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トイレの中、便器の上。

作者: 七生


 冬がもうすぐ終わるという。関東では、桜はとうに散ってしまっていて、何だか北国に住む私は置いて行かれてしまったみたいだ。

 北海道の桜は遅い。そして、関東のものよりも控えめで、どこか寂しい。

 五月、ゴールデンウィーク辺りからが見頃だろう。私の地域ではジンギスカンをする。これは結構何にでも当てはまり、花見をはじめ、子供の運動会や、海水浴なんかでもジンギスカン、伴い焼肉を行う。

 しかしお花見の記憶など小学校低学年の一度きり。それに今はピクニックや、近場の旅行など何処か遠い話にある。

 洗濯物を畳んでいた私は、スマートフォンの着信音で我に返った。

 頭の中は、子供の頃思っていた通り綺麗とは言えない山桜がまばらに広がっていて、夢現にテレビの前に座っていた。

 ソファにどかりと寝転ぶ(たくみ)が、ガラステーブルの上に置かれた自身のスマートフォンをちらりと見た。それから嬉しそうに電話に出ると、

「おう!久しぶり!」

 先程まで瞳の半分も開いていなかったくせに、と思いながら、人のことは言えないような気がして、残り少なになった洗濯物のシャツをせっせと畳んだ。

「ママー。遊ぼーう」

 テーブルに張り付いて塗り絵に興じていた娘がこちらに笑顔を向けるので、私も精一杯の笑顔で

「ちょっと待ってね」

 我ながら見ても大雑把に畳んだ洗濯物を抱え猫のアンバーが進む足に纏わりつくのに格闘しながら、寝室へ向かった。

 背後になる電話の声を聞きながら、頭の中は山桜から福澤諭吉に切り替わる。

(今月は、古くなった革靴が買えそうだったのに‥‥‥)

「うん。招待状は来ていたよ。でも‥‥‥ああ。覚えているよ。先月かな?店に来てくれてさ‥‥‥」

 私は寝室の、書類置きの奥に残しておいた結婚式の招待状を取り出した。(数ヶ月も前に届いていたのに、巧は一目見て放置していたものだ)

 ふぅ。

 なるべく溜息を短くし、それを箪笥の上に置き衣類をしまった。

「なあ。おぅーい」

 彼は私の名前を呼ばない。それは私も同じで、元々交際していた時から苗字で呼んでいたために、気恥ずかしくて変えられないまま今じゃ、パパとママだ。

「はーい」

 努めて明るく、私はクリーム色の封筒を持ち、重たい足をなるべく軽快に聞こえるようにリビングへ戻った。

「なあに?」

 巧が申し訳なさそうに、

「結婚式、行ってもいい?」

 自分は決して行きたくないですよ。ただ、誘われて断れないから、仕方なくですよ。という顔だ。

 聞かれるだろうと分かっていたのに、それでも、私は上手に笑うことができなかった。何故だろう。

「‥‥‥‥うん。いいんじゃない」

 誘っている友人との電話中に返事を聞かれて、はたしてNOと言えるだろうか。私には無理だ。

「でも、返信の日付過ぎているのよね。それだけ確認してみてね」

 内心、思ってしまうのだ。

(あぁ。捨ててしまっておけば良かった。)

「ママ―。おやつー」

 私は更に重たくなった体で、冷蔵庫からプリンを出した。

「ねえパパ!りっちゃんここに行ってみたい!」

「えー、嫌だよ。遠いもん」


 大体月曜日の午前八時、私はトイレに籠る。

 とてつもない、漠然とした不安が車輪のごとく思考を掻き回す。大勢の人が行き交う場所にいるように息が詰まった。喉がろ過装置にでもなったかのようで、呼吸がスムーズに行えなくなった。

弱い自分が大嫌いだった。何も出来ない自分が嫌だった。嫌なものが嫌だ、と言えない自分がもどかしかった。

 巡って還ってくるのは慌ただしい不安の渦。顔がしょっぱい。


 結婚式まで約二週間。巧の資格試験まで約三週間。

 試験の一週間前に、彼は他所の人の、私の知らない過去の友人の結婚式へ行くという。気がかりなのはそこだ。

 巧が同じ試験を受けるのは、今年で、既に片手を越える数だ。受けては落ち、受けては落ちた。難関だということは知っているし、ある程度勉強して頑張っているのも知っていた。それでも、出費は痛い。受験だけでも三万はかかった。それに交通費だって、バスじゃあ大変だろうとJRで考えていたのに。結婚式に行かれてしまっては、その日のために残しておいたものが半分以上持っていかれる。

