その手の温もり
8月6日。
病室の窓から見える空は青く透き通っていて、所々に白い雲がぷかぷか浮かんでいた。
小さい頃、雲が何に見えるかみんなで言い合った事を思い出した。シュークリームだ、怪獣だ、違うよぉクマさんだよぉ。『あっはっはー!』ってお兄ちゃんの笑い声が空から聞こえてくる。
ぐぐぐっ!
喉の奥から熱くて苦くて、辛く苦しい想いが込み上げてきて吐きそうになり、真っ暗な、真っ暗な、出口のない暗闇の奥底に心が引きずり込まれる。
運命を受けいれてココにいる?
穏やかな死を迎えるためにココにいる?
そうだよ……間違ってないよ。
でもね?
死んでいくお兄ちゃんを穏やかな気持ちで見送るなんて、そんなの綺麗ごと。そう思って何かに縋っていなければ崩れ落ちてしまう。死んでいいなんて思ってない、生きていて、どんな姿でもいい生きていて。
イヤなの!絶対にイヤなの!
死んじゃうんだよ?もういなくなっちゃうんだよ?
逝かないでよ……私達を残して、こんなに早く逝かないでよ!
暗闇の中で、もがき苦しみながら、そう私の心が叫ぶんだ。
お兄ちゃんの異変に気付いたのは去年の夏、今頃だった。
高級な柔らかいステーキ肉を呑み込めなかったお兄ちゃん……
なんでっ!なんであの時、病院に連れて行かなかったんだろう!こんな事になるなんて思わなかった。あれからたった一年しか経っていないじゃない。
『もし、もし私がお兄ちゃんと同じような立場になったら……私はお兄ちゃんを見習って最後まで強く前向きに生きるから』
ずっと前に車の中で私がこんな話をしたら、お兄ちゃんは助手席の窓から空を見上げたまま言ったんだ。
『我慢するとこだけは真似るな……』
一番悔やんでいるのはお兄ちゃん自身なんだ、なんであの時!なんでもっと早く!そう悔やんでいるのは、誰よりもそう思っているのはお兄ちゃんだったんだ。後悔しても時間は戻らない。どんなに悔やんでも、元気だった頃のお兄ちゃんは戻らない。
いま私たちがすべきことは後悔でなく『いまを大切に生きること』、後になって今この瞬間を後悔しないために……未来に心を繋げるために、いま下を向いて泣いている場合じゃないんだ。ぐぐっ!と込み上げてくる苦い涙をのみ込んで私は顔を上げた。
お兄ちゃんを見ると、うつろな目をして天井を見ながらボソボソ呟き何やら指を宙で動かしている。
「ねぇ、お兄ちゃん、さっきから何してるんだろう?」
「わかんねぇ、でも何かしてるみたいだ」
「また幻をみているんだよ、でも楽しそうな顔してるよ」
微笑んだり、ちょっと真剣な顔したり、楽しそうに宙で指を動かしている。
「お兄ちゃん、何してるの?」
「ん?今な大工さんと打ち合わせしてたんだ」
「そっか」
お兄ちゃんは図面を書いて、大工さんと打ち合わせしているらしい。薬のせいで時々こんな風になる。でも痛みは和らぎ私達ともかろうじて会話ができている。
こんな状態になっても仕事をしている兄が誇らしかった。誇らしいという言葉は今の状態で間違っているかも知れないけど、お兄ちゃんらしいなぁと思った。
お父さんとお母さんが交通事故で突然いなくなってから、自分の幸せを二の次にして私達3人を育ててくれた。毎日泥だらけになって暑い日も寒い日も雨の中ビショビショになりながらも、時には理不尽な事に唇を噛みしめながら私達の為に頭を下げたり、毎日毎日現場を駆け回って必死に働いて私達を育ててくれた。
お兄ちゃんの手はゴツゴツしていて決して綺麗な手ではない。でも私たちはこの手が大好きだ。
三人とも想いは同じだった。それぞれがそっとお兄ちゃんの手を握る。この手で今まで私達を守ってくれていたんだ。お兄ちゃんは弱々しく手を握り返してくれた、たったそれだけの事が嬉しかった。
(温かい……生きてる……)
意識がハッキリしている時間が少なくほとんど幻覚の世界にいた。それでも痛みで苦しむ姿を見ないでいれることが嬉しかった。少しでも話せることが嬉しかった。なにより手の温もりが嬉しかった。
タンが排出できず一日中ゼロゼロして辛そうだったので、この日の夜から先生が眠らせる薬の量を増やした。
8月7日
朝からまた危篤状態となり、意識なく眠ったまま血圧が下がっていく……
『お兄ちゃん、頑張って』この言葉はもう言えなかった。でも『よく頑張ったね、もういいよ』なんて絶対に思えなかった。死なないで!まだ生きていて、私達をおいて逝かないで!
まだそばにいて……お兄ちゃん嫌だよ、まだそばにいてよ。
温かなお兄ちゃんの手を握りしめたまま、私は心の中で『逝かないで、逝かないで』を繰り返していた。




