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そんなばあいではありません

【泡風呂】
 さらさらさら、と白い粉を落とす。
空豆形に溜まったお湯にそれはたちまち溶けた。右手でシャワーをかざして、まだ固まっている白を水底に叩きつけるようにしていく。すると水面からふわふわと、そう、もこもこ、とは言い難い、軽い泡が盛り上がる。小さなシャボン玉が群れてできているようなその泡に、裸の爪先を差し込んだ。
くすぐったいとか、そんな感覚があると思ったのだけれど特になかった。爪先はすぐに出来たての泡の向こうのお湯にたどり着き、慣れ親しんだ浴槽の底を踏んだ。なんだか安心したような気持ちでそのまま全身とぷんと浸かる。髪をあげたせいで露わになったうなじにふわふわが付く。腕をあげると、お湯と半透明の泡が一緒にまとわりついて来て、けれど灯りに手の平をかざすくらいまでになると、もうそこには泡しかのこらない。小さなシャボン玉は空気に晒され、ひとつずつ着実にはじけている。自然に消えていってしまう前に、反対の手の平と肌の間でそれを潰して、肩の丸みまで押し広げてやった。丸みをくるりと一周撫でて、もう一度お湯の中に両腕を沈めた。
思い出す。夏の日差しが強くなって、ワンピースを着た日があった。小花柄の、柔らかい生地のワンピース。大きく開いた胸元から覗く鎖骨だとか、腰元に結ばれた細い紐のせいで強調される胸の膨らみだとか。あんまり下世話じゃなかろうかと心配したのを覚えている。
「ううん」
 呟いた声はくぐもって、真四角の浴槽の壁によく響く。それはどうにも甘ったるくて、自分の声ではない誰かの声に聴こえた。もう今さら、それを自分以外に疑うことはしないけれど。紅茶に溶かす角砂糖の数はずっと変えたりしていない。ずっとふたつ、決まってふたつ。色づいたカップの中身の甘みを変えてしまうのは、あんなきらきらした立方体じゃないのだった。鼓膜に届く声だって、確かに自分の喉から発せられているのだった。
 皮膚の内側が、次第に火照る。水面の泡がだいぶ空気に溶けてしまったので、またシャワーの雨でお湯を叩く。はじめほどではないけれど、泡が戻る。けれど、粉を入れたときに香った薔薇の香りは、もう戻ってこなかった。白い入浴剤なのに、そこからたつ泡も白いのに、薔薇の匂いがしたほうがほんとうはちょっとおかしな気がしていた。ちょっとわざとらしい女の子の香りだった。きっとまだ、わたしの肌には馴染まない香り。
「あなたに」
 あのひとは今頃何をするかしらと考える。浴室に満ちた湯気と、浴槽に満ちた泡。空想のエフェクトに白い吹き出しをはじめて使ったひとは、きっと風呂場でものを考えるひとだろう。猫足のバスタブ。薄いピンクの浴槽に、金色の猫足のついたバスタブとか、そういった風呂に入るひとかもしれない。
 眠る前にあのひとは、きっと何かに堪らなく不安になるのだろう。誰もいない部屋の、駅前から離れたあのさびれたアパートの天井を見つめながら、毛布を手繰り寄せて。理由のない焦燥感のようなものに胸板を打たれて、まぼろしの孤独感に息を詰まらせる。瞼に重石をのせていくような心持ちで羊を数えたりするのかもしれない。
 私がいます、と囁く。声もなく囁く、舌の上でただ徒に文字列を転がす。滲みだした汗が溶けていく。少しでも綺麗になりますように。美しくなりますように。あなたのために完璧になりますように。
 【貸出】
 あなたの時間を貸してくれませんかと、電話口で焦った声が言った。
朝から降り続いている雨の音が、ぼろアパートにはよく響く。マグカップの底をたたくような、こつんこつんと硬いリズムにいい加減辟易していた。電話が鳴ったのは、そんなタイミングである。
「お願いです、暇、してますよね。時間余ってますよね」
 起床、という言葉は睡眠からの覚醒の意で使用されるが、瞼をあげてから数時間布団にくるまっていた私は、その電話で真実『起床』したといえる。そういった意味で、私の時間は両手指の隙間から落ちて氾濫するほど有り余っていた。しかし、第三者にそれを決めつけられるのは癪というものだ。私は前髪に手櫛を入れながら気取った声を出す。
