ガンは治る!奇跡を信じる心と、穏やかな死を願う心
自宅に帰る時は作業着で帰りたい……
そう言ったお兄ちゃんのために泣きながら用意したものを持ち、病院の正面玄関を抜け歩いていると、ふいに後ろから誰かに声をかけられる。
「茉緒ちゃん?」
「えっ?あっ!小森さんっ」
声をかけてきたのは、お兄ちゃんが手術した時「消化器外科病棟」で一緒だった小森さんの奥さんだった。
小森さんもガンでお兄ちゃんと同じ時期に手術をしたステージ4の患者さん。とても前向きな方でお兄ちゃんとも気が合い二人でよく笑い合っていた人だ。小森さんの奥さんは、まだ若い私が一人でお兄ちゃんを看病していたのを何かと気にかけ、優しく励ましてくれていたのだった。
「その荷物は?お兄さん入院してるの?」
「あ……はい」
「うちもなのよ、全然気付かなかったわ」
小森さんも容体が悪化し入院した。でも本人は治ると信じて、ご家族も奇跡を信じて治療を続けているとのこと。過酷な放射線治療や色々な薬を試しているがアチコチに転移し、骨転移により起こるその痛みは想像を絶するものだと……
「でもね、主人も私も諦めてないのよ、奇跡は起こるわ!私はそう信じてるの」
必ず元気になって退院できるわ。入退院を繰り返しながらも絶対に治る!奥さんはにっこり微笑んでそう言った。
痛みで苦しむご主人の背中を一晩中さすって腕が筋肉痛なのと笑いながら話してくれた。旦那さんの痛みも苦しみも全てを受け止めている。少しふっくらして可愛い顔立ちだったのに、今は頬がこけ目の下にクマもできていて、奥さんも病人のようにやつれた顔立ちに変わっていた。
新館の8階、緩和ケア病棟にします。
言えなかった……
満開の桜の木にガンと言う名の『風』が容赦なく吹き付ける。時には『雹』となり綺麗な花びらを痛めつけ、桜の花びらは少しずつハラハラと散っていき、何とかしがみついていた最後の花びらがハラリと舞い落ちる。その『風』にどう立ち向かうのか?残された時間の使い方はそれぞれだ。
小森さん夫妻のような生き方も素晴らしいと思う。奇跡を信じてガンと最後まで闘う、どんなにガンが身体中を食い尽くしたとしても……それでも奇跡を信じて闘い続ける。そんな最期の迎え方も間違ってはいない。
チューブに繋がれ、痛みや苦しみに耐え、色々な薬を投与しその効果に落胆する……そんな毎日は望まなかった。私達家族はお兄ちゃんが痛みで苦しんで苦しんで逝くのではなく、運命を受け入れ穏やかに最期を迎える、それを望んで緩和ケアにきた。
「何号室にいるの?主人に教えたら喜ぶわ、一ノ瀬さんとは気が合うんだって言ってたから」
何が正しいとかではなく「私たち家族がとった最期の過ごし方もありますよ」言うべきではない。治ると信じている小森さんにこんな事は言っちゃいけない。でも「奇跡を信じて頑張ってください」とも言えなかった……
「8階の緩和ケア病棟に入院しています」
「えっ……」
奥さんは大きく目を見開いて私をみた。どんな状況でなぜその病棟にいるのか理解したからだろう。私達が選んだそれぞれのガンに立ち向かう姿勢はどちらも間違っていない。私達は見つめ合ったまま何も言葉を発することなく互いの手を取り微笑み合い、それぞれが愛する人の元へと背を向け歩き出した。
緩和ケア病棟の入り口がスーッと静かに開き、異空間の中へ足を踏み入れる。真っ直ぐな廊下の先に大きな窓があり、観葉植物の隙間から綺麗な青空が見えていた。病室に入る前にラウンジに立ち寄ると、お見舞いに来た人と談笑している車いすにのった患者さんの小さな笑い声が耳に入る。
初めてここを見学した時、琴音さん親子があそこに座っていてメロンジュースを一緒に飲んだっけ。花火大会の時もココに何人かの人達がいてみんなで静かに花火を見た。それぞれ穏やかなとても幸せそうな微笑みをたたえていた。
みんな生きることを諦めたんじゃない、運命を受け入れただけ。穏やかに安らかに死んでいくためにココにきたんだ。死に逝く自分も見送る家族も最後まで幸せでいるために……
病室に入ると、健太郎と菜緒ちゃんがお兄ちゃんを間に挟み冗談を言い合っている。お兄ちゃんはそんな二人を呆れた顔で見ていて、枯れ枝のように細くなった手をゆっくり伸ばし健太郎にげんこつをくれる真似をしていた。
その細くなった腕に点滴の針も管もない。苦しんでいる声や医療機器の音も何もなく、ただ静かに時が流れていく。緩和ケア病棟で、残された時間を穏やかに悔いなく過ごす、私達家族が選んだ最期の過ごし方。でもお兄ちゃんは?本当は小森さんのように最後まで闘いたかった?私達は自己満足だけでココにきてしまったのかな……
「お兄ちゃん」
私はお兄ちゃんの手を握り、その腕に頬を寄せながら思わず……
「お兄ちゃん、いま幸せ?」
お姉ちゃん!! 姉貴!! 二人の『なにトンチンカンなバカな事を言ってんだ!』という怒りの声が同時に響いた。でもお兄ちゃんは優しい微笑みで私の頭をそっと撫でながら言ってくれた。
「あぁ幸せだ。目が覚めるといつでもお前たちが傍にいてくれる、お前たちが笑っていてくれる。俺は生きてきた時間の中で今が一番幸せだ。悔いなく親父たちのとこに逝ける」
桜の花びらがまたハラリと落ちた、あと何枚残っているのだろうか……




