僕を旅行に連れてって 2
ホームでじたばたする俺を、頭のおかしい奴だと判断したのか、ただ早く帰りたかったのか、一緒に降りた他の人は足早に改札を抜けていった。
俺は悄然としてその後を追った。
相変わらず、彼は俺の隣を歩いている。
「ねぇねぇどこかに連れて行ってよ~」
休日の父親にねだる子供のようだが、こいつはれっきとした『旅心』という妖怪。
人間ではないのだ!
俺は恐る恐る聞いた。
「…君って、他の人に見えてるの…?」
「ん?見えないんじゃない?だって生まれたばっかりで弱いみたいだから」
「見えないのか…」
ということは、やっぱりさっき俺は一人でカバンを振り回して奇声を発する不審者だったわけだ。
辛い。良かった通報されなくて。
改札を抜けた俺は家へと歩みを進めた。
「君はどうしたら俺から離れてくれるのかな?」
「あれっひどいこと言うね!」
「誰が好きで妖怪に憑かれたいと思うんだ!?」
「僕って害が無い方だと思うんだけどなぁ」
「俺は迷惑だ!」
「んー多分。僕とおじさんの旅心が解消されたら離れるんじゃないかなぁ」
「自分のことなのになんでそんなに曖昧なんだ!?」
「だって生まれたばっかりだし…僕、おじさんが初体験だし…」
「その言い方やめろ」
「だから、できるだけ早く旅行に行こうね!それまで僕、おじさんと一緒にいるから!」
「はぁ…!?」
宣言通り、彼は俺の部屋に上がり込むと、ちょこんと椅子に座った。
俺の部屋は安アパートの2DK。ちとぼろいがバストイレ別。街を離れれば好物件はあるものだ。
「本当にずっと一緒なのか…?」
「諦めてよぉ。できるだけ大人しくしてるから!」
にこっと笑う顔は可愛いが、問題はそこじゃない。
「俺は独身の喪男だ。こんな子供との付き合い方なんてわからないし世話もできない!」
彼はきょとんと首を傾げた。
「独身って何?」
「け…結婚してないってこと」
さらに質問は続く。
「喪男って何?」
「…もてない男ってこと…」
さらに続く。
「もてないって何?」
「異性に…女性から好かれないってことだよ!」
まだ続く。
「おじさん彼女いないの?」
「いないわぁぁ!!」
「あっおじさん!泣かないで!」
俺はひさしぶりに泣いた。
これだけの会話でものすごくえぐられた気がする。
純真無垢に聞いてくるから余計に傷が深い。
「俺はもう寝る…」
もう何もかもわすれて寝よう。時刻はすでに真夜中だ。
布団に潜り込んだ俺を、彼は覗き込んできた。
「ご飯は食べないの?」
「食欲ない」
「ふうん。じゃあおやすみ。おじさん」
「おやすみ…」
俺は目を閉じると、すぐ寝入ってしまった。
どうか起きたら全て夢でありますようにと願いながら…。
だが、彼は朝から現実をつきつけてきた。
「おじさん!朝だよー!!」
「う?ん?うわあぁぁ!?誰だお前!?お前は昨日の!!ぎゃああああ!」
「おじさん、うるさい!」
「うるさくもなるわ!てか何時だと思ってんだ!」
「えー?もう朝じゃないの?明るいよ?」
「まだ五時じゃないか…もう少し寝かせてくれよ…」
「ふうん。ねえねえ、今日はどこに行く?」
「俺は仕事だよぉぉぉ!!」
布団の中で叫んだ俺に、むっと唇を突き出して彼が言った。
「えっじゃあ僕といつ旅行に行ってくれるの!?」
「えぇ~…すぐに行けるわけないだろ~…」
「じゃあ!そのへん歩くだけでもいいから!」
「はぁ~!?」
「ねぇ早く!」
ぐずぐずと布団にこもって六時までは粘ったのだが、ついに俺は追い立てられるように出かける準備をさせられた。
会社に行くためのスーツに着替えると、深いため息をついて玄関を開ける。
うきうきで外に出た彼は、はたと立ち止まった。
「あ、おはようございます」
「おっおはよう、ございます!」
挨拶をしてくれたのは、隣に住む地方出身の女子大生だった。
元々、お姉さんと一緒に暮らしていたのだが、転勤があったようで今はこの娘だけになっている。
なかなか可愛らしい顔をしたお嬢さんだ。
普段は生活時間帯が合わないのか、滅多に顔を合わせることが無い。
今、彼女はゴミ捨てをしていたようだ。
朝から可愛い女の子に挨拶されるのも悪くないなと思っていたら、彼がにこにこと笑っていた。
「おじさん。機嫌治った?」
「な…な…俺は別に…」
「照れなくていいのにぃ」
「うるさい!行くぞ!」
俺はひとまず駅へ歩き始めたのだが、彼はそれを遮るように立ちはだかった。
「な、なんだよ…」
「もー!いつもと同じ道じゃ旅にならないでしょ!?」
「はぁ!?通勤が旅になるわけないだろ!」
「旅とは!」
「は?」
「旅とは、住んでいる所を離れて、よその土地を訪れること!」
「え?は?」
「だから!ちょっと知らないところに行くだけでも旅になるの!」
「…ということは?」
「今日は、隣の駅まで歩いてみよー!!」
「えぇぇめんどくせぇ!」
「ほらほら行くよぉ!」
彼は俺のことなどお構いなしに走り始めた。
そんな彼に、俺は叫んだ。
「そっちは反対だぁ!」
渋々、俺が彼に付き合って歩いていると、ぐごごと腹が鳴った。
