死の嵐
「つう……ッ」
エルレイスは手綱を握ろうとして、激痛に眉をしかめた。
追いついてきたサグサワルは、それを見逃さなかった。
「怪我を?」
「右の手首を痛めたようだ。あの男、凄まじい打ち込みだった……」
先程、バリラットの渾身の一撃を受け止めた時である。
ひとまずの危機を脱して、麻痺していた痛覚が戻ってきたのだ。
サグサワルが、器用に馬を寄せる。
「なぜ、あそこで姿をお見せになった。闇に紛れて敵の馬を奪う手筈であったでしょう」
「ああ……ただ、名乗りを上げる敵に不意打ちを仕掛けるのが潔くないと思われたのだ」
感情を滅多に表に出さないサグサワルだが、このときばかりは表情が硬くなった。
彼は戦場に感情を持ち込むことが危険だと知っている。
個人の資質はさておいて、とかく出自の良い者ほど目先の戦いに意義を見出そうとするものだ。
しかし、騎士の誇りや善悪へのこだわりといったものが戦場において、まず間違いなく味方の不利を呼ぶことを嫌というほど身に沁みて知っていた。
多くの兵を率いる指揮官ならば、それはより顕著である。
サグサワルは過去にも戦い方や勝ち方にこだわって多くの兵を犠牲にする指揮官を多く見てきた。
彼のような幾多の戦場を生き抜いてきた傭兵たちは皆、その経験に則した完全な現実主義というものを持っており、彼らにとっては『騎士道』というものが、融通の利かない、自信過剰な独りよがりに思えてならないのである。
そんなものが戦況を好転させることは決して無い。
「それも騎士の誇りか?」
サグサワルの口調も、自然ときつくなった。
エルレイスはゆっくりと首を横に振った。
「いいや」
「?」
「負けず嫌いなんだ、私は」
彼女はそう言って、少し笑った。
それは、先程までの精悍な女将軍のそれとはまるで違う、見る者の毒気を抜くには十分なほど、いたずらっぽく無垢な表情だった。
サグサワルは溜め息をついたが、苛立ちは少しおさまっていた。
しばらく馬を走らせると、ようやく森を抜けた。
それと同時にティガロの山際が、少しずつ白んできた。
世界が少しずつ、その輪郭を露わにしていく。
夜明けだ。
エルレイスは目を細めた。
まさか、生きて再び夜明けを迎えることができようとは!
オラービジットの森の中では高潔な死を望んでいた自分が、これほど生あることへの喜びを噛みしめている。
そうした自己矛盾に思い至ると、心の中にたちまち羞恥に似た感情が湧きあがってきて、彼女は眩い陽光から少し目をそむけた。
気を紛らわせるために、これから自らがとるべき撤退行動の手筈を反芻してみる。
もう少し馬を走らせれば、古いスヴァルト語で奔流を表す『ディーラート』と呼ばれる大河に差し掛かるはずである。
そして、それにかかっている橋は一つしかない。
ティガロの山から切り出してきた頑健な石を正確に削りあげ、少ない継目で組み上げた非常に頑丈で立派なものだが、有事に備えて、要所要所に打ち付けてある鎹を外せば、容易に落とすことができるようになっている。
渡ったあとにその仕掛けを使って橋を落としてしまえば、少なくともあと三日ほどはガシアンの侵攻を抑止することができるだろう。
二人は最後尾でしんがりを務めていたので、後ろに残してきた者はいないはずであり、したがって、橋を落とすことに躊躇いを感じる必要は無い。
エルレイスはサグサワルにもそれを説明した。
彼は言葉を返さずに頷いただけだったが、不満は全く無さそうなのを見て、エルレイスは安心した。
この寡黙で屈強な歴戦の傭兵が同意したのならば、この作戦は大丈夫だ、という太鼓判をもらったような気になったのだ。
あとは本国へ、あの聡明なる王と愛らしい王女の待つ城へ無事に帰還するだけである。
予定外のことさえ起きなければ、後の行程には大きな困難は無いはずだ。
そう、予定外のことさえ……
「待て、サグサワル!」
