もの言わぬ作業着
その夜の診察はいつも優しい微笑みで少しだけお茶目な女医の宮野先生だった。気心も知れていたのでラウンジで少しお話しする時間をもらい、私はお兄ちゃんとの会話を話した。
「今日・明日だからって……そんなこと言うんです」
「そう言うのあるみたい」
「えっ?」
「亡くなっていく患者さんは自分の逝く日がわかるって言うの。何度か経験ある」
そう言いながら宮野先生の眼からポロリと涙が零れた。
「もぅ、私ったら!医者なのに」
(医者も泣くんだ……)
宮野医師の涙は正直びっくりした。看護師さんが泣くのは何となく分かるけど、医者って絶対に感情移入しないものだと思っていたから。
(でも嬉しい!宮野先生は医者を越えた心でお兄ちゃんに接してくれてるんだ)
そして本当にその夜お兄ちゃんは危篤状態に陥ってしまった。でも「逝かないで!逝かないで!」私の強い意志が神様に届いたのか?昏睡状態になったお兄ちゃんはまた何とか持ち直してくれた。
分かっている。運命に逆らわないためにココに来た……
頭では理解していた。でも実際にその時が訪れようとした時、私は必死でお兄ちゃんが逝ってしまうのを阻止した。逝かないで!私達を残して死なないで!と泣き喚いた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
8月5日。
容体が落ち着いている時を見計らって私は一人で自宅に戻り、お兄ちゃんの部屋にある金庫を手にしたけど……
(これを開けたら、本当にお兄ちゃんが逝っちゃうかも知れない)
不吉な感覚に襲われた私は手にした金庫を元の位置に戻し、頼まれた作業着を用意し始めた。胸のポケットに『一之瀬建設』とネームが入った真新しい作業着を手に取る。
「いつも頭にタオル巻いてたから、これもいるよね」
靴下やタオルを手に取り作業着と一緒に綺麗な風呂敷に包んだ。淡々とお兄ちゃんが家に帰ってくるための帰り支度を用意する。
(あっ靴はどうしよう?安全靴も持って行った方がいいかな?)
玄関にいって安全靴を手にすると、いつもみたいにお兄ちゃんが元気に帰ってくる姿が脳裏に浮かんだ。
『ただいまー、今日の現場はよぉ、ったくテツの奴がやらかしやがって!』
『みんな今日は頑張ってくれたんだ。わりーけど何か美味い物を食わしてやってくれるかぁ?』
『茉緒~、いま帰ったぞぉ』
まお~まお~って、おっきな声で笑いながら帰ってくるお兄ちゃんが玄関にいた。白いタオルを頭に巻いて、日焼けした顔から白い歯がこぼれて、あっはははー!って笑っている。
『ぐぐっ!』
喉の奥が締め付けられ、息もできないほどの苦しい感情が私に重く圧し掛かる。吐き気を催すほどの哀しみ苦しみが襲い掛かる。でも私は必死にそれに気付かない振りをした。
「靴はいらないか」
そう呟いてから……
どんな姿でこの玄関に戻ってくるのか。淡々と何も考えずこなしていた一連の作業が実はどんな辛いものだったのか。私は気付いてしまった。心に蓋をして必死に気付かないようにしていたのに。
もう無理だった。
「うっ!くっ…うぇっ…うぐっ!」
声にならない声を発しながら、作業着を抱きしめたまま泣いた。もうどうにも時を止めるすべがない。
お兄ちゃん
お兄ちゃん
主のいない作業着は何も言ってくれなかった……




