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――大学を卒業して、2週間ほどが経った。
20XX年、この不況の中、在学中に無事就職先が決まり、某都心部のスーツ販売店販売員として働き始める事になった。ゆくゆくは店長やマネージャーになり得る仕事らしい。別段販売職に憧れがあったわけでもないが、待遇や企業理念を見て、まずまず理想的な職に就く事ができたと思っている。
俺はつい昨日このアパートに越してきた。会社の近くで家賃がそこそこに安く、その割に部屋も綺麗だというのが決め手だった。10畳のワンルームで、狭すぎず広すぎず、特に凝った趣味も無い身としては寧ろゆとりがある。
さて、今日知った事だが、転居届というのは本来引っ越しの前に出すものらしい。昨日は部屋のレイアウトや何かで慌ただしく動き回っており、今日は挨拶回りに行こうと思っていたのだが、となれば転居届を先に出しておこうと思う。
そもそも、挨拶回りに行こうにも、菓子折りのようなものを買っていなかった。初めての引っ越しだからと言って抜けすぎだと、我ながらこの先が不安になる。溜息をひとつ吐いてから、菓子折りを買いに行きつつ転居届を出しに行く事にした。
「……一前夏月、さんね。読み仮名も書いてくださいね」
「あ、はい。イチマエナツキ……と」
女みたいな名前だとよく言われる「夏月」だが、何となく風情があって俺は結構気に入っている。それでも役所の男がじろじろと見てくるのには落ち着かず、隠すようにして読み仮名、続いて新居名を書いた。
「コーポ・エデンの園ね……」
「…………」
だから、何だってこんなに見るんだろうか。そう文句も言ってやりたくなったが、気持ちはわかる。ここに入居する事に決め、両親にアパート名を伝えた時も、変な名前だと言わんばかりの顔をされたものだ。
もう少しマシな名前は無かったのだろうか。入り口に掲げられているプレートがりんごの形になって妙な洒落っ気を出しているのが、何となく腹が立つ。隣家に住んでいる大家はどうも気に入っているようだが。
因みにエデンの園――フルネームで言うから恥ずかしいのかもしれない、以降はエデンと呼ぼう。エデンの1階はスーパーマーケットになっていて、クリーニング店と簡単な喫茶コーナーも設置している。アパートの部屋は風呂トイレ付きであり、生活には不便が無い。
諸々の書類記入を終え、道すがら見付けていたデパートに立ち寄る。
エデンには部屋は10しかない、全員に挨拶回りに行けるだろう。俺が住む事になったのは、スーパー横の階段を上がって2階の、最も階段に近い部屋だ。2階には5部屋、階段を上がって3階にまた5部屋あり、合計10部屋というわけ。
10畳ワンルームに家族で住んでいるような人は稀だろうし、ちょっとしたクッキーの詰め合わせなんかでいいだろう。うっかり10箱買いそうになったのを1箱棚に戻して、会計を済ませた。
デパートから出て顔を上げると、寒い冬の名残を残した空が高く澄んでいて、リフレッシュしていけるような気持ちに少しばかり高揚する。隣人が変人でなければいいのだが。
エデンに戻る頃には、日が傾き掛けていた。会社勤めの人はまだ戻っていないかもしれない、いる人にだけ挨拶に行こう。
自分の部屋から順に回ろうと、隣の部屋の扉の前に立った。――表札には何も書かれていない。大家が、俺の部屋が最後の一部屋だと言っていたので、空き部屋だという事は考えられない。留守なのだろうかと考えながら、インターホンを押してみる。
……やはり出ない。それなら先に他の部屋から回ろうと、更に隣の部屋へと足を踏み出した時。
「……あのう。何かご用ですか?」
後ろから声を掛けられて振り返ると、グレーのスプリングコートを着た男が、戸惑ったように俺を見ていた。
身長は俺――180㎝と同じくらいだが、割と華奢な印象だ。くすんだ暗い茶髪が、綺麗な白い肌と明るい青の瞳をよく引き立てて、彼の高身長さえ無関係に、繊細なフェミニンさを感じる。
片手には、和菓子の店の大きな紙袋を提げている。
「あ、すみません。昨日引っ越してきましたので、挨拶回りにと思いまして。宜しければこれ、召し上がってください」
「そうなんですか。オレも昨日引っ越してきたんです、そんなご丁寧に、お気を使って頂いて……」
彼は、紙袋を腕に提げ直すと、俺が差し出した菓子折りの箱を両手でしっかりと受け取って、すまなそうにぺこぺこと礼をしていた。本当に女みたいな男だ。
とにかく俺が変人でないと知って安心したのか、気弱そうに眉を下げて笑いながら、彼も袋から箱を出してきた。
「あの、オレからもこれ……宜しければ。今後お世話になるかとは思いますが、宜しくお願いします」
「ああ、ありがとうございます。こちらこそ宜しくお願いします、……一前夏月です。あなたの隣の部屋に住む事になりました」
