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第1話 日本のこれまで 第二次世界大戦編

外伝の第一話を投稿です。今回の話は、雨宮香織がいる未来日本の世界の過去の時代のお話の一回目です。主に第二次世界大戦終結までの話になります。かなり長い本文ですが、ご了承ください。それでは本文スタートです。


1948年に世界大戦は終わった。


日本・ドイツを

中心とする枢軸同盟は、アメリカ・イギリスを中心とする連合国の猛攻を凌ぎ切り、名誉ある講和を勝ち取った。


枢軸同盟が講和を勝ち取れたのは、いくつか要因があるが、その最たるモノはやはりソ連の混乱であった。


1945年の12月。


ドイツの特殊部隊が、ソ連領内のスターリングランドを視察中のヨシフ・スターリンを暗殺したのだ。


ここにおいてドイツ軍は、42年以降進撃せずに温存していた精鋭部隊による反撃を開始し、見事スターリングラードを始めとするソ連軍によって奪還された都市・拠点を再奪還した。


そしてスターリンが暗殺されてから3ヶ月後には、モスクワ占領作戦である『レーベル』作戦を発動し、フェードア・フォン・ボック元帥とヴィルヘルム・フォン・レープ元帥の両将軍に率いられた部隊によりモスクワは占領された。


この時ソ連軍は、モスクワ守備隊の司令官にスターリンの信任厚いジェーコフが就いていたが、スターリンの死後に後継を巡る内輪揉めの煽りを受け、モスクワには二線級の資材と人員しか配備されておらず、ソ連軍はたいした抵抗もできずにドイツ軍に降伏した。


なお、この時降伏したソ連軍兵士達は幸運であった。


実はスターリンが暗殺された数日後に、ドイツの総統であるアドルフ・ヒトラーもまた暗殺されたのである。


ドイツ総統の死により、新たにドイツの首相となったのは、ハインツ・ルードヴィッヒ・ハルケンシュタインという海軍出身の政治家であった。首相に就任した彼はまず、これまで蛮行を繰り返してきた武装親衛隊は解体され、同時に占領されている各地のインフラの整理をおこなった。


同時にこれまでナチスが行ってきたユダヤ人に対する政策の一切を中止し、元の生活に戻れるように尽力した。


これが後に大きく影響してくる。


更に彼は、戦闘によって捕虜となった敵兵に対する待遇を改善にも奔走した。


よって、モスクワ陥落時に捕虜となった兵士の多くは、ドイツ兵に虐待等の被害を受けることなく後方に送られていた。


一方で新首相となったハインツは、連合国に対して講和の道を探していた。


何とか講和を結び、戦争を早く終わらせようと考えたのだ。


彼は、内容にもよるが、連合国や占領地の国々に対する賠償金等の問題も含めて、連合国の提示する条件をある程度飲むつもりであった。


しかし、連合国・・・特にアメリカとイギリスの2国・・・が提示してきた講和の条件は、彼にとって、いやドイツ国民にとって、とても妥協できる内容ではないものだったからだ。

いや、元々連合国側に講和を結ぶつもりが無かったのだ。


連合国側はドイツに対して、


1、連合国及び占領地域の市民への謝罪 2、戦争犯罪人の連合国側への引き渡し 3、各国に対して合計1800億マルクの支払い 4、ドイツの保有する全ての戦力の解体(軍備の保有禁止) 5、領土の割譲 ・・・等々とてもドイツ側が飲める条件では無かった。


当然ドイツ首相のハインツは、内容を国民に公表し戦争の継続を国民に呼びかけた。


ドイツ国民は、この新首相の呼びかけに応え、戦争の継続を選んだ。


幸いにもソ連を打ち破り東部戦線に張り付けていた戦力が多少なりとも浮いた事により、かなりの戦力を西部戦線に回すことができるようになった。


* この当時ソ連は、前述の通りスターリンの後継者争いを行っており、まともに軍を動かせなかった所をドイツ軍に各個に撃破され、著しく戦力を消耗していた。


またジェーコフを始めとするスターリン時代に行われた高級将校の粛清を生き延びた数少ない有能な指揮官も、補給を得られずに前線で孤立し、ドイツ軍の捕虜となる者が出ていた。