「もし。もし仮にそうだとしてなんだという」
 仮に、を1トーン高く、強調する。雨音が相変わらず煩わしいので、受話器の向こうは聞き取りにさぞ苦心しているだろうと思った。アパートへの恨みのほうが先にあったものなので、その点においてのみ相手を哀れに感じた。
「時間、貸していただきたいのです」
 その相手は相変わらず焦りの滲んだ様子だ。聞きなれない、若い男の声だった。はて携帯ならともかくも、固定電話の番号をこんな年頃の男に教える機会があっただろうか。ようやっと倦怠の靄が晴れ始めた私の脳が不審がって唸る。一方で、この退屈な灰色の午前に面白いことが起きたと、好奇に跳ねるこころもあった。
「時間か。いかほど貸してほしいのだ」
 その好奇の跳躍力と言ったら並みのものではない。私の脳まで勢いよく到達したそやつは、今まさに石橋をたたけと指示を出そうとしていた脳の口を塞いでしまった。おかげで私は自ら唇のみにまかせて、謎の電話に応対する。
「1日で結構です」
「たったの1日か。それでどうするのだ」
「私の原稿を完成させます」
「原稿。とすると、君は物書きか」
「その通りです」
 物書き。記憶を漁るが、いよいよそんな男に心当たりがない。私の友人。アイロンがけされた鎧にぴっしり身を包む堅実な戦士。或いは煙草をふかすか酒を煽るかしかないごくつぶしか。何れにせよ、夢追って芸術の野を駆けているような知人はいない。理由は単純、私自身に芸術の才も知識も理解もないからにほかならない。
「しかし、私がきみに1日ついたところで何の役にもたちはしないよ」
 それを思って答えれば、違うのですと相手。そろそろ一度落ち着けばいいものを、息を切らしそうな勢いである。
「あなたの時間だけをお貸しいただくので結構です。それはつまり、あなたが過ごすはずだった今日をぼくに譲ってほしいのです」
 成程時間を貸せという言葉に、時間を割けと顔を貸せの意を合わせてしまったようである。しかし男のいうことには、要は金を貸すと同じ要領で時間を貸せというのだ。私が使うはずだった24時間を、男が代わりに使う。すると彼の原稿は仕上がる。「絶対にあとで返しますから」とほとんど泣いたように彼は言った。
 私は一連の話をもぐもぐと咀嚼する。寝起きのまま歯も磨いていない口内は粘つくようで不快だったが、何度もしっかりと噛んだ。雨は止みそうにない。私の咀嚼音をもかき消していく雨。頭痛がしてきそうだった。そこで私は、こんな不快で怠惰な1日ならば男にやったほうがよっぽど有益であろうと結論を出した。男に暇者扱いされたことに関しては未だ腹をたてていたが、もはやそれすら億劫だった。そうしてすべてを呑んだ倦怠と、膨らむ好奇が良い具合に混ざり合って、
「いいだろう」
 と音を伴って出て行った。
「ありがとうございます。ありがとうございます。あとで絶対返します」
 弾んだ礼を最後に電話が切れた。さてあの男は一体私からどう時間を持っていくのだろうかと思いつ、布団をまた頭からかぶった。
 と。
 耳を澄ます。静かだった。時計の長針と短針が働く、あくせく、あくせく、が聞こえるくらいに静かだった。あんなにうるさく響いていた雨の音が、突如として止んだのである。羽毛がぱんぱんに詰まった布団はそれはそれは凶悪な心地よさを誇るが、なにも防音に特化したものではない。事実私は今朝、雨音に瞼を引っ張り上げられたのである。
 体を起こし、窓の外をみた私は唖然とした。そして胸のうちで使用した今朝、というワードに要修正箇所として波線を引く。
 窓の外は快晴であった。思わず立ち上がり窓辺に寄ると、まばゆさに目が眩む。滴を纏った木々家道路自転車に朝の光が反射して、何処も彼処も輝いていた。空は抜けるように青く、翳るところがない。それは全く完璧な、雨上がりの朝であった。
「これは一体なんということだ」
