お前に頼む
8月3日。
この日はお昼を少しだけど食べてくれた。
起き上がって自分の身体を自力で支えている事はもう出来ないので、お兄ちゃんが楽な姿勢で食べれるようにベットを斜めに起こし、アチコチ枕やクッションなどで固定してからテーブルの上に食事を並べる。
お兄ちゃんは食事を手づかみで食べる。「手が汚れるから口に運んであげる」と言っても自分で食べると言ってきかない。
「動かせる喜びを、最後まで感じていたいんだ」
そう言いながらゆっくりと料理に手を伸ばす。震える手で一生懸命料理を掴んで、こぼしながら口元まで運び何とか口に入れる。
「お兄ちゃん……いいよ!好きなように食べていいからねっ」
手で掴みやすいようにその都度お皿を移動したり小さくしたりして、一緒に微笑みながら手づかみで私も口にポイポイする。
「姉貴……自分までそうやって食べることねぇだろ」
「えー結構楽だよコレ、二人もやってみなよ」
「お姉ちゃん、お母さんに怒られるよー」
三人でギャイギャイ騒いでいると、お兄ちゃんが嬉しそうに笑う。
「茉緒らしいな、お前はいつまでもそうやって笑っていればいい」
昨夜、これで『さよなら』かと思った。でも今日また4人で笑い合っている。幸せな、ほんとに幸せな一時。微笑み合う、笑い合う、ただこれだけの事が悲しいほど嬉しかった。
食べ終わった手を拭いてあげていると、手は分かるけど足の感覚がなくなってきたと言う。
「えっ?拭いてるのわかんないの?」
「あぁ……」
菜緒ちゃんが慌てて足をさすりだした。
「お兄ちゃん、これは感じる?足さすってるんだけど」
お兄ちゃんは首をかしげたままだ。今度は足を膝から曲げてみた、どうやら曲げていることは感じているらしい。
(感覚がないって?温度も感じないって?どうしてなの?これもガンの仕業なの?)
もう歩けなくてもいい、痛みで苦しまないのならそれでいい。棒きれのようにやせ細った足をさすりながら私達は込み上げてくる涙を必死に抑えた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
8月4日。
この日は朝から具合が悪くずっと薬を投与していた。
ウトウトしていても師長さんが言うように、意識だけはあり私達の声が聞こえているのか?三人の笑い声をずっと聞かせていたからか?兄は昼から元気になった。
「お前たちが煩いから起きちまったぜ、家にいるみたいだな、あはは」
「だってお兄ちゃん聞いてよ、お姉ちゃんったらね……」
「はいはい、そこまでー!お兄ちゃん?クリームパンだよ」
「あそこのか?美味いんだよなぁ」
そう言って嬉しそうに両手でクリームパンを握り締め、ゆっくりゆっくり口に運んだ。暫くは嬉しそうにパンに噛り付いていたんだけど。
「あれ?お兄ちゃん?」
「兄貴?」
お兄ちゃんは両手でクリームパンを抱えたまま、食べながら寝てしまっていた。
「お兄ちゃん、パン食べながら寝ちゃったね」
「うん……寝ちゃった」
なんだかその仕草が可愛くて、赤ちゃんみたいで、私達は微笑んだ。こんな穏やかな時を過ごしていると、まだ傍にいてくれるのかも知れないという期待が脳裏を過る。でもそれは一瞬の期待で夕方からまた苦しみだしついに自力でタンが出せなくなった。
浜崎さんに口からチューブでタンを取ってもらう。ぐえっ!ぐえっ!ってお兄ちゃんの細い体がタンを吸引するたびに苦しさで揺れる。それを見ているのが辛くて、私達は部屋の隅っこで身体をよせ合いながら耐えた。
タンを取り覗いて少し楽になり容体もかなり落ち着いていたので、菜緒ちゃんと健太郎が少しだけ病院を離れ、病室には私とお兄ちゃんだけになった。
水分がとりたいと言うのでベットをおこしストロー付きのコップに冷えたポリカを淹れて渡すと、美味しそうにそれを飲みながら、少しだけ天井の方を見つめたままボソッと呟いた。
「ごめんな。今日、明日の我慢だからな」
「えっ?」
「お前たちに苦労かけて、すまないな……」
兄は天井を見上げ、少しだけ悲しそうに微笑みながらそう呟いた。
お兄ちゃんが見つめている天井の『ソコ』にある気配を感じ取っていた。でも私は見上げなかった『ソコにある気配』その二人の存在を認識してしまったらすべてが終わる、そんな気がしたから、私は決して見なかった。
(何が我慢なの!苦労なんてしてないよ!そんなこと言わないでよ!)
そう怒鳴りたい悲しい気持ちをぐっと抑え、私は努めて冷静に静かに問いかけた。
「わかるの?」
「あぁ……わかる……」
そう言うとまたストローに口を付けて美味しそうにポリカを飲んだ。
(わかるって?自分が死んじゃう事が分かるって言うの?やだっ!そんなのダメ)
「そ、そんな元気にポリカ飲んでる人が今日・明日なんて事ないからっ!絶対にないからっ!」
お兄ちゃんはそれには何も答えず、ただ黙ってストローに口を付けたままだった。静かな、穏やかな、だけど摩訶不思議な空気が二人の間に流れる。
「茉緒、お前に頼みがある」
「なに?」
お兄ちゃんは自分の部屋にある、小さな金庫の開け方を私に教えた。
「……そうして4と5、どっちかに回せ」
「うん、わかった」
その中には財産に関する書類や私達名義の通帳が入っているという。
「お前のはもう自分で管理しろ、菜緒と健太郎のはお前に任せる。時期が来たら渡せ」
以前、財産や会社の事は四人でちゃんと話しあっていた。その内容に変更はないけど、私達名義の通帳があるなんて初めて知った。お兄ちゃんは改めてそれら全てを私に託した。
「お前に頼む……」
「わかった。ちゃんとする、安心していいから、約束する」
涙を堪えながら無理に笑った、逝かないで!と叫びたい気持ちを何とか抑えて私は微笑んだ。お母さんとお父さんが迎えに来てる……お兄ちゃんもそれを感じてるのだろう。
(お父さん、お母さん?やだよ、お兄ちゃんを連れ行かないで!お願い……嫌だよ!)
分かっている。もう本当にその時がきたんだ…
わかっている……
だけど、逝かないで!いやだ!逝かないで!私は心の中で泣きながら、呪文のようにその言葉を繰り返した。
「それと、もうひとつ」
「ん?」
「家に帰る時は作業着で帰りたいんだ、だから持ってきてくれ」
家に帰る時、それは……もう……この世にいないことを意味する。
その意味が分かっていながら、作業着で帰りたいと言ったお兄ちゃん。私はずっと耐えていた感情が一気に溢れ出し「わぁぁーっ!」と泣きながらお兄ちゃんにすがりついた。
「お兄ちゃん!お兄ちゃんっ!」
わぁーわぁー泣く私を優しくそっと抱き寄せて背中をポンポンとしてくれた。その手にもう力はなかった、だけどお兄ちゃんは精一杯の力で私を抱きしめてくれたのだった。




