はじまり≪その1≫
あぁ、まだ慣れないな。
【環境ドッキングを開始します。よろしいですか?】
老人に機械を動かせると思うのか…?まったく。うぅむ…これか?
震える老いた指先は、『YES』という文字に触れた。
【環境ドッキング、開始。設定完了まで10秒前、9、8―――】
はぁ…しかし、これで本当に見れるのか?私の―――
【環境ドッキング、設定完了。承認をお願いいたします】
あーあー。うるさいうるさい、わかった。んん……こ、これだな?
【承認完了。ニコラス。 The good past 《よい過去を 》.】
トンネルを潜り抜けるように、真っ白な視界は走っていく。
不意に真っ暗になったと思いきや、彼はぽつりとその場に立っていた。
緑が生き生きとした場所。
素足に触れたのは濡れたコケや固い岩。
とてもおいしい空気が、鼻先をかすめていく。
木漏れ日が彼にあたる中、とても嬉々とした表情でこう言った。
「あの森だ!!」
年老いた行動など、すでに捨て去られたかのようにスキップをし、走り回った。
*
朝。
彼はいつものように目を覚まし、歩けるのにもかかわらず愛用の車椅子に乗った。
「あぁ、今日もいい日だ」
これも日課。
ピッカピカのコーヒーメーカーが淹れ、アーマーが運んでくれたコーヒーを片手に。
「何度言ってもわからんようだな。俺の家の前にホバーを置くな郵便野郎!!!」
怒鳴り散らした。
申し訳なさそうな郵便局の若者は、発車しだせば『あのクソジジイ』と彼を呪うだろう。
これが毎朝の日課以下略である。
「さて、見納めだ」
螺旋階段へ接続すると、エレベーターのように車椅子ごと上っていく。
着くと同時に跳ね上がるように乗り捨てて、窓の前のベンチへ腰かけた。
そこは家の壁から突き出たようにして作られた、一面ガラス張り。
故に、世界が一望できる。
「なぁ、べス。今日もわっるい空だぞ」
写真片手に、ぼんやりと空を見上げた。
上や下を、高速でホバーたちが通り抜ける風切り音。
「ほら、あそこで子供が遊んでいる。お父さんとお母さんかな。ほほえましいな、べス」
少々(しょうしょう)切なげな声でつぶやいた。
機械だけが発達し、外見やその他は昔とそう変わりない。便利に『なりすぎた』世の中だ。
こんな鬱陶しい場所とは、今日この日から別れを告げる。
視線の先。昔、それはそれは高かったであろう格安のログハウスのチラシ。
「べス、こんな場所とはおさらばだな。お前の好きなとこ行くぞ」
そうね、と。優しげな声が聞こえた気がした。
「はい、ありがとうございました。これで、以上です」
「ご苦労様です」
「いえいえ。ではでは、またのご利用を」
ごついヘッドセットから垂れた線が、腹の前の空気を叩いていった。
「だらしないものだが、仕事は丁寧だったな。べス」
白髪と髭が森林の風に吹かれる。
「いいところだ。大都市から大きく離れて、唯一の森。土地も私のものだ」
決して誰にだって譲ってやるものか。
ここは俺たちの思い出の場所なんだ。
俺が兄、べスが妹のような、幼少期は互いに大切な存在だった。
大きく成長し、意識し合うようになり、大人になって……。
ただ近所に住んでいるやんちゃな女の子から、みるみると大人の女性になったな。
俺の方が年上だったのに、頭が上がんなかった。
いくらでもお前のことは思い出せる。
とてもとても、大切な―――。
ハッと我に返ってとぼとぼと、玄関前へ。
「べス、ただいま」
木々の香りと軋み音を振り撒いて、扉は開かれた。