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狂乱モラトリアム  作者: 雨狂 水音
3/5

-3-

 火曜日。


 俺は、休日だからといっていつまでも眠っているのは良くないと思っている。いつも通りの時間に目覚ましが鳴るので目を覚まし、布団の中で軽く伸びをした。




 初の勤務日から2週間が経った。覚える事が多いのに加えてやはり緊張もあり、何だか嫌に疲れている。


 家に帰るなり溜息を吐いてばかりで、当然ながらストレスが溜まっているのだと実感する。冬暁はどうなのだろうか。俺よりもストレスを溜め込みやすそうな性格には見えるが、販売職が好きだと言うくらいなのだから、案外そうでもないのかもしれない。


 今朝は随分寒く感じる、それで一層疲れを感じるんだろう。何となく布団から出る気が起きずに、携帯電話で最新のニュースなんかを眺めながら30分ほど寝そべっていた。




 やがてそれにも飽きたが、二度寝するほどの眠気は無いし、特に用事も無い。俺には、趣味も無い。つくづくつまらない男だと思う。






 昔からそうだ、俺は本当に、物心付いた時からつまらない男だった。


 成績は悪くはなかったが、誇れるほど良くもなかった。成績表は5段階評価で大体3か4、苦手な教科には時に2が付く。素行は真面目だが勤勉というわけでもなく、予習などは殆どしていなかったし、テスト前に少し友人と勉強をする程度。


 今までに好意を寄せてくれた女性は、知っている限りで1人。高校の卒業式に告白されたが、特に好みでもなかったので断ってしまい、その数日後に引っ越したと聞いて、何となく嫌な気持ちになったものだ。


 賞罰も特に無し。趣味は昔から本当に無い、暇な時は何をしていただろうか。小中学生の頃はテレビゲームをしていた気がするし、高校生の頃はバスケ部でだらだらと活動していた。大学生の頃は……よく覚えていない、アルバイトと学校生活が生活の主軸だった。サークルには入っていなかった。


 就職活動の面接の際に困り、趣味は部屋の掃除ですとか言って、実際部屋の中は綺麗にしていた。今でも、まあ比較的マメな方なんじゃないかと思う。部屋が汚くて視界の届かない面積が広いと、何故か悪夢を見やすいというのもある。人に話して共感された事は無い。




 就職活動に限らず自己紹介の際、長所を述べろと言われるのは本当に苦痛だった。


 短所なら幾らでも思い付く。何かと情熱に欠け、面倒事が嫌いで、愛想笑いと社交辞令が苦手で、他人の好意に対して卑屈。自分しか信用していないし、それだって自分が好きだという気持ちに基づくわけではなく、自分は自分に対して何も誤魔化さないからだ。


 とは言え、それらの事は最近マシになってきている気はする。それなりに大人になって、諦めが身に付いてきたのかもしれない。……ああ、それから、服の趣味も我ながら良くない。意識して、柄物を着ないようにしている。


 というわけで、長所は何も思い付かないのである。一般的に、短所は言い換えれば長所だと言う。差し詰め、冷静で合理的で純粋といったところだろうか。が、冷静さにも自信は無いし、合理的だとも思わないし、純粋だなんて自称するのは嫌だった。


 当時の担任に助言を仰ぐと、一前くんは真面目で落ち着きがあると言われたので、まあ確かに不真面目ではないし無暗に騒ぐ方でもないと納得してみた。面接では無難すぎる答えだったし、もっと軽い自己紹介の時には受けが良くなかったが、それが俺なら仕方無いとも思う。実際、それで就職できたのだから、考えてみたら御の字だ。 