結局ソ連軍は、戦争が終結する1948年までまともにドイツ軍に戦闘を仕掛ける事は無かった。


さて、一方の大日本帝国である。


1941年12月8日(日本時間)にハワイの真珠湾基地を攻撃した事により、帝国は連合国との戦争状態に突入した。


真珠湾への攻撃は、史実のように

「騙し討ち」と言われるようなモノではなく、ちゃんと宣戦布告の後に行われた。


南雲忠一中将に率いられた8隻の大型空母から発進した2波合計400機を超える攻撃により、ハワイ真珠湾は向こう半年は基地としての機能を失う程の損害を受けた。


この時、南雲機動部隊と言われた艦隊には『赤城』級空母4隻に『加賀』級2隻、そして『翔鶴』級空母2隻の空母を保有する世界最強の機動部隊であった。


しかし何故、海軍にこれ程の戦力があるのだろうか?答えは日露戦争後まで遡る事になる。


当時の大日本帝国は日露戦争が終わった後に内政の充実を目指して積極的に国内への投資を行った。反対に朝鮮に対する投資は史実に比べ、かなり少なかった。


国内への積極的な投資により、国内の重化学工業の発展が史実以上に進み、1914年から凡そ6年に渡って起こった第一次世界大戦での外国に対する輸出の増大と合わせてかなりの発展を遂げ、帝国の底力を底上げしたのである。


この事が根底となり、幾度かの外交問題や軍縮会議等を経て開戦に至った時に、帝国海軍は空母を大小計13隻、戦艦各種計12隻を始めとする強力な戦力を保有する事に繋がった。

帝国は進撃を緩めることなく進軍し、マレー半島全域を占領し、多数の英軍兵士を捕虜とした。


なおこの時英国海軍東洋艦隊としてシンガポール港に配備されていた戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』、巡洋戦艦『レパルス』、航空母艦『インドミタブル』・『フォーミダブル』の4隻を始めとする東洋艦隊の主力を無傷とは言わないまでも、鹵獲に成功するという僥倖にも恵まれた。

帝国は、東南アジアの欧米各国の植民地となっていた地域の解放を行い、あっと言う間に制圧下においた。


第1段作戦を、思っていた以上の成果を挙げたまま終わらせた帝国は、第2段作戦として潜水艦と軽空母を中心とした部隊による通商破壊作戦を展開しつつ、米豪遮断作戦を開始した。


開戦から僅か半年しか経っていないこの時、米国はまだ完全な戦時体制になっておらず、新型艦の配備は遅れていた。


そうこうしている内に帝国は、ニューギニア一帯を完全制圧し、同地域の要塞化を行いつつガダルカナル島方面にも進出した。

ガダルカナル近海において偶発的におきた海戦で、帝国海軍は軽空母二隻を含む七隻の艦艇と約二百機の航空機を失ったが、対する米軍は太平洋に配備されている空母五隻と条約明けに建造された『ノースカロライナ』級二隻と真珠湾攻撃時に被害を免れた条約型戦艦二隻の戦艦四隻を含む一九隻を、僅か一回の海戦で失い、これ以後二年近く米軍は積極的な攻勢に出れず、戦線が膠着状態に陥った。


なおこの時の海戦で米空母は、史実のミッドウェー海戦時の日本空母と同様の状態となった。


1942の6月〜1944年の4月までの間は双方ともに戦力の充実に力を入れていた。


米軍は『エセックス』級空母九隻に、『インディペンデンス』級空母一二隻を始め戦艦・重巡・軽巡・各種駆逐艦を大量建造し、その船員を育成にも力を入れた。


勿論空母艦載機の新機種への刷新も行われ、艦戦にF6F『ヘルキャット』、艦爆にSB2C『ヘルダイバー』、艦攻としてTBF『アヴェンジャー』にそれぞれ変更された。


勿論各機の搭乗員の育成も行われていた。


対する日本軍は、如何であろうか?


海軍は新たに二隻の『大鳳』級装甲空母と装甲空母『信濃』を完成させ、四隻の中型客船改造空母を竣工させた。


同時に新型戦艦である『播磨』級戦艦二隻を戦列に加えた。


また同時に海戦劈頭にシンガポール港で鹵獲した多数の旧英国艦艇も修理・改装して連合艦隊に組み込まれた。


航空戦力に関しても、空母艦上機として新型艦戦『烈風』に、艦爆『彗星』、艦攻『天山』を開発し量産・配備した。また、拡大された基地航空隊用として陸戦『天風』、双発爆撃機である『銀河』に、二式陸攻『深山』を前線の各基地に配備されていった。