 ボロボロの革靴を新調して、スーツの小物や何かを買い替えてあげられると思っていたのに。

 私達は結婚式をしていなかった。彼も私も、今時の若者のように必要ない、という意見で一致していた。それと、巧の母親が身体的な事情を抱えていたためだった。

 だから不満は無かった。テレビの中で、フリーペーパーで、知り合いのウェディングドレス姿でさえ、羨望の対象にはならない。そうだ。私は別に、ああいうものに、憧れてなどいなかった。 

 試験の一週間前に遊びに行くということだけで、私の中にあった応援という気持ちが、風に吹かれる砂のように消えていくのが分かった。同時に、私に流れる茶色い砂がどんどん範囲を大きくし、私を覆ってしまうような気がした。


 その日は、慌ただしい朝だった。普段は朝の九時になんて起きない巧が早起きし、口では面倒だのなんだの言いながらスーツに袖を通すのを横目に感じながら、私は洗濯をして、洗い物をして、料理をして、必死に自分の心を感じないよう気を張っていた。

 娘はいつもと違う巧の様子にはしゃぎながら、鏡の前で、二人でポーズを作っていた。

「ママ。格好いい?」

「うん」

 嬉しそうに、髪型を整えて私の元へ見せに来た巧が、鬱陶しい蚊のように思えた。

 妻ならば、褒めなければいけないのか?絶賛しなくてはいけないのか?一週間後には、五年連続で受験に失敗している試験なのに、いいのか?

 脳内で溢れ出る言葉を飲み込んで、私は卵焼きの美しさだけを求めた。

 そんな私にあたふたしながら、巧が私にキスを求めるので、私は形通り返した。

「結婚式ってさ、長いよね。それに二次会、三次会に出ないと怒られるんだよ?」

 丹念に卵の具合を確認していた手が止まった。何回か唾を飲み込むと、瞼にぎゅっと力を入れた。

「そうなんだ」

 まだ三分の一もあった卵液をすべてフライパンに流しいれてくるくると巻いた。まな板の上で雑に切り、娘の好きなキャラクターの顔になっている大皿に、トマトとウィンナーを一緒に盛り付け、娘の前にてきぱきと並べた。白米に娘の好きな納豆をかけ、ピンクのコップに麦茶を入れ、着席を促した。

 娘は嬉しそうに、まだ拙い言葉で

「いったきます」

 豪快に食べ始めた。

 私はトイレへ急ぎ、便器の上で膝を抱えた。外に聞こえないように。何処から見ても幸せな、家族の朝の団欒の隅に隠れて、泣いた。

 トイレの中、便器の上で、私は声を殺して泣いた。自分自身、たかがこんなことで、と考えた。私は普通ではないのかもしれない。ならば巧だって、普通ではないのだと言い聞かせた。

 冷たくなった手をうっすら広げ、呼吸を整え、小さく呟いた。

「あたたかーい‥‥‥あたたかーい‥‥」

 トイレのオレンジ色の電球が首筋ばかりに熱を与える。

 リビングから楽しそうな娘の声と嬉々として返事する温かい巧の声に、指先は熱を奪われていくように、急速に冷えていった。

「行ってきます」

 トイレの外から声をかけられても、私は返事をしなかった。巧からすれば、一人結婚式へ向かう旦那に不満を抱く健全な妻の反抗だと、そんな風に見えるのだろうか?

 元気に父親を送り出す娘の声が憎たらしかった。

 結婚式は長いのか。それに、二次会や三次会に出席しないと怒られるのか。誰に?私には分からない。知らない。

 私は行ったことがないのだから。一度、娘が生まれたばかりの時に有った機会を巧に奪われてから、ずっと。

 だから巧が共感を求めて言ったのだとしたら、大きな間違いだろう。

「くそ野郎」

 汚い言葉を使わずにはいわれず、私はトイレの中で、便器の上で、短く吐き捨てた。

 ばたん、と聞こえてきた玄関の扉が、私達を隔てるように閉まった。


 私達夫婦は、基より夫婦であったのか。しかし着実に、以来良くない方向へ向かっているのは理解できた。

 朝、コーヒーを淹れることが無くなった。綺麗な花や月を見ても伝えようとは思わなくなった。娘の一日を教えなくなった。体調が悪そうでも声をかけなくなった。面白かttテレビ番組を見ても話さなくなった。

