婚姻届けにサインを
緩和ケア病棟入院の初日は健太郎が泊る事となった。三人で話し合った結果、一人だけならフカフカのソファで苦痛なく寝れるので、菜緒ちゃんと健太郎が交代で泊まる。私も泊りたかったんだけど午前中だけ仕事をしなければならないし洗濯とかの家事もあるので二人に反対されたのだ。
「ここでお姉ちゃんが倒れたら大変なんだからねっ!」
お兄ちゃんは誰も泊らなくていいと言ったんだけど、それは私達が「いやだー!」と騒ぎ納得してもらった。実際いつ何が起こっても不思議じゃない状態が続いていたから。
肩甲骨と背中の痛みは横隔膜への転移によるもの。
足の麻痺と排尿困難は脊髄への転移によるもの。
がんの進行が早すぎる。お兄ちゃんの身体はガンに全てを食い尽くされていた。入院した日、緩和ケア部の丹野医師の口から出た言葉は?「もう週単位で考えてください」だった。
今日のお兄ちゃんの様子が何となくいつもと違い気掛かりだと言う菜緒ちゃんは病院に残り、私は達郎が迎えに来たので二人に強引に帰宅させられた。
「初日くらい三人で泊まってもいいのに、二人してもぅ!」
「ははっ、二人ともお前の身体を考えてるんだ。実際この状況で倒れたら大変だろう?」
「うん……今は大丈夫、だけど来週は分からない。先生がそう言ってた」
「そうか…」
車の中で泣いた。声をあげて泣いた。
そんな私を達郎は何も言わず、帰宅するまでただ黙って泣かせ続けてくれた。
「達郎お風呂すぐ入る?準備しようか?」
「いや、あとでいい。それよりコレ」
達郎はそう言ってカバンの中から何枚もの紙切れを出した。
「えっ、コレって?婚姻届……だよね?」
「あぁ、明後日に結婚するぞ」
「ふーん………って!?えぇぇぇぇぇーーーっ!」
いきなりの爆弾発言に私はただただ驚いて、持っていた婚姻届の束を床にばら撒いた。
「ったく、何すんだよ大事なものを放り投げるヤツがあるか」
「だって、だって、明後日って……結婚って……」
ばら撒いた婚姻届を拾いながら、達郎は静かに、そしてゆっくりと言った。
「この保証人のところに、お兄さんのサインをもらおう」
「えっ?」
「もう時間がない……」
「達郎」
「ここにサインを……お兄さんの手で書いてもらうんだ」
達郎はそう言ったきり、下を向いて黙ってしまった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
私達の婚姻届の保証人の欄に、お兄ちゃん自身の手でサインをしてもらう。達郎はそう言って「婚姻届」を用意してくれた。そこには達郎の名前と達郎のお父さんの名前がもう記入してあった。
お兄ちゃんにはもう字を書く力は少ししか残ってないだろう、でもまだ何とか書けるはずだ。だから達郎は何十枚も婚姻届を用意していた。何枚失敗してもいいように、どうしてもお兄ちゃんにサインをしてもらう為に……
「ありがとう、達郎、ありがとう!」
その温かな胸に飛び込み、泣きじゃくる。優しさが嬉しくて、見えている未来が悲しくて、涙が溢れて止まらなかった。
「でな、えっと…その…なんだ」
泣いている私を片手で抱きながらもう片方の手で頭をポリポリ。見上げると?なんだかとても照れくさそうな顔をしている。
「その、順番が逆っていうか、何とも間抜けなんだが?」
「ん?」
達郎は私の両肩を抱いて、スーッと息を吸って真剣な顔で私を真正面から見つめた。
「俺はこれから先、お前の為に生きていきたいと思ってる」
「……」
「俺の嫁さんになってくれるか?これからの人生を俺と一緒に歩いてくれるか?」
2度目のプロポーズ……
前に一度聞いた。あの時はお兄ちゃんと健太郎をこの家に残してお嫁には行けないと思って「少し待って」と答えた私。あれから達郎はずっと待っていてくれた。そして今また同じ言葉を言ってくれた。泣きながら何度も何度も頷く私をホッとした顔で抱き寄せて、頬に優しくキスを落としぎゅっと抱きしめて言った。
「結婚しよう。お兄さんのサインが入った婚姻届で。幸せになろう、お兄さんの分も」
「達郎…」
「もう時間がない。悔しいけど現実だ」
「……」
「だから、お兄さんからちゃんとお前をもらいたい。そして安心してもらいたい」
もうすぐお兄ちゃんは逝ってしまう。それがわかっているからこそ達郎はいまプロポーズしてくれた。
(お兄ちゃんの手で、私達の婚姻届にサインを……)
その夜、私は久しぶりに達郎の温もりに抱かれて眠った。愛しい人の腕の中で、何日かぶりに訪れた穏やかな眠りだった。明け方、病院に泊っていた菜緒ちゃんからの電話で起こされるまでは。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
『お姉ちゃんっ!お兄ちゃんが!おにいちゃんがっ!』
そう泣き叫ぶ菜緒ちゃんの背後から聞こえる、健太郎の悲痛な叫び
『兄貴っ!逝くなよ!まだ逝くなよっ!』




