間、空間
プロットの通り、この二点を前提としてサンプル・ストーリーを創作する。
昼ご飯をメインルームに食べに行く時間がなかったが、陣中見舞いだと言って、別府先輩が厨房に頼んで作ってもらったお結びセットを届けてくれた。感謝。
午後一番にテキスト原稿を完成させ、世界生成AIのプロンプターの根岸さんと話し合った。
◇ ◇ ◇
ベーシック・ワールドの体験デモとプレゼンは、夕食時間に行われることになった。
時間になって会場のメインルームに入ると驚いた。いつの間にか二百インチくらいある大きなスクリーンとプロジェクターが設置されていて、その前には五十席ほどの椅子が並べられていた。
配膳用のカウンターには、ホットドッグやハンバーガーにフライドポテト、ポップコーンなど、いわゆる『シアターフード』が並べられ、ドリンクコーナーも設けられていた。さすがにアルコールは無いようだ。
「よう、ラブコメ少年」
背後から声がかかる。あまり好きではないその呼び方をするのは、黒川プロデューサーくらいだ。
「今夜のプレゼンデモ、楽しみにしてるよ」
「はい、精一杯がんばります。と言っても、これから頑張るのは城崎さんですが。で……このセッティングは?」
「ああ、こうやってみんなで観た方がオモシロイだろう」
当初、僕たちもベーシック・ワールドに入って仮想空間で瞑を追いかけて眺める計画だったが、それだとついて行ける場所も限られ、第一、大勢のプレイヤーがゾロゾロついて回ると雰囲気はぶち壊しだ。だから、瞑が体験している画像・音声情報を彼女のイマーシブ・ギアから分配する。なんと彼女が考えていることも言語化され音声として一緒に分配される。自分の思考がダダ洩れになってしまうのは、ある意味恐ろしい。これらをメインルームを会場としたスクリーンでみんなで『鑑賞』しよう、ということになったそうだ。
「あの、こうやってみんなで観るということは、城崎さんが体験していることは、すべて我々に見えてしまうということでしょうか?」
「ああ、そういうことになるな。でも、『シーンカット機能』を使えば、オフにしたい画像は選択できるはずだ」
僕は慌てて根岸さんにチャットで確認した。このサンプル・ストーリーに、シャワーシーンや温泉入浴シーンがあったからだ。根岸さんから『そのシーンは大量の湯けむりで隠すとコマンドしたから大丈夫』とすぐに返事が返ってきて安心した。
食事の時間になり、高校生もサポーターさんも、産業医の千堂先生も、この研修センターのスタッフさんもメインルームに集まってきた。おばちゃん料理長に勧められ、みんな手に手に軽食と飲み物を取って席に着く。直前までベーシック・ワールドの設定に奔走していた沢井さんや加藤さんに根岸さん、鎌田さんも部屋に入ってきた。
ここにいないのは多分、城崎瞑、一人だけ。彼女は自分の部屋で仮想世界にログインするタイミングを待っている。
十八時ぴったり。
座席の一番後ろに座っていた黒崎さんがスクリーンの前まで出てきた。
「みなさん、新世界創造への取り組み、本当にお疲れさん。『テーマ・ワールド』のいくつかにボクも入ってみたが、予想を超える出来栄えに正直驚いている。だが、このベーシック・ワールドはどんな世界になるのか、何も聞いてないので正直期待と不安が入り混じっている。まあ、大幅な手直しが出ても、湯沢君と城崎さんがココに居残りすればいいだけの話だ(ニヤリ)。今夜は映画の試写会だと思って楽しんでくれ」
プロデュサーは、さんざんハードルを上げると僕を招き『なにか一言』と挨拶を促した。
「こんばんは、みなさん。今夜はこんなに大勢の方々にお集まりいただき、正直びっくりしていますし、すごくプレッシャーも感じています。でも、今夜の主役は、城崎瞑です。彼女が体験するストーリーの大枠は僕が書きましたが、この『ベーシック・ワールド』の性格上、正直どうなるかはわかりません。彼女の想像力や願望がこの物語をリアルタイムで創り上げ、完成させます。ハラハラしながら僕も見守りたいと思います」
僕が一礼すると部屋の照明が落とされ、真っ黒な画面にタイトル文字が白く浮き上がった。
『ツインズ★エキスプレス』
僕は瞑にチャットで『始めていいよ』とメッセージを送った。
これから、新世界で繰り広げられる、未知の物語が始まる。
◇ ◇ ◇
★第一便 新宿発、マイ終電
二十三時二十二分発、快速急行小田原行き。
私は、この電車を自分の最終電車と決めている。なぜかと言えば、地元の町田駅まで『今日のうち』に帰れるから。といっても、駅から住んでいるアパートまで徒歩十分。シャワーをしたり、化粧を落としたり、なんやかんやでベッドに入れるのは午前一時を過ぎる。でも『その日のうちに』という安心感はどこかで欲しい。
この路線は『この時間帯なら割と空いている』という理由では、乗る電車を選べない。昼も夜も、上りも下りも、だいたい混んでいるからだ。
もう座席は埋まっていて、ドア付近まで人が立っている。その間を縫って車両の奥に乗り込み、自分の場所を確保する。
発車ベルが鳴り、ゆっくりと快速急行が動き出す。肩の上では、『パンダくらげ』が私の首に頭をくっつけて寝ている。あ、コイツはいつのまにか……物心ついた頃から私のまわりをウロウロと浮遊しているが、本当に存在するのかどうかも疑わしい。今まで、誰からもジロジロ見られたり、それ何? とか声をかけられたりしたことがないのだから。
下北沢駅に到着。運良く自分が立っている前の席が空く。両隣には、やや太めのおじさんと、ややマッチョな若者が座っているので、一瞬躊躇したが、今夜はさすがに座らせて欲しい。狭いスペースに身をよじりながら収まる。バッグが両隣にぶつからないよう膝の上に置き、目を閉じる。
残業仕事中に、営業から接待の宴席への呼び出し。事前に断っておいたのだが、お客さんにせがまれて、どうしても来て欲しいとのことだと。『申し訳ない』と頼む営業の声には、まったく申し訳なさがこもっていなかったが、仕方がない。残りは来週に回そう。GoogleMap君の命令に従い、飲み屋に向かった。
何の実りもない馬鹿話につきあって、あのー、これってセクハラじゃない? と思うようなことを言われて。
二次会に新宿二丁目のバーに行かないかと誘われたが『明日朝早いので』と、きっぱりと断り、マイ終電に間に合わせた。
美大で学び、大手広告会社や有名クリエイターの制作会社への就職を夢見たが、現実は甘くなかった。大学の先生や先輩のツテで、小さな制作会社からの誘いもあったが、私は、大手・メジャーにこだわった。ベンチャーに勤めていた会社が潰れ、そこに籍を置いていた父や母が苦労を重ねて来たのをずっと目の当たりにしていたからだ。
そんな苦しい中でも私のワガママを聞いてくれ、学費の高い美大に通わせてくれた両親には頭が上がらない。母は『二人分の教育費を考えたら安いものよ』だから気にしなくっていいよと言う。そう言われると、気が滅入る。
私には双子の『妹』がいて、二人で生まれてくるはずだった。
でも。
生きて生まれてこられたのは私だけだ。二人の娘に注ぐはずだった愛情とお金を私に集中させた。
勤め先のことで親に心配をかけたくない。私はキャラクターのライセンスビジネスを展開している大手企業から内定をもらい、入社を決めた。デザイナー志望として入社し、配属先は『制作営業企画室』という謎の部署だった。実際は営業部門で、セールス資料を作ったり、それを元に客先を回ったりしている。残業代はちゃんとつくが、ダメ元的な営業資料を作らされたり、突貫作業を頼まれたりと慌ただしい日が続く。
美大時代は、課題の仕上げや個展の準備などで、連日の深夜作業はざらだったけど、辛いとは思わなかった。なにせ、好きでやってることだし、その時間そのものが楽しかったから。
今の仕事は、会社が利益を上げるために重要なものだとわかっている。多分『働く』ということはこういうことなのだろう。われながら考えが甘いと思うけど、自分がやりたいことと何か違う。じゃあ、具体的に何やりたいの? って聞かれても、すぐには答えられないのがもどかしい。
自分でこの仕事を選んだことを棚に上げて、脳内で毒を吐いている。あまり得意でないお酒のせいもあって、その毒が頭の中をぐるぐるとまわり、不快な睡魔が押し寄せてくる。
自分の力で食べていけるし、これでいいのだ。いや、これでよかったのか?