 ふっくらと上手く焼けたホットケーキも、見せなくなった。

 好きが、当たり前になった。愛が当然になった。

 空気が毒に変わった。優しさは重石のよう。私が漬物ならば美味しくなるというのに、生身の身体は耐えられずに縮こまるばかりだ。

  数十分後にトイレから出た私は、ソファに大袈裟に腰を降ろした。

 すべてが上手くいかなかった。自分の気持ちも素直に表せず、相手の気持ちを考えることも、汲み取ろうとすることも止めてしまっていた。

 ご飯を食べ終え、遊びたがる娘の手と口元をタオルで拭い、またソファに座った。動けずに、ただぼうっと付けっぱなしになっていたテレビの画面を見つめた。

 再放送の刑事ドラマが映しだされていた。昔に見たことがあるもので、犯人も何となく覚えていた。好きだったわけでも、興味があったわけでもないのに、流し見ていた。洗濯も掃除も途中で放りっぱなしだったが、座ったままぴくりとも動こうとしなかった。

「見てー!ママ描いたの!」

 娘が上達した絵を見せにきた。そこには、丸い顔が五つ。

「これは誰?」

 一つずつ聞いていくと、

「これはママー。これはパパー。これはおばあちゃん!」

 一つ一つ指差して教える娘が不憫に思えた。

「りっちゃん。お昼は何を食べようか」

「んーとね。ケーキ!」

「ケーキはご飯じゃないなあ‥‥」

 キッチンに立つと背筋が伸びた。冷蔵庫の中に食材はほとんどなかった。

(買い物、行っておけばよかった)

 冷凍庫から二食分のうどんを見つけると、長ネギと卵で十分だな、と頷いた。


 昼食を済ませても、私はまだソファに座ったままだった。色々なことをしようと思う度に溜息とテレビの音がそれをかき消した。遊ぼうと誘う娘にさえ生返事で、重い頭と瞼が思考を奪った。

 数時間経ってもそのままで、窓の外だけ時間が進んだように色を失っていった。

 ふぅー。と溜息つくと、玄関の鍵が開けられる音がした。

「あ!誰か来た!」

 娘がクレヨン片手に玄関へ走った。

「パパだ!おかえり!」

 背中が跳ね上がり、私はそれまで一生離れるものか、と身体の半分以上をくっつけていたソファから飛び上がった。

 玄関から赤ら顔を出した巧がただいま、というので、私も精一杯の笑顔でおかえり、と返した。

「お腹空いちゃった」

「ご飯食べてきたんでしょう?」

「食べてないよ」

「‥‥どうして?」

「結婚式の料理って、まずいじゃん。全部あいつにあげた」

「‥‥‥‥そう」

 崩れそうだった何かが崩れていくのが分かった。腕がだらりと伸び、指先が急速に冷えていく。

 ちらりと目をやった窓には薄い月が昇っていた。

「今日のご飯何?」

「まだ決めてないよ」

「重たいのがいいな。とんかつとか」

 なんとなく笑った。何もない冷蔵庫の前で、夕食のメニューを考えるふりをした。



 それから数日経っても、私の体はある時間を境にソファと共にあるようになった。巧が仕事へ出勤するため、家を出る時間――――午前八時。

 何にもやる気が起きず黙って、太陽が昇って沈み、入れ替わり月が昇って輝くのを眺めていた。娘がいくらおもちゃで家を汚そうと、掃除もしなかった。

 隠して隠して、殺して殺して、何も感じないようにすると無表情で、何事にも反応出来なくなった。楽しさが見いだせず、自身が無くなっていく。

 輪郭が次第に溶けて、曖昧になっていくみたいだ。

 外出が減り、焦りばかりがつのった。巧と自分のいたらないところばかりが目について、こんなはずじゃなかったと嘆いた。

 誰かに、自分は不幸だということに気付いてほしかった。

 一言、大丈夫だよ、と言って抱きしめてもらえたなら違ったのかもしれない。

 愛の在処を、トイレの中便器の上で、必死に探した。

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