君の夏
12歳の夏のある日のことです。
その日、ぼくはいつものように一人、裸足で海辺の熱くなった砂浜を歩いていました。
ここで珍しい貝殻や光輝く石など珍しいものを拾っては家に持ち帰り、集めることがぼくのささやかな楽しみでした。
でも、その日は何も落ちてはいませんでした。あるのはどこからか流れ着いたボトルだけ。
今日はもう帰ろうとした時でした。
「あれ」
ぼくは砂浜から少し離れた遠くの方に誰かがいるのを見つけました。倒れた大木に座っているのです。
近づいてみると、どうやら自分より少し年上の少年のように見えます。
「どうしたの?君は誰?」
そう訊くと少年はやっとぼくに気づいたらしく、あたふたしました。なんだか少し人見知りなようです。
少年が答えないのでぼくは何を言えばいいのかわからなくなり、
「一緒に遊ぶ?」
そう言いました。
少年は答えません。
困ったなあ、とぼくは思いました。なんとかして少年と友達になりたかったぼくは、少年の心を開くために何かあげることにしました。
「そうだ!木の実を採ってあげる!甘くておいしいよ」
ぼくは近くの木に登ろうとしましたが、なかなか登れません。少年にいいところを見せようとしたのですが、なかなか上手いようにはいきません。
どうしたものかと考えていたら、少年がするすると木に登り始めました。
「うわあ、君すごいね!」
少年は木の実を採ると、ぼくに投げてくれました。
「いいの?」
少年は頷きます。
少年は木から飛び降りると、傷一つつけずに着地しました。
「君、本当にすごいね!」
いつの間にか空は赤くなっていました。
「あ、ぼくそろそろ帰るね!じゃあね」
「あ…………じゃあね」
少年はやっと口を開きました。たったそれだけでも、ぼくはすごく嬉しかったです。
ぼくは砂浜の方へ走っていきます。後ろから手を振られたような気がしました。
次の日、少年とはまた会いました。
しかし、今度は砂浜です。どうやらカニを見ていたようです。
不思議なことに、足元では魚がぴちぴちとはねていました。
「その魚、どうしたの?」
少年はぼくを見ると、「とった」と無表情のまま言います。
「え、とったの!?」
少年は頷き、服を着たまま突然海に飛び込みました。
数分後、少年は戻ってきました。両手に魚を抱えていました。
「うわぁ!君、そんなに潜ってて大丈夫だったの?」
少年は頷きます。
その日は少年と日が沈みかけるまで砂浜で珍しいもの探しをしました。
「そうだ、君、名前はなんていうの?」
「……名前?」
少年は少し考え込むようにして間を置いてから言いました。
「……名前なんて、ないよ」
「え、そうなの?じゃあぼくがつけてあげる!」
「うーん、何がいいかな………」
少年は嬉しそうに頬を赤くしました。
「じゃあ、ノブ!」
「……なんで?」
「なんとなく。死んだおじいちゃんの名前」
「…………ありがとう」
ぼくはニッと笑いました。
それから3年間、あの少年と会うことはありませんでした。
あの日の1週間後には僕は引っ越し、都会に住むことになったのです。
都会での生活は新しい刺激ばかりで、友達もたくさんできて、とても楽しいものでした。
欲しいものはすぐに手に入り、不便はありませんでした。
生まれて初めて恋もして、まさしく青春を謳歌していました。
不思議な少年のことなど忘れていました。
しかし中学校を卒業してすぐ、僕は一人おばあちゃんのいる実家に帰ることになったのです。
懐かしい故郷は、何も変わっていませんでした。
おばあちゃんは僕が帰ると、優しく抱きしめてくれました。実は、ほとんど家出のような形で都会の両親の家を出て来てしまったのです。だから、おばあちゃんの優しさがどれだけ沁みたことか。
おばあちゃんも、前と変わらず温かかったです。
泣き疲れた僕はその日の夕方、はっと思い出したように家を飛び出しました。
走っているとすぐに海が視界いっぱいに広がり、夕日は沈みかけています。
坂を下り、以前とは違いスニーカーで砂へ足をつき、あの場所へと走りました。
