桜吹雪
8月8日。
こん睡状態だった容体が午後から落ち着きを取り戻す。うっすらと目を開けたお兄ちゃんは、ぼんやりとした顔で私たち三人を瞳だけで見回してから口をかすかに動かした。
「なに?お兄ちゃんっ、何が言いたいの?」
お兄ちゃんの顔のそばに自分たちの顔をよせると、途切れ途切れの小さな声で『三人で仲良くやっていけ』そう言った。
「うん!うん!大丈夫!大丈夫だからねっ、安心していいからねっ」
お兄ちゃんはかすかに微笑んでまた目をつぶった。その手をしっかり握り、暫くは穏やかな寝顔をみていたが、この数日まともに寝ていなかった私はお兄ちゃんの規則正しい呼吸に合わせ、夢の中へとおちていった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
キラキラ輝く川の両端、どこまでも続く綺麗な桜の花たち。水面には舞い落ちた花びらがフワリフワリと川の流れに乗り、ゆっくり儚げに漂っている。
お兄ちゃんの手をしっかり握りしめ、私たちは赤い小さな橋の上に立ち、美しく咲き誇る桜を眺めていた。
「この桜の木はどこまで続いているんだろうね?」
「あぁ、遠くに見えるアッチの橋まで続いているみたいだな」
「えっ、見えないよ?どこどこ?」
「お前はまだ見えなくていいんだ……」
「お兄ちゃんには見えるのに、なんで私には見えないの?そんなの変だよ」
ピョンピョンと飛び跳ねて、ずーっと続く桜の先にあると言う橋を見ようとするんだけど、見えるのは綺麗に咲いている桜とキラキラと輝いている水面だけだった。
「チビだからかなぁ、お兄ちゃん抱っこして」
ぎゅっと握りしめていた手をそっと放すと、フワァ~と柔らかな風が吹き、離れた二人の手の間を桜吹雪が舞う。お兄ちゃんは私をぎゅっと抱きしめてから、小さい頃してくれたみたいに高く高く私を空に向け持ち上げた。
「見えない、お兄ちゃん、桜の花しか見えないよぉ」
「そうかー? あははー!」
お兄ちゃんの笑い声が辺りに響き渡ると、桜の花びらがハラハラと舞い落ちていく。なにかとても大切な、とてもとても大切な何かを失おうとしてる予感がした私は怖くなってお兄ちゃんにしがみついた、温かなお兄ちゃんの身体にぎゅっとしがみついた。
ハラハラと舞い、散り逝く桜、ひとつふたつの花びらが、煌めく光を浴びてポワンと浮かびながら川の上流に向かい舞い上がってゆく。
突然ザザーッ!と強い風が吹き、綺麗に咲いていた桜の花びらをその強い風が天に向かって巻き上げていく。そして私達を巻き込むように渦を巻きながら、たくさんの花びらが二人を包み込んだ。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん、どこ?」
手を伸ばして探すんだけど、その手が掴むのは花びらだけ、桜吹雪の中で何も見えない。
「ここにいるぞ、ちゃんとお前を抱きしめている、安心しろ」
身体が温かな愛で包まれている。なにも見えないけど確かにお兄ちゃんは私を抱きしめてくれている。
「よかったぁ」
風がやんだ……
綺麗な桜がハラハラと舞い上がっていくのが見える。
お兄ちゃん、綺麗な花吹雪だねぇ……
今度はみんなでココにきてお花見しようね。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
……ちゃん、お姉ちゃん……。遠くで私を呼ぶ声が聞こえる。
「お姉ちゃん!起きてっ!」
ビクッ!として目覚めた私は何が起きたのか、ここが何処なのか一瞬わからなかった。目の前にはしっかり握りしめている自分の手がある、ここ数日「逝かないで、逝かないで」と泣きながら握りしめ続けたお兄ちゃんと私の手。
「夢を見てたみたい……」
「そんなのどうでもいいから!お兄ちゃんを見てよ、ずっと笑ってるの!」
菜緒ちゃんと健太郎がニコニコしながらお兄ちゃんを指さす、ホントだ!笑ってる。まるで「あっははー!」と声を出しているような笑顔だった。
「姉ちゃんはニマニマしながら兄貴にしがみ付いて『花より団子~』とか言ってるしよ、どんだけ食い意地はってんだって話だよ」
「えぇぇぇ!私そんなこと言ってないよ」
「言ってたよ、ヨダレたらしながら」
「健太郎のばかっ!」
笑顔を浮かべながら寝ているお兄ちゃんの周りで私たちは笑い合った。久しぶりに訪れた心からの笑い声だった。
「あらあら賑やかですねぇ」
「あっ、浜崎さん。すみません……煩かったですか?」
「いいえ、大丈夫ですよ」
血圧も脈も安定していると浜崎さんはニッコリしながら言ってくれた。お兄ちゃんはその後もずっと安定していて穏やかな顔のままウトウトしたり、話しかけている私たちに優しい微笑みを浮かべてくれていた。
「菜緒ちゃん、ちょっと家に帰ってお風呂に入ってくるね」
「いいけど、いきなりどうしたの?」
「さっきからずっと、桜の花びらが身体中に張り付いていて気持ち悪いの。これ家のお風呂じゃないと取れないみたいなんだもん」
「はい?」
「桜の花びらなんてついてねぇよ、つか夏だぜ!なに言ってんだよ。頭おかしくなったのか?」
菜緒ちゃんも健太郎も、私が冗談を言っているのか本気なのか理解不能だとでも言いたげな呆れ顔をしている。
今まで余程のことがない限りお兄ちゃんの傍を離れなかったのに、「逝かないで、まだ逝かないで」と手を握りしめて離さなかったのに……
私はこの夜、自分の意志とは関係なしに、何か見えない力によって身体と心が動かされた。
「お兄ちゃん?私ちょっと家に行ってくるね」
そう言って兄の手を握ると、ギュッ!と握り返してくれた。どこにこんな力が残っているんだろう?とビックリするくらい強く握り返してくれた。そしてにっこりと微笑んで頷いた。
(すごくいい笑顔だ!うん、これなら大丈夫)
脈拍も血圧も安定していることを確認し、迎えに来てくれた達郎と一緒に自宅に戻る。ゆっくりと湯船につかりお風呂に入ると、疲れていた身体がほぐれとても気持ちが良かった。
不思議なことに自宅についてから何も考えなかった。無の世界とでも言うのだろうか?静かなとても不思議な空気が流れ、何か温かな優しいものに常に包まれいるのを感じた。穏やかでほっこりした、心地よい何かに抱かれながら、何も考えずただ静かに時間だけが過ぎていく。
菜緒ちゃんからの着信音が鳴り響くまで……
「お姉ちゃんっ!お兄ちゃんがっ!お兄ちゃんがっ!」