川を越える橋が見えた時、エルレイスは慌てて手綱を引き、馬を止めた。
「どうした」
「あの橋のたもとに陣が張ってある。見えるだろう」
「それが?」
「あれは我が軍の陣ではない」
サグサワルはその言葉の意味をすぐに理解した。
戦場においては、味方でなければ敵ということである。
都合良く橋の両脇に小高い丘陵があったので、冷静なサグサワルの提案で二人は馬を大きく迂回させ、橋の見下ろせるその高台へと向かわせた。
見上げる側からは死角となるような大岩を見つけたので、そこで二人は素早く馬を下り、身を低くして敵の陣営の様子を窺った。
「なんということだ……先回りされていたのか……」
エルレイスが身を伏せたまま、悔しそうに舌打ちを漏らした。
陣営の入口に、誇らしげにガシアンの旗が掲げられているのが目に入ったのだ。
おそらくは敗走するスヴァルト兵を追い立てる部隊とは別に、斥候部隊が前夜のうちに早馬を使って森を突っ切り、先回りしていたのだろう。
オラービジットにおいては誰よりも冷静であろうと努めたのだが、混戦の最中に敵側のそうした動きに気付かなかった自分に彼女は恥入った。
しかし、敵の陣営そのものは急ごしらえのようで、テントも満足に張ってはいない。
敵兵の配置は、丘の上から容易に確認することができた。
本陣と思しき大きな天幕が一つだけ。
あとは甲冑を着こんだ兵士たちが退屈そうにその周辺を巡回している。
見えるだけで、この先発隊の兵士は五十人に満たない程度のようだ。
「サグサワル……見ろ!」
エルレイスが指さした先には、先に逃がしたスヴァルト将兵が十数人、鎖に繋がれている。
全員が、酷く疲れきった様子でうな垂れていた。
それは陣の奥まった場所で、もはや弱兵に危険は無かろうと見たのか、そこに見張りは付いていなかった。
「同胞は敵の手に落ちてしまったか……」
「先発隊を走らせ、陣を張り、待ち構える。後続隊が敵をそこへ追い込む……。手本通りの『鼠落とし』だ。定法の手ではあるが、この短時間でそれを成功させるとは……新興とはいえ、さすがは軍事国家ガシアン、戦上手だ」
「……随分と落ち着いたものだな」
エルレイスは不満そうにサグサワルを見る。
自国の兵が鼠に例えられたことが気に入らないようだった。
サグサワルはその視線を無視し、敵陣をじっと観察する。
(弓兵の用意は無いか。馬も少ない。どうやら本当に急ごしらえのようだな。本隊の到着を待つというならば、こちらも長居はできん)
その防備の手薄さから見て、この陣を侵攻の拠点として設置した可能性は低い。
おそらくは真の国境といえるこの一本橋を抑えたうえで、安全かつ速やかに本隊を渡らせ、そこからスヴァルト領土の攻略にかかる腹積もりなのだろう。
ならば、やはりスヴァルト側にとっての鍵となるのは橋を落とすことであり、それはしかも迅速に行う必要がある。
沈思黙考を続けるサグサワルの横で、エルレイスが我慢しきれない様子で立ちあがった。
「どうするつもりだ」
「私は捕虜を助けに行く」
「待ちなさい」
「聞けん!」
「落ち着け」
馬に跨ろうとするエルレイスの右手首を、サグサワルが掴んだ。
エルレイスの美しい顔が、苦痛に歪んだ。
「つッ……!何をする!」
「剣も満足に握れないような体では足手まといだ。ここで見ていなさい」
「何!?」
「俺が一人で行き、あの陣の入口付近で派手に暴れて見せる。あなたは敵陣が混乱し、手薄になったら、隙を見て捕虜を逃がすように。わかったな?」
「ばかな!」
「嫌でもそうしてもらう。あなたが生き延びなければ、俺の仕事は失敗なのだからな」
「しかし、たった一人で何ができる?敵が何人いるか見えるだろう?」
「俺は一人の方がやりやすい。誰かを庇いながら戦うと、それだけ死が近くなる」
サグサワルは淀みなく言った。
エルレイスは面とむかって戦力外の宣告をされた屈辱に歯噛みしたが、サグサワルが徹底した現実主義者だということが分かっていたので、彼の言う通りにするしかないことも理解していた。
