十番勝負 その一
『 郷士 南郷三郎正清 十番勝負 』
第一章 序
学生時代の友達に南郷という友達がいる。
遊び好きな男だったが、妙なところで場違いな正義感を発揮する一風変わった男だった。
或る時なんぞは、場末の飲み屋で酒を呑み、勘定を払う段になって、飲み屋の女将があんたたちは学生だから半分にまけてやるよ、その代わり、今度もおいで、と親切に言ってくれたことがあった。俺はしめしめと思っていたら、南郷が真剣な顔をして抗議した。
まけてくれるのはありがたいが、まけてくれたことに引け目を感じて、次回から来たくとも、来づらくなってしまう、それはまずいことだ、それゆえ、勘定はちゃんと払わせて欲しい、と云う抗議だった。言い出したらきかない、あくまで、ちゃんと払う、と頑張って言い張るのだった。女将も俺もやれやれと云う感じで、女将は正規の勘定を受け取り、こっちも正規の勘定を割り勘で払う羽目になってしまった。
でも、女将は南郷の言い分が気に入ったのか、呑みに行く度、頼みもしないのに、酒の肴を一品か二品、サービスで出してくれるようになった。
南郷は福島県のいわき市の生まれで、なんでも実家は相当な旧家で、家屋敷は長屋門を巡らした中にあり、庭も広大で、一反ほどの畑がすっぽりと入り、祖母がそこで暇つぶしに野菜を作っているという話をしていた。作るのはいいが、売り物になるほどの出来では無く、かと言って、家族ではとても食べきれず、近所はおろか、親戚のところまで父が車を走らせて、おすそ分けに行くという事態になると、南郷はこぼしていた。
系図も凄いぞ、と言う。平安時代まで完璧に遡って書かれているというから、まあ相当な由緒ある旧家と思って間違いは無い。俺は南郷の本家の嫡男であり、先祖は鎌倉の頃に武士を捨て、一介の郷士となったが、本家の惣領は代々、通り名として三郎を名乗ることとなっている。
また、理由は分からないが、名前の一字に、「正」か「雅」を付けるしきたりとなっている。
そのしきたりで、親父は、正男となり、俺は雅洋という名前になった。従って、俺は南郷三郎雅洋なのだ、どうだい強そうな名前だろう、すごいだろうと自慢していた。
その南郷から、段ボール箱が届いた。
結構な重量があった。まさか、野菜ではあるまい、と思いながら、開けてみると、古びた文書がぎっしり詰まっていた。
何だ、この汚い文書の山は、と思っていたら、南郷から携帯に電話がかかって来た。
段ボールが届いたか、と訊いてきた。
届いたけど、何だ、これは、と俺が訊くと、南郷の答えがふるっていた。
三坂は売れない小説を暇に任せて書いているんだろう、小説のネタを提供するよ、と言うのだった。たまたま、盆の休暇で実家に帰り、親父の頼みで蔵の中を整理していたら、南郷家の家宰日記が出て来た。家宰というのは、まあ、藩で言えば家老みたいなものだ。
南郷家の場合は郷士に過ぎないが、小作を何十人も使っていた関係で、管理人が必要だったんだろう、言わば、南郷有限会社の総務部長みたいな者だよ。随分とあり、少し読んでみたら、結構面白い、三坂も読んでみて、小説のネタになりそうな内容があったら、役立ててくれ、役立ちそうも無ければ、また送り返して欲しい、と云う話であった。
南郷の言うほど、暇でも無いが、しょうがない、ほかならぬ親友の南郷の好意だ、少し目を通してみるか、と思ってぱらぱらと捲りながら、何とかかんとか苦労しながら、読んでみると、南郷の言う通り、面白い内容が随所にあった。特に、時代としては戦国中期と思われる頃の家宰日記がなかなか面白かった。この時代の家宰としては三人で、前のほうが吾平という者の筆で、真ん中が正太郎、後が長次郎という者の筆で書かれていた。
珍しく、創作意欲が出てきて、この家宰日記をネタにして書いたのが本編である。
願わくば、読者諸兄が途中で本編を投げ出さず、完読されんことを筆者は切望する。
物語は南郷三郎正清という、陸奥国岩城・好間の在地土豪の裔である一介の郷士を主人公とする。
当時の陸奥国岩城郡の領主であり、郡主から戦国大名として荒々しく生まれかわりつつあった岩城家五代目当主重隆の長女、久保姫が伊達晴宗に嫁ぎ、長男を産んだ年、天文六年に三郎正清も誕生したということは南郷家の家宰の記録にはっきりと書かれており、信頼出来ることである。
三郎が生まれた頃の南郷家の家宰は、吾平という者で、これからの物語のほとんどはこの家宰が几帳面な字で細かく綴った日記の記事を下書きにしている。