「え! じゃあお隣さんですね。あの、オレは二谷冬暁です。……ああ、そうだ、表札付けないと……」
第一印象のみで判断するのもなんだが、二谷は善人そうに見える。こういう男は夜中騒ぎそうにも見えないし、隣人には適しているのではないだろうか。
良かったら一緒に挨拶回りに行きませんか、と二谷が言うので、そんな挨拶回りがあるだろうかとは思ったが、一応承諾した。別に拒む理由もないし、変なのがいた時にもふたりの方が気が楽だ。
二谷の隣の部屋に行くと、表札には「三葉」と出ていた。姓にも名にも取れるが、恐らく前者だろう。大家が、表札に名前を出すのが嫌なら、苗字だけでも出しておくと郵便配達員が苦労しないから、と言っていた。名前だけ出すようなのはまず考えられない。
この部屋は、インターホンを押すと、間も無く扉が開いた。
「はーい」
「こんにちは。先日引っ越して参りました、201号室の一前です」
「あ、その隣に引っ越して参りました、202号室の二谷です」
「わー、ご丁寧にありがとうござっす! オレは三葉直実っていいます、宜しくお願いします!」
態度こそ無礼でもないのだが、口調はいかにも若者と言った感じだ。恐らく年下だろう、腰で引っ掛けたジーンズとラメプリントのTシャツが若者らしい印象を引き立てている。
チョコレートのような色の茶髪は外跳ねにされており、そこから覗く左右のピアスとカシスレッドの瞳、満面の笑みが相俟って元気そうに見える。この笑顔は恐らく、差し出された菓子折りが嬉しいのだろう。ひなげし堂のお菓子だあ、などと嬉しげに箱を眺めている。
「おふたりはお友達同士とかなんすか? わくわくの新居生活っすね」
「いや、そういうのじゃないですよ。今日逢ったばかりです」
「そうなんすね。あ、たぶんオレの方が年下だし、敬語とかいいっすよ」
既に口調が乱れている。三葉曰く、このアパートには変わったのが多いから、若干馴れ馴れしいくらいでも親交を深めておいた方が良い気がする、との事だ。これだけ狭いアパートなら、相手が人見知りでもなければ、そういうものなのかもしれない。
「お幾つなんですか」
「オレっすか? ハタチっす。大学生でーす」
「あ、じゃあやっぱり俺の方が年上か。それじゃ遠慮無く」
「……ええと、オレも年上かな。今22歳だから」
「俺も22だ。じゃあ、俺達も敬語とかはやめましょうか」
「え! あ、は、はい! うん! ……へへ、良かった、いい人達と知り合えて……」
二谷も三葉も、嬉しそうににこにこしている。三葉くらい積極的な相手だとこちらは距離を測らなくていいし、二谷のようにおとなしいのも友人にするには丁度いい。
――噂に聞いていたアパートの様子とは、だいぶ異なるようだ。
他にも挨拶に行かないといけないから、とその場を離れ、隣の部屋へ向かう。表札には「四ノ宮」と出ている。これはどう見ても苗字だ。少しばかり軽くなった気がする紙袋の感覚を片腕にインターホンを押す。
返答が無い。念の為もう一度押してみたが、やはり返答は無かった。代わりに、少し先から太い男の声がして、そちらへ視線を向けた。
「何してんだ、あんたら」
「うわッ! いいいいやあのあの、あの、怪しい者じゃないんですう、ひ、引っ越してきましたのでご挨拶に伺いまして……」
「……引っ越しだ? あんたは」
「あ、俺も引っ越しの挨拶です。たまたま隣室なので、一緒に回っているんです」
平然と答えたものの、内心では心臓が早鐘を打っていた。
奥の「五城」と書かれた表札の部屋から出てきた男は、俺より10㎝は上であろう長身であり、逞しい首筋と胸筋を肌蹴たシャツの中にちらつかせて俺達の事を見ていた。
日に焼けた肌、オールバックにした青っぽい色の髪、声質に合致した鋭いつり目。赤の光沢があるシャツに、ストライプのスーツ。所謂「関わってはいけない人種」の匂いがして、視線を合わせるのも外すのも躊躇われた。
結局地面を見ているばかりになってしまったが、窺うような視線に耐えかねて、取り敢えずさっさとこの場を収めようと菓子折りの箱を差し出した。
「……201号室に越して参りました、一前夏月と申します。宜しくお願いします」
「あ、あの、二谷冬暁と申します! 202号室に越して参りました、よ、宜しくお願いします!」
「……何ビビってやがんだよ。俺は五城美鷹。適当に頼むわ」
伸ばされた手から煙草のような匂いがして、そんな事にまで威圧感を感じる。これだけで立ち去るのも何だが話す事も無いし、正直、早いところ退散したい。二谷を横目に窺い見ると、やはり何ともいづらそうに縮こまっていた。
と、タイミング良くと言うか頭上から声がして、すぐに顔を上げた。
「四ノ宮サンなら夜まで帰ってこねえよ。忙しい人だから日中は大体いねえし、今日の21時過ぎとかにまた来りゃいいと思うぜ」
