第1話 合格通知
「ねぇお母さん、あの家はなあに?」
無垢な少年の目は、寂れた通りの中にある一軒の家に向いていた。
他はほとんど空き家になり、もうずっと人の住んでいる様子がない中で、唯一生活の気配があった。
「ダメよ、指さしちゃ。あの家の人たちは危険だから、無闇に口に出しちゃいけないわ」
母親はその家と隔てるように息子の目もとを覆った。
「何をしている家なの?」
「あの家にはね、カガクシャが住んでいるの」
「かがくしゃ?」
「おかしな考え方をする人たちなのよ。水のことを、小さな粒の集まりだとか言っているの。そして氷もその同じ粒からできているっていうのよ」
「あはは、変なの。そんなわけないじゃんね。
水と氷は違う物だよ。
水があるところに氷魔法がかかると、水が消えて氷が生まれるんだよ。そして氷魔法はあったかくなると消えて、今度は水が生まれるの。
学校で習ったよ。みんな知っているよ」
「そうよね。でもカガクシャたちは自分達が正しいって信じているの。
だからカガクシャには変な人しかいないのよ。
本当は取り締まって欲しいのだけれど……この国は思想の自由があるからね、あんな人たちでも取り締まれないのよ」
「おかしい人なのに?」
「そうよ、絶対に近づいてはだめ。何されるかわかったものじゃないわ」
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魔法学校の合格通知が来た時、ランスは思わず呻きにも似た小さな悲鳴を漏らした。
博士があまりにも懇願したから、仕方なく受けた試験だった。
その博士も1ヶ月前に亡くなって、それどころではなくなり、試験を受けたことすら忘れていた。
町外れの一見小さな家で、隠れ住むように生活していた。
実は地下に広い空間を隠し持っていたその家は、反社会的な組織の隠れ家としてこれ以上ないほど適している。
そして実際、ランスと今は亡き博士はその家で、外の世界では後ろ指をさされる筆頭の、科学の勉強をしていた。
公に言えないことだったが、そもそも公に現れようなんて思っていない。
このままずっと、人目に触れることなく、他の人にとってはまるで存在しないかのように暮らして、死ぬまでただ科学の研究をするつもりだった。
それなのに。
「国立魔法学校の入学試験を受けてみないか」
国立魔法学校は貴族平民関係なく、国で最も魔力が高い学生が通う、名実ともにこの国一番の魔法学校だった。
突然そんなことを抜かした博士を見て、ランスは2つの理由で困惑した。
1つ目の困惑の理由は、博士が今まで見たことないくらい、神妙な面持ちをしていたからだった。
元来博士は、この家でほとんど人と関わらず生きてきたせいか、70を過ぎているのにどこか子どもっぽく、突き抜けるほど楽観的で、いつもヘラヘラしていて、うんざりするほどどうでもいいことで絡んできて、その度に無邪気に笑っていた。
そんな博士がその時初めて、真剣に、どこか哀願するような目でじっとランスを見つめていた。
普段ならこんな馬鹿げた発言なんて、即座に一週していたランスでも、思わず息をのみすぐに返答できなかった。
そしてもう1つの困惑の理由は、ランスには魔法が使えない。
人間が生まれた時から必ず、1つの魔法を授かるこの世界で、ランスは魔法が使えなかった。
だから親から捨てられ、路頭に迷い、ここで博士に拾われなければ死んでいた。それは博士も知っているはずだった。
驚き、返事もできないでいると、博士はケロッといつもの調子に戻り
「嫌ならいいんだ」
と笑いながら言った。その笑顔が妙に歪んでいた。
ランスはここで話を切り上げたら、この博士の発言の真意が一生闇に葬り去られることを直感した。
今の今まで博士が隠し、初めてその一片を窺わせた心象が、完全に埋葬されてしまうのが嫌でもわかった。
それで思わず、学校なんて行く気もないのに、会話を続けようとした。
「どうしたんだよ、博士、突然……。なんでそんなこと言い出すんだよ?」
「……今は言えないな。引き受けてくれたら、いつか話すとは思うけど」
「言えないって何で」
「いや、いいよやっぱ。忘れてくれ」
そういいながら席を立ち、紅茶を淹れ始めた博士は、努めてランスから顔を背けているようだった。
ランスはそんな博士を目で追いながら、先の発言を頭の中で反芻し、荒唐無稽さを確認していた。
(魔法学校って、魔法を学ぶための場所だろ。
そんな場所俺が行ったって意味ないし、そもそも入学試験に受かるわけない。
……それに、万が一受かってしまったら、それこそ酷いことになる)
地球上の全て生物を探しても、魔法が使えるのは人間しかしない。
他のどんな動物にも植物にも魔力は備わっていない。
そんなこの世の中において、魔法はもはや人間が人間であるための証だった。