新型が配備されれば、従来機の出番は自然と後方での任務に限られてくる。


空母に配備されていた機体の大多数が本土へ送られ、新米搭乗員の育成に使われたが、一部の機体は大東亜連盟における相互援助条約に則る形で、インドネシア・フィリピンの各島々にいる日本軍へ強力してくれる組織に無償あるいは格安の値段で引き渡された機体もあった。


戦力の強化に努めたのは帝国海軍だけではない。


帝国陸軍においても支那戦線の縮小を行い、徴兵されていた熟練工を本土へ戻す等の処置をとった。


無論新型兵器の開発・生産にも力を入れ、新たに三式戦闘機『飛燕』、百式重爆『呑龍』、三式中戦車、四式中戦車、特二式内火艇などの新兵器を実戦配備した。


互いに戦力の拡充がなった今、戦機は熟しつつあった。


最初に動いたのは、米軍であった。


マーク・ミッチャー中将に率いられた第33任務部隊が、多数の輸送船団を率いて、ガダルカナル島へと攻撃を開始したのである。


当時の帝国軍は、上層部の反対を押し切って戦線の縮小を図っており、ガダルカナル島には戦力が配備される事無く、もぬけの殻となっていた。


あっけなくガダルカナルを自軍の勢力下においた米軍が狙った次の獲物は、なんと信じられない事に『ラバウル』強襲であった。


当時のラバウルは、帝国海軍の拠点としてかなりの規模の航空戦力と多数の艦艇が停泊しており、作戦が成功すれば戦果は大きいが、自軍の被害もまた大きく予想される、ハイリスク・ハイリターンな場所であった。


米軍はラバウル強襲作戦を発動した。


迎え討つ帝国軍は、ラバウル航空隊こと第二航空艦隊、第一機動艦隊、第三艦隊の二個艦隊・一個空空艦隊の戦力で迎え撃った。


後に第一次ラバウル沖海戦と呼ばれる太平洋戦争の第二ラウンドの幕開けの戦いであった。


詳しい戦闘の詳細は省いて結果だけを述べるが、米軍は第33任務部隊に配備されていた4隻のエセックス級空母を全てラバウル沖に沈める事となり、また同時に多くの艦艇に損傷を受け、多数のパイロットを失った。


帝国軍側の損害も決して少なくはなかった。


第一機動部隊所属の赤城級空母の一隻を撃沈され、加賀級二隻を大破させられた。


第三艦隊は高雄級重巡二隻を始めとする多数の艦艇を撃沈され、ラバウル航空隊は百機近くの機体を撃墜された。


帝国側は、空母一隻を含む十一隻を撃沈され、合計二百機もの航空機を失った。


もっとも、自軍の勢力圏内であるため、脱出できたパイロットの多くが救出された。


結果から見れば、米軍のラバウル強襲は完全な失敗であった。


再建なった機動部隊をいきなり失ってしまった。


太平洋艦隊に残された戦力は、大小合わせた空母計八隻と戦艦六隻、各種巡洋艦二八隻を中心とした戦力であった。


無論強力である事は疑いようがないが、このまま帝国海軍に戦いを挑むのは、やはり躊躇われた。唯一ハルゼー中将のみが、積極的攻勢を主張したが、ニミッツによって却下され、米軍の本格的攻勢は、更に戦力が充実する45年以降と予想された。


一方の帝国側は、米国を休ませるつもりなど無かった。


ラバウル沖での海戦から2ヶ月後には、新設の第二機動部隊を中心とする艦隊をインド洋に派遣する一方、本土に回航された第一機動部隊には失われた赤城級空母と大破した加賀級空母の交代として、大鳳級空母二隻と信濃が配属され、さっそく訓練を開始していた。