「あ、りがとうございます……」
スムーズに礼を言ったつもりなのだが、口が渇いて張り付いたようになってしまい、上手く声が出なかった。
俺は仕事行くから、と立ち去って行く五城に、気が動転して「いってらっしゃい」などと声を掛けてしまい、彼が立ち去った後も暫くその場で鼓動が落ち着くのを待っていた。
「……び、びっくりしたね……でも、親切な人だったよね」
「……そんな怯える事無いだろ。こっちが何もしなきゃ、ああいう人だって何もしてこないと思うし」
冷静になってみるとそう思えてくる。自分以上に怯えているのがいると逆に冷静になれる心理かもしれない。
悪い人間ではない筈だ。ああいう男は案外いい奴だとかいうのが、ドラマやなんかでは定石ではないか。半ばそう思い込むように思考を切り替えて、階段を上り、3階の住民に挨拶に行く事にした。
3階の最も階段寄りの部屋――俺の部屋の真上に位置する部屋には、表札が出ていなかった。さっきも言ったように、空き部屋という事はまず有り得ない。
一応インターホンを押してはみたが、応答が無い。やはり夜にならないと勤め人は帰ってこないのかもしれないと、先にその隣の部屋に向かった。表札には、「七森」と書かれている。
「はい」
また随分と童顔な男が出てきた。二谷が女顔、三葉が若者顔なら、この七森とかいうのは、本当に子供のように可愛らしい顔立ちをしている。恐らく年下だろう。身長は俺より、10㎝ほど低いようだ。
「先日201号室に越して参りましたので、ご挨拶に伺いました。一前夏月と申します」
「二谷冬暁と申します。隣人の縁で、こうして一緒に回っているところです」
「あ、……お忙しい中、ご丁寧にありがとうございます。七森遊歌と申します。1階上ではありますが、アルバイトで帰りが遅くなってしまったり、何かとご迷惑をお掛けしてしまうかもしれません。こちらでもなるべく配慮しますので、宜しくお願いします」
正直、驚いた。この童顔と、彼が今着ているピンク色のTシャツの印象から、もっと、何と言うか、社会に慣れていない感じの言葉遣いを想定していた。
彼の自然な茶髪は天然パーマなのか緩やかにカールしていて、明るい茶色の瞳に俺達を映した。そうして礼儀正しく頭を下げ、両手でしっかりと箱を受け取って礼をする。――躾が良かったのだろうか。
この腰の低さからか、どことなく二谷に似た印象を受けた。二谷もそう思ったのか、にこりと笑んで声を掛けている。
「……アルバイトをされているんですか?」
「はい。この通りを行った先の書店に勤めています」
「あ、そこ、オレよく行くんですよ。もしかしたら、今度見掛けるかもしれませんね」
「そうですね。お恥ずかしいところを見せないように、しっかり働きます」
あはは、と笑う姿が本当に幼く映る。言葉の端々まで洗練されきった――というほどではないものの、言葉の選び方にやはり育ちの良さを感じた。
その点が少し気になったが、いつまでもここにいるわけにもいかない。適当に挨拶をして、何となく和んだらしい二谷と共に隣の部屋へ向かった。
3階の真ん中の部屋は、八重咲という名の表札を出していた。何となく綺麗な名前だ。
インターホンを押してみたが返事が無く、不在3人目ともなれば再度鳴らす気も起きずに次の部屋へ行こうとした、のだが。
「はーい。どちらさん」
暫く経った後に、マイペースそうな声が聞こえた。進め掛けた足を止めて303号室の前に戻ると、扉が開いた中から肌の黒い長髪の男が出てきた。何だかエキゾチックな雰囲気だ。瞳の色は南国の海のように鮮やかな、エメラルドを思わせる緑色だった。
お決まりの挨拶をして箱を手渡し、また眼前の男を観察する。何だろうか、何だか違和感がある。
肌も黒ければ髪も真っ黒で、緩くウェーブした背中まである髪を、簡単にひとつにまとめている。無精髭と、ベージュ色の地味なシャツの所為で老けて見えるが、実際は30代半ば程度かもしれない。
「……うん? 何見てんだ、何か付いてるか?」
「いや……」
「はは。気になるならそう言やいいのに。コレだろ?」
男は、これ、と言って自分の右瞳を指さした。そこには左と同じようにエメラルドグリーンの瞳があるのみだが――
――言われてみてわかった。
「あっ」
「それとも髭か? ま、無精髭は男の勲章みたいなもんだと思って見逃してくれや」
飄々として軽薄そうに笑うその男の右瞳は、焦点がこちらに向いていなかった。よく見てみると、もう一方のそれとも色合いが何となく違う。聞いてみると、やはり義眼であるようだ。
俺は、そうだったのかと笑って返せるような性質でもないし、かと言って変に謝罪するのも失礼だ。二谷も似たような事を考えたようで、えっと、えっとと暫し口籠った後に妙な事を口にした。
「……あの。見えるんですか、それ付けると」