 そんなつまらない男を自覚しているが、その程度の小さな事を特別悲観したりする事は無かった。


 ――何より、俺は決定的な問題事を抱えているのだから。






「…………ッ」




 疲れていると、癒しが欲しくなる。普通の事だと思う。その程度が甚だしいかどうか程度で正常異常を測るのも、短絡的だと思う。


 問題は、その発散方法だ。








 起き上がる。糸か何かで引っ張られているかのように、無感情な動きだったろう。衝動に忠実なマリオネット……なんて表現をする辺り、俺は実はナルシストかもしれない。


 ベッドの下の、小さな箱に手を伸ばす。全く普通の段ボール箱だ。綺麗な箱を買ってもいいのだが、今のところはこれで。俺の目は、どうせ箱なんか見ちゃいない。


 中から、剃刀を1本取り出す。持ち手はパープル、切れ味が鋭い割に痛みが少ないのが、俺のお気に入り。使い回すのは不衛生だし、しょっちゅうやってしまいそうなので、毎度使い捨てだ。半年に、1箱まで。


 寝間着の下を脱ぐ。俺の股間はすっかり期待に昂ぶっていて、気付けば息が上がっている。


 早くしろ、と誰かが俺を急かす。そう急かなくても、すぐにやってやる。俺を急かすのは、何者だろうか。――糸が引かれる。




 腿の内側に紅い線が引かれて、血液が滲む。更に息が上がり、その血液を指で拭い取ってみると、熱を持ったところがぴくりと震えた。


 笑みが零れる。どんな顔をしているのだろう、自分の顔を見る事ができない。


 紅く濡れた指を口内に運ぶ。煽るように水音を立ててそれを啜ると、口内に鉄の香りと、独特の味が広がった。少し、甘く感じる。




 耐え切れずに下着を剥ぎ取ると、黒い布に押さえ付けられていたそれを握り込んで、欲望のままに攻め立てた。触れた箇所からどんどん熱が広がって、ずっと射精し続けているかのような、堪らない快楽に飲み込まれる。


 傷口が痛む。見れば血液が伝って、シーツを汚そうとしている。


 勿体無い、シーツになど一滴だってくれてやらない。それをすかさず指で拭い取ってまた啜り、上擦った声を上げながらひたすらに狂喜を貪っていた。口の端から唾液が零れて、それをまた掬い啜ると、血液の味がするような気がした。


 愛おしい、俺の下にこんなにも甘美なものが流れていると思うと。だから俺は、俺を愛していられる。これが例え毒なのだと言われても、毒を食わずに長く野垂れ生きるなら、今すぐ全身の血液を啜って死んでやる。


 目元に熱が集まってきて、視界が滲んだ。顔が熱いのはきっと血液が集まっているからで、こうなるといつも首筋を切り付けたくなるのを、努めて抑えている。ほら、俺は理性にも忠実な、上出来のマリオネットだ。




 傷口を爪で抉って、爪の間に入り込んだ血液まで舌で舐った頃、いよいよ爆ぜそうになる。声が上がりそうになるので強く指に吸い付いて、声を抑えながら最後の最後までそれを堪能する。






「……ッ、ん、……~~っ……!」




 びくびく、と震えた雄が白濁を吐き出して、全身の力が抜けていく。


 以前、体液なら何でも美味しいかもしれないと精液を舐めてみた事があるが、とても美味しいとは思えない。やはり、あの紅色がいいのだ。


 手中に吐き出したそれを、垂れないうちにティッシュで拭い取り、既に乾燥し始めた傷痕を一瞥する。まだ血液が垂れるようであれば味わわなくてはならないが、今日はもう止まってしまった。


 手を洗いに行こう。








「…………はあ……」




 嫌悪感。


 天にも昇るような快楽の代償は、いつも決まって自己嫌悪だった。


 嫌悪感で相殺されて快楽への欲求が消える事もなかったし、あれだけ気持ち良いし誰にも迷惑を掛けないのだからと嫌悪感が消える事も無かった。


 やらなければいいのに。そんな事を言えるのは、きっと冷静な立場の人間だからだ。




 何がマリオネットだ。いかれているにも程がある。


 腿の傷は今更になってずきずきと痛み、毎度の事ながら消毒する度に虚しくなる。周辺には薄くなった傷痕が何本か見える。とはいえよく見ないとわからない程度で、位置もこんなところでは、他人にはまず気付かれないだろう。