第二機動部隊は、戦時急造型の『雲竜』型空母四隻と改装軽空母『瑞鳳』級二隻を中心に編成された機動部隊で、司令長官は大西滝次郎中将である。


この艦隊は、インド洋での通商破壊作戦の為に派遣されたわけであるが、実際には空母艦載機の搭乗員の実戦訓練と言った方が正しい。


なぜなら、当のインド洋にはろくな敵艦隊がおらず、再建された英国海軍東洋艦隊の巡洋艦艦隊が、少数で活動する以外は、特に脅威と呼べるモノは無かった。

第二機動部隊は、44年末頃までインド洋で通商破壊に従事し、多くの輸送船や客船を鹵獲・撃沈し、完全にインド洋航路を麻痺させた。


無論、太平洋方面でも戦闘は続いていた。


第一機動部隊と、高速戦艦・重巡洋艦主体の第二艦隊が、北太平洋へ向けて突き進んでいた。


この時攻撃の目標とされたのは、アリューシャン列島のウナラスカ島にある、ダッチハーバーである。


ここを落とされると、米軍の戦略上、非常に不利となるので、米軍はハワイに温存中の戦力を泣く泣く投入して迎撃を行った。


ただ、天候が変わりやすく元々悪条件な気候のアリューシャン列島一帯の戦闘は、帝国・米国双方にとってからり複雑な展開を辿った。


帝国は正規空母を八隻、米国は同空母五隻を投入した戦闘の結果、帝国は赤城級空母一隻撃沈、大鳳級空母二隻大破の損害を受けた。


一方の米軍は、エセックス級空母四隻撃沈、同空母一隻鹵獲という損害を受けた。


米国側が受けた損害は、予想以上に大きかった。米国にとっての唯一の救いは、帝国側にダッチハーバー占領の意図が無く、輸送船団を伴っていなかった事と、開戦以来自軍を苦しめてきた赤城級空母の内の一隻を、撃沈できた事であった。


もっとも米軍にとって、空母一隻の撃沈に対して四隻を沈められ、一隻を敵に鹵獲された事が割に合う筈がなかった。


帝国は鹵獲したエセックス級空母『イントレピッド』は、すぐさま呉に回航され、連合艦隊に組み込むべく損傷の修復を開始すると同時に、米軍艦船に使われているレーダーなどの機材の技術解析が行われた。


帝国・米国共に、ダッチハーバーを巡る一連の海戦以降、両軍共に大規模な攻勢に出ず、両軍共に貝のごとく守りを固めていき、そのまま年を越した。


45年になり、再び米軍が本格的攻勢に出れる程戦力を回復した頃には、帝国海軍も新たな艦艇を多数進水させ、戦力を充実させていた。

米軍が再度の攻勢に出たのは、45年の5月であった。


再び日米の戦いの舞台となったのは、南太平洋であった。


正規空母一三隻、軽空母七隻を中心に新鋭戦闘機であるF8F『ベアキャット』を主力とする圧倒的な航空戦力を保有する機動部隊は、非常に手強い部隊であった。


更に米軍が南太平洋を戦場に選んだのは、新型四発爆撃機B−29の存在もあった。


米軍は、ガダルカナル島と多大な犠牲の上で奪回したポートモレスビーの両拠点を起点にニューギニアを攻略し、進攻していく戦略を米国は選択した。


迎え撃つ帝国は、米軍がニューギニア方面に攻勢を仕掛けてくると正しく予想したうえで、新たな陸軍部隊の増派や航空戦力の増強を行った。


海軍は、新設の第三機動部隊に新鋭艦の『雲竜』級空母六隻を配備して、トラック諸島へ回航させた。同時にインド洋で通商破壊戦を行い、その後内地に回航された第二機動部隊を、後を追わせる形でトラックへ向かわせた。


6月に入ると、両軍の間で小競り合いが目立つようになってきた。


先に艦隊を動かしたのは、これまで負けっぱなしだった米軍の側であった。


米機動部隊は、ハワイを出港し、太平洋を南下した。攻撃目標は、なんと帝国海軍の『庭』と呼ばれたトラック環礁であった。


米機動部隊は、帝国海軍の空と水中からの哨戒にまったく引っ掛からず、攻撃隊を発進させる事に成功した。


後に米機動部隊による『パール・ハーバーの復讐』と呼ばれた一連のトラック空襲は、これまでの帝国の連勝に冷や水どころか大量の水を喰らってしまった。


環礁内にいた艦艇の内、空母六隻を含む二七隻を沈められ、四十隻を超える艦艇が大なり小なり損傷を負っていた。


幸いにも空襲は2波で終わった。


遅れて内地よりトラックへむけて航行していた第一機動部隊が、トラック空襲を察知し、敵機動部隊に対して攻撃隊を放ったからである。


先のトラック空襲とは区別する為に、便宜上『トラック沖海戦』と呼ばれる海戦は、先のトラック空襲とは正反対の結果を米軍側に招いた。


3波に渡った南雲機動部隊と、米軍の空襲による被害を免れたトラック航空隊の生き残りによる攻撃により、米軍は五隻の空母を沈められ、六隻の空母を大破させられた。


それでも南雲機動部隊の艦載機の実に六割を撃墜し、トラック空襲の戦果を合わせて約五〇〇機を失った帝国の損害は、決して小さいものでは無かった。


この戦闘の後、帝国は早々とトラック環礁を放棄し、ラバウル航空隊を含む各拠点の基地航空隊の縮小と南方各地の拠点を守備する各部隊に自給自足の態勢を整えさせると同時に、マリアナ諸島の要塞化を急ピッチで進めさせた。