ムニャムニャ……
★第二便 出会った二人
気がつくと、何モノかが、私の下あごをパンチしている。
パンダくらげが私を必死に起こそうとしているのだ。
「もう、何よ! あなただってグーグー寝てたじゃない」
その子に八つ当たりして、寝ぼけマナコをこする。
「……やば! やっちゃったかも」
車内に、ひと気はなく、窓の外を見ると、見慣れない駅のホームだ。
駅の表示板には『小田原』の文字。
駅員さんが車内の点検にまわってきた。声をかけられる前に『はいはい、わかってます』とばかりに席を立ち、バッグを肩にかけドアに向かう。
「お客さん、終点ですよ」
駅員さんは、車両の連結手前の席に座っている若い女性に声をかけている。なかなか起きない。このご時世、女性の肩を揺すって起こすわけにもいかず、困っているようだ。
しょうがない。
「あの、終点ですよ。車庫に連れてかれちゃいますよ」
駅員さんに代わって声をかけ、肩を軽くたたく。
「ムニャムニャ…………ああ、小田原に着いたか」
幸いにも、乗り過ごしではないようだ。彼女はまだ眠そうにしながら、ふらりと席を立つ。
パンダくらげが乗っていた肩から離れ、私と彼女の間でホバーリングしながら首を左右に回している。
あんた何しているの、と言いかけたが、彼女が完全に立ち上がって私と向き合った時、その訳がわかった。
そっくりだ。
彼女の髪は編み込みアップ、私はセミロングの髪をバレッタで止めただけ。彼女の服装はベージュのウールのセーターに七分丈のデニムのパンツ、私はグレーのパンツスーツ。髪型、服装の違いがあっても、顔かたち、やや栗毛がかった髪の色、背格好がそっくりだ。
普段は着ないような服を試着して、姿見を覗いているような気分だ。
彼女はと言えば、寝ぼけマナコで口をぽかんと開けていたが、やがて目を輝かせ、ニコリと微笑んだ。
その子はライトブラウンの薄いリュックを背負うと、何度か振り返りながら電車の外に出て、ホームを歩いて行く。私は車内に立ちすくんでいたが、『お客さん、ドアを閉めますんで』と駅員さんに促され、ホームに降り、たたずむ。
「どうしよう? どうなってるの?」
午前一時少し前。引き返したくても、電車はもうない。そんな中、自分にそっくりの女性と遭遇する。戸惑いと疑問が独り言になった。
このままホームに居るわけにもいかないので、改札口に向かってトボトボ歩く。今まで一、二駅くらいは乗り過ごしたことはあるが、ここまで派手にやったのは初めてだ。初秋とはいえ、この時間はさすがに肌寒い。
ビジネスホテルにでも駆け込もうか? 乗越精算を済ませ、改札口を出てスマホを取り出そうとした時。
「きみ、乗り過ごしちゃったの?」
改札の脇に立った、自分そっくりの女の子が声をかけてきた。
「ええ、町田で降りるつもりだったけど」
「ありゃりゃ、それは大変だ」
彼女はあごに人差し指をあて、少し考えるポーズとった。そしてパンダくらげの方を見てニコリとすると(見えるのか⁉)……
「よかったら、ボクんちに泊まらない?」
と誘ってくれた。ボクっ娘か。
「あ、多分、怪しいものじゃないよ。人畜無害」
別の意味で十分怪しい気がするが、ホテル代もタクシー代も馬鹿にならないし、すごく助かる。
「では、お言葉に甘えていいですか?」
「はいはい、甘えてちょーだい」
そういうと彼女は駅の出口方向を大げさに指さし、『出発進行!』と合図した。私はそれに従い、後をついていく。
★第三便 ティアドロップの抽象画
外に出ると、大きなビルの中に小田原駅があることに気づく。
この駅には以前、誰かの法事で来たことがあったが、どんな場所だったか記憶に残っていない。こんな夜更けなのに、繁華街はまだ明るくて賑やかだ。
途中、彼女の提案でコンビニに寄る。
お泊まり用に下着は買ったが、『シャンプー・トリートメントなんかや基礎化粧品なら、多分ボクので大丈夫だと思うよ』と確信的に言うので、あとは歯磨きセットとバナナオレだけを買った。
「バナナオレか、Good Choiceだね! お酒も飲む?」
「私はいらないわ、飲んだ帰りなので」
「そう。じゃっ、と」
彼女は小瓶のスパークリングワインを買い、参鶏湯のカップスープと、おつまみカニカマ(からしマヨネーズであえたやつ)と柿ピーをカゴに入れた。なんかユニークな組み合わせだ。
泊まらせてもらう恩があるので強引に私が全額支払ったが、彼女は本当にすまなそうに何度も『悪いね』と繰り返した。
繁華街を抜け、住宅街の細い道を歩く。
ほどなく、
「ここだよ」
と、彼女が小洒落たアパートを指さし、カードキーで入り口のオートロックの鍵を開け、私を招き入れる。階段で二階に上がり、オートロックのドアを開ける。
「さささ、どうぞ」
ドアを押さえて私を先に入らせる。その時、ちらっとドア横のネームプレートを見たが、『沢渡』と苗字だけが書いてあった。聞いたことがあるような無いような名前だ。
彼女の部屋は広めのワンルームで、モノが少なく、目につくのはベッドと冷蔵庫と、天井まであるオープンラックくらいだ。あと、壁にはいくつか水彩画やアクリル画が飾ってあり、オープンラックの中にも何枚かキャンバスが横向きに突っ込んである。部屋全体は整頓されているが、ラックの棚には画材道具がごちゃごちゃと詰め込まれている。
「この絵、あなたが描いたの?」
「え、ああ、時々描いてるんだ。でも大学の時の方がもっとうまく描けたかな」
線や図形など、文字通り抽象的なパーツで構成されているが、なぜか人の情感を強く感じる。それは、どの絵にも共通している、涙形ティアドロップのモチーフのせいか。
悲しみ。慈しみ。
私は、思った感想をそのまま彼女に伝えた。
「いやはは、照れるなあ。でも専門家にそう言われると嬉しいよ」
と頭の後ろを描く。
専門家? 私も美大は出てるけど、決して専門家ではない。彼女、ますます怪しいぞ。
「あー、シャワーでもお風呂でも、お先にどうぞ。ボクは一杯やってるからさ」
と、ワインの小瓶とカニカマと柿ピーの袋を両手に持ってブラブラさせる。