 自分が気持ち悪い。


 血を見るばかりか、飲んで欲情するなんて。だから俺は、俺自身の事を浅ましくて気色の悪い人間だと思う。




 まして――他人の血にも、関心があるなんて。






 俺は、所謂ヘマトフィリアだ。


 自分の血液を見る事、嗅ぐ事、塗り広げる事、飲む事に性的な興奮と快楽を覚える。異常の自覚はあるが、受診する勇気も気力も湧かず、今日までこうして、欲望と嫌悪の狭間で生きている。自分を追い詰めて悦んでいる、ある種のマゾヒストなのかもしれない。


 自分の、と言ったが、他人のそれにも大いに関心はある。が、他人のとなるとどうも犯罪意識の方が強く、実行や要求をするには遠く至らない。その点は幾分か健全という事だ。




 そもそも俺は、スプラッターなどの猟奇趣味は持ち合わせていない。痛いのは嫌いだし、逆にサディストでもない。人を傷付けたいとは思わないし、痛そうな顔を見れば恐らく極普通の人並みには胸が痛む。


 それでも、グロテスクな作品を見ると、その血液には興奮してしまう。だと言うのに臓腑の類は正直苦手で、その手の画像をインターネットで見たりすると、気分は悪いのに妙な興奮を覚えるという、妙な状態に陥る。血の面積の割合にもよるかもしれない。




 何よりタチが悪いのは、友人や他人が怪我をした時にでも、心配とほぼ同時に、ぞくりとしてしまう事だと思う。それを舐め取った時の味や舌触りを想像してしまいそうになるのを抑えて、トイレや別室に逃げ込んでいた為、学校ではそういうのが苦手なのだと思われていたと思う。


 高校の時に部活で、先輩と二人だけで練習していたら、彼の顔面にボールが当たって鼻血を出してしまったのを見た時。大丈夫ですか、とティッシュペーパーを差し出しておいて、保健の先生を探してくるとか何とか言って、30分ほどしてから戻った事がある。随分不審がられたものだが、後に血が苦手との誤解を聞き付けたらしく、驚かせてごめんななどと逆に謝られてしまった。


 因みにその30分間とは、鼻血が止まるまでと見当を付けた時間というのもあるが、……未だに申し訳無く思う、俺自身の処理をしていた。手には先輩の血が少量付いていたが、人の血を一度舐めてしまえば癖になるとどこかで見た事があって、惜しみながら手を洗った。熱芯に対して、手指が随分冷たく感じられたと記憶している。




 俺は幸い、今まで大きな事故現場に遭遇した事は無い。


 が、遭遇してしまった時に俺はやはり劣情を催してしまうのかと思うと、今から気が重い。








 さて、消毒を終えたし血も止まった。念の為に黒の綿パンツを穿く事にし、ミントグリーンのカットソーに臙脂のジャケットを着て、簡単な朝食を取った後に買い物に行く事にした。


 (このジャケットはセール品だったが、結構気に入っている。唯、色合わせが難しい)




 夕飯は何にしようか。キャベツを使い切ってしまいたい、炒飯にでもしようか。味噌汁に入れるのもいい。油揚げが残っているし、味噌汁がいいかもしれない。となると何を合わせるのがいいかと考えながら家を出た。


 エデンは1階にすぐスーパーがあるので、買い物は楽だ。さっさと買い物や夕飯の支度を済ませて夕方からはゆっくりしようと適当に卵などを籠に入れていると、何やら見覚えのある金髪が視界に入る。




