それぞれの想い
緩和ケア病棟の見学と説明そして琴音さんとの出会い。私達は病棟を出てから無言だった、何か心に重く圧し掛かったような、重かった何かが取れたような、この気持ちが何なのか言葉では言い表すことが出来なかったから。
「ねぇ病室に戻る前にCaféに寄っていかない?健太郎がいるからお兄ちゃんは大丈夫だよ」
それぞれ注文した物を飲みながら、私も菜緒ちゃんも多分同じ事を考えていた。今こうして好きなものを普通に口に入れて美味しさを味わう事が出来る、これから恋をして結婚して子供を産み家族をつくる、こんな当たり前な事がどれだけ幸せな事なのか……お兄ちゃんを見てきて分かっていたつもりだったけど、同年代の琴音さんをみたショックは大きかった。
「そだ、菜緒ちゃん、いつ東京に戻るの?会社の休みはいつまでもらったの?」
「ん?もう戻らないよ、荷物届いてるでしょ?」
「そう?って!えぇっー!戻らないってどういう事!会社辞めたの?菜緒ちゃんまでー!?」
「そんな大声ださない!ったく……」
「ご、ごめん。だってびっくりして」
周りにいた人達が一斉に私達を見たので、私はあわてて口元を抑え「すみません」と口パクしながらチョコンと頭を下げた。菜緒ちゃんは会社に事情を話したら、在宅勤務の体系を取らせてもらえたらしい。
「私の仕事はPCとネット環境さえあれば何処で仕事しても同じだからね。辞めてコッチに帰ろうとしたんだけど先輩や上司が動いてくれてさ、会社もこれからの時代に沿う試しの意味でもやってみようって事でOKがでたんだ」
「もう健太郎も菜緒ちゃんも、いきなり凄い事やらかすんだからびっくりだよ」
「いきなりじゃないよ。健太郎は達郎さんに色々相談してたみたいだよ?」
「えっ!達郎そんな事ひとことも言わなかったよ?」
「お姉ちゃんは会社とお兄ちゃんで精神状態ギリギリだったもん、そりゃ言わないよ」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
病室に緩和ケア部の丹野ドクターと小松師長さんがきた。もう治療はしない病棟……それがどんな意味を成すのか?お兄ちゃんは理解したはずだ。二人とも隠し立てや誤魔化しなどせず、私達に話したのとまったく同じ内容をお兄ちゃんにしているが、会話の仕方が違う。二人ともさすがスペシャリストだなと思わせる対応だった。
「いかがですか?見学にいらしてみませんか?」
丹野医師の言葉を真剣に聞いていたお兄ちゃん。最後に小松師長さんにこう問いかけられチラリと私達をみた。私はどんな顔をしていいか分からなくて、泣き笑いのような酷く間抜けな顔をしてウンウンと頷いてたらしい。後から菜緒ちゃんに「あんな顔したらお兄ちゃんに私達が先に見学してたのバレバレじゃない」と怒られたから、よほど間抜けな顔をしていたんだろう。
「健太郎、一緒にいってくれ」
「えっ?あっ、うん」
お兄ちゃんは私ではなく健太郎と一緒に行く事を望んだ。私がその話に賛成してることが、空気としてお兄ちゃんに伝わったんだろう。そしてその決断がどれほど辛いものだったのかも理解した。健太郎の話によると、お兄ちゃんはサラッと中を見学しただけですぐに帰りたがったらしい。そしてずっと下を向いて無言のままだったと……
お兄ちゃんが納得したのかどうかわからない、だけど静かに承諾し、緩和ケア病棟への移動がその日のうちに決まった。すぐに部屋の予約をいれたが待ち状態だったのでもう少し今の病棟にいるが、主治医は藤岡医師から緩和ケア部の丹野医師に変わった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
入院してからのお兄ちゃんは、相変わらず痛みはあるものの家にいた時よりずっと元気だった。だけどガンは確実に進行している、それも急速に。このままでいいからせめて秋まで……と願わずにはいられなかった。
7月16日。この日のお兄ちゃんは朝から体調も良く顔色も良かった。しばらくベットの上に座って外を眺めていたが、私達三人を近くに呼び真剣な顔つきで話しだした。それは自分が死んだあとの話だった……
不動産の事、会社の事、預金の事、財産分与の事
「兄貴もういいって!大丈夫だから、俺達ちゃんとできるから」
「お前達がちゃんと出来るのはわかっている、だが大切な事だ。文面で残してはいないがお前達なら大丈夫だな?」
「当たり前でしょ。お兄ちゃんがお父さん達のとこに逝っても……お姉ちゃんを支えて健太郎を殴りながら……ちゃんと三人で仲良く暮らしていくから」
ぜんぜん大丈夫だから、心配なんてしないで……大丈夫だから……
菜緒ちゃんが泣きながら初めて口にした、お兄ちゃんがいなくなる、そう遠くない未来の事を。
「お兄ちゃん……私達、ちゃんとやっていくから……安心していいから……」
「兄貴には届かないけど、俺、頑張るから、一之瀬建設は必ず守り抜くから、約束する」
それぞれが、それぞれを思いやりながら、最後の時間をお兄ちゃんと共に……
私達は今日初めて、お兄ちゃんが逝ってしまうという事を認めたうえで言葉を発した。




