緩和ケア 心の葛藤
藤岡先生に緩和ケア部のドクターと会ってみませんか?と言われたその夜、お兄ちゃんを健太郎に任せて私は達郎のアパートにきた。
「ココで茉緒と二人きりで飯食うの久しぶりだな」
達郎は、土日が休みでない健太郎の代わりにいつも休みの日は家に来てくれていた。どうやら二人の間で絶対に私を一人にしないと決めたらしい。健太郎は診察日は何があっても休みにして一緒に来てくれる。そして昼間は源さんやテツ君たちが見守ってくれ。東京で一人暮らしの菜緒ちゃんは毎日のように全国の美味い物をお取り寄せで送ってくれて、まるで全国を旅しているような我が家の食卓だ。
こうしてみんなに支えられながら闘ってきた。奇跡を信じて闘ってきたんだ。なのに癌という魔物はお兄ちゃんの身体を全て食いつくそうしている、その勢いは止まるどころか加速していた。もう誰もソノ魔物を止めることはできないんだ。
「先生がね……」
「うん」
この夏を越えることは難しい事、緩和ケアを紹介されたことを達郎に話す。
「うっ……く……っ……ぐっ」
声にならない悲痛な泣き声。私はいつからか声を出して泣くことを忘れてしまっていた。
「茉緒っ!」
ぐっと達郎の腕が伸びて私を抱き寄せた。温かな愛しい人の腕の中、その優しい胸に顔を埋めて私はやはりググッと声にならない泣き声をあげる。
「茉緒いいんだ、ココでは声出して泣いていいんだ。今夜は思いっきり泣け」
達郎は私の頭を抱えながら優しい声で、我慢しなくていいんだと何度も何度も頭を撫でてくれた。凍りついていたガチガチの心がゆっくりと温かな愛で溶かされていく。私は思い切り声を出して泣いた、ワーワーと子供みたいに泣きじゃくった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「落ち着いたか?」
ワーワーと思い切り声を出して泣いて、ずっと達郎に抱きしめてもらって、私はひっくひっくしながらもなんとか落ち着き、緩和ケアのことを達郎に相談した。
「お兄ちゃんはもう医者に見放されたんだ、だから緩和ケアにって……」
「それは違うぞ?緩和ケアは見放された人がいく場所じゃない」
「でもっ!あそこはただ死ぬのを待つだけの場所だよ、ホスピスってそういう所でしょう」
「お前は緩和ケアの意味を誤解してるぞ?」
緩和ケアは決して負けた人がいく場所ではなく、最後に勝つために、そして自分らしく人間らしく最後を迎えるために、何より残していく愛する人達のためにいく場所だと達郎は話してくれた。
「あの病院の緩和ケアを調べてみたんだ、かなり評判はいいらしい」
「いつのまに……」
「お前たち三人は当事者すぎる、特にお前と健太郎君はお兄さんに近すぎて冷静な判断ができないだろうから、差し出がましいと思ったが事前に調べておいた」
「ううん、ありがとう」
達郎のお陰で誤解していた緩和ケアの本当の意味を知り、私はホッと胸を撫でおろしたのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「緩和ケア」の話を菜緒ちゃんに電話で話すと、菜緒ちゃんも色々調べていたみたいで、この病院の緩和ケアの評判はいいらしいと言っていた。そして医師からその言葉が出たのなら前向きに考えた方がいいだろうと言う。
「私は賛成かな」
「なおちゃん…」
「誤解しないでよ?諦めたんじゃないよ?もう死んでもいいと思ったんじゃないよ?」
「それは分かってるよ。達郎にコンコンと説教されたから、ふふっ」
「とにかく一度、そこを見学させてもらおう?お兄ちゃんに言わなければ問題ないよ」
「でも…」
「お姉ちゃん?苦しんで苦しんで死んでいくお兄ちゃんを見たいの?私はそんなの嫌だよ!」
「うん…」
「緩和ケア部のドクターとの話は私も立ち会うよ」
「会社は?大丈夫なの?」
「大丈夫。ってかさ明後日辺りに私の荷物がそっちに届くから受け取っておいて」
「荷物?いいけど、なに?」
「あとで詳しく話すよ。パソコンとか色々段ボールが10個くらい届くから、私の部屋に入れといて」
段ボール10個なんてなんだろうと聞き返そうとしたんだけど、仕事に戻るからまたねと切られてしまった。その時の私はまさか菜緒ちゃんがあんなことを考えていたなんて思いもしなかったのだ。
健太郎は菜緒ちゃんとは真逆の意見だった。
「冗談じゃねーよ!兄貴は諦めてねーんだ。俺達が諦めてどうすんだよ!」
「だけど、もう治療もできないんだよ?進行が早すぎるって…」
「この半年の兄貴の頑張りを一番側で見てきたんだろ?なのに…なのに、なんでそんな事言うんだよ!」
「健太郎…」
「あんな必死に頑張っている兄貴になんて言うんだ!もう何してもダメです、あなたは死ぬのを待つだけですって言うのかよっ!」
「そんな……」
「オレは緩和ケアなんて認めねぇ!死んでもいいだなんて…オレは、オレは、絶対に諦めないからっ」
どちらの気持ちも私の心だった……