「ん? あっはっは、見えたらいいなぁ。そうしたら、何回目が無くなっても大丈夫だな」
「す、すみません……」
何回無くなっても、などという表現にぎょっとしたが、割と気の良い男であると思う。あまり深く関わると話が長くなりそうだが、同じアパートに住むにあたって、五城さんのようなのよりは安心できる。
まだ挨拶回りが終わっていない事を告げて立ち去ろうとすると、彼は両の瞳を細めて笑った。
「名乗り遅れちまったな。俺は八重咲雅喜。こう見えて、宝飾デザイナーだ。宜しくな」
「あ、宜しくお願いします」
名前を聞いていなかった事をすっかり忘れていた。宝飾デザイナーの仕事について八重咲さん自身は「こう見えて」と言うが、見るからにそういったデザイン系の仕事に携わる人間だ――と俺は思う。
二谷が軽く挨拶を済ませるのを待ってから、改めて隣の部屋へ向かおうとしたところで、背後から新しく聞く声がした。
「こんにちは、八重咲さん……と、……?」
「お、九瀬ちゃん。昨日引っ越してきたんだってよ、一前ちゃんと二谷ちゃん」
ちゃん付けはやめてほしい。内心そう思ったが、初対面、まして年上の人間相手にいきなりそんな事を言うのも躊躇われ、九瀬と呼ばれた男に軽く会釈と、同じような挨拶をした。
「そうだったんですね。僕は九瀬桔梗といいます。今後宜しくお願いします」
知的ではあるが、つんとした雰囲気のある男だった。年齢は同じくらいか少し下かだろう。彼は人当たりを良くするよう意識しているのであろう薄い笑みを俺達に向けて、軽く頭を下げた。
髪色は暗い黄色というか、光の加減でところどころ黄色く見える、不思議な髪色だった。長い前髪は分けてはいるが片目に掛かり、銀縁の眼鏡を覆っている。衣服は学生服を思わせる白いシャツに明るいグレーのセーターを着て、それがまた知的な雰囲気を醸し出していた。
俺達が箱を差し出すと九瀬さんは両手でそれを受け取って丁寧に礼を紡ぎ、片手に持っていたスーパーの袋にしまってから眼鏡のブリッジを押し上げていた。
「ご丁寧にありがとうございます。甘いものは好きなので嬉しいです」
「それは良かった。……学生さんなんですか?」
「ええ。2年ほど前まで入院していたので、今は定時制の高校に通っているんですけどね」
「入院?」
「あ、はい。結構体調を崩したり怪我をしたりしやすくて……不幸体質っていうのか……」
「それじゃあ一人暮らしは大変じゃないですか? それで高校に通いながら……偉いですね」
「慣れれば気楽なものですよ。何かあった時は、八重咲さんも助けてくれたりするし」
俺と九瀬さんが話しているうちに興味を持ったらしい二谷が瞳を丸めると、彼は少し嬉しそうに笑って視線を伏せた。
聞くと21歳らしい、俺達よりひとつ下だ。それを告げると、なら敬語は結構ですよとまた笑っていた。顔立ちこそ冷たい印象があるものの、九瀬の表情は案外にこやかだ。
八重咲さんの様子を見ると相変わらず緩い笑みを浮かべていて、何となく父子のようにも見える。実際、年齢はそう離れていないだろうが。
何やら夕飯のメニューの話を始めた八重咲さんと九瀬に軽くまた挨拶をして、最後の305号室へ向かう事にした。
「……何だか、結構まともな人が多いな」
「あはは、一前クンって面白い事言うね。まともじゃない人がいたら怖いよ」
「そうだけどさ」
「五城サンもきっと話せばいい人だと思うし……たぶん」
そういう事を言っているんじゃない。二谷は知らないんだろうか、このアパートの噂を。
知らないなら知らないでいい、噂が嘘であればそれが一番いいのだし。そうだな、と適当に返し、305号室のインターホンを押した。表札には、Totokiと出ている。
「はい」
「あ、……こんにちは。先日201号室に越してきましたので、ご挨拶に参りました。一前夏月と申します」
然程待たずに出てきた男に二谷も同じように挨拶をして、残り3つになった箱のひとつを差し出した。そろそろ挨拶も飽きてきた、住民が10人程度で良かったと思う。
彼は、片耳から垂れていたイヤホンを引き抜くと、わあと瞳を輝かせて嬉しそうに礼を言った。恐らく俺達と同じくらいの年齢…だと思う。身長も俺より少し小さいくらいだ。
ロックバンドか何かやっているのだろうか、明るい金髪ではあるが、根元は黒髪の所謂プリンヘアになっている。前髪をセンター分けにして広く示した表情はにこやかで、自前にしては明るめの茶色い瞳と、口元のピアスが気に掛かる。
衣服もまたバンドマンらしくというか、洋楽の有名なバンド名が書かれた黒いTシャツに、細身のジーンズを穿いている。眉は短く揃えられており、それがまた若者らしさを助長していた。
「……バンドか何かされてるんですか?」
「え! あ、ぼくの事ご存知ですか!? 嬉しいなあ! 初めてです、わかってもらえたの!」
「あ、いや、知りませんけど……バンドマンっぽいなと思って」