元々この世界の大日本帝国海軍は、戦線の不拡大方針を唱えており、これらの事はスムーズに進んだ。


トラック空襲を、最後に手痛い損害を受けたとはいえ一応成功させた米軍は、真珠湾に凱旋した。


ただ、勝利を喜ぶ米国民(当時の米国は、情報統制が敷かれており、南雲艦隊に空母五隻が沈められた事を国民は知らなかった)の反応をよそに、海軍首脳部は今後の戦略に悩まされていた。


米国大統領であるF・ルーズベルトは、これ以上帝国に苦杯を舐めさせられるのを良しとせず、マッカーサー、マーシャル等陸軍軍人とキング、ニミッツ等海軍首脳部が難色を示した中部太平洋の各島嶼を占領しつつマリアナ諸島制圧を目指す進攻作戦を、強行するように求めた。


実際に戦場で戦う部隊を率いる彼等にとっては、今回の作戦はトラック空襲作戦以上に危険な作戦であった。


結局作戦は行われる事となるが、実際に作戦が開始されたのは45年の10月であった。


それまでの間、空軍のB−29を中心とする部隊が東部ニューギニアを中心に爆撃を行い、帝国の目を向けさせた。


いよいよ米艦隊が、多数の輸送船団を伴い真珠湾を出港した。


しかしこの艦隊は、主力ではなく囮の部隊であった。故にこの艦隊は太平洋を南進し、北部ニューギニアのウェワク・ラエの両都市への上陸作戦を開始した。


トラックでの一連の戦闘以後、南方の航空戦力・主要艦艇の引き上げ・再編成が進んでいたためニューギニアを始めとする各島々の全体敵な守備力は、いくら陸上部隊を増強したとはいえ低下していた。故に米軍の上陸を妨害する事ができず、上陸から約2週間続いた戦闘の後に両都市から地上部隊は退却した。一方、主力である機動部隊を中心とした艦隊は、囮艦隊が出港から数日後に真珠湾を出港した。


この艦隊には、作戦の成功を万全とすべく新鋭空母『ミッドウェー』級空母三隻を組み込まれていた。


驚くべきことに、大西洋艦隊に所属していた空母艦載機のパイロット達も多数が太平洋戦線に転属させられ、今回の海戦の戦力の一角として機体されていた。


対する帝国海軍は、修復なった二隻の大鳳級空母を再び第一機動艦隊に配備するとともに、ダッチハーバー近海での一連の戦闘で失った赤城級空母一隻の穴埋めとして空母『英龍』(旧イントレピッド)を同艦隊に配備した。


また、トラック空襲時に大損害を受けた第二・第三機動部隊を解体し、大鳳級の穴埋めとして一時的に第一機動部隊に配備されていた二隻の『剛龍』級(旧インドミタブル・フォーミダブル)空母に、二個機動部隊の生き残りである雲竜級空母五隻と、大鳳級三番艦の『天鳳』を加えた八隻を新たに第五機動部隊として再編し、第一機動部隊とマリアナに配備される海軍航空隊・陸軍航空隊の各部隊、艦隊とともにマリアナ防衛のための要と認識された。


マリアナを巡る戦闘は、双方の偵察機が双方の艦隊を発見した事により幕を開けた。


偵察機に発見された双方の艦隊は、攻撃隊を発進させて、敵艦隊撃滅へ向けて突き進んでいった。


だが、この時帝国海軍機動部隊の艦載機には、多くの変化があった。


まず戦闘機が、全て新型の『雷風』戦闘機に変更された。個の戦闘機は速力・武装ともF8Fを上回る性能を持っていた。さらに、今回の海戦では、第一機動部隊の艦載機全てをこの『雷風』・・・つまり戦闘機としたのである。