お言葉に甘えてシャワーを使わせてもらう。シャンプーとトリートメントは、いつも使っているブランドとは違ったが、自分の髪質に合っているような気がする。シャワーを終えて、脱衣兼洗面所に上がると、バスタオルと、薄いグリーンのスエット上下が置いてあった。
『それ使ってーー』と部屋の方から声がした。ありがたくお借りし、化粧水(これは偶然私の愛用品と同じだった)まで使わせてもらった。
髪をドライヤーで乾かし、コンビニで買ったバナナオレを飲んでいると、彼女がシャワーから上がってきた。
その姿を見て再び驚いた。私の趣味ではない(失礼)スエットの上下を着ているものの、髪を下ろした姿は、お風呂上がりに洗面台の鏡で、いつも見ている自分の姿そのものだ。
「えへへ」
彼女は意味深に笑う。
「あのさ……」
彼女はちょっといいづらそうに切り出す。
「『ボクんち泊まんない?』といっておきながら、ナンだけど……この部屋、寝具は、これだけなんだよね」
とベッドをボンボンと叩く。
「ちゃんとパーソナルスペースは開けるから、ここで一緒に寝てもらってもいい?」
深夜二時も過ぎ、さすがに眠くなってきた。私は寝る場所があれば何でもいい。幸いベッドは一人暮らしにしては大きなサイズだ。『ぜんぜん構わないよ』と言って洗面所に立って歯を磨いた。
先にベッド入る。バスタオルを二枚重ねてくれた代用枕に頭を載せ、白い天井をぼーっと眺める。
変な夜だ。
始発から終点まで乗り過ごし、私と瓜二つな女性の部屋に泊めてもらっている。
居眠りしながら、家族と昔の出来事を色々思い出したからだろうか?
「ひょっとして、ここは夢の中?」
顔の上をふらふら浮いている、パンダくらげに問いかけても、視線を合わせず聞こえないふりをしている。
「お待たせ」
ドライヤーと歯磨きを終え、彼女が部屋に戻ってきた。
「電気、消すね」
メインの照明が消え、ベッドの脇に小さな黄色い間接照明が灯る。ベッドが少し傾き、彼女が隣に横たわった。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい。あ、その前に……」
私は少し勇気を出して、聞いてみた。
「あなたのお名前、教えてもらっていい? あ、ごめん。私は、キノサキ メイ(城崎瞑)」
「本当に君はメイなんだ……あ、ボクは、サワタリ マイ(沢渡舞)。マイと呼んでね」
やっぱり。私と苗字は違うが、名前の方は、私の両親が妹につけた『舞』だ。
瞑と舞。
「あの、もう少し聞いていい?」
「今はもう眠いなあ。明日、ゆっくり話そ」
少し反応を待ってみたが、やがて寝息が聞こえ、舞との会話は終了となった。私も急激に睡魔に襲われ、意識が遠のいた。
★第四便 夢か記憶か
多分。明け方近く、夢を見た。
遙か昔、私と舞がまだ母親のお腹の中にいるとき。
私たちは羊水にぷかぷか浮きながら、頭と頭をコツンコツンして遊んでいた。頭がコツンとぶつかると、いや、少し離れていても、お互いの考えていることや気持ちがわかった。
ママがご飯を食べてるときは、ボクたちもおなかがいっぱいになるねとか、パパがママのおなかをなでると、くすぐったいねとか。
それは楽しく幸せな空間、安らかな時間だった。今こうして二人、ベッドの中で頭を寄せ合って寝ているみたいに。
でも、ある日。
舞は『ごめんね、バイバイ』と言ったきり。二度とその声が聞こえることがなかった。
そして、今も、また舞の声が聞こえない……
がばっとベッドから起きる。胸がドキドキしている。のどが締めつけられ、苦しい。
隣に舞の姿はない。慌てて探す……までもなく、舞はベッドの上で正座し、私の顔をじっと見つめている。
髪はすでに編み込んでアップにしている。
「瞑、どうしたの? 何か変な夢でも見た?」
「ううん、何でもないの。でも……ちゃんと舞がいてくれてよかった」
「あはは、当たり前じゃん。ここ、ボクの部屋だもん」
舞はベッドの自分のスペースにごろんと転がる。
「瞑は今日、何か予定あった?」
「ううん、何にも」
週末の疲れをとろうと、土日は家でゴロゴロしている予定だった。
「じゃあさ、今日一日、つきあってもらってもいい?」
「え、構わないけど」
舞から聞きたい話は山ほどある。
「やった! ではでは、さっそく朝ご飯を食べに行こう」
★第五便 黄色いオープンカー
服は、舞のものを貸してもらった。落ち着いたピンク色の、だぼっとしたパーカーと、七分丈でスリムなデニムのパンツ。クローゼットに架けてある服は、ほとんどカジュアル系だ。そう言えば、仕事は何をやっているか聞いていない。絵は大学の時の方がもっとうまく描けた、と言っていたので、学生ではないらしい。
夕べ私が着ていたパンツスーツは、皺になること覚悟の上でバッグに押し込み、持ち歩くことにした。
アパートの前の駐車スペースに停まっている黄色い車の脇で、舞は『こっちだよ』と手を振っている。私は彼女にバッグを預け、開けてくれたドアから助手席に乗り込む。舞はバッグをトランクにしまうと、運転席に座った。キュルルン、ブロロンと音をたててエンジンがかかる。天井についているバックルのようなものを外し、サイドブレーキ横のボタンを押す。すると、モーター音がして、フロントガラスと天板の間が空き、その隙間がどんどん大きくなり、頭上が明るくなっていく。天板は自動的にトランクに収納され、オープンカーに変身した。
「免許、持ってるんだ……それからこの車すごいね。外車?」
「ううん、コペンっていう日本の車だよ。ここ、海が近いし、箱根の山道を攻めたいし、そういのにちょうどいいかなって、ちょっと無理して買っちゃった。でも、われながらGood Choiceだと思うよ」
と言い、テヘヘと笑う。よく笑う子だ。
車は心地よいエンジン音を響かせ、駐車場を出た。頭上は、濃く透明な青空が広がり、秋のひんやりとした風が心地いい。パーカーのポケットが何かがモコモコしていると思ったら、パンダくらげが潜り込んでいた。風に吹き飛ばされるのを怖がっているのか。