「何だ、そうなんですか……でもバンドマンってわかるってすごいですね! あ、もしかしてこのシャツですか? いいですよね、このバンド!」
「……いや、そのバンドもあまり聴いた事ないですけど、その髪色とかピアスとかが何か」
正直に言うと、あまり頭が良くないのかもしれない。何気無く二谷を見ると視線がかち合い、同じような事を考えているのだろうなと思う。悪人には見えないが、少し天然気味なのだろう。
「そっか、なるほど……あ、挨拶ですよね。ぼくは十時蜜柚樹っていいます。適当に呼んでください」
「宜しくお願いします」
「それで、ご察しの通り、ベースやってます。Ertrinkenってバンドなんで、興味があったら聴いてみてくださいね。ホームページで試聴とかできますから」
エアトリンケン。聞き慣れない単語だが、十時さんが言うにはドイツ語らしい。ロック音楽は嫌いではないので、帰ったら聴いてみようと思う……覚えていれば。
何気無く分けた髪から、左右の耳にピアスが光るのが見えた。右にひとつ、左にふたつ。ピアスをたくさん開けているとなると、何となく激しめなロックバンドのイメージが浮かんでくる。
話してみるに、26歳らしい。4つも年上だというのに、正直、言われてみてもそう見えない。
「挨拶回りはぼくで最後ですか?」
「301号室の方と、204号室の方に逢えていないんです。あとは全員に挨拶しましたよ」
「そうですか……四ノ宮さん忙しい人だからなあ。六辺さんはどうしたんだろ? 寝てるのかもしれないです」
「そうなんですか。いつ頃なら起きてるかわかりますか?」
「さあ……結構マイペースな生活してる人なんで。別に逢えた時にでいいと思いますよ……あ」
十時さんは、すみません、と尻のポケットをまさぐり、振動する携帯電話を取り出した。メンバーからです、という十時さんに軽く礼をして、すまなそうに軽く頭を下げる彼の部屋から離れた。
「何か疲れたな」
「そうだね……ちょっとだけ個性的な人が多いからかな。どうする? あとふたりだけど」
「204号室の人は21時頃にまた行こうと思う。それまで、Ertrinkenだっけ。あれ聴いてみようと思ってる」
「あ、じゃあオレも聴こうかな。……携帯からでも聴けるかな、インターネットまだ繋がってないや……」
「なら、俺の部屋で聴かないか? 事前に頼んでたから、俺の部屋のは繋がってる筈だ」
「え、いいの? ……嬉しいな。お言葉に甘えて、お邪魔するね」
何気無く言っておいて、すぐに内心後悔した。挨拶回りで疲れた、少しひとりの時間を持てば良かった。
とはいえ、隣人と親しくしておくのも後々の為には大切かもしれない。あまり片付いてないけど、と前もって告げ、部屋に招き入れる事にした。実際、足の踏み場が無い程汚くもないが、二谷の部屋は小奇麗なイメージがあるので、何となく気恥ずかしい。
パソコンを起動する間に珈琲を淹れて出した。二谷は甘党な印象があって砂糖とミルクを付けたが、二谷が入れたのはミルクだけだった。甘いものは苦手なのか、と聞くと、そういうわけじゃなくて気分なのだと微笑んでいた。
「ねえ、一前クン」
「……くん付けとかしなくていいよ。適当に呼んでくれ」
「うーん……でも、どう呼んだらいいのか……」
「……夏月とかでいい。俺も冬暁って呼ぶ」
「うん!」
嬉しそうに輝く冬暁の瞳は、本当に綺麗な色をしていた。薄藍色とでも言うのだろうか、高い空を思わせる、鮮やかな青色だ。
両親の遺伝なのかと聞いてみようかとも思ったが、コンプレックスだったりすると気まずい事になるので、今はやめておいた。――やがて、PCが起動した。
無事にインターネットを使う事ができるようだ。検索サイトを開くとエアトリンケン、と入力し、上から2つ目に出てきたオフィシャルサイトらしきものにアクセスする。1つ目はネット辞書だった。Ertrinkenとは、ドイツ語で溺死という意味らしい。
Ertrinkenのオフィシャルサイトは、トップにまずバンドロゴらしい黒のマークが出ていた。背景は黒で、何やら重々しい雰囲気だ。
コンテンツ名もドイツ語になっているのか、俺にも冬暁にも読めなかったが、マウスオーバーで和訳が出た。試聴してみる他にプロフィールも見ておこうと、メンバー紹介と記された、薔薇がワンポイントになっているアイコンをクリックする。確か、十時さんはベースをやっているとか言っていた。
所謂、ヴィジュアル系という部類のバンドのようだ。4人組のバンドで、全員が派手なメイクと衣装を纏い、それらしい名がついている。Bass.yukiと書いてあるのが十時さんだろう。本名の蜜柚樹からとってyukiなのかもしれない。
……十時さんに事前に言われていなければ、このサイトを見ても彼だと気付かなかったかもしれない。ストレートの綺麗な金髪は外跳ねにされて、瞳の周りを黒い化粧品で囲み、瞳はコンタクトであろう白色になっている。印象が、全く違う。