母艦から降ろされた艦爆・艦攻は、マリアナ諸島にある各基地に廻され、基地航空隊と共に敵艦隊へと攻撃することとなる。


マリアナ諸島での今回の海戦は、これまでの戦闘を遥かに上回るものとなり、双方共に大きな損害を受けた。


帝国側は第五機動部隊の雲竜級五隻を全部沈められ、更に第一機動部隊の赤城級一隻と翔鶴級二隻を除く、残った空母全てに大なり小なり被害を受けた。


また母艦機を含めた航空機の損害も多く、最初七百機以上いた海軍の基地航空隊は、実に七割もの機体と搭乗員を失い、他の部隊の損害も含めて約五百機の航空機を失った。


この損害は、史実に比べてかなり発展している帝国の経済力・工業力をもってしても簡単に補充する事は難しく、搭乗員の養成にも大きな影響を与えた。


米軍の損害もまた大きかった。


空母の損失は、軽空母も含め僅か三隻であったが、その空母に乗せる艦載機の損害は、帝国側を大きく上回るものとなった。


全体で凡そ千二百機を数えた艦載機は、海戦が終了し、同艦隊が撤退するころにはその数を、約三百機にまで激減させていた。


実に空母艦載機の75%を失ったのである。


だが、これ以後両軍はまともに動くことは出来ず、戦線はニューギニア戦線を除き、再び膠着状態となってしまった。


もっとも、戦闘が継続していたニューギニア戦線は、思いのほか帝国軍側が善戦していた。


膨大な量の補給物資を背後に抱え、その機械化された充実した戦力を相手に、帝国軍はゲリラ戦術を用いた遅滞戦法を採り、米軍のニューギニア島制圧は全く目途が立たなかった。


最終的にニューギニア戦線は、講和による終戦を迎えるまで戦闘を継続しており、同島の要塞化を行い、ゲリラ戦法を駆使した遅滞戦術による長期持久に成功した帝国軍の存在は、米国にとって『目の上のたんこぶ』であったのである。


さて、今回の話も大分佳境になってきた。


マリアナを巡る一連の戦闘は、一度では終わらなかった。


艦隊の航空戦力を、完全に回復は出来ない米軍は、大量の護衛艦艇を揃え、マリアナへの再侵攻を計画していた。


無論今度の進攻には、後方に多数の輸送船団を伴い、マリアナ諸島を占領するつもりであった。


米国は追い詰められていた。


45年が終わった段階で、米国は枢軸同盟に対して負けこんでいた。民主主義国家であるアメリカでは、戦争での負けは当然大統領の責任問題にも発展する可能性もあり、兎に角勝利を欲していたのである。


そのために米国は、同盟国である英国の反対を押し切り、大西洋艦隊に配備されていたエセックス級空母五隻とその他の艦艇を多数回航し、英国本土へ展開中だった航空隊を複数本土へ呼び戻し、ハワイへ送った。


それ程米国は追い詰められていたのである。


帝国側も必死であった。


マリアナ沖での海戦で著しく損耗した航空機と搭乗員の補充に取り組み、必死に再建しようとしていた。


幸いにも、真珠湾以来のベテラン搭乗員が未だ多数存命であったため、搭乗員の養成は順調に進んでいった。この背景には、開戦以来ずっと南方と本土を行き来する商船・輸送船を護衛してきた海上特務艦隊の命を掛けた戦いがあった。


46年の春には、帝国側は再編を終えていた。


帝国海軍は、第五機動艦隊の失った雲竜級空母の補充として戦艦改装の『扶桑』級・『伊勢』級各空母四隻を第五機動艦隊に配備し、同時に主力艦隊の改編を実施し、『大和』級戦艦二隻とそれを上回る『播磨』級戦艦二隻を中心とする第一艦隊第一・第二戦隊を、『剣』級超甲巡4隻を中心とする高速打撃艦隊と称せられる第二艦隊へ編入し、同様の性格を持つ第三艦隊とともに再度マリアナ近海へ向かわせた。

早々と前線へと舞い戻った他の艦隊とは違い、第一機動艦隊は内地で改装作業を長い時間を掛けて行っていた為、バラバラに前線へ戻って行った。


まず以前に大破して本土で修復・改装工事を受けていた加賀級空母が、長い時間を掛けて行っていた機関の改装と、飛行甲板のアングルド・デッキへの改装を終え、他の艦艇よりも一足早く南方のブルネイへ向けて出港した。赤城級空母はエレベーターの換装などを行い、同様の作業を受けた翔鶴級空母・旧米空母の英龍と共に加賀級空母の後を追って出港した。


最後まで残った大鳳級と信濃は、大規模な換装工事を受けていた。飛行甲板を装甲甲板から通常の木製甲板への変更である。


同時に艦内部の改装も行われ、格納庫の拡大により搭載機数の大幅増に成功した。信濃に至っては、司令部機能のさらなる充実の為、艦内にかなり大規模なCIC(戦闘指揮所)を設置した。