小田原の市街地を抜け、海沿いの道路、西湘バイパスに出た。海の上では、朝早くからサーフボードが沢山浮かび、波待ちをしている。
海沿いを走り、五分足らずで漁港が見えてくる。駐車場に車を停め(車、オープンカーにしっぱなしだけど大丈夫かな?)、漁港敷地内にあるお店の一軒に入った。
「何食べたい?」
店内を見回すと、アジフライが美味しそうで、人気のようだ。
「そうね、アジフライと……海鮮も食べたいかな」
「お、Good Choice! じゃあ、アジフライ定食と、海鮮丼定食を頼んで、半分こしようよ」
私たちはそれぞれ自腹で食券を買って注文した。できあがった食事を乗せたお盆を二階のテラス席まで運び、眺めのいい場所に陣取る。追加でもらっておいた取り皿に、それぞれ好きなだけ取り分け、二人とも無心で食べた。
アジフライのふんわりとした触感と味わいといったら! この一皿が私のアジフライ史上、ナンバーワンに輝いた。
食後。
「瞑、眠くない?」
「ううん、きれいな景色と潮風と、おいしい朝ご飯で、すっかり目が覚めた」
「それは何より。ボクは波の音を聞いてたら眠くなっちゃうけどね」
「え! 居眠り運転は絶対だめよ」
「あはは。顔に潮風がビュンビュンあたるから大丈夫だよ」
舞とは昨日出会ったばかりなのに、なんだろう。この、昔からの顔なじみのような気楽な感じ、落ち着く感じは?
車に戻ると、舞が提案する。
「ちょっと腹ごなしに小田原城で遊ぼう」
お城の見学が腹ごなし? と疑問もあったが、その提案に乗った。
車は来た道を引き返し、海岸を右側に見て走る。
夏の名残の日射しと、秋の風の涼しさを同時に体に感じる。
★第六便 分身の術
舞のお目当ては、お城ではなく『NINJA館』だった。ここは、小田原の『風魔忍者』をモチーフにした体験型の施設で、舞は人気漫画で風魔忍者のことを知り、一度来てみたかったのだそう。
来場者はミニシアターで風魔忍者としての指令を受け、水の上を歩く忍術体験や、隠し扉のある『からくり屋敷』に挑む。はじめは子供向けの施設かなとタカをくくっていたけど、結構おもしろい。
エアー手裏剣を投げて敵を倒すゾーンでは、二人とも本気になって投げ続け、ラスボスをやっつけた時は、スタッフのお兄さんまで巻き込んでハイタッチした。でも腕がだるい。大人になってこんなに腕を振り回したのは初めて。
外に出ると、風魔忍者の顔出しパネルがあり、通りがかりの家族連れにスマホを渡して撮ってもらった。
撮ってくれたお父さんがスマホを返しながら尋ねる。『お二人そっくりですねえ! 双子さんですか?』
私は舞の反応をうかがった。
「NINJA館で修行して、分身の術を身につけました」
と返事し、私を見てニッと笑った……やられた。
撮ってもらったスマホの写真を拡大して見ても、二人の忍者から顔を出しているのは、どっち舞で、どっち私か、一瞬わからなかった。
パンダくらげは、画面の中央上に、ちゃっかり写っている。
★第七便 二つの人生
今、私たちは、小田原城址公園内にある『きんじろうカフェ』のテラス席にいる。もうお昼近いが、朝にがっつり食べたので、ここでは休憩がてら甘い物でランチ替わりにすることに。
秋風がオープンなつくりの店内からテラスまで吹き抜け、舞の編み込みから漏れた髪を揺らす。
「このラテアート、学校の校庭に建っていた、薪を背負って勉強している人だよね。御利益ありそう」
「御利益あるかどうかは、二宮さんに見ならって、まめに学問に励もうとするかどうか。心構え次第だと思います」
「えへへ、おっしゃる通りでございます」
私たちの会話に休符をつくるように、秋風がテラスを吹き抜ける。
さっきより冷たく感じる。
「ねえ、私たち、」「ねえ、ボクたち、」
↓
「姉妹だよね⁉」
そうじゃないかと思っていることが同時に口に出る。
お互いの目を見つめる。そして確信に変わる。
でも、それに反してモヤモヤ感も強まる。
舞は生まれてこられなかったことになっている。
実際、今まで私たちは、出会うことができなかった。
なぜ。
私は踏み込む。
「ねえ、舞。答えたくなかったらいいけど……もしできるなら、教えて欲しいの」
舞の表情が心なしか、固くなる。
「あなたは、今までどこでどうやって暮らしてきたの?」
舞はしばらくカフェラテの泡を木のマドラーで、もてあそんだあと、口を開く。
「うん、わかった。うまく話せればいいんだけど」
「ボクは、生まれてすぐに、瞑をいや、ボクたちを産んでくれたお母さんの親戚の人に預けられたんだ。それがボクの育てのお母さん、沢渡みどり。みどりママは、旦那さんを病気で亡くし、ひとりぼっちだったんだ。旦那さんが、そこそこお金を遺してくれてたので、みどり母さんもそんなに不自由せず、ボクを育てられたんだ」
舞の話を聞いて衝撃を受ける。確かに沢渡という名前の人が、遠い親戚にいた。
でも。そのご夫婦は不幸にも、交通事故に巻き込まれ亡くなっていたはずだ。
「い、今、『みどりママ』はどうしているの?」
「えっと、二年前だね。ボクが大学を出て、勤め先が決まったら、出身地の広島に帰ったんだ。もう舞は一人でやっていけるだろうって……あ、時々LINEしてるよ」
そう言うと、舞はスマホをタップし、みどり母さんとのトークのやりとりを見せてくれた。
私は、心の整理がつかないまま、質問を重ねる。
「もうひとつ聞いていい? 舞は何でみどりママに引き取られたのか、聞いてる?」
「うん。ボクたちが生まれた時に、ボクと瞑のお父さんが働いていた会社が倒産してしまったんだって。お父さん、すごくショックを受けてたって聞いたよ。二人は育てられないからって、泣く泣くボクをみどり母さんの養子に出したんだって」
舞は、私の顔を心配そうにのぞき込む。
「ひょっとして、そのこと、瞑は知らされてなかった?」
「い、いや、そうじゃないの。でも、舞は、私たちの父さんと母さんを恨んでないの?」
「小学校に上がる時に、それを知らされてびっくりしたし、多分その時は恨んだと思う。でも今は事情が事情だし、しょうがないよねって思ってる」
舞は、空になったカップを握りしめた。