すごいねえ、と感嘆の声を漏らす冬暁に、ああ、とだけ返して試聴もする事にした。
曲調も、いかにもロックバンドと言った感じだ。音楽には然程詳しくないが、メタルっぽい要素もあるような気がする。歌詞はよく聞き取れなかったが、何だか抽象的で物語的な感じだった。
「……ヴィジュアル系か。こんなメイクしてる人でも、プライベートだと結構普通なんだな」
「そうだね……ちょっとびっくりしたなぁ」
本当に、びっくりした以外の言葉が出ない。次に逢った時に感想を求められても、それ以外の言葉が出てこない気がする。
折角だからとその後はすべてのコンテンツを見て回り、それから一旦家に帰るという冬暁を玄関先まで送って、そこでまた少し話をしていた。
「今日はありがとう。ひとりだと緊張しちゃうから、夏月が一緒にいてくれて助かった」
「大袈裟だな。……まあ、隣同士だし、これからも宜しく。ところで、冬暁はどうしてここに越してきたんだ?」
「オレは仕事で。新社会人ってやつなんだ、ここって職場から近いからさ」
「あ、そうなのか。俺もだ。新社会人として、お互いがんばろうな」
「うん。それじゃあまた……」
何となく他にもわけがありそうな感じだったが、追求するまでもないと思った。それに、この時刻にドアを開けっ放しにしているのはまだ肌寒い。
また何かあれば、と話を切り上げる事にして扉を閉めかけた時、誰かが階段を上がってくる音がした。
今日まだ逢えていないどちらかかもしれない。俺達は顔を見合わせると、菓子の入った袋を持って階段の方へ視線を向けた。仕事帰りのところに渡すのもどうかと思ったが、忙しい人間なら、家に帰ってからもやる事があるのかもしれないし、今渡しても構わないだろう。
足音の主はこの階で止まり、こちらへ向かってくる。となると、204号室の――四ノ宮さん、という人だろうか。
とはいえいきなり出て行くのも驚かせてしまうかと悩んでいると、相手の方で気付いて声を掛けてくれた。
「こんばんは。……あ、もしかして、引っ越してきた方ですか?」
「あ、はい……え? どうして知って、」
「大家さんから伺ってましたので。今日辺りに、空室が無くなると」
「そうなん、ですか……」
そうなんですか、と返す言葉の途中、思わず息を飲んでしまった。
――アパートの灯りで照らされたその男は穏やかそうに微笑んでいて、日常から一線離れたところにいるような印象だ。柔らかい茶の髪と、髪色に合わせているのか茶のスーツが、その印象を引き立てている。
が、そのスーツの左袖の部分は、中身に何も入っていない事を表すように不自然に垂れ下がっていた。
「……あ……」
「え? ……ああ。すみません、驚かせてしまいましたか。先日まで連休を頂いていたもので、今日はうっかり装着を忘れてしまったんです」
装着、とは義腕の事だろう。あはは、と笑う姿はやはりにこやかで悲愴感は無かったが、見ている方が何となく気になってしまう。あまり気にするのも失礼だろうと、努めて気にしすぎないようにはしているが。
「私は四ノ宮夜洋と申します。宜しくお願いしますね」
「……あ、はい。一前夏月と申します。これ、つまらないものですが」
「ああ、わざわざありがとうございます。美味しく頂きます」
「あの、202号室の二谷冬暁と申します。宜しければ、こちらも」
「ありがとうございます。仕事の後は甘いものが食べたくなるので、嬉しいですね」
聞いてみると、四ノ宮さんは三十路目前のプログラマーなのだと言っていた。何気無く聞いた社名は相当有名なもので、彼のにこやかさが重厚にさえ見えてきた。何というか、平和的で優しい笑みというより、本当にゆとりのある者の笑みといった感じだ。
不在にしていて不便を掛けたかと聞いてくれた四ノ宮さんに、五城さんに帰宅時間を聞いていたと告げると、彼はまたにこりと笑った。冬暁はというと、四ノ宮さんの穏やかさにリラックスしていたようだが、五城さんの名が上がった事でまた少し肩を強張らせていた。
「そうでしたか。五城さんにもお礼を言っておかねばなりませんね」
「……ご、五城さんも大変ですよね……こんな時間にお仕事なんて。何の仕事なんだろう……」
「五城さんの仕事はバー経営ですよ。行ってみれば、歓迎してくれると思います」
「バーか……い、行ってみるのは遠慮しておきます」
「ふふ。お酒は好きじゃないのでしょうか」
冬暁は単に五城さんが怖いのだろう。正直、俺だって怖い。そのバーとか言うのも、正直、変な場所なのではないかと勘繰ってしまう。まともそうな四ノ宮さんが勧めて……というか紹介してくるくらいだから、そんな事は無いのだろうが。