結局他の艦艇に比べて1ヶ月近く遅れでの前線復帰となったが、それに見合うだけの価値があった。


復帰した加賀級を含めて十隻に増えた空母が所属する第一機動艦隊は、南方のブルネイで僅か二ヶ月という短い期間ではあったが訓練を行った。

航空隊の練度不足が懸念されたまま訓練を切り上げ、再び第一機動艦隊はマリアナ近海へ向かった。


マリアナ再侵攻の為にハワイへ集結した艦隊は、本土及び欧州戦線からやって来た陸軍部隊・海兵隊を乗せた輸送船団の出港に先立ち、ハワイを出港した。


46年の5月に、マリアナ諸島を巡る戦いは始まった。


前回の戦いに比べて全体的に航空戦力の劣る日本軍は、敢えて米軍をマリアナ諸島へ上陸させる戦略を採った。


マリアナに配備された海軍の基地航空隊と陸軍の航空隊は、マリアナ諸島から撤収して、フィリピンへ再配置した。


一旦はマリアナ近海に配備された連合艦隊の各艦隊は、台湾まで下がり米艦隊の接近へ備えた。


見敵必戦の精神を持つ連合艦隊並びに大日本帝国軍にしては、かなり消極的な戦術であったが、航空戦力の劣る彼らなりの

「負けない」為の戦術であった。


航空機による攻撃や、潜水艦による襲撃を受けることなくあっさりとマリアナ諸島へ上陸を成功させた米軍は、かなり拍子抜けした。


しかし、本当の地獄はここから始まった。


上陸して橋頭保を確保して、前進を開始した途端、マリアナ守備隊の凄まじい迎撃を受けた。


米軍がマリアナ諸島へ上陸してから1週間が経過していたが、マリアナ諸島の占領は遅々として進まなかった。


そして補給物資を満載した大規模輸送船団がマリアナに接近した段階で、マリアナを巡る戦いは、第二段階へ進んだ。


台湾から出撃した連合艦隊は、最大船速で、マリアナへ向かい、攻撃隊を発進させた。


無論米機動部隊も攻撃隊を発進させた。


双方が放った攻撃隊は、両軍に多大な戦果を挙げた。


まず米機動部隊の三波に渡った反復攻撃により、第一・第五機動艦隊合わせて三隻の空母を撃沈され、四隻が飛行甲板を大破させられ航空機の運用が出来なくなった。


一方の帝国側の攻撃隊の戦果は、第一機動艦隊の艦載機が全て艦戦だったこともあり、艦艇の撃沈は護衛艦艇数隻と少なかったが、元々の任務が敵航空機の撃滅にあった為であり、それでも良かったのである。


結局一連の戦闘で帝国側は米機動部隊艦載機の大半を撃墜破し、事実上機動部隊を無力化してしまった。


この報告に驚いたのは、ハワイの太平洋艦隊司令部である。


艦載機の大半を失った機動部隊はもはやお荷物でしかなく、このまま同海域に留まれば、敵の格好の餌食となる可能性が高いため、早々と撤収を開始させた。


一部の空母は、残存機を集めて上陸支援艦隊のエアカバーの為に残ったが、マリアナ諸島の攻略は更に厳しいものとなった。


そして太平洋艦隊司令部の予想通り、マリアナ諸島の攻略は全く進まなくなってしまった。


上陸支援をしていた艦隊に、フィリピン・硫黄島を出撃した基地航空隊と、残存艦艇を再編成して再びマリアナ近海に最接近した機動艦隊の攻撃を受けたからである。


少数になってしまった機動部隊の傘と、鉄壁と自負するVT信管を用いた防空戦術を駆使した米艦隊ではあったが、圧倒的多数の航空機の前には、無力であった。


アイオワ級戦艦を始めとする多数の艦艇を撃沈され、多くの艦艇が損傷した。


何よりアイオワ級戦艦の一番艦である『アイオワ』に旗艦を定めて乗り込んでいたハルゼー中将を中心とした司令部要員が、脱出する暇なく全員戦士した事は、大きな衝撃を与えた。


マリアナ諸島の各島々に上陸した米軍は、合計で10万近い兵力であったが、機動部隊が撤収し、上陸支援に当たっていた艦隊が大打撃を受けた今、非戦況は非常に厳しいものとなった。