「あ、でもね。瞑のお母さんはね、みどりママによく手紙をくれたんだ。ボク宛てにもいろいろ書いてくれてたよ。元気してる? とかいつか会おうねとか。瞑のこともいろいろ教えてくれたよ。中学の時、全国の絵画コンクールで賞状もらったこととか、それがきっかけで美大を目指しているとか。手紙でそのことを知って、ボクも絵に興味を持ったんだ。で、ボクも頑張らなきゃって。おかげ様で美大に受かりマシタ」
「そうなんだ」
舞が入った美大の名前を聞いたが、私の母校ではなかった。
「ぼくはちっちゃなプロダクトデザインの会社にしか入れなかったけど、瞑は大手の広告会社でデザイナーの仕事をしてるって聞いたよ」
そこ、ちょっと違う……お構いなしに、舞は話を続ける。
「でね、一度、瞑に会いたいなあって思って、大学の卒業間際に、みどりママに内緒で瞑のお家を探しに行ったことがあるんだ」
「え! 場所は知っていたの?」
「うん、みどりママにもらった手紙に住所が書いてあったから。で、GoogleMapに調べてもらったよ。横浜線の橋本駅の、だいたいこのあたりって」
確かに私の実家の辺りだ。
「で、見つかったの?」
「ううん、聞いてきた住所のあたりに『城崎』っていう表札のお家が見つからなかったんだ」
「瞑は就職が決まったら、お家を出るって手紙に書いてあったから、なかなか会えないかなあって思ってた。……でも今。こうやって会えた」
そう言って舞は微笑んだ。乗り過ごした終電で初めて出会った時と同じ笑顔だ。
舞は、凹んだカフェラテのカップを手で直しながら、少し間をつくり、尋ねてくる。
「今度はボクから聞いていいかな?」
「え……うん」
私は正直迷った。たぶん、聞かれることは決まっている。それへの答えは、決して舞を喜ばせるものではない。
「瞑はボクのこと、知っていた?」
「あ。……うん。父さんと母さんから、やっぱり小学校に上がるとき。私には、舞という名の双子の妹がいるって」
「それから?」
「えーと、実は、両親はあまり舞のことをあまり話してくれなかったの。……多分、舞をよその家に預けてしまったことをすごく悔やんで悲しんでたからだと思う」
私は舞に嘘をついた。
「私が事実だと思っていること」が言えなかった。あなたは生まれてこられなかったって。
「そっか……それじゃ、しょうがないよね。ねえ」
舞は、パンダくらげの頭をちょんとつついて、自分を納得させるようにぽつりとつぶやいた。
その後、舞は話題を変えてくれた。
「ねえ、瞑の好きな画家は?」
「うーん、私は広告デザインに興味を持ったから、画家というよりは日本のグラフィックデザイナーで好きな人、尊敬する人がいるくらいかな」
舞の好きそうな画家は、部屋に飾ってある絵を観たら、なんとなくわかる。
「舞はどうかな。……そうねえ、抽象画を書く人だよね。クレー、カンディンスキー、ミロ……やっぱりピカソかな?」
「当たり。でもピカソは抽象画以外もぜーんぶ好き。人間でも動物でも魚の料理でも、作品にする相手を愛情たっぷりで、しっかり受け止めてる。そしてガラガラポンして新しいカタチにしている。だからどの作品からも可愛さを感じるんだよね……あっ」
すごい持論だが、舞は喋っている途中で何かを思いついたようだ。
「ねえ、車でちょっと走るけど、ピカソ館に行ってみない?」
ピカソ館。聞いたことある。確か箱根の「芸術の森美術館」の中にある、ピカソの作品を専門に展示してある美術館のはず。
「うん、いいよ。でも、帰り、どうしようかしら」
舞の表情が少し曇る。そういえば、私はいつ自分の家に帰るかなんて考えてもいなかった。舞は少しためらいながら提案する。
「成り行きでいいんじゃない? あそこからなら、今日の上り電車も十分間に合うし、面倒くさくなったらまたボクんち……そうだ、箱根湯本の温泉に泊まればいいし」
「そうね、気まぐれも、たまにはいいね」
「ね、いいでしょ!」
顔一面に笑みが戻った。舞はよく笑うだけでなく、ころころと表情が変わる子だ。見ていてちょっと楽しい。
★第八便 ワインディングロードのその先へ
舞のドライブテクニックとコペンの性能は、箱根の山道でその本領を発揮した。急ブレーキでコーナーに入ったかと思うと、急加速しながらコーナーを抜け出す。それが延々と繰り返される。パンダくらげは、私のパーカーの胸元に潜り込んで、しがみついている。
「だ、大丈夫? 山道をこんなに飛ばして?」
「えー! 一応制限速度の範囲だよ。オプション装備でフロントスーパーLSDをつけてるから、コーナーの立ち上がりがすごいんだ」
何がスーパーだかわからなかったが、とにかく安心材料にはならなかった。
黄色い車は、彫刻の森美術館の駐車場に停まり、舞はオープンカーの天板を元に戻した。入場券を買い、まずは屋外の彫刻を見て回る。秋空を背景に、どの作品も映える。
敷地の奥にたどりつくと、少し曲線がかった白い壁面に、でかでかと『PICASSO』と描かれている建物が現れた。ゾーンは大きく三つに別れ、テーマごとに絵画や陶芸、立体作品などが展示されている。
週末にも関わらず、人影はまばらだ。舞と私は別々に、思い思いに展示を見て回る。
ピカソは愛情をもって作品の対象を受け止める。だから、どの作品からも可愛さを感じる……舞の言ったことが、なんとなくわかったような気がした。
舞の部屋に飾ってあった絵を思い出す。どの絵にも『淋しさ』を感じた。
よく笑う子が描く、涙。
舞と私は、二階の展示ゾーンにある、一つ絵の前で合流した。
作品の名は、『二人の顔』。
その絵をしばらく無言で見つめる。
不意に舞は私の前に立ち、絵画への視線をさえぎる。
両手で私の頭をやさしく挟み、ゆっくりと顔を近づける。
二人とも、自然に目を閉じる。
ずっと昔、母のお腹の中で、二人がそうしていたように。
お互いのおでこが軽く触れた時、それは起きた。
舞の記憶と思いが、私の頭に入り込んでくる。
私の記憶と思いが、舞の頭に流れ込んでいく。
「そうだったんだ」
そう言って、舞は私の頭から手を放した。
目を開けると、すぐ目の前に、私と同じ栗色の瞳があった。