そんな俺達の気持ちを知ってか知らずか、四ノ宮さんは、仕事がありますので、と三葉の隣の部屋に入っていった。彼が立ち去った後の通路は、不快にならない程度極仄かに花のような香りを残していた。洗練された都会の雰囲気に、ほうと溜息が零れる。冬暁も同様のようだ。
携帯電話の時計を見ると、20時をだいぶ過ぎていた。301号室の人は帰っているだろうか。最後にまた301号室に行ってみる、と冬暁に声を掛けると、それならオレも行くと、残り1箱になった袋を抱え直していた。今度こそいると良いのだが。
3階に上り、301号室のインターホンを鳴らす。すぐには応答が無く、もう一度鳴らしてみたところで、中から気怠そうな男の声がした。引っ越してきたので挨拶がしたいとドア越しに告げると、人の向かってくる気配、続いて扉が開いた。
「……はァーい。どーもォ」
「……っ、…………あ、」
思わず上体を引いてしまった。初対面の人間に対して、そんな態度を取るのがどれほど失礼かはわかっている。それでも、扉の向こうから出てきた男を見れば、きっと大体の人間が、少なくとも内心ではそういった感情を抱くだろう。横目に見た冬暁も、何か言いたげに俺を見ていた。
青白くて、生気を感じさせない肌。無造作に伸ばし放題にされた、白髪交じりの灰っぽい黒髪。着古して首元が伸び始めたカットソー。髪の間からちらちらと覗く口元は不穏ににやついていて、目元も大きく窪んでクマを作っている。極め付けに、頬もこけて、首筋や手の甲も痛々しく骨張っていた。
不健康そうな印象の割に身長ばかりはある、俺より6、7cmは高いだろう。俺は情けなくも畏縮して背を丸めてしまったが、早く挨拶をして帰りたい一心もあり、ふと見上げると男と目が合った。灰色に濁った瞳は、ありきたりな表現をすれば死んだ魚のようで、俺の生気まで吸い取られるような感覚にぞわりと身の毛がよだった。
「……あ、の。……に、201号室に越してきました、一前夏月と申します」
「ンー」
「……オレ、……あ、お、おれ、は、その隣の、二谷冬暁です……宜しくお願いします」
「あー。……ん、自己紹介なァー。おれはァ、……あー、六辺境平。ま、宜しくねェ」
親しげな口調ではあるがどこか現実を見ない感じで、会話のテンポが合わない。俺の本能が、彼は関わってはいけない人間だ、と全力で警笛を鳴らしていた。五城さんとは、また別の意味で。
六辺さんは腰下まで伸びた髪をばさりと空間に泳がせて、俺と冬暁を交互に見比べ、ふうん、と声を出した。続いて俺を見てにやりと笑い掛けてくる様にまた畏縮してしまったが、六辺さんはそれを気にした様子も無く、差し出しっ放しになっていた箱を漸く受け取るとこう言った。
「あー。もしかして、王子様かァ。上がってよォ、きったないとこだけどさァー」
「は?」
「ほら、魔女が来る前にさァ」
「ちょっ、」
俺の片腕を掴もうとする細い腕から咄嗟に逃れ、気が動転して「人違いです」と口走ってしまった。我ながら何を言っているのかと思ったが、それが功を奏したらしく、何だ、と残念そうに溜息を吐くと俺を捕まえるのを諦めてくれた。
渡した箱を掲げて、これありがとう、と間延びした口調で言う六辺さんに、挨拶もそこそこに半歩距離を置く。六辺さんは扉も閉めずに部屋の窓際に向かったかと思うと、窓を大きく開けた。……換気だろうか。
鍵掛けた方がいいですよ、と、聞いているのかいないのかわからない六辺さんに声を掛けて、扉が閉まりきらない程度に押しやって2階へと戻ってきた。
「……何か、こう言ったらなんだけど……怖い人だったね」
「ちょっとな……。何だったんだ、王子って」
「あ……それは、たぶん……」
俺達の部屋の前で空になった紙袋を畳みながら冬暁と話していると、冬暁は、何だっけと口籠った後に思い出したように口にした。
「……あれじゃないかな。ラプンツェル。魔女が来る前にって言ってたし、窓開けてたのもそれでじゃないかなって」
「ラプンツェル? あの、塔から髪を垂らしてる女の話か」
言われてみるとそんな気がしないでもないが、ますますわけがわからない。年齢の推測がしづらい容貌ではあったが、30は悠に超えているだろう。そんな年で童話ごっこ? いよいよ危ない人間のようだと、今更ながらに寒気がする。あの時捕まっていたら、どうなっていたのだろうか。
何だか疲れた。
今日は熱めのシャワーを浴びてさっさと寝ようと思考を巡らせていると、冬暁が何か言いたそうに俺を見ている。
「何だよ」
「う、ううん……あのさ、さっき……の事なんだけど、もし本当にラプンツェルだったら……六辺さんの部屋に夏月が行ってたら、どうなってたのかなって思ってさ」
「どうなってたって何だよ……」
「ほら、ラプンツェルって、……あの。女の人が、王子様と……身体を重ねる話だから……その、何度も……」
ぎょっとした。俺は童話やなんかには詳しくない方で、ラプンツェルという話も、塔から髪を垂らした女が何だかんだで男と結ばれる、という程度しか知らなかった。