結局マリアナ諸島に上陸した諸々の部隊は、その後47年に入るまで戦闘を継続したが、結局降伏することとなった。


この降伏は、米国を含む連合国陣営に大きな衝撃を与えることとなった。


欧州戦線で戦ってきた精鋭部隊が捕虜となったため、連合国の欧州戦線における不利が確定してしまったのである。


47年は、戦況が枢軸同盟にとって非常に有利な状況へと移って行った年代であり、講和への道が急速に開けてきた年でもあった。


欧州では、長い間戦力の拡充に努めていたドイツが、中東及び英国本土への進攻を開始し、帝国はこれまでの積極防衛策を捨て、積極的に打って出るようになった。


この状況に慌てたのはアメリカであった。


英国は、大西洋でのドイツの通商破壊作戦による物資不足の影響で、長期の持久は不可能なのは明確であり、中東の油田地帯への戦力の増強も、帝国が積極的攻勢に出る気配の為に難しくなっていった。


何より合衆国国民が、戦争の終結を望んでいた。


継戦を望む大統領を中心とした政府首脳と軍トップは、ここで無謀な作戦に出た。


残存艦艇を全て用いた日本本土空襲である。


正規空母一五隻、戦艦四隻を中心とした総勢百十七隻に及ぶ実質上の海上特攻であった。


帝国側も当然本土を狙われる可能性について想定していた。


満州方面に展開していた関東軍傘下の航空隊も大半が本土へ廻され、連合艦隊も最低限の戦力を南方に配置した以外は、全て本土防衛の為に回航させた。


47年の3月。


太平洋戦争最後の海戦が始まった。


先手は、帝国側が取った。


小笠原沖に集中配備された潜水艦部隊が、米艦隊に対してドイツ潜水艦部隊直伝の群狼戦術による攻撃を仕掛けた。


戦果は空母一隻を含む七隻撃沈、八隻大破。対する被害は潜水艦六隻撃沈である。


先手を採られた米艦隊は、最初から最後まで運が無かった。トラック空襲時に既に運を使い果たしてしまったのだろうか。


続いて攻撃を仕掛けたのは、南雲大将率いる帝国最強の機動部隊の第一機動艦隊であった。


先の第二次マリアナ沖海戦において赤城級空母一隻と、鹵獲した旧エセックス級空母『英龍』を撃沈され、八隻となってしまっていたが、それでも最強の座にいる事に違いは無かった。


彼の艦隊から発進した攻撃隊により、数少なかったエアカバーの機体も軒並み撃墜され、護衛の艦艇も半数近くが大なり小なりの損傷を受けた米艦隊ではあったが、それでも米艦隊は日本本土へ向けて突き進んだ。


ついに米艦隊に残存する空母部隊の艦載機の攻撃圏内にまで近づいた時には、関東近県の設置された各航空隊の攻撃圏内に入っていた。


空母に残っていた艦載機の全機である三百機が出撃した全力攻撃は、本土防空という使命を帯びた本土防空隊によって全て撃破された。


そして木更津、横須賀、厚木を始めとする各基地から発進した攻撃隊が、一路米艦隊へ向けて突撃した。


最終的に米艦隊は空母七隻を含む五七隻を沈められ、ミッドウェー級空母一隻を含む十一隻を帝国に鹵獲されるという事態になった。


この作戦の結果、多数の艦艇を失った米軍は、終戦を迎えるまで攻勢に出る事は無く、約三万近い将兵を失った事を知った合衆国国民は、これ以後これまで以上に反戦運動を激化させていく事になる。


47年の11月に、オーストラリアのシドニーにおいて、米・英・独・日の四カ国のトップが集まって、会談を行った。


会議の主導権は、独・日の両国が握り、会談を進めていく事となった。


日本国内においては、継戦派がまだ多数を占めていたため、時の首相たる山本五十六に対しても軟弱外交と叫ぶ国民もいたが、天皇が講和を結ぶ事に対して大いに賛成したため、事はスムーズに進んだ。


そして幾度かの交渉を経て、48年の1月7日にワシントンにおいて講和会議が結ばれた。


太平洋・欧州を巻き込んだ二度目の世界大戦が終わった瞬間であった。

如何でしたでしょうか?かなり長い文でしたが、区切りがいいとこまでと考えて書いていたらこんなに長い文章に・・・読者の皆さま特に携帯で読んで下さった皆様には、本当に申し訳ありません。次回は、講和条約の締結から、2000年を迎えるあたりまでのお話になります。今回の分以上に長くなるとは考えておりませんので、次回の投稿を楽しみに待っていただければ幸いです。それではまた。

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