「十時さん」


「あ、一前くん。おはよう、早起きだね」


「早起きだねって。10時過ぎですよ、今。普通でしょう」


「あはは、ぼくって夜行性だから。いつも10時なんて、そろそろ起きないとなー、眠いなーって思ってる時間だもん」


「そうですか」




 なるほど、バンドマンは夜型のイメージがある。いや、そういうわけでもないが、言われてみれば納得する。


 ……そう言えば、この人も何か変わった性癖や趣味を持っているんだろうか。これまた偏見だが、音楽や芸術に携わる人は、どこかしら変人というイメージがある。


 隣を歩きながら、夕飯何にするのー、朝は何食べたのー、なんてにこやかに問い掛けてくる十時さんに、好奇心が湧くままに問い掛けてみた。勿論、そんな露骨な聞き方はしないが。




「……十時さんは、どうしてこのアパートに決めたんですか?」


「え? えっと、家賃も安いしさ。変わった人が多いって聞いて」


「知ってて来たんですか。……変わってますね」


「あはは、そりゃこのアパートに住んでられるくらいだもん。一前くんだってそうでしょ」


「確かに」




 我ながら無礼な事を言ってしまったと思ったが、十時さんは気にした様子も無く、棚からクッキーの箱なんか取って、バター味とチョコレート味を見比べていた。


 そのバターの方美味しいですよ、と助言すると、そっか、じゃあ両方買おうと結局両方を籠に入れていた。




「実はね、ぼくって狭いところがすごく好きで。格好良く言うと閉所愛好って言うのかな。だから住んでられるのかも」


「閉所愛好?」


「そう。小さい頃からなんだよ」






 十時さんが言うには、物心付いた頃から狭い場所が好きで、家具の隙間に入ってはそこで眠ってしまったりしていたようだ。狭いところの方が落ち着くというのは、確かに理解できなくもない。


 とはいえこんなアパートにいるからには、生半可な愛ではないのだろうと思っていると、部屋の中に大きなクローゼットを置いているのだと言っていた。バンドメンバーが来る度に、邪魔だの大きすぎるだの言われているようだが、そこに閉じ籠って曲や詞を書くと相当捗るらしい。


 確かに、それは少しばかり変わっている。冬暁と同じく、人に害をなさない程度だが。


 一前くんはどうなの、と聞かれてから、自分から話を振った事に後悔した。こういう思慮の甘いところも俺の短所だと思う。自分ではわかりません、と言って濁すと、人に言われないと気付かない事ってあるよね、と笑って流してくれた。




 十時さんは最後にCD-Rを籠に入れて、レジへ向かっていった。俺も他に買うものは無く、隣のレジで会計を済ませる。見ると、十時さんのジーンズのポケットからは音楽機器らしきものが覗いて、イヤホンのコードが短く垂れていた。流石に店内では外すらしい。


 ……改めて、あのバンドのあの人には見えない。サイトの写真はこう、如何にも重厚な雰囲気を醸し出していたのに、会計を終えて、お待たせなどと手を振る十時さんはどちらかというと可愛い部類だ。化粧というのは怖い。








 共にスーパーを出ると、階段に向かう。2階と3階を隔てる階段のところで、それじゃあまたと挨拶を交わすと同時、廊下の方から高い男の声がした。




「こらミライ! あーお兄さん、ちょっとそいつ捕まえてください!」


「え、」




 見れば、小さな黒猫がこちらに向かって駆けてくる。咄嗟に足を伸ばして道を阻もうとしたものの、猫はそんな俺を嘲笑うようにひらりと飛び越えて、にゃあんなどと鳴いている。


 猫は、十時さんと俺の、丁度間。十時さんがじわじわと距離を詰めてからばっと捕まえようとすると、今度は彼の股下をくぐって、猫は逃げていった。




「あーもー、あのバカ! どーせ腹減ってんだろ、よし、マグロで釣ってやる……」




 そこで漸く声の主を確認する。もしやと思ったが、やはり三葉だ。


 どうしたんだ、と今更な問いを投げ掛けると、まあこの状況から言って当然だが、飼い猫に逃げられたらしい。このアパートがペット可だったのかどうか知らないが、飼っているという事は良いのだろう。禁止だとしても、別に密告する気も無い。