「……くそっ、わかった。では、捕虜を助けたらすぐに加勢に向かう。それならいいだろう?」
「いいや、それも無用だ」
サグサワルはエルレイスの方に身を乗り出した。
その強い意志を持つ灰色の瞳が、彼女を説き伏せるための高圧的な光を放つ。
エルレイスはどきりとして、思わず顔をそらした。
「いいか、いったん戦闘に入ったら、俺はこの剣を振り回して見境なく敵を殺す。そうなれば、その最中に敵味方を判別している余裕はない。俺は目の前に立った者すべてに容赦も躊躇いも無く、平等に死を撒き散らすつもりだ」
つまり、巻き添えを食いたくなければ戦いの邪魔をするなということである。
サグサワルはエルレイスの反論を待たずに、馬に跨った。
「……死ぬなよ、サグサワル」
「それについては約束できん」
低く押し殺した声でそう言うと、サグサワルは馬に鞭を入れ、丘を一気に駆け下りていった。
まず気づいたのは、門の前で見張りに立っていた敵兵であった。
夜を徹して森を走り抜けてきた疲労感とそこから押し寄せる眠気に何とか抵抗しながら、薄目を開けて地面に転がっている小さな石ころを見つめていた。
すると、その石が小刻みに震えたようだった。
「?」
さらに注視すると、小石は先ほどよりもはっきりと動いた。
遠くから聞こえてきた力強い蹄の音に合わせて、その小石が揺れていたのだ。
見張りの兵士は後続隊が早くもオラービジットの森を制圧し、こちらに向かっているのだと思い、ぼんやりと朝霧の彼方を見た。
「へ、かわいそうに。スヴァルトもこれでおしまいだな」
兵士は薄笑いを浮かべていたが、次第にこちらに近付いてくるものが、自分の考えていたものではないことに気付いた。
遠目から見ると、黒い、大きな塊が、朝の静寂を破って凄まじい速さでこちらへ駆けてくるのだ。
「な、なんだ貴様ッ……!」
門番が言い終わる前に、サグサワルは大剣を振るった。
破壊力というのは常に掛け算である。
馬の凄まじい速度に、彼の比類なき腕力、大剣の重大な質量。
それらがすべて合算され、一人の人間の体に容赦なくぶち当てられる。
ドカンという轟音が響いた。
哀れな門番は大砲で撃ちだされたように凄まじい勢いで吹き飛ばされ、宙をクルクルと舞い、そのまま 綺麗な放物線を描いて本丸の天幕を突き破った。
それが戦闘開始の、強烈な号砲となった。
俄かに、陣営全体が騒がしくなる。
「て、敵襲ッ!?」
「な、なんだ!どっから飛んできたんだ、これは!」
「敵は一騎か!?」
「くそっ、いったい、何がどうなって……」
サグサワルは奇襲戦において何が最も大事かをよく心得ていた。
どのような戦場でもそうであるように、奇襲の一撃目は派手に打ち上げる必要がある。
人体が放物線を描いて飛んでいくという非常識な光景を見せつけて、相手の集団から動揺、恐慌、混乱を引き出すのが目的だった。
敵陣がパニックに陥り、浮足立つほど、この後の展開は楽になる。
サグサワルはゆったりとした動作で馬を下り、剣を構えた。
歴戦の兵である彼は、馬上において大人数を相手にする不利を心得ている。
慌てて走り出てきた兵士たちが、門の前に立つ大男に注目する。
「な、何者だ!貴様、スヴァルトの敗残兵か!?」
「……」
サグサワルは答えるかわりに、ブン!と剣を振るった。
砂埃が盛大に巻き上がり、その刃風の強さを物語る。
そして、誰の目から見ても一目で分かる確かなものをこの男は持っていた。
彼の体から立ち上る圧倒的な存在感、圧迫感が、その比類なき戦闘力を雄弁に物語っている。
それは敵の目に映る彼の体を、より巨大に見せていた。
「……」
「くっ……」
兵士たちは凍りついたように、動けずにいた。
あえて黙して語らない、そのふてぶてしい態度も相手の動揺を誘う。
なんでこいつはこんなに落ち着いてやがるんだ?
