第105話 少し過去4(ヨルク)
「ユートリア様!? お待たせいたしました。資料の確認が終わりました」
理事長がやってきて扉を開けるや否や、部屋を満たす静謐をぶち壊した。
ヨルクの方を向いて、ゴミでも見るような目で叫んだ。
「おい! ユートリア様がいらっしゃってるんだぞ!? 何してるんだ! お茶くらい出さないか!」
「室内は飲食禁止です」
ヨルクが感情の無い言葉を返すと、理事長はさらに語気を強めた。
「だからなんだ! ユートリア様が来た時くらい目を瞑らないか!
この学校は王家の、つまりユートリア様の管理下にあるんだぞ! 自分の管理する施設のルールに、ユートリア様が縛られるいわれがあるか!」
「ありますね。古書の保全のためです」
何の躊躇もなく突っぱねるヨルクに、理事長の顔がますます歪んだ。言葉を続けようとする彼に向かって、
「理事長、別にいらないから」
とユートリアが言うと、一瞬悔しそうに喉を鳴らし、どうにか言葉を飲み込んだ様子だった。
理事長は先ほどまでヨルクが座っていた机に目を向けた。一冊の本が開いたまま置いてあった。
その本に目を向けると、一瞬驚いたように目を見開き、次いでグフっと不敵な笑みを浮かべた。
「……これはこれはヨルク先生、これでもう、言い訳できませんな」
「は?」
意味がわからず聞き返したヨルクに目もくれず、理事長は部屋の奥へと歩を進めた。
そして先ほどまでヨルクが読んでいた本を無作法に掴んだ。ヨルクが一瞬顔を顰めた。
「ユートリア様、ご覧ください! これがなんだかわかりますか?」
理事長は得意気にエメラルドグリーンの背表紙を掲げた。
「わかんないよ、題名書いてないんだもん。何それ?」
ユートリアが尋ねると、理事長はふふん、と鼻を鳴らして答えた。
「こちらの中身は……
今まで幾人もの『修正者』を生み出し、未だ多くの『修正者』が自身の聖書としている史上最悪の書、『我が桃源』です。
かのシエル大帝国時代に書かれた、当時の支配体制を詳細に書き留め、賛美し、あろうことか『運命付けられた楽園』として思想的な正当性を主張している悪書です。
主張は到底受け入れられないのに、論理が綿密に練り上げられているせいで、まるであの時の支配は正しかったと錯覚してしまう。
まだ陰謀の苗床として凶悪な効果があり、否定派ですらも読んでいて頭を悩ます。
それゆえに長らく禁書として扱われ、燃やされてきた悪魔の本です。
しかもこれは、こうして表紙にあえて題名を書かないことによって焚書の時代を生き延び、現代までその内容が伝わる一助となったまさにそのもの!」
そう言って分厚い手で本の表紙をバシッと叩いた。
「今、この国に禁書はありません。返してください」
ヨルクはあくまで冷静な口調で言葉を挟んだ。
理事長が責め立てるように続けた。
「なぜお前は、この本を読んでいたんだ? 言ってみろ」
「なぜも何も、当時の思想がわかる貴重な資料だからです」
「当時の思想なんて、学ぶ必要もないだろう。こんな内容の本なんて忘れられるに越したことはない」
「忘れられるのを待つなんて、否定できないと認めるようなものです。そうではなく、克服しないと」
ヨルクは毅然として言った。理事長は侮蔑を顔に浮かべた。
「ああ言えばこう言う、やはりこんな時代錯誤の本ばかりに囲まれているからか、無為な言葉遊びだけは一丁前みたいだな。
しかしもういい。全てわかった。
お前は役に立たないどころか、根本的に価値観のずれた危険思想の持ち主だ! 今日限りでクビだ! この学校から出ていけ!」
あまりに不毛な応酬にヨルクは言葉を失ったみたいだった。
理事長はユートリアの方に向き直って言った。
「いやあ、もっと早く追い出しておけば良かった。
ですが、あなたに業務を引き継ぐ前に、無能を片付けておけて良かったです。
これで安心して学長兼務の体制から退き、ユートリア様に学校をお返しできるというものです」
理事長はガハハと笑った。
それまで2人のやりとりに一切口を挟まなかったユートリアは、判決を下すように口を開いた。
「いや、ヨルク先生は辞めさせないよ。あなたがクビにしても、僕がまた雇うから」
虚をつかれたようにように固まって、しどろもどろする理事長をよそに、ユートリアはヅカヅカとヨルクに近づいた。
一瞬にして辞令と雇用を言い渡され、さすがに戸惑いの色を見せたヨルクに向かって、ユートリアはニコッと笑いかけた。
「ヨルク先生、これからよろしくね」