 感嘆とも恐怖ともつかないつぶやきが漏れた。私はゆっくりとテーブルの上のリモコンを手に取り、テレビを点ける。とたん俗的でポップな女性キャスターの声とBGM。私はじっと、画面左上の表示をみた。
「あの男、ほんとうに持って行ったのか」
 白い縁取りの丸文字は、たしかにあの電話を受けたつい先刻から一日後の日付を示していた。私の1日は、言葉通り男に借りられていったのだ。あの瞬間からまるまる24時間、私の代わりに男が。彼はそのぶん原稿に向き合う時間を得て、私は無為に布団と戯れる時間を失った。
ぼうっとその事実を見つめていた私は、しかしはっとして改めて現在を確認した。
「なんということだ」
あの不機嫌な雨の朝は、カレンダーの赤文字の朝であった。つまり彼に1日を譲渡するということは、自動的なマンデイ・モンスターの襲来を意味していたのだ。よもあの男、平日であの1日を返して来たら許すまい。私は己の考えの至らなさを棚に上げ、悪態をついて鎧に袖を通した。

あの男からは、以来音沙汰なしである。十と数年が経ち、当然のごとくあれは夢だったのではないか、と思い始めた。しかしその疑念以上に、私は貸した時間を踏み倒されたと憤慨の意を感じていた。そうなると結局、件の出来事を私は信じているのであろう。
窓には幾筋も水跡が走っていた。リアルタイムで更新されるその線は、外がひどい雨であることを示しているらしい。私はそれを眺め、意味のない鼻歌を歌いだす。曖昧なメロディが部屋に満ちるのを上機嫌で聴きながら、テレビを点ける。
白い縁取りの丸文字は朝の時刻を示している。俗的でポップなBGMが、不意にじっとり湿った曲に変わった。おや、と思っていると、女性キャスターは無機質で悲しげに訃報を告げた。物書きがひとり、死んだようだった。長い間連載していた小説を、ちょうど書き上げたタイミングだったという。眠るように死んだ。まだ若いといえる歳だったが、その様はまるで老衰のようだったと、作家仲間がすんすん啜り泣いていた。

翌朝、外はまたひどい雨だった。マンデイ・モンスターは来ない。私は彼の真摯な返済に、さんざついた悪態を撤回してやることにした。

【酩酊】
 規則正しく並んだガス灯の合間を、縫うように夜を歩く。
 石畳の道は、滲んで染み出した橙に明るい。理由のない上機嫌に足を運ばれて私は川沿いを歩いていた。気の置けない友人たちと交わしたグラスの余韻は心地よく、数時間経ったいまでもまだ仄かな酩酊を感じさせてくれる。酩酊、酩酊、と口ずさむ。素敵な言葉だ。酩酊、めいてい、めーてー。如何にも、余計な思考がとろけたような響きを感じる。A,B,Cに構成される言語を学び使うようになってしばらくだが、時折独り言ちる故郷の言葉は良いものだった。
 ちょうど、石橋に差し掛かる。私はこの重厚な、しかして洒落た大橋を大変に好んでいる。住居を選ぶ際にも、わざわざ学校からこの橋を渡ったところの家を選んだ。石橋の欄干は私の腰より少し高いくらいで、そこに手のひらを添え撫でるように歩く。橋を渡り切るころには手のひらは煤けたように黒ずんでしまう。しかし、家に帰って洗わねばなあと、それのおかげで帰路につく覚悟のようなものを決めるのが毎日だった。
 眠るというには幾分早いが、すでに人気はなくなる時間だった。私はそれを良いことに、右手を欄干に添えたところで目を伏せる。冷たくも熱くもない風が瞼に触れる。気分がいい。私は橋に、或いは夜に溶け込むように歩いた。一歩、二歩、進むたび私は家へと近づいていくのに、全く見知らぬ街に旅立つような気持になった。気分がいい。三歩、四歩、きっと足元は砂漠だ。のまれるような吸われるような、柔らかな砂だ。気分がいい。五歩、六歩、砂は私の足に纏わりつく。沈んでしまわないように、さあ、足を高く上げて。続けて歩く、七歩、八―
「痛!」
 私はハッと目を開けた。街の景色に空想の砂漠は吹き飛ばされる。見慣れた現実の風景に、一点異物が居た。私の目の前に、通れている男である。
「あ、ああ。すみません、ぶつかりましたか」
 痛いと声をあげたのはこの男だろう。砂漠跡地には冷静になった思考が残され、それに従って私は彼の傍らにかがむ。