朝食をとる暇もなく連れ出されたのだから当然だ。
コンビニでもないかと探しているのだが、探すと無いものだ。
駅に行けば売店があるだろうと思っていると、彼がふらりと角を曲がった。
「おい、そっちは遠回りになるんだが」
「もう。こうしてふらふら歩くのもいいもんだよ。時間あるでしょ」
「これだけ早い時間に出てきたから、まぁ時間はあるんだけど」
「じゃあこっち!こっちに行こう!なんかいいものがある気がする!」
「は~!?」
『旅心』にとっていいものってなんだと考えていると、どこからかいい匂いが漂ってきた。
香ばしくて、腹が絞られるようないい匂い。
彼の弾むような後姿を追ってもう一つ角を曲がると、白い漆喰壁に、オーク材のドアと窓枠のこじんまりとしたパン屋が姿を現した。
「こんなところに…!?」
驚いて足を止めると、彼はくるりと振り向いた。
「あ、気になる?」
さっきまで歩いていた道は、数回通ったことがあったが、パンの匂いなんてしなかった。
どうやらここまで近づかないと匂いは届かないらしい。
中では、もう忙しそうに店員が動き回っている。開店は七時。
俺はスマホを見た。あと十分くらいだ。駅まであと歩いて十分。
うーんまぁ大丈夫だろうと開店を待つことにした。
外でぶらぶらとしていると、近所の人だろうか、おばあちゃんが二人パン屋に並び始めた。
「あったかくなってきたわよね」
「そうね~」
なんていいながら店の中を覗いて、店員に手を振っている。
店員のお姉さんはにこっと笑ってドアを開けた。
「ええっと、俺もいいですか」
声をかけると、店員さんはどうぞーと迎えてくれた。中に入ると、いっそういい匂いがする。
中はあまり広くない。出ているパンは焼き立てのものもある。
俺は彼を振り返った。
「なんか、食べたいものある?」
「え?僕はいいよ」
「なんで?」
「だって食べれないし」
彼はけろりと言い切った。そういえば昨日も何も食べていなかったような気がする。
「そ、そうなのか?じゃあ、俺の分だけ買うか…」
「そうしなよ」
彼はそのまま興味深そうにパンを眺めていた。
俺は歩いて食べられそうなパンをいくつかお盆にのせると会計を済ませた。ついでにと昼食も買うことにしたので計五つだ。
いくらか買うと、サービスでコーヒーが無料だったのでありがたくいただいた。
熱いコーヒーをすすり、パンにかぶりつきながら隣の駅へ向かう。
「ねぇ、美味しい?」
「あ?あぁ…」
彼は嬉しそうに俺に聞いた。なんだかこのパンを一緒に食べられないことが残念だと思ってしまった。
「ほら、ちょっとした旅だったでしょ?」
満足そうに笑う彼を見て、俺は曖昧に笑うしかできなかった。
(確かに、ちょっとあのパン屋はめっけもんだったな)
それからすぐ駅に着いて、それでもいつもより早い時間に電車に乗ることができた。
一本違うだけで少し込み具合が違うものだ。
なんだが、ふっと気が抜けたように窓の外を眺める。もう景色はいつもと同じなのに、何故少し穏やかな気持ちになっているのか、わからなかった。
だがその気分も、街に近づいてくるとあっという間になくなった。
鬼のように混み始めたのだ。結局、朝のラッシュから逃れることはできなかった。
仕事は、やっぱり今日も残業だった。くたくたに疲れた体を電車の座席に埋めると、俺は彼を見つめた。彼は本当にずっと俺の近くにいた。
街に行ったら話しかけるなと言っておいたのに、彼はお構いなしだった。
「なんでこんなに人がいるの?」
「ねぇ、この機械は何?」
「ねぇねぇ、あのおじさんはなんで偉そうなの?」
こんな風に、しょっちゅう質問してくるのだから仕事に集中なんてできない。
でも明日からの週末は、久しぶりに連休だった。奇跡的に明日の案件が無くなり、休みにしようかと社長が言ってくれたのだ。ありがたい。
だから、ビールでも買ってぐうたらしようかと思っていたのに。
「明日と明後日、休みだって!」
彼は目をキラキラさせながら俺を見ている。
「え…そうだけど…」
「だったらー!旅行、行けるじゃん!」
「朝付き合ってやっただろ!?」
「あれだけじゃ満足できないよぉ!お願い!」
指を組んでうるうる見上げてくる顔は可愛いが、そう簡単にいかない。
「あのなー急に旅行の計画なんて立てられるわけないだろ?」
「え?できるよーなんとかなるもんだって!」
「宿とかとらないとダメだろ」
「そこは僕の力を信じてもらわないと」
「はぁ?何ができるんだよ」
「ほらー朝もやったでしょ?なんかいいものがある気がするってパン屋に案内したじゃない」
「偶然じゃないのか?」
「おじさん失礼だよね。妖怪を舐めないで欲しいな」
不機嫌そうな顔をした彼と目が合った。
俺の目の前にいるのは不貞腐れた顔をした可愛い小学生男子…そうにしか見えない。
「その顔で言われても説得力ないな…」
「もーとにかく、帰ったらタブレット貸してよね!」
「それは覚えたんだ…」
「現代っ子だから」
「えぇ…」
俺は深いため息をついた。