久保姫と晴宗の婚儀に関して、少し余談を語れば、久保姫はすんなりと晴宗に嫁いだわけでは無く、重隆としては白川城主の結城白川氏に嫁がせようとしたが、伊達氏との婚姻の仲介をした相馬顕胤が激怒し、兵を率いて岩城氏の領内に攻め入るという事態にまで至り、恐れをなした重隆が当初の仲介通り、伊達に嫁がせたという話がどうも事実であるらしい。
この晴宗と久保姫の間に産まれた最初の男の子が、晴宗の父、伊達稙宗(たねむね、と呼ぶ)と岩城重隆との間で確固とした約定があったかどうかは不明であるが、祖父重隆の養子となり、後に岩城家六代目の当主となる左京太夫・岩城孫二郎親隆(ちかたか、と呼ぶ)である。
親隆は、重隆にとってはいわゆる外孫となる。
但し、親隆は十歳まで伊達の居城で育てられており、親隆が伊達の地を離れ、実際に岩城の地を踏んだのはこれから十年後の天文十六年であった。
長男を他家に養子として出すことは常識的には考えられないことであろうが、家を継ぐべき男の子が不幸にして授からなかった重隆にしてみれば、最愛の娘であり長女の久保姫を晴宗の室に入れる時に、稙宗、晴宗に無理に約束してもらった約定であったのだろう。
当時、伊達は現在の地理で言えば、福島県の中通り北部、現在の伊達郡を領有し、岩城は同じ福島県の浜通り南部、現在のいわき市を領有していた。
両家の間には相馬、田村、石川、白川といった有力な豪族がそれぞれ戦国中期の大名として領国を持ち、いわば群雄として割拠しており、乱世の世とて、伊達、岩城両家共安穏としては居られなかったのであろう。
婚姻を通じて、いわゆる遠交近攻の同盟関係を結ぶ必要も大いにあったのである。
ちなみに言えば、晴宗と久保姫の間に出来た二番目の男の子が惣領として伊達家を継いだ輝宗であり、政宗の父として世に名高い。親隆から見れば、政宗は実の弟である輝宗の息子ということになり、甥になる。岩城重隆の娘であり、親隆の母である久保姫に関しては絶世の美人としての誉れも高く、また良妻賢母の鑑として、史上数々の逸話が残されており、政宗は生涯を通じて、祖母であるこの久保姫を敬愛してやまなかったと伝えられているが、伊達のことはこの物語の中では割愛させて戴き、これ以上は触れないこととする。
第二章 三郎の生い立ち
さて、後の岩城孫二郎親隆と同じ年(天文六年、千五百三十七年)に生を受けた南郷三郎正清は不幸にも幼くして両親を失い、孤児となったが、親から受け継いだ広大な田地、田畑もあり、裕福な在地土豪の家の跡取りとして、何不自由無い豊かな暮らしの中で、少年から青年へと逞しく成長を遂げていった。吾平という名の、古くから居る老人が忠実な家宰となり、三郎は俗世間の垢に塗れることも無く、十歳頃から二十五歳まで文武の道をひたすら研鑽したと伝えられている。特に、武芸に関しては驚くべき天稟の才を示し、武芸百般悉く名手の域にまで修得、熟達したとも伝えられている。
後年、三郎の従者となり、諸国を共に行脚した弥兵衛(やひょうえ、或いは、やへえ、とも呼べるが、どちらで呼んでいたかは不明である)という者の言に依れば、旦那様は忍びの技にもおくわしくあらせられる、と云うことであり、その話も三郎の稀有な才能を示す一つの例として、家宰日記でまことしやかに伝えられているところである。
武芸百般に通じた、と筆者は書いたが、少し詳しく述べれば、以下に列挙する武術に通じたと読者にお伝えするべきであろう。
即ち、三郎は齢二十五にして、弓術、馬術、槍術、剣術、柔術、手裏剣術、薙刀術、棒術、杖術、鎖鎌術、組み討ち術、水術、十手術、分銅鎖術、居合・抜刀術、刺又術、忍術に精通したのである。これは驚くべき才能と言わざるを得ない。
砲術に関しては、三郎が六歳の頃、種子島に鉄砲が伝来したと史書には書かれているが、その後、岩城郡に砲術指南の者が居たという記録は不幸にして筆者は見たことが無く、三郎が砲術をも修得していたかどうかは定かでは無い。
ただ、忍術の中には火薬を扱う火砲の術もあるという話なので、或いは、三郎も修得したとまでは言えないにしても、実用的な基礎知識は当然持っていたものと推測される。
修得した武術の中でも、特に剣術に関して言えば、当時の関東、東北では、上泉伊勢守信綱の新陰流、塚原卜伝の鹿島新当流が隆盛を極めていたが、三郎が修得した流派はこれらの流派では無く、永禄の初め、常陸国の佐竹義重に兵法指南として仕えた二世愛州美作守宗通を中心とした影流の流れではなかったかと思われる。
剣術及び槍術の師匠の名前はかろうじて伝わっており、この物語の中でもおいおい紹介することとするが、その他の武術を正清に伝授した師匠の名はまことに残念ながら全く伝わっていない。三郎は、有り余る暇と金に飽かせて、これらの武術を十五年の間に修得し、悉く名手の域にまで到達したのであった。