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第75話 過去1(フレーシア)

 フレーシアは小さい頃から、人の気持ちも、世の中のルールもよく分からなかった。


教えてもらったことを理解することはできたし、教えてもらった規律なら繰り返すことができた。

しかしフレーシアにとって、世界は教えてもらえないことの方が多かった。

教えてもらわなくても自然とわかること、いつの間にかみんなの共通認識になっていることが、フレーシアには分からなかった。


だからフレーシアは、何度も何度も大人に質問をぶつけた。

しかしほとんどの場合、誤魔化すように笑われるだけで、回答が返ってくることはなかった。

答えがわからないのか、はぐらかされているのか、それすらフレーシアにはわからなかった。


10年前、フレーシアは弟のユートリアと一緒にケーキを食べていた。ユートリアが突然、使用人のエミリーヌに声をかけた。


「今日、元気がないけどどうしたの?」


フレーシアにはいつもとの違いが分からなかった。

しかしユートリアの言ったことは当たっていて、エミリーヌは少し震えた声で、飼い犬のメロが死んだと答えた。


メロはエミリーヌが小さい時から飼っていて、ペットというより、妹のような存在なんだと、かつて話してくれていた。

昔一度撫でさせてもらったときも、綺麗な毛並みでよく手入れされていて、大切に育てられているのがわかった。


エミリーヌは飼い犬が死んで悲しいんだ、とフレーシアは気づいた。

エミリーヌにはずっとお世話になっていたから、何かしてあげたかった。


「新しいの買ってあげましょうか?」


その言葉を聞いたエミリーヌは、無理して笑っていた顔をこわばらせ、唇を震わせていた。

ユートリアがキッとフレーシアを睨み、


「ちょっと、フレア姉さん、どうしてそんなこと言うの⁉︎」


と問い詰めた。


「だって、犬がいなくなって悲しいんでしょう?」


フレーシアがそういうと、ユートリアは困惑したような表情を浮かべた。

エミリーヌに「今日はもう休んで」と伝え、彼女を帰らせた。


エミリーヌが退出した後、フレーシアは聞いた。


「ねえユリア、私はどうして、エミリーヌを悲しませてしまったの? 新しい犬を買ってあげると言ったのに」


ユートリアはとても苦しそうな顔をして、フレーシアを見つめた。ぐるぐると思考を巡らせているように見えた。


「……エミリーヌが飼っていた犬の名前、覚えてる?」


不意にユートリアが聞いた。フレーシアは「メロ」と答えた。


「他の犬じゃ代わりにならないから、他の犬と区別するために、名前が必要だったんじゃないのかな」


その通りだ。他の犬で代わりになるのなら、そもそも名前なんていらないんだ。

その時、フレーシアは初めて自分が間違えていたのだと気づいた。




ある日の夜、フレーシアは外で子猫が鳴いているのに気づいた。


もう就寝の支度をしてくれる使用人も引き上げてしまって、フレーシアにしかその声は聞こえなかった。

ずっと、何時間も鳴いている様子だったが、特に眠れないほどうるさい音でもなかったので、フレーシアは何ということなく眠りについた。


次の朝、鳴き声が聞こえた裏庭あたりを通り過ぎた時、一匹の子猫が横たわっていた。

もうすでに冷たくなっていて、死の直前まで鳴いていた猫は口を開けたまま絶命していた。


ふと、フレーシアは、生活の先生が「自分が使う空間は、常に綺麗にしなくてはいけませんよ」と教えてくれたのを思い出した。

物はあるべき場所にきちんと片付け、ゴミをそのままにしておくことは間違っているのだと言っていた。


「捨てなきゃ」


そう言うと猫を掴み上げた。どこに捨てるかわからないけど、少なくとも、調理室には生き物を捨てるところがあるはず。

そう思ってフレーシアは調理室に向かった。


しかし料理長に猫を捨てる場所を尋ねると、なぜか絶句されてしまった。

ゴミをきちんと捨てるのは正しいことのはずなのに。


「あの……フレーシア様、捨てるのではなく、中庭に埋めてあげたほうが良いですよ」


どうしてわざわざそんなことをするのか、フレーシアは本当にわからなかった。だから素直に理由を尋ねたが、料理長は歯切れ悪く、口をもごもごさせるだけだった。


「姉さん、貸して。僕が埋めてくる」


突然、奥で聞いていたユートリアがそう言って、フレーシアから子猫を取り去った。

フレーシアが後ろからついていくと、ユートリアは中庭の奥のあまり手入れがされていない、けれども日当たりがよくて小さな花がたくさん咲いているところへ行って、素手で地面を掘り始めた。


「ユリア、手が汚れちゃうわ。どうしてそんなことをするの?」


フレーシアがそう聞くと、ユートリアは手を止めず、視線も動かさずに答えた。


「……死んだ生き物は、弔わないといけないから」


「どうして? その子には名前もないのに」


フレーシアはじっとユートリアを見つめた。

ユートリアはその目を真正面から受け取った。


「フレア姉さんは、子猫が死んでも悲しくないの?」


「うん」


「……それでも、死それ自体を、深刻なこととして扱った方がいいよ」


「どうして?」


「ほとんどの人は、生き物が死ぬと悲しいんだ。だから死を深刻なものとして扱っているんだ。

でも、そうじゃない人も、みんながそういう共通認識を持っているっていうことの重要性がわかっているんだよ」


「あ……」


フレーシアは弟の言葉を反芻した。そして言った。


「そっか、死を蔑ろにすることが許される社会だったら、死にたくない人も、ある日突然殺されてしまうかもしれないわ。

それじゃあ安心して暮らせないのね。だからみんな死そのものを深刻に捉えて、こういう時に、ことあるごとに、それを表現しているのね」


フレーシアがそういうと、ユートリアは安心したような悲しんでいるような目でフレーシアを見つめた。


フレーシアは手伝おうとしたが、ユートリアはもう死体を埋め終わっていた。


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