①お兄ちゃんの浮腫んだ足
「一之瀬さん、どうぞこちらに」
眼鏡の奥の優しそうな瞳が少しだけ揺れている、そんな表情の医師に小さな部屋に案内された。
薄暗く、ベットも何もない、机とシャウカステンとパソコンがあるだけだった。
パチッと先生が部屋の電気をつけ、「どうぞ」と椅子に座るよう私を促す
「ちょっと待ってくださいね」
先生はパソコンの電源をいれて、キーをパチパチ叩いていた。
病院についてからの一連の出来事を思い返し、いやな予感で身体中が震えている。
そして、何枚かのCT画像が画面に映し出された。
(うそでしょ…)
私は、崩れ落ちそうになる自分を支えているのがやっとだった……
そう、この瞬間から私達の苦しく辛い闘いが始まったのだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「お兄ちゃーん!お弁当!お弁当忘れてるよー!」
トラックのエンジンをかけ、今にも発進しそうな兄に弁当と水筒を持って駆け寄る。
「おー!ごめんごめん、すっかり忘れてた。今日は現場から動けないからな、忘れたら日干しになるとこだった。ありがとな」
「はーい、気を付けていってらっしゃい。みんなも気を付けてねー」
兄に続いて出て行く従業員の車も笑顔で見送り、私は腕まくりをして家事に取り掛かった。
(さぁて、今日は色々と用事があって忙しから、さっさと家事を終わらせなきゃ!の前に…)
洗濯機のスイッチをいれて、私はバタバタと二階に駆け上がる。
「健太郎!ほら起きなさいっ、遅刻するよ」
「んんっ…もうそんな時間かよ、はぁ休みてぇー」
「なにバカな事いってんの、お兄ちゃん達はもう出かけたよ」
「まだ6時過ぎだぜ?現場遠いのか?」
「うん、ほらっ、姉ちゃん今日は忙しいんだからさっさと起きて!」
(もう少しだけ寝かせてあげたいけど…心を鬼にして)
ガバッと布団をめくり、昨夜も遅くまで仕事をしていた弟の健太郎を無理やりベットから剥ぎ落す。これが私の一日の始まり。兄を送り出し弟から布団をはぎ取る。朝の恒例行事である。
私、一之瀬茉緒27歳、悲しいかな独身。さっきトラックで出かけた兄は我が家の大黒柱で一之瀬家の長男である拓哉、「一之瀬建設」の社長さん。そしていまベットから剥ぎ落したのが弟の健太郎24歳、某ハウスメーカーで設計士をしている。事務所兼自宅に家族3人で暮らしてるの。
そうそう、忘れちゃいけない…25歳の妹がいるんだけど、名前は菜緒。都会で一人暮らしをしているOLさんです。これがまた生意気なんだ、きょうだいの中で一番頭がよくて冷静沈着なお方で何事にも動じない。
私達の両親は5年前に交通事故で、二人とも仲良く一緒に天国に逝っちゃったの。
もともと二代目として仕事をしていた兄がそのまま社長となり、父の残した会社を継いでいる。私はその時大学卒業を控え、就職も建設会社に内定が決まっていたんだけど、お兄ちゃんを助けたくて「一之瀬建設」に入社しちゃったわけ。
両親が逝ってしまった時、妹も弟も大学生だったので、私はそのまま母の代わりになり、家庭の事はもちろん、母がしていた会社の事務をやりお兄ちゃんを助けるって決心したんだ。会社は儲かってるわけじゃないけど、お兄ちゃんが頑張ってくれて父の代からいる職人さん達も兄を認めてついてきてくれているので、何とか存続している。
一連の家事も終わり、事務所のシャッターをあけて営業開始。ご施主さんとの打ち合わせやデザインの提案、関連会社への連絡や役所への申請手続き、そして経理と全ての事務仕事を一人でこなさなければならない。お兄ちゃんは「事務員入れるか?」って言ってくれるけど、私が一人で頑張れば何とか追いつく。
(余分に給料払えるほど、会社に余裕ないし…)
そんなこんなだから、大学時代から付き合っている彼とのデートもままならない。一度その彼にプロポーズされたんだけど、私は家を捨てることは出来なかったから断ったんだ。彼はうちの状況をよく知っていたから「茉緒の決心がつくまで待ってるよ」って言ってくれたんだけど……
(そろそろ色んな事も考えなきゃいけないよね…)
と思いつつも、日々忙しさに流されていく毎日を過ごしていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
バタバタした一日も終わり、事務所の玄関を掃き出しながら「うーんと」と背伸びをして夕日を見つめる。今日は夏日となり暑い一日だったので、何かさっぱりした夕飯を用意しようとアレコレ献立を考えながら掃き掃除を続けていた。
(最近お兄ちゃん体調良くないみたいだし…何か元気が出る献立の方がいいかなぁ)
私は、ここ数か月の兄の様子が少し気になっていた、時々しんどそうな顔をしているし。「具合い悪いの?」って聞いても、「ここんとこの暑さに負けてるだけだ、歳かなぁ」なんて誤魔化されちゃうの。大好きなお酒の量も減ったし、いやコレはいい事なんだけどね。事務所を閉めて買い物にきた私は、スーパーの肉コーナーの前で悩んでいた。
(さっぱりと肉しゃぶサラダにしようか、いやココは思い切ってステーキにするべきか…)
連日の暑さで身体が参っているのかも知れないしと色々悩んだ結果、ステーキ肉に手を伸ばす。私と健太郎は外国産の安いお肉で、お兄ちゃんのだけは国産の柔らかそうな高級肉をカゴに入れた。
『うーん♪口にいれた途端に溶けてなくなりますねぇ~』と食レポできそうな感じの、一枚2980円もするお肉を大奮発!
