第13話 過去
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10年前のある日、コーサ・アレンダークは路地裏の方から怒鳴り声を聞いた。
様子を見に行くと少年が数人の大人に囲まれて蹴られていた。
科学者の家が黙認されるほど、ここらは治安が悪くその日暮らしの労働者も多い。
この辺に住むような輩は、たまの休日にも遊びに行くような金が無いため、自分たちより立場の弱そうな者を見つけ、日々の鬱憤のはけ口にしていた。
この通りには孤児も多く、よくターゲットになっていた。
コーサが声をかけると大人たちは難癖をつけてきた。
魔法を使い、適当にあしらい、小さな子供を拾い上げた。片手で事足りるくらい軽く、腕も足も随分と細かった。
痣は今日できたものだけではないみたいだ。
小さな家に帰り、寝台に寝かせ、怪我を治療し、食事を作りながら起きるのを待った。
少年は目を覚ますとまず辺りを見回し、自分の状況が理解できず怯えている様子だった。
「あぁ、起きたか。なぜかここに初めて来るやつ、最初にそのベッドで目覚めるっていうジンクスあるんだよな」
コーサは無意識にそう言っていた。自分が初めてここに来た時も言われた言葉が、不意に口をついて出た。
少年はあたりをキョロキョロと見渡し、コーサが近づくと肩を硬らせた。
「路地裏で倒れていたから、とりあえず連れてきたんだ。家は?」
コーサがそう聞くと少年はふるふると横に首を振った。
「親は?」
少年は何も言わなかった。
「名前は?」
そう聞いても返事は来なかった。緊張による強張りが言葉を邪魔するみたいだった。
「食事にするか。食おう」
そう言ってコーサは目の前にスープとパンを用意した。しかしまた、少年は首を振った。
「どうした? 何か食えないもんでもあるのか?」
少年は首を振った。
「じゃあ、食ったほうがいい。随分と軽かったし」
そう言うと少年は固まってしまった。
コーサは手に水を持たせ、飲むように促したが、口に運ぼうとはしなかった。
「……いらない」
少年がやっと口を開いた。擦り切れるような声だった。
「どうしてだ? 喉乾いてないのか?」
「無駄になるからいらない」
泣いているような震えた声で、絞り出すように言葉を発した。
「僕は魔法が使えない」
コーサは目を見開いた。そんな人間がこの世に存在するとは思えなかった。
すると少年の目から堰を切ったように大粒の涙が溢れ、嗚咽混じりの声でこう言った。
「僕は、魔法が使えないから、なんの役にも立たないから、生きているだけで無駄だから……」
コーサはその言葉が、少年の本心というより、刻み込まれた呪詛だった。
背中を撫でようと手を伸ばしたが、細い腕で拒んだ。
力は強くないが、無理に押し退けると折ってしまいそうだった。その後、何度か声をかけても、反応すら返ってこなかった。
少年の中で子供の手には負えない負の感情が渦巻き、蝕まれ、飲み込まれているのは痛いくらいに伝わった。
その苦悩は誰かに助けられることさえできなくさせてしまっていた。
涙だけがポロポロとこぼれ落ちていた。
――コーサは繊細なやり取りが不得手だった。
説得して食べさせられないとわかったので、少しだけ開いた少年の口にパンを勢いよく突っ込んだ。
あまりの唐突さに、パンを咥えながら固まり見つめる少年の顔を、屈託のない笑顔で覗き込んで言った。
「それ食えよ。その後に、いいもん見せてやるからさ」
たどたどしく食事を終えた少年を、地下室に連れて行った。恐れる少年の手を引いて、コーサはいくつかの薬品を混ぜてみせた。
透明だった水がサファイアのような青色に変色した。
「どうだ? すごいだろ」
「……」
少年は目の前の化学反応を前にしても、じっと試験管を見据えていた。
未だ何を考えているのかわからず、コーサの方がドギマギした。
「……そんな面白くなかったかな」
「……そんなことはない、すごいです。〈色〉の魔法は……」