 あっ、あんなところに、と声を上げる十時さんにつられて下を見ると、ミライとやらは道路の真ん中に呑気に寝そべっている。まったく猫というのはなぜあんなにマイペースなのか、危ない事この上無い。


 心配になったらしい十時さんがまず駆け下りていって、猫をひとまず歩道に追いやる。続いて三葉が、マグロの猫缶をほぐして温めたらしいものを持ってきた。何となくいい匂いだ。


 階段を下りながら聞いてみると、ミライというのは猫の名で、そのまま未来から取っているそうだ。何というか、三葉らしい。






「……よーしよし、おいでー」




 三葉が皿を片手に、ミライに近寄っていく。ミライはやはり腹が空いていたのか、みゃあと甘ったるい声を上げて、少しずつ近付いてくる。


 が、猫なんていうものは思い通りにはいかない。あともう少し近付いてくれば一息に捕まえられそうな距離、ここから手を伸ばしたら逃げてしまうであろう距離まで歩み寄ってきたものの、そこからはにゃあにゃあと鳴いているのみで、一歩も寄ってこない。


 皿を手にした三葉が「ミライちゃんおいでー」「おいミライ」「クソ」などと安定しない態度で呼び掛けながら、腰を突き出して皿を構えているのが、何だか滑稽で笑えた。見ると十時さんも笑っている。




「何笑ってんすか、オレは真剣なんすよ!」


「いや、悪い……っふふ」


「あーもー、こうなったら無理矢理ふん捕まえて……」




 本気かどうかわからないが、そんな態度では捕まるものも捕まらないだろうに。


 三葉は、ちょっと持っててください、と十時さんに皿を委ねると、袖を捲り始めた。何やらブローチの付いた黒のカーディガンの下にピンクのTシャツを着ている姿は、やはり今風で洒落ているのだろうが、彼のファッションは真似たいと思わない。


 そうする間十時さんが腰を屈め、「おいで」と優しい声音で呼び掛けてみている。






「あ」


「あ」




 俺と三葉が、同時に声を上げた。


 ミライは十時さんの呼び掛けに素直に応えて皿まで近寄り、すんすんとマグロの匂いを嗅いでいる。そこを十時さんがすかさず抱き上げると、にゃーと濁点交じりの声を上げたが、逃げはしないらしい。


 十時さんが「ごめんね、後で三葉くんに貰ってね」と言いながら耳下を撫でると、ミライは少しおとなしくなった。




「おいミライ! お前何なんだよ、オレの前でそんなおとなしくすんのメシの前と眠い時だけじゃん! っていってえ!」




 三葉が不機嫌そうに近寄ってミライの腹を撫でると、ミライは三葉の手に噛み付いた。口調の割にそんなに乱暴に撫でていたようには見えない、きっと単に見下されているのだろう。


 おかしくなってまた失笑してしまい、また「何笑ってんすか!」と言われたが、この格差は正直見ていて楽しい。


 それに、ミライ自身も、三葉の事が嫌いなのではない筈だ。もー、と不貞腐れながら手を伸ばす三葉の腕に案外すっぽりと収まって、未だ苛立ちの空気を漂わせる三葉と裏腹に、穏やかそうに目を閉じている。




「すんませんでした。マジであざっす!」


「あはは、三葉くん、あまりいじめちゃだめだよ」


「いじめてねーっすよ! オレがいじめられてんでしょ寧ろ!」


「どうだかな」


「一前さんまで! ……でも二人とも猫好きなんすね、嬉しいっす」


「ああ、」






 適当に相槌を打ったが、猫好きではない。正直なところ。


 十時さんが嬉しそうに「猫も好きだし犬も好き、鳥も好き」などと語り、二人が猫談義に花を咲かせているのを聞きながら、揃って各々の部屋に向かった。








 ……俺は、猫はあまり好きではない。


 いや、嫌いではないのだが、積極的に関わりたいとは思わない。




 話は随分過去の事に戻る。


 俺は元々――それこそ幼稚園に通っていた頃かその前から、血を見るのが好きだった。特に切欠も無い。幼稚園児ともなればよく遊んでいて、転んで怪我をしたりする度に、自分の傷口をじっと見つめてしまっていた。胸を高鳴らせていたわけだ。