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「ただいまー」
「お兄ちゃん、おかえりっ!お疲れ様でしたー」
今日も暑かったなぁなどと話しながらキッチンで水をゴクゴク飲む兄の後姿に、私はやっぱり何か違和感を感じた。
(何か変なんだよね…)
「今夜はステーキだよぉー、しかもワイン付き!」
「おっ、それは楽しみだなぁ、じゃ風呂入ってくる」
そう言って歩き出した時だった、グラリと兄の身体が横に揺れた。
「お兄ちゃん!」
慌てて駆け寄って身体を支えようとしたけど、その前に兄はしっかりと立ち、まるで何事もなかったかのような顔で笑った。
「あはは、足がもつれちまった、今日の現場はきつかったからなぁ。風呂でゆっくり温まって旨いステーキ食って栄養つけるか」
「お兄ちゃん…」
「なんだそんな顔して、大丈夫だ、何でもないさ」
その後、夕飯でステーキを美味しそうに食べてくれたけど、時折口に手をあててむせるような仕草を繰り返した。
まるで飲み込むのに苦労しているような……
「ごめん、少し安いお肉だったから硬かったかな?飲み込むの大変?」
「ん?あぁちょっとだけ大変かな。でも味は美味いぞ!、いつもありがとな」
(硬いはずない、やっぱり変だ…)
「お兄ちゃん、もし具合いが悪いなら病院に行こう?」
「あ?大丈夫だ。少し風邪をこじらせただけだから心配すんな」
「でも…酷くなったら大変だから、行こうよ」
「何言ってんだ、仕事休んで病院になって行ってられっか!」
こんな調子で兄は全然私の言う事を聞いてくれなかった。
暑い夏が過ぎ、やっと現場仕事も少しは楽になる秋が過ぎ、風が冷たい冬がやってきた。兄の体調を気にしながらも、仕事に追われバタバタと過ごす毎日。何度か病院に行こうと誘うけど、兄の答えはいつも決まって「休んでなんていらんねーんだ」
健太郎も「兄貴一度医者に診てもらった方がいいんじゃねーの?」って言ってくれたんだけどダメ。なおちゃんにも相談したんだけど、普段のお兄ちゃんを見ていないから、私の気にし過ぎだと言うし……
そして、今年もあと一日で終わろうとしていた大晦日。なおちゃんも帰ってきて、家族4人で年越しを迎える恒例の大宴会の時だった。何気なく兄の足をみた私は目を疑った。
(な、なにっ!なんでそんなにパンパンに浮腫んでるの!)
胡坐をかいて楽しそうにお酒を飲んでいる兄に駆け寄って、思わずズボンをまくりあげた。
「お兄ちゃん!なんで、なんでこんなに足が浮腫んでるの!?いつからなの!」
兄は少しだけバツが悪そうに、ポリポリと頭を掻きながら「よくわかんねー」と言った。
(こんなの普通じゃない…絶対におかしい!)
私が真っ青な顔をして、兄の足をさすっていたからか、健太郎となおちゃんが傍によってきて兄の足を見た。
「兄貴…なんだよコレ」
「お兄ちゃん、これ普通じゃないよ?わかってるの?」
二人とも兄にそう言ってから、さすがに真剣な顔で私の方をみた。
「お兄ちゃん!もうダメ、年が明けたら病院に行こう!私ついていくから」
「…」
「お兄ちゃん!お願いだから!年が明けたらすぐに…」
私はここまで言うと涙がポロポロ零れてきてしまって、声にならない声で「お願いだから、頼むから」と泣き崩れた。
兄は自分でも、もう何かがオカシイと感じていたんだろう。足をさすりながら泣き崩れている私の頭を優しく撫でながら、病院に行くと約束してくれた。