 年の頃は自分と大差ないようにみえた。白い肌に出過ぎた紅茶色のような赤髪。癖のあるそれは薄っすらとかいた汗のせいで額に張り付いていた。
「今おれにぶつかったのは、きみか」
 男が体を起こすので、それに合わせて私は体を引く。瞳は翡翠色をしていた。想像していた敵意や憤慨はそこにない。彼は妙に得心したような表情だった。
「はあ、すみません。少し酔っていたようで」
 私は頭を下げて、そしてぎょっとした。彼の体の起こし方は少しぎこちなく見えたのだが、その原因を見つけたのである。
 彼の両手は麻縄で括られていた。細い縄ではあるが、確かに明確な意図をもって結ばれていた。私は急に、彼の平静さが怖くなった。
「あの、それは」
「ああ。きみ、なにか刃物は持っているか」
「ペーパーナイフなら…」
「おいおい、ペーパーナイフで麻縄が切れると思っているのか」
 彼はからからと笑った。私はいっそ逃げ出したいくらいにこの男が不気味だったが、彼を倒したのは自分だという引け目がそうさせなかった。一応と取り出したペーパーナイフを握りしめて固まる私をよそに、彼はすっくと立ちあがる。
「やはり今日もダメだった」
 彼を見上げる形になった私は、思わずあっと声を上げた。欄干の前に両手を縛って佇むその姿に、彼の目的が見えたからだった。
「あなた、まさか飛び降りるつもりだったんですか」
 衝撃に舌がついてゆかず、飛び出したのは祖国の言葉だった。彼は首を傾げて私を振り返る。
「きみ、日本人か。いまの日本語だろう」
「は、はあ、まあ」
「そうかそうか、日本人か」
 落ち着いて彼と同じ言語を返しつつ、私はのろのろと立ち上がった。いよいよこの場を立ち去れない。視線を前に戻した男は、欄干に肘をついて川の流れを見つめている。しかし、いつそこをめがけてしまうかわからないと思った。
 そんな私の心配をよそに、彼は顎で自分の隣を指し示した。口元には笑みが浮かんでいる。そうしているとやたら幼くみえる顔立ちをしていた。
「さっき、なんていったんだ。日本語でさ」
「あ、ああ。飛び降りるつもりだったんですか、と」
 口を開いても、男は無邪気にみえるままだった。なんとなく拍子抜けした私は小さく答え、男の反応を伺う。彼は私の問いかけを聞いても、やはり笑みを浮かべていた。
「きみは日本人だものなあ」
 男がこちらを向いた。髪色を見られているのだとわかった。私の髪は純日本人らしく真っ黒い。
「そうですが、それがどうかしましたか」
「ああいや、気分を害したなら悪かったよ。なに、きみに話してみようかと思って」
「なにを?」
 男の翡翠の瞳が、一瞬爛とした。
「おれがずっと死に損なっている話」
 咄嗟になにも返せなかった。すると彼は、歌うような調子で私に話を聞かせた。
 彼はここより田舎の町で生まれたのだという。やはり出過ぎた紅茶の髪をした両親は小さなパン屋を営んでいて、幼い記憶はどれもパンの焼ける匂いがすると言った。そのままパンの匂いに包まれた人生を送るのだと思っていた少年を変えたのは、ある日町を訪れた旅の劇団だった。
「広場にね、自分たちでステージを組んでた。後から思ったことだが、どこかの劇場を借りて上演できるほど、金のある劇団じゃなかったんだろうな」
 少年の心は目の前で作られた虚構に夢中になった。女優のドレスの裾が舞い、俳優は大きな声で情熱的な愛を読み、おしまいには花が降った。それは魔法のようにさえ思われた。
「そこからはありがちで、出来すぎた展開だよ。説明を端折りたくなるくらいね。夢を見た少年は青年になったとき町を出て、俳優を目指し、そしていつまでも見えない未来を憂いた」
 おととしの冬、ずっしりと重い灰色の空から雪がちらつきだしたとき。彼は見えない未来を見るのを諦め、街で一番高い時計塔に忍び込んだ。
「平凡な発想だろ。自覚はあった。やっぱり自分には才能がないのだと思った。それが悔しくなったとき、おれは初めて非凡な、不敵なことを思いついた」