 夏月くんは泣かないで我慢できていい子だね、と言われていたが、何故泣くのかわからなかった。消毒液は染みて痛かったが、それ以上に傷を見ているのが楽しかったのだし。


 寧ろ、止血されてしまった後の方が悲しい気持ちで、よく自分で絆創膏を剥がしてしまっては、母に叱られていた。




 小学生の頃、何が切欠だったのかは忘れたが、傷ではなく血液が好きな自分自身を自覚した。そうして指先を鋏で切っているところを母に発見され、酷く悲しそうな顔をされたものだ。その頃から、自分は異常なのだという事を薄ら理解し、人には言わずにいた。


 中学生になってオナニーを知り、同時に、血液に性的興奮を覚える事を自覚した。それなりに親しい友人はいた筈だが、勿論、誰にも言わなかった。






 小学生の頃から、俺の実家で猫を飼っていた。白い猫で、白は米、米はヨネという事で、ヨネと名付けた。今になって思うと、俺とその家系には、ファッションセンスどころかネーミングセンスも無い。


 本当に可愛がっていて、毎日一緒に遊んでいた。ヨネの為に、おもちゃも作ってやった。小学生低学年の頃は、ヨネに食事をやるのは自分だと言い張っていて、代わりに父や母がやってしまうと、ずっと拗ねていたらしい。


 中学生になった頃には薄らどころか、自分の嗜好がおかしいと完全に自覚した。そしてその頃に、ヨネが死んでしまった。


 死因は、交通事故だったそうだ。俺はその死体を見ていない、母に聞かされて知った。


 ショックだった。……ショックなのは当然だが、死んだ事と同じくらいショックだった事がある。






 ヨネの死に様を見られなかった事を惜しむ気持ちが、何よりも先に来た事だ。




 言うまでも無く、看取ってやりたかったなどという、人情に溢れた理由ではない。


 あんなに愛した飼い猫の、大好きだったヨネの、綺麗な白い毛皮の下に流れる血液を見たかったと。そう思ってしまう自分が本当に気持ち悪くなって、涙も出なかった。




 その日、ヨネが死ぬ夢を見た。


 血がたくさん出ていた。グロテスクなものは見えなかった。忘れているだけかもしれない。


 ――目が覚めると、夢精していた。






 凄まじい嫌悪感が襲ってきて、トイレに駆け込むと、その前の晩から何も胃に入れていないというのに、嘔吐した。


 そこで、泣いた。色々な感情が一気に溢れてきて、あんなに激しく泣き喚く事は、先にも後にもあの日だけだと思う。……そうして、俺は、もう諦める事にした。


 そこで、自分と向き合って改善しようと思えなかったのは、元々の俺の性格がいけないのか、何処かで何かを失ってしまったのか。


 もしかしたら許してほしいのかもしれない、認めてほしいのかもしれないが、誰にかと聞かれるとわからない。例えば医者に掛かって、あなたは異常ではありませんと言われたとしても、霊媒師を呼んで、ヨネが許してくれていると言ったとしても、俺は自分の事を心底から愛せそうにはない。


 我ながら、おかしな気持ちだ。それでも、自分の性嗜好に関する嫌悪感だけは、くっきりと輪郭を持って、いつでも俺の中にある。








 色々な事を思い返していたら、少し疲れた。


 剃刀の箱に手が伸びそうになる俺自身に吐き気を催しながら、ジャケットを脱いでベッドに伏した。












- Episode3 Fin. -

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