生きていたい
お父さんとお母さんが見守ってくれたのか?私達が病室に入るとお兄ちゃんは嬉しそうに手を挙げてくれ、この病棟に入院してから一番具合いがよかった。
「お兄ちゃん、今日は顔色もいいね」
「おぅ!お前達の大事な日だ、具合い悪くてたまるかってんだ!俺はやるときゃやるんだ」
「なにそれ、ふふっ」
「でもごめんな、何も祝いを用意してやれなかったな」
(いらないよ、そんなの。お兄ちゃんがいてくれるだけでいいんだよ……)
すまなそうな顔をしたお兄ちゃんに何も言えず、私はただ微笑みながら首を横に振った。少ししんみりしてしまった空気を消そうとしたのだろう。
「あはははっ!今日はめでたい!いい日だ」
笑い声が病室に響く。無理している部分もあっただろう……無理が大半だっただろう、でもお兄ちゃんは笑った、おっきな声で笑ってくれた。
その笑顔が、笑い声が、何よりの結婚祝いだった。
何にも代えがたい、一生の宝物となる結婚祝いだった。
それから、ゆっくり、ゆっくり、丁寧に私達の婚姻届にサインをしてくれた。『一之瀬拓哉』欄からはみ出ながら、震えながら、一生懸命書いてくれた。
(お兄ちゃんのサインで結婚できるんだ)
「お義兄さん、ありがとうございます」
「達郎君、茉緒を頼んだぞ」
「はい、必ず幸せにすると約束します」
「それと……コイツらのことも頼むな?」
お兄ちゃんは、少し切ない顔で菜緒ちゃんと健太郎を指差した。
「俺はもうすぐいなくなる」
「お兄ちゃんっ、何言ってっ……」
そう言って止めようとした私を達郎の腕が制する。達郎は真っ直ぐにお兄ちゃんをみつめ「はい」と静かに頷いた。何とも言えない張りつめた空気が漂う。
「父親も母親もいない、そして今度は俺だ」
「はい……」
「コイツらは誰が守ってやればいい?だから俺は死ねない、死んでたまるか!って思っていた。だがもう観念しなきゃなんねぇ時がきた」
我慢できなくなって達郎の腕にしがみつきながら泣いた。菜緒ちゃんも健太郎もその頬に涙が零れ落ちている。
「なんで俺が。なんでコイツらがこんな辛い想いばかりしなきゃなんねぇんだ?何も悪いことなんてしてねーだろ?なんでだよっ!そう思って運命を呪った時もあった」
お兄ちゃんは天井を見上げて吐き出すようにそう言ってから、また真っ直ぐに達郎を見た。
「観念したと言ってる今だってよ、ホントは……俺、死にたくねーよ」
「はい」
「生きていてぇよ……死にたくなんてねーんだよっ!まだコイツらと……生きていてぇんだ……」
生きていたい、まだ死にたくない。お兄ちゃんは悔しそうに唇を噛み、だけど少しだけ笑みを浮かべながらそう言った。そしてその頬に一筋の涙が流れ始めた。
「だがよぉ、どうあがいても何をどう頑張っても、どうにもできねぇ事ってあるんだ」
そう言ってから自分の手をじっと見つめ、そしてぎゅっと握って、悔しそうに顔を歪めながら、ホントに悔しそうに泣きながら心の闇を吐き出した。
「まだまだ生きて俺はコイツらを守ってやんなきゃなんねーんだ。俺が弱音吐いてどうすんだよ!でもよぉ、もうどうにもできねぇんだよ、生きていたくても……もう……だけどよ、死にたく……ねぇよ」
初めてだった。
ガンと知ってからもお兄ちゃんは私達の前では強かった。泣き言なんて一度も聞いたことない、ましてや泣き顔なんて見た事なかった。
「達郎君、茉緒を頼む、コイツらを頼む……」
お父さんとお母さんが死んだ時もお兄ちゃんは泣かなかった。ガンと知った時だって毅然とした態度でずっと前を見続けてきた。それは全て私達のためだったんだ……
「約束します!必ず、茉緒も菜緒ちゃんも健太郎君も、俺がお兄さんの代わりに守ると約束します」
「すまねぇな、すまねぇな……」
頼む、コイツらを頼む……
お兄ちゃんは達郎が差し出した手を握り、何度も何度も泣きながら頭を下げていた。それから少しだけ厳しい顔を私達に向けて、私達を傍に呼び静かに話し出した。
「決して忘れるな?生きていたくても死ななきゃなんねぇ辛さに比べたら、生きているうちの悩みや辛さなんてちっぽけなもんだ。絶対に乗り越えられるんだ」
「うん…」 「はい」 「兄貴…」
お前達は一人じゃない。乗り越えられない試練なんてない。明日がある幸せを絶対に忘れるな。生きていたくても、それが出来ない悔しさや辛さに比べたら何でもねーぞ?お兄ちゃんはそう言って私達の前で初めて悔し涙を流した。
「これからは、みんなで力を合わせて乗り越えていくんだぞ」
生きてりゃいろんな事が起こる。イライラしたり落ち込んだり、辛くて悲しい思いをすることもある。時には誰かに傷つけられ二度と立ち上がれないと思うくらいの暗闇に落とされることだってあるかも知れない。立ち上がるには苦痛も伴うだろう、だが絶対に立ち上がれるんだ。
「それが生きてるって事なんだ。明日がある、未来がある、それが幸せなんだ」
この目を閉じたらもう目覚めないかも知れない。お前たちの顔を見る事がもう出来ないのかもしれない、目を閉じるたびに意識が遠のくたびに死の恐怖が訪れる。
『死にたくない、まだ生きていたい』
「そう思う毎日がどれだけ悔しい事なのか、お前達ならわかるだろう?」
これから出会う沢山の人達を愛して、笑い合って、後悔のないよう前を向いてしっかり生きていけ。一生懸命生きていくんだ。お兄ちゃんはそう言って、穏やかな、とてもとても穏やかな顔で微笑みながら私達三人を抱き寄せた。