「双子だもんね。わかっちゃうんだね」
恐る恐る舞に聞く。
「何がわかったの?」
「『瞑の人生』では、ボクは生まれてこなかったんだね」
舞は知ってしまった。もう、嘘はつけない。
「ねえ、舞、聞いて」
私は両手で舞の両肩を掴み、栗色の瞳を見つめ直した。
「今、舞がどんな人生を歩んできたか、わかったわ。私の記憶が全てじゃない。何よりもほら、舞は私の目の前にいるじゃない。あったかい体がここにある。これが事実よ。あなたは、『生きている』」
舞が抱きついてくる。私も肩に置いていた両手を舞の背中に回す。
涙が溢れるが、両手がふさがっているので拭くことはできない。
舞が描いたような、大粒の涙。
天井のスピーカーから、間もなく閉館とのアナウンスが流れる。
私は抱いていた腕を下ろす。そして舞の手をとり、歩き始める。
透明なケースに容れられた立体作品を眺めながら、二人でゆっくり展示室を回り、階段を下りる。
パンダくらげは、おとなしく私たちの後をフワフワとついてくる。
外に出るといつの間にか陽は傾き、青空は深みを増している。木々の間に散在する彫刻作品の影が、芝の上を長く伸びている。
「これから、どうしよっか」
自然と独り言がこぼれた。舞に聞いたわけではない。
今日の、これから。
明日からの、これから。
「ねえ、ご飯食べて温泉入らない? 日帰り温泉」
舞は私の言葉をシンプルに受け取り、提案してきた。
「Good Choice! そうしよう」
舞の口癖を真似て、その提案に乗っかった。
コペンに乗り込み、舞は再び天板を開け、オープンカーにする。寒いかと思ったけど、シート内蔵のヒーターが効いて、じんわり背中とお尻が暖かい。
しばらくスマホをいじっていた舞は、日帰り入浴と食事ができる施設に電話し、予約を入れた。
「週末だけど、予約とれたよ。ラッキーだね」
「うん、ありがとう」
舞は調子を取り戻したみたい。
黄色い車は、紅葉の始まった山道を進む。運転はさっきより幾分おとなしい。
シートにもたれて私は考える。
ずっと感じていたモヤモヤ感の正体、それは『食い違い』だ。舞が経験してきたこと、私が経験してきたことのズレ。微妙なズレ。だけど、私と舞が『一緒にいない』決定的なズレ。このズレはどこから来るのだろう。そしてこのズレを繋いでスキマを埋め、私たちを出会わせたものは何だったんだろう。それがまだわからない。
新しいモヤモヤ。
「何か、今二人でこうしているのが不思議だね」
ハンドルを握る舞が、ぽそっとつぶやく。私と同じようなことを考えているんだろうな。
★第九便 温泉回
日帰り温泉施設は、箱根湯本の高台にあり、背後に山が迫っている。
私たちは受付を済ませると、個室に案内された。『イブニングプラン 個室で休憩、ご夕食』というやつだ。
施設の案内を見ると、露天風呂を含め、女湯だけでお風呂が七つもある。私たちは浴衣に着替え、まずはサウナに入ることにした。
タオル類を持って部屋から出ようとすると、『あ、ちょっと待って』と舞が声をかけてくる。私を洗面所の鏡の前に立たせ、髪をいじり始める。
「はい、できた」
舞はあっというまに私の髪を編み込み、アップにした。鏡には、同じ顔、同じ髪型の女性が二人並んでいる。スマホの自撮りでパシャリとした。
「整ったー!」と満足して舞はサウナを出たが、なんだか我慢比べみたいになってしまって、 私はのぼせ気味だ。
湯上がり処で水を飲み、しばし休憩。私が落ち着いたのを見て『食事行こー』と舞が声をかけてくる。
海の物、山の物と品数豊富で、いかにも温泉旅館のごちそうを堪能した。朝は市場の食堂でがっつり食べたが、昼はお茶した程度なので、結構なボリュームの夕食を二人ともすっかりたいらげた。
個室に戻り、座布団を敷いて寝そべり、食休み。
少しウトウトして、夢を見た。私は小さなオフィスにいた。数人の若い男女が各々のデスクで何やら作業をしている。
私の手元にはMacBook、目の前には大きなモニター。そこには何か、化粧品のパッケージのようなデザイン案が映し出されている。
こういう仕事、こういう職場も悪くないな、と思ったところで夢は途切れた。舞が私の肩をゆすったからだ。
「そろそろ行こう。温泉、第二戦」
室内の浴場で髪と体を洗い、屋外に出る。
露天風呂が四つもあり、全部回っていると、それこそ湯あたりして疲れそうなので、石積みで丸く囲われた、小さめの露天風呂にゆっくり浸かることにした。
山から吹いてくる秋風が頬の熱を冷ましてくれる。
昨夜。
残業途中に『お座敷』がかかって不毛な時間を費やし、帰途についた。寝過ごして終着駅、小田原で目を覚ます。
それから、妹の舞と出会い、小さな旅が始まった。漁港での朝食、小田原城公園の忍者館。ピカソ館。そして今、ここに二人で温泉に入っている。
めまぐるしい二日間だったな。体と頭を解きほぐすために、しばらくこうやって湯船に浸かっていたい。
ぼーっと今までのことを思い返していると、ひとつの疑問が温泉の泡の様に浮かんできた。
舞とは、終電の車両の中で出会ったんだ。
「ねえ、舞、あなた小田急線に乗ってどこまで行ってたの?」
大きな石を枕に夜空を見上げていた舞は、その姿勢のまま答える。
「ああ、夕べ? 仕事の帰りだよ。やり残したデザインの仕事があって、夜遅くなっちゃったんだ。職場は横浜。相鉄線で海老名から電車に乗ったんだ……」
舞はそこまで話すと、湯船に鼻先まで浸かり、しばらく黙っていた。
「そういえば、あの電車、少し変だったかも。金曜の夜なのに、わりと空いてたし……」
「それで?」
私は先をせっつく。
「電車がホームに入って来たとき、先頭車両の行き先表示。確か『臨時急行〇〇号 小田原行き』て書いてあったんだ」
「臨時急行?」
酔って疲れていた私は、行き先表示など気にもしていなかった。いつもの『マイ終電』の発車時刻だし。
「あ!」
急に舞が叫び、目の前でガバッと立ち上がり、水しぶきが飛ぶ。ちょ、ちょっとそれ、第三者目線で自分の裸を見てるみたいで無茶苦茶はずかしいんだけど!