魔法があるかないかが、人間と他の生物を異ならせ、種の優位を語る根拠だった。
馬鹿にされる、だけで済んだら何の問題もない。最悪の場合、人権を謳う法律の庇護すら受けられない。
創造主たる神に魔法を与えられなかった者に、社会が与える義理はない。
だからランスは自分にとって魔法学校が、どれほどの地獄か想像するまでもなかった。
国中から集められた若き天才たちが、互いの魔法を認め合い切磋琢磨し、後に魔法で国を支える者として成長していく。
ランスにとって世界で一番縁遠い場所だった。
しかしそれを、博士がわかっていないはずがない。それをわかった上で、博士はあんな無茶な頼みをしたのだ。
そこには絶対に理由がある。隠され続けるその理由が、ランスに断りの返事をするのを躊躇わせた。
ランスはその後、何度も博士の真意を問い直した。その度に博士ははぐらかした。
幾度もの甲斐のないやりとりを経て、ついにランスは博士の沈黙に根負けした。
「………………まあ……でも、じゃあ、入学試験だけ受けるよ。
当然、筆記試験だけしか受けられないから、合格しないに決まってるけど……。それで満足ならいいよ」
それを聞いた博士は、自分が言い出したくせに、星屑を放り込まれたように目をパチパチとさせて驚いていた。
段々目に見えて明るくなり、ランスの肩をバシンと叩いて、いつもの整った笑顔で礼を言った。
その後博士は死んだ。
結局博士の真意はわからずじまいで、それ以上問い詰めることもできなかった。
もともと自分の死期を悟っていた博士は、ランスにも何度か自分の余命を仄めかしたことがあった。
そのおかげか、わりあい健全な焦燥感で弔うことができたし兎にも角にも受験したことで、博士の心残りが無くせたかと思うと満足だった。
しかしまさか、合格するなんて夢にも思っていなかった。当然、この後どうするかも何も考えていない。
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「ユートリア様、本当によろしかったのでしょうか……」
「ん? 何が?」
秘書の言葉に、ユートリア・ロシュフォールは微笑みながら答えた。
といっても視線は相変わらず書類の上に落ちていて、羽ペンを持つ手を休まず動かしている。
紫がかった黒色の、ふわふわとしたストレートヘアに、丸く柔らかい目を持つ少年。
新入生と比肩するほどの若さだが、彼がこの学校で任されていた役職は、生徒ではなく学長だった。
国立魔法学校の学長は、王族から選ばれることになっていた。
若干16歳のユートリアは一見、国で最も権威のある学校の長を任されるには若過ぎた。
しかし幼い頃から学問、魔法、政治、社交術などの高いレベルの教育を受けた彼は、その洗練された能力に生まれながらの優れた素質が相乗され、学長の仕事を立派にこなしていた。
ユートリアにとって自分に課せられた責任や義務は、月の満ち欠けのように当たり前のもので、全く苦だとは思っていなかった。
彼と話す人は皆、ユートリアの生まれながらの重圧に気づくことはなかったし、むしろ余裕のある応対の中にはあどけなさすら感じられた。
この日も普段通り、あっけらかんとした態度で大量の書類を処理している学長に、秘書ははっきり言った。
「例の新入生のことです。この学校に入れてしまって良かったのでしょうか? 先程の教員の訴えも、的を得ていたと思われます」
ピタッと筆記する手が止まった。彼はいつもの笑顔を添えて答えた。
「良かったも何も、彼を落とす理由がないじゃんか。
受験を受けて、合格点を取ったんだ。彼を落とすような会議が開かれていたことだって、僕には寝耳に水だったんだよ」
「ですが、魔法試験が0点だったのですよ?」
この学校の入学試験は筆記テストと魔法実技の2回に分けられる。その点数の合計で合否が決まる。
そしてテストの「重み」は平等ではない。
この魔法学校の意義は、優秀な魔法使いを育てることにあった。
だから筆記のテストが優秀な者よりも、優れた魔力を持つ者に入学させたかった。
そのような事情の中で長い年月が経った結果、筆記のテストは極端に難化し、ほぼ形だけの物になった。
数問は一般常識の範囲で解けるが、概して異様なほど難しく、専門分野の教授でも頭を悩ませる問いがいくつも連なった。
どんなにその対策に時間を費やしたところで、他の受験生と有意義な差はつけられなかった。
稀まれにある分野の秀才が難問に挑んで部分点を獲得し、他の生徒より半歩ほど優位を手に入れることはあったが、それすらほとんど奇跡に近かった。
魔法実技の合格者平均点が100点満点中70点ほどであるのに対し、筆記テストの平均は20点程度だった。
「今年度の筆記テストの合格者平均19.6点。魔法実技65.1点。実技の平均がちょっと下がって、筆記テストはまあ、概ね平均通りだね」