 時計塔の頂上で、彼は大きく息を吸った。冷えた空気が肺に雪崩れ込んでくる。役者を目指した者として、大声の出し方は知っていた。
「『おれは、才能にあふれた若者だった!』」
 張り詰めた街の空気を破裂させるような絶叫だった。それと同時に彼は地面を蹴り、時計塔から落下した。体の底からふつふつと笑いがこみあげてくるようだった。天国だか地獄だかに辿りついたとき、大いに笑い転げてやろうと思っていた。が、そうはいかなかった。
時計塔の麓にはパン屋がある。その日、パン屋は小麦粉を大量に注文していたらしい。だというのに、届いたのは山ほどの稲穂。店主は顔を真っ赤にして憤慨した。お前の知り合いに妖精がいて、一晩でこれらを小麦粉にできるなら許そう。それが出来ないなら今すぐお前が走ることだー店主の怒号をたくさんの人が聞いていた。店のそとには、稲穂がたんまりと積まれていた。
「店主は俺をみたとき、本当に妖精だと思ったらしいよ。稲穂を小麦粉に変えるべく降ってきたのか、って!」
 寄ってきた人々の波をかき分けて、彼はその場を逃げるようにあとにした。みじめだった。「その日からおれはありとあらゆる方法を試した。輪のついた縄を作った。体に油を塗りたくってマッチを用意した。ナイフをのど元に当てたこともあるよ。そうして毎回、時計塔のときと同じ台詞をさけんでー……そして、失敗した」
 何度、どんなことをしても、嘘みたいな出来事が彼を救った。奇跡としか言えないことばかりだった。
「それで、今夜の奇跡はきみってわけだ」
 男はそういって話を締める。笑みを向けられた私はどう答えたものかわからず、黙り込んだ。彼の妙な余裕も気軽さにも合点がいった。
 男がそのまま何も言わなくなったので、その場には静寂が満ちた。水面にうつった橙が揺れ、風が吹くとその形を壊した。私は何か言わなくてはと、乾いた唇を開く。
「あのう、今日も言ってましたか」
「ん?」
「『おれは、才能にあふれた若者だった』」
「ああ」
 男は笑って頷いた。まるで気づかなかったと言うと、呟く程度だったからと返される。
「言わないで飛び降りようとすることはきっとないね」
 男は続ける。
「実のところおれはね、もう自分が何をしたいんだかわからなくなってきているんだ」
 彼の翡翠の瞳に、水面に反射した橙がさらに反射して揺れていた。
「このあと生きて、未来ってものがすっかり果てきったとき。自分に才能がなかったと知るのが嫌なんだ。だからその前に宣言して死んでしまえばさ、おれは天才として死ねるんだ」
 私は彼の両手を相変わらず拘束する麻縄をみていた。毛羽だった縄はしっかりと、彼の自由を奪っている。
「でもここまで死ねないとさ、神様がおれの妄言を肯定しているような気がするんだ。おれは本当に特別なんじゃないかと、はじめて思った。生かされている、才あるものとして生かされてるって舞い上がる!でも、夜が明けるとまた絶望に襲われる。どうせダメだって」
 それまで終始穏やかだった男の声が、その一瞬わずかに乱れた。焦ったような、泣き出しそうな、怒っているような。そんな乱れだった。私は何も言わなかった。
「おれはきっと、また叫んで死のうとするだろう。それが死にたくてすることなのか、生かされたくてすることなのか、もうわからなくなってしまった」
 私が何も言わないでいると、彼は妙な話をして悪かったねと、欄干から身を離した。日本ってハラキリ文化があるだろ、おれあれが好きなんだと語る彼はまた笑っていた。おさない笑顔だった。
 彼は橋を私が来た方向へと渡っていった。ガス灯の灯りの中を歩く、くたびれたシャツの背中を私は黙って見送った。

 その背中がすっかり見えなくなったとき、めーてー、と唇から故郷の言葉が零れ落ちた。





























































脚本やんなきゃやばいときに限ってこういうの浮かぶんだよね、だからこのタイトル

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