「き、急にどうしたの?」
「……瞑、行こう。今なら間に合う」
「えっ?」
「終電に乗るんだ!」
★第十便 臨時急行〇〇号
それからは慌ただしかった。温泉から上がり、浴衣からパーカーとデニムに着替え、部屋で待機してもらっていた、パンダくらげを抱きかかえ、ほとんどスッピン状態でフロントに行き、精算を済ます。
そう言えば、舞のパーカーとデニムを借りっぱなしだ。
「この服、着たままでいいのかな?」
「……うん。いいんじゃない」
舞はフロントガラスに顔を近づけ、用心しながら、でも急いで車を走らせる。カーブにカーブが続き、私は左右に揺さぶられながら舞に尋ねる。
「ねえ、どういうこと?」
「多分、だけど。……ボクと瞑を繋いだもの。二つの違う世界をつないだもの。それは、あの電車だったんだ」
そうか。
舞は、私が感じていたモヤモヤに答えを出した。
舞が経験してきたこと、私が経験してきたことのズレ。
このズレを繋いで二人を出会わせたものの正体。
車は山道を抜け、小田原市街に入る。左手に小田原城が見えてきた。
土曜の夜十時過ぎの小田原市街。人影はまばらだ。
舞は駅の近くにある大きな駐車場に車を停める。トランクを開け、私のバッグを取り出す。
「急いで!」
私のバッグを持ったまま、小走りに先導する。駅ビルに入り、コンコースを抜ける。小田急線に改札口が見えた。
電光掲示板の下で私たちは立ち止まり、見上げる。
“臨時急行00号 新宿 23:30 10両”
臨時急行。舞の言ったとおりだ。発車三分前。
「はい」
舞は私にバッグを渡す。
「え?」
舞があんまり急かすから、この状況が何を意味するのか、考えが回っていなかった。
「これで、瞑は元いた場所に帰れる」
舞は後ろ手を組み、うつむく。
「で、でも、私たちはどうなるの?」
「ここで……バイバイかな?」
舞は少し顔を上げ、笑顔をつくろうとする。
「そんな、急すぎるよ!」
“間もなく、十番線より二十三時三分発、臨時急行新宿行きが発車します。
ご利用のお客様は、ご乗車になってお待ちください。”
駅のアナウンスが入る。
私の足は動かない。動けない。
この電車に乗って、元いた世界に帰れる。
でも、こうも思う。
別に、あんな世界。帰らなくたっていいじゃない。
心が乾いてしまう世界。舞のいない世界。
私は抵抗を試みる。
「ねえ、舞の服、借りっぱなしだよ、舞の部屋に戻って着替え……」
舞は最後まで言わせてくれなかった。
「だめだよ、瞑。この電車を逃すと」
「これを逃すと?」
「多分、あっちに戻れない」
「いいの。舞とずっと、ここにいたい」
「ボクだって、そうしてほしい。でも……だめだ!」
「何で?」
「瞑には瞑の人生がある。今までの。これからの。あっちに戻ることが瞑にとってのGood Choiceなんだってば!」
「やだ! ここにいる」
私はその場にうずくまる。
電車の発車メロディが鳴り始めた。
「ええい、もう! 瞑はお姉ちゃんのくせに、駄々っ子なんだから」
舞は私の手を取ると、ぐいと立たせ、そのまま改札口に引っぱっていく。
「ほら、カードをピッして!」
私は勢いに押され、言われるがままにバッグから取り出し、自動改札機にタッチした。二人で一緒に改札口を通る。
“十番線の二十三時三分発、臨時急行新宿行き、間もなくドアが閉まります。無理なご乗車はおやめください”
「ち、ちょっと!」
舞は、私の手首を掴んだまま、走るスピードを上げる。
一番近くのドアに「私たち」は滑り込んだ。
その瞬間、プシューッと音がしてドアが閉まった。
「あはは、無賃乗車しちゃった」
舞は頭の後ろを手でポンポンたたいて笑っている。
「ちょっと、舞! お気楽に笑ってるけど、あなたどうすんのよ?」
「んー、どこかの駅で降りられるんじゃない? 車も駐車場に置きっぱなしだし。戻らないとね……まあ、座ろうよ」
乗った車両には誰もいない。
私たちは並んでシートに腰かけた。
しばらく無言で、電車にガタンゴトンと揺られていた。
「なんか、すごい二日間だったね」
舞がぽそりとつぶやく。
「ほんとね。お魚食べて、忍者になって、ピカソを見て、温泉に入った」
正面の窓に映った二人の姿を見ながら、私は返す。
風呂上がりに慌てて髪を乾かして適当にアップにした、同じ髪型の双子が並んでいる。
その間をパンダくらげがふらふらと漂っている。そういえばこの子、舞にもなついていたな。
不意に。
舞が抱きついてくる。そしておでこをくっつけてくる。
「瞑のこと……瞑の思い出、考えていること。もっと知りたい。瞑にもボクのこといっぱい知って欲しい。ずっと覚えておいて欲しい。ずっとボクのお姉ちゃんでいて欲しい」
「うん。わかった。舞のこと、いっぱい知るよ。いっぱい覚えてるよ。舞は、たった一人の大事な妹だから」
涙の雫が落ち、二人のデニムに滲んでいく。私の涙なのか、舞の涙なのか、わからない。
こうしているとすごく落ち着く。今、二人は同じ思いを共有している。
ずーっと、このままでいたい。あっちの世界とか、こっちの世界とか、もうどうでもいい……眠くなってきたし。
露天風呂の温浴効果が今ごろ効いてきたのか、体の力が抜け、瞼が重くなった。
"まもなく、新百合ヶ丘、新百合ヶ丘です。お降りの際は、足もとにご注意ください。”
ハッと目を覚ます。え! 『しんゆり』って町田のひとつ先じゃん。乗り過ごした⁉
なんだか窮屈だ。ねぼけまなこで左右を見回す。
私は、やや太めのおじさんと、ややマッチョな若者に挟まれて座っている。
座席は全部埋まり、つり革につかまっている人も多い。
窮屈の原因は、おじさんたちだけではなかった。私の服装は、グレーのパンツスーツに戻っている。
舞は?