俺が王子役という事は無理矢理どうこうされる事は無いのかもしれないが、そんな目で見られていたと思うと下半身が縮こまる思いがする。いや、俺が男としてどうこうされる可能性も否定できないではないか。ああ見えて力が強いのかもしれないし、身長は少なくとも俺より高い。
俺を見て何となく恥ずかしそうに頬を赤らめる冬暁が、また不気味だった。一体何を想像しているというのか。こいつはゲイなのだろうか。
済んだ事は考えたくない、と言い捨てて俺の思考を中断すると共に冬暁の思考も中断させ、適当に別れの挨拶をして俺の部屋の扉を開けた。おやすみ、という冬暁の声は、どこかすまなそうな色を含んでいた。俺の不機嫌が滲んでしまったのかもしれない。おやすみ、とこちらから返す言葉をなるべく親しげに繕い、安堵の空気を背に感じながら部屋に入った。
部屋に入ると、更に疲れが噴き出してきた。ベッドに伏せばそのまま動く気力の無いままに眠ってしまいそうで、先にシャワーを浴びる事にする。3月の夜はまだ寒くて、熱い湯が肌を打つのが心地良かった。
社会人になるに当たって短く切った黒髪を掻き上げ、溜めておいた湯に浸かる。ふう、と溜息を吐き出しながら、今日逢った人達の事を思い出していた。
二谷冬暁。女性的ではあるが、穏やかで優しそうな男だ。俺と同年齢で、新社会人らしい。このアパートの中では随分まともそうだし、これから親しくしていきたいものだ。
三葉直実。大学生らしくというか、いかにも今風の若者といった感じで、少々調子の良いところがありそうだ。まあ、悪い奴には見えないのだが。
四ノ宮夜洋。片腕を失っているという悲愴感も無く、ゆったりとしていておとなの余裕を感じさせる、上品な印象だ。仕事面でも有能そうな人物に見える。
五城美鷹。何と言うか、口にするのが憚られる職の人のイメージだ。実際はバー経営者だとの事だが。人柄自体は悪人には見えないが、彼についてはまだ何とも言えない。
六辺境平。彼は、エデンの中で、最も関わってはいけない人間だと思う。窓の外には今、髪を垂らしているのだろうか。何となくだが、仕事は何をしているのかが気になる。
七森遊歌。童顔にそぐわず礼儀正しい、正にまともの代名詞のような人間だ。まともすぎて、正直それ以外があまり印象に残っていない。
八重咲雅喜。異国的な雰囲気のある、若おじさんといった印象だ。親しみやすそうではあるが、反面面倒そうでもある。隻眼で、不便を感じる事は無いのだろうか。
九瀬桔梗。彼もまた、まともそうだ。真面目で誠実、知的といったイメージがある。どうでもいい事だが、九瀬という苗字は小奇麗で少し羨ましい。
十時蜜柚樹。天然でマイペースな男だ。悪人には見えないが、善人というのも憚られる。ヴィジュアル系バンドに対する認識が、俺の中で少し変わった。
何だかんだ言って、こうして思い返してみると、そこまでおかしいのはいないように思う。
噂で聞いたところによると、このアパートにはもっと変人が多くてもいいのだが――
コーポ・エデンの園。一部の人間の間では、ちょっとした噂になっているアパートだ。
交通の便はそこそこ良く、部屋も清潔で、勿論欠陥住宅という事もないし、幽霊が出るとかいうわけでもない。それなのに、家賃は相場より結構安い。その理由は、住民に問題があるという話。
エデンに住み続ける事のできる人間はどこかしらが変わっており――そうでない人間は、不思議とこのアパートに住み着かないという噂がある。身内の病気やら転勤やらで、一月と経たずに越してしまうのだそうだ。
俺はまず、その話の真偽が気になっていた。気になっていたとはいえ単に好奇心であり、どちらでも構わなかった。嘘であれば、こんなに安くて質の良いアパートに住めて有難い事だし、本当なら本当で構わないと思っていた。人を殺すほど変なのはいない筈だと。
……まあ、こうしてみる限り、信憑性は低い。冬暁、七森、九瀬やらが今日から一月以内にまとめて越せばその噂も本当かもしれないが、そもそも七森と九瀬は俺達より随分前から住んでいる筈だ。
四ノ宮さんや八重咲さんだって、身体の欠損くらいで変人扱いされる謂れはないだろう。本人は色々不自由な事もあるかもしれないが、それは決して異常というわけではない。
まあ、いい。本来住居とは、平穏に暮らせる事が何よりだ。
そんな事を考えていると、少しのぼせてきた。もうあと十数日で初出勤だと思うと、期待と不安が胸を占める。住人の事もだが、仕事の事も考えなくてはいけない。はあ、と改めて大きく息を吐き出すと、湯船から立ち上がった。
これからの生活、どんなものになるのだろう。
そして、俺のコンプレックスである性嗜好――ヘマトフィリアは、新生活のプレッシャーの中で少しは収まってくれないだろうか。
- Episode1 Fin. -