「ノブ!」
僕は息を切らしてそう叫びます。
すると、大木に腰かけていた少年が僕に気づき、振り向きました。
間違いなくあの少年です。
しかし、不思議なことに気がつきました。あれから3年経ったというのに、ノブの外見には何の変化もないのです。顔も身長も。
「ノブ、お前………」
「…………………どうしたの?そんな顔して」
声も前と全く同じです。僕はノブが成長障がいか何かなのかと思いました。
「………………ああ、これね。僕さ、死なないんだ」
「…………どういうことだよ?」
僕はノブの言っていることが嘘ではないということが、なぜか分かりました。意味もわかりました。それでも、嘘であってほしいと思っているのか、怖いのか、その言葉の意味を訊いていたのです。
「僕ね、ずっと昔から生きてるんだよ。戦争とかが始まる、ずっとずっと昔から………」
僕は、混乱していたからか、自分でも分かりませんがそんなことはどうでもいいと思っていました。
ただただ、ノブを独りにしたことを謝らなくてはいけない気がしました。
もしかしたら、独りじゃないのかもしれません。でも、とてもとても寂しそうな声だったので、そう思わずにはいられないのでした。
「ノブ…僕は、僕は……僕はお前を独りにしてしまった………」
するとノブは不思議そうな顔をしましたが、すぐに納得のいったように言いました。
「僕にとっちゃ1年なんて一瞬のことだよ。日が昇ってから沈むのも一瞬だし、君の一生だって一瞬なんだ……」
僕は、自分がどれだけ寄り添ったところでノブは孤独なままだということがはっきりと分かりました。なぜなら、僕が死んでからもノブは生き続けるし、僕との思い出なんて一瞬の出来事なのだから。
それでも僕に出来ることは傍にいることだけでした。
「ノブ、僕は……僕は君の傍にいるよ」
「………………………」
「なあ、だからノブ………」
そこでノブは、急に吹き出しました。
「………?どうしたんだ?」
「ごめんごめん。でも君、面白い人だね。泣きそうになってるじゃないか」
僕はノブの笑顔をその時初めて見たのです。
「なあノブ」
僕は砂浜に寝転がって、夕日を見ていました。僕はすっかり年老いて、昔のように自由に動くこともままならなくなっていました。
「夕日ってなんで綺麗なんだろうな」
僕は昔と一切変わらないノブに問いました。
「終わるからだよ。終わりがあるからこそ、その儚さが美しいんだよ」
「………そうか」
僕は、自分の終わりについて夢想しました。
「なあノブ、僕が死んだら、ここに墓を作ってくれないかな。夕日が見えるようにね。それから、君にも傍にいてほしい。遠くに行ってもいいけど、必ず戻ってきてほしいんだ」
ノブは「いいよ」と頷きました。僕はそれだけで何故か心の底から安心しました。
若い頃に結婚し、妻にノブを紹介した。妻は驚いたがやがてノブと仲良くなった。それから数十年後妻が病気で亡くなった。ノブは妻のために泣いてくれた。
ノブは自分の感情を表には出さなかったが、僕には分かった。思えばいつでも僕の日々にはノブがいた。
そんなことを思い出して、僕はそっと目を閉じました。なぜだか涙が溢れそうな気がしたからです。
「僕はこの先も生き続けると思うし、もっともっとたくさんの瞬間を生きると思う。昔のことはもう覚えてないし、僕の名前だって忘れてしまっていた」
ノブはぽつりぽつりと、紡ぐように話します。
「でも、君と過ごした日々、きっと忘れないと思うよ。こんな僕に良くしてくれた人はそうそういないんだ。君がくれた名前、忘れないよ」
ノブが隣で寝そべっている老人を見たころには、その人はもう眠っていました。
綺麗な顔でした。終わったからこそ、綺麗でした。
「…………寂しくなるね」
一滴の雫が零れ落ち、砂に滲みこんで消えました。
終わりがあるからこそ美しいのです。その一瞬こそが美しいのです。
沈みゆく夕日が優しく照らす海と砂浜、あの人が愛した景色、確かにここに、生きていました。