見当たらない。いや人が沢山いすぎてわからない。
パンダくらげはと言えば、私の肩の上でスヤスヤ寝ている。
寝起きでうまく頭がまわらないが、反射的にスマホを手に取る。
時間は二十三時四十四分。
曜日は……金曜日。
昨日の夜に戻っている⁉
疑問を確信に変えるアナウンスが入る。
"この電車は小田原行き最終電車です。どなた様もお乗り過ごしのないよう……"
ということは。これまでの出来事は、全部、夢?
いや。
こんな鮮明な記憶、夢であるはずがない。
夢落ちなんて、絶対だめ。
それだけはゼッタイ許せない。
だめだだめだだめだだめだだめだだめだだめだだめだだめだだめだ!
はっと思いだし、スマホのアプリを探し、タップする。
どうか!
どうか、写っていて。
あった。
NINJA館での風魔忍者の顔出しツーショット。
お揃いの編み込みアップ髪での浴衣ツーショット。
どちらも瓜二つの顔が並んでいるが、舞と私に間違いない。
夢じゃなかった。私たちは確かに二人で旅をしたんだ。
体を前に折り曲げ、スマホを持つ手に額をつける。
勝手に涙がこぼれ落ちてくる。
勝手に感情が泣き声に変わる。
「あなた、大丈夫? 」
隣のマッチョが気遣う。
「……はい。何でもないです」
わるいけど、ごめん。ほっといて。
電車は新百合ヶ丘に着く。顔を上げるが、もちろん舞は見当たらない。電車から降りもしないし、乗っても来ない。
ドアが閉まり、静かに電車が動き出す。次は下車駅、町田。
もう一度寝過ごそうか? このまま降りずにもう一度小田原まで行こうか?
そう考えたものの、却下した。この電車に乗っていても、あの奇跡は起きないと直感したから。
電車は町田駅のホームに滑り込む。私は立ち上がり、重いカバンを肩にかけ、開いたドアから降りる乗客の流れに身を任せた。
★最終便 マルマンのスケッチブック
おかしな夢を見た。どこかのこぢんまりしたオフィスでMacBookをいじって何かをデザインしている。日帰り温泉の個室でうたた寝をした時にみた夢に似ている。
最近はIllustratorをあまりいじってないので作業効率が悪い。何とかSlackに残された指示に従って仕上げたところで、寒さを感じて目が覚めた。
地球は年々温暖化が進んでいるというけど、秋も深まり、やっぱり明け方は冷える。私はもともと寝起きのいいほうではない。寝相も悪い。毛布とかけ布団をかぶり直し、体を暖めてから起きることにした。
枕も直そうと、手を頭に回すと。頭がごつごつ、でこぼこする。
いつの間にか、私の髪が編み上げられている。
不思議な夢を見るのも、髪型が変わっているのも、今朝が初めてではない。
あの日以来、たびたび起きている、“超常現象”。
あの晩、舞は無事に自分の世界に帰れたかな? コペンはどうなったんだろう?
ぼーっと、とめどもなく、ごにょごにょ考えていると、パンダくらげがふとんの上で跳ね、私を起こしにかかる。あっというまに三十分経ってしまった。もう充分体が暖まった、と自分に言い聞かせて、ベッドを降りる。そのままふらふらと洗面所に向かい、鏡を眺める。
そこに映っているのは、髪を編み上げアップにした女性。
顔を洗い、冷蔵庫を開け、レトルトのコーンスープをマグカップに写し、電子レンジで暖める。ロールパンを少しだけオーブントースターで焦がし、『切れてるバター』一切れと一緒に小皿に載せる。
カップと小皿を置こうとした場所に、先客があった。
マルマンのスケッチブック。大学の頃はよく使っていたが、勤め始めてこの部屋に引っ越してからは、一冊も置いていないはずだ。
黄色と黒の四角形がデザインされた表紙をめくる。そこには鉛筆書きで抽象画のスケッチが描かれていた。幾何学模様のバックとは対照的に、今にも流れ落ちそうな涙形の流体が、ページの真ん中より少し右下に描かれている。
部屋の中を見回す。
間違いない。問題もない。
ここは自分の部屋だ。
そして、さっき鏡に映っていた女性は、舞ではなく、私だ。
ロールパンとコーンスープを平らげ、スマホを取り出し、受信履歴を探す。
私は私の選択をする。
十一月。街はクリスマスのイルミネーションを装い、華やぎ始めている。今夜は職場の仲間たちが私の送別会を開いてくれた。残業を終えての二十一時からのスタートになったが、みんな仕事を切り上げて集まってくれた。辞める会社に未練はないけど、ともに働いてきた仲間と別れるのは、ちょっと淋しい。
ひと月ほど前。大学の先輩にメールし、その先輩が友人と共同で立ち上げたデザイン事務所で、まだ求人をしているか問い合わせた。会って話そうと返信が返ってきたので、採用面接のつもりで出かけたが、仕事内容や雇用条件の説明のあと、仕事部屋に案内され、そこで働くスタッフたちに紹介された。
そこは、夢に出てきた場所に似ているような気がした。
転職を決めたその晩、例の不思議な夢を見た。そして目が覚めると私の髪はまた編み込まれていた。
テーブルの上にスケッチブックが置かれている。
ページをめくると、涙がモチーフとなったスケッチが描かれていてた。
前のページのと違うのは、涙は微笑んだ瞳から落ちていること。
ノートの端っこに太い鉛筆で文字が書いてあること。
Good Choice!
誰もいない部屋で私はつぶやく。
「ありがとう。舞」
送別会場のイタリア料理店から外に出たところで、ありがたくも仲間からサプライズプレゼントをいただいた。さすがに夜遅いので、その場でお開き、解散となった。
飲み慣れない白ワインと、残業明けの飲み会の疲れが相まって、少し足取りが怪しい。小田急線新宿駅西口の改札口を通り、乗り場の番線へ。
慎重に階段を降りる。
ホームには二十三時二十二分発の電車が停まっている。
最後尾車両の行き先案内に目がとまる。
赤地に白文字で表示されてる、“臨時急行00号” の文字。
電車に乗り込むと、週末の夜だというのに、座席に座る人の姿はまばらだ。
私はドア横のシートに腰かけ、目を閉じる。
◇ ◇ ◇
スクリーンは真っ黒になり、その片隅に『fine』の文字が小さく映し出された。
瞑と舞の出会いと別れの物語が終わった。