結果をまとめた資料を指でひらひらと揺らし、ユートリアは秘書に確認した。
今年も筆記の試験で出し抜こうとする馬鹿な受験生はほぼおらず、必要最低限の知識だけ身につけたら、残りの努力は全て魔法の研鑽に使われたみたいだった。
「そして合格者最低点はというと、テストと実技を合わせて、83点。つまり83点以上をとったら誰でもこの学校に入る権利がある」
「ですが……」
「わかってるよ。前代未聞だ、こんなことは」
そう言いながら、これからやってくる波乱を楽しみにしているようにクスクスと笑った。
「まさか、筆記テストで100点取っちゃうなんてね」
ニコニコしてそう語る学校長を、秘書は怪訝な目で見つめた。ユートリアは構わず続けた。
「こんな点、取れる人なんて存在しないと思ってた。
僕も解いたけど、最初の数問以外全然わからなかったよ。
最後の方なんて、どこの文献漁ったら出てくるのかってくらい変な知識とか、よくわからない言語とか、正解なんて存在するのかっていうのも。
こんなテストで100点取るなんて、頭の中に10棟の図書館でも入っていて、100人の司書でも住まわせているのかな」
「でも、肝心の魔法の実技が0点なんですよ⁉︎」
耐えきれなくなって秘書は声を荒げた。自身の声量に驚き、咳払いをして姿勢を直した。
「それも、すごく面白いじゃないか。本人が魔法実技辞退したんだっけ」
「そうです、理由を問い詰めたら、『魔法使えないから』って一言……。そんな冗談、通用すると思ったんでしょうか」
手元のカップを持ち上げ、ユートリアは言った。
「本当に使えなかったりして」
「あり得ないでしょう」
さっきの声を荒げた秘書なんていないかのように、冷静な調子で言い切った。
何かを閉め出すような厳しさがその瞳を印象付けている。
「魔法は人間なら誰もが持っている能力です。魔法が使えない人間なんて有史以来1人もいませんよ。
本当に使えないのであれば、それは人間の皮を被った猿かなんかでしょう」
秘書はつらつらとこの世界の一般認識を述べた。自分がまともで冷静であると念を押すかのようだった。
「あはは。猿に100点も取られちゃったら、それこそ人間の立つ瀬が無いね」
ユートリアは呑気そうに冷めきった紅茶を一口飲んだ。
秘書はその言葉を聞き、思わずユートリアを睨みつけそうになったが、なんとか心を落ち着かせようと目を閉じて言った。
「筆記試験については、問題の流出か、不正があったと考えています。他の先生方も同意見です。本格的に調査をしたら、絶対にその事実が暴かれると思います」
「まあまあ、落ち着いてよ。ほら、紅茶でも飲む?」
そう言いながらユートリアは指先から炎を灯し、紅茶ポットを温めようとした。
が、秘書が断りの返事をしたので、もとあった場所に戻した。
秘書は少々決めつけた文句を吐いたことを反省したが、それでも最後に言い添えるように、独り言と抗議の中間のような声量で言葉を紡いだ。
「とにかく、魔法が弱いのでは、この学校に入るに値しないと思います」
ポツリ、ポツリとつぶやかれる言葉を、ユートリアは見届けるように聞いている。
「この受験生が……魔法の実力が伴わないのに入学するほど浅はかなのだとしたら、入学させないのも一つの優しさだと思います。
授業でも課外活動でも、ことあるごとに魔法は使いますし、周りの生徒とも魔法の実力が比べられます。
仮に人より知識があるにしても、それだけではこの学校で絶対にやっていけません」
ユートリアがそれに答えた。
「まぁ、入れるだけ入れたらいいじゃないか。お荷物になるようだったら追い出せばいいよ。
結局、魔力が弱いんだったら、それで困るの彼だしね。
それに、ここで落としてどっか行かせちゃったら、どうしてあんなテストで100点も取れたのか、分からず終いじゃないか」
ケタケタ笑いながらそういう学長に、秘書は困惑と諦観の眼差しを向けた。
この人は入学する生徒に興味はあるが、気を使ってはいないのだと、やっと彼女は理解した。
前代未聞を楽しんでいる学長に呆れた。
もっとよく考えたほうがいいと再度抗議しようとした時、秘書が口を開く前にユートリアが次いで言葉を発した。
「万が一、不正をしていたのなら、絶対に許さないよ」
秘書は思わずビクッとした。その口元は相変わらず笑っていたが、その目を見たら、冗談ではないことがわかった。
学長の件の新入生を擁護する態度が、単に寛容ではないと念を押された気分だった。
「いずれにしても、彼を入学させることは間違っていないよ。僕がしっかり、彼の正体は見極めるつもりだ。楽しみだね」
そう言ってまた子供のような目に戻った。秘書はもう少しくらい説得したかったが、ユートリアはもう仕事を再開してしまったため、諦めた。
初期掲載時から若干の修正が入っています。
大枠の内容は変えていませんが、わかりづらい表現や冗長な言い回しなどを直しています。