「違うよ。俺、今魔法使っていない。これはお前にもできるぞ」
コーサがそういうと、少年は思わずパッと向き直った。
先ほどからずっと曇っていた目が、やっと少し透き通り、輝いたように見えた。
「……僕にもできるの?」
「できるよ。これは科学っていうんだ。科学では、誰がやったって同じ結果が引き出せることを、集めて調べて発展させていくんだ」
まだ信じられないという目で見上げる少年に、コーサはもう一度名前を聞いた。
少年はランスと名乗った。
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コーサも自分の名前を教えたが、博士と呼ぶように頼んだ。
諸事情あって、名前はあまり呼ばれたくなかった。
ランスは、来た時から読み書きができた。
教えてくれる人はいなかったが、文字を使う人を見てなんとなく学んだと言った。
博士はまず、歴代の科学者がまとめた入門書を見せた。説明をすると、途端にスポンジのように吸収した。
別の本を持ってきて、読んで、わからないことがあったら聞いてくれと伝えた。
10分ほどして、またランスが話しかけてきた。
「どうした? 何かわからないことでもあったか?」
「ううん、もうこれは読み終わった。別の本が欲しい」
博士は驚き、ちゃんと理解できたのか確認した。
内容は完璧に理解しており、単語も全て覚えていた。博士は別の本を渡し、今度は読んでいる様子を観察した。
目を見張るほどの衝撃を受けた。
まず驚嘆したのはランスの本を読む速さだった。
普通の人間の読む速さが、一歩一歩しっかり地面を踏みしめるようなものだとしたら、
ランスは坂を転げ落ちるボールのような、いやもっと早く、自由落下をするような速度で文字を追った。
そして次に、記憶力の高さに驚いた。ランスは一度見た単語や言葉は決して忘れなかった。
それからはどんどん、ランスの優れた能力を見つけることになった。
脳が違う、と博士は思った。
新しいアイディアを思いつく想像力や、複数の情報を結びつける力など、脳が司るほとんど全ての機能が、人並み以上に優れていた。
1年もすれば歴代の科学者たちが積み上げてきた蔵書を全て読み尽くしてしまった。
2年もしないうちに博士よりも科学に精通した。それから先、ランスは幾多の真理を、時にはさまざまな定義や法則から濾過して演繹し、たくさんの知識の網目から縫い合わせ帰納して、発見して行った。博士はついていくのがやっとだった。
ランスはあの小さな家の地下室で、いくつもの科学革命を起こした。
蒸気の力を借り始め、電気を生み出し、通信を発明し、高速計算機に思考の一部を任せた後は、さらに加速した。
それまで有りものに説明を試みることしかできなかった科学は、自らの力を魔法と比較しても遜色ない次元まで引き上げた。
ランスは自動で作業をする機械が作れると言い出し、魔法を使わなくたって一瞬で火や風を生み出せる言い出し、離れた場所からでも会話ができると言い出した。
そしてそれらを少しずつ、実現させた。博士は、科学にそんな潜在能力があるとは正直思ってもいなかった。
博士はある日ランスにこう言った。
「ランスはきっと《脳》の魔法なんだ。そこで完結してしまっているからわからないだけで、きっと与えられているんだ」
そう言われても、ランスはあまりピンと来ていないようだった。
博士と過ごしている中で、また集積された科学日誌の変遷で、自分の記憶力や理解力が人よりも良いことは何となく感じていたが、ランスにとっては生まれた時からこうだった。
要領を得ない表情で首を捻るランスの頭を捕まえて、わしわしと撫でながら博士は笑った。
こうして2人しかいない地下室で、科学はどんどん力をつけていった。
いつしかそれは、科学を受け入れる思想的土壌がない外の世界でも、認めざるを得ないほど存在感を増していった。後は扉が開かれるだけだった。