さっきのアレはこいつがやったのか?
彼と対峙した全員が、大きな動揺とともに冷や汗を額に浮かべていた。
「く、くそぅ、逃がすな!」
「殺せ!取り囲んで殺せ!」
「そうだ!一斉にかかれ!」
「このやろう!」
勇気を振り絞った誰かの声を皮切りに、全員が己を鼓舞するかのように口々に喚いて、十数人からなる兵がいっぺんにサグサワルへと殺到してきた。
彼らは数の有利というものを確信している連中である。
それはよく教練されてはいるが、実際の戦場を知らない者たちの短絡的な思い込みに過ぎない。
一頭の虎は百の猫に勝るのだ。
サグサワルは悠然と剣を上段に構えた。
その眼には動揺も恐怖もなく、静かだが、猛々しい戦闘本能のみが燃えたぎっている。
彼は息を大きく吸った。
「うおおおおおおおおおッ!!」
地を揺るがすような雄叫びとともに、サグサワルの丸太のような腕が大剣を振るう。
再びドカン、という凄まじい衝突音とともにおびただしい血飛沫が飛び、三人の兵士が宙を舞った。
全員がそれを見て驚愕し、足を止めた。
戦闘行為が日常である彼らにとっても、甲冑を着こんだ三人の人間が剣の一振りで宙を舞うその光景はまぎれもなく異常であった。
やや間をおいてから、重力に引き戻された三人の体がぐしゃりと地に落ちた。
「な……」
敵のひるんだ隙をサグサワルは見逃さなかった。
彼は素早く前進し、今度は横振りの一撃で三人をいっぺんに薙ぎ倒した。
全員を真っ二つにはできないものの、頑健な鎧の内側で肉が押し潰され、骨が砕ける音が鳴る。
斬り裂くのではなく、叩き斬ることが目的であるその武器にとっては、切れ味はさして重要ではない。
剣の勢いをそのままに、サグサワルは敵陣の中で縦横無尽に剣を振るった。
重大な質量を持ったその鉄塊を、彼の逞しい腕が軽々と振り回す。
凄まじい刃風が何度も砂を巻き上げ、その度に兵士たちが地面に叩きつけられ、あるいは宙に吹き飛ばされていった。
それはまさに吹き荒れる暴風であり、近付く者すべてを呑み込み砕く、力の奔流そのものであった。
今、サグサワルは死をまき散らす台風の目になっているのだ。
「な、なんて奴っ!」
「うぬ!」
ある者は果敢にも彼に挑み、その刃の錆となった。
ある者はその威容に気圧されて一目散に逃げ出した。
サグサワルは逃げる者を追わず、己を殺そうと向かってくる人間に対してのみ、その力を存分に振るい続けた。
善悪の判断は無い。
喜怒の感情も無い。
勝敗への執着すら無かった。
ただ、生と死だけがある。
最終的にどちらが生き延び、どちらが死ぬことになるのかということだけだ。
もちろん、一番強い者が生き延びることになる。
サグサワルがようやくその動きを止め、大きく息を吐いた時には、彼の他に身動きしている者は一人もいなかった。
峡谷から吹く風に吹き飛ばされて、砂埃も晴れてきた。
まさに、台風が通り過ぎたあとの様相がそこにはあった。
累々たるガシアン兵の屍が、いたるところに転がっている。
もはや、幕内にも全く人の気配は無かった。
サグサワルは剣を構えたまま、陣営の中を慎重な足取りで確認して歩いた。
(奇襲には備えていなかったか……)
これはサグサワルにとっては幸運なことであったともいえる。
多くの弓兵や爆薬などを配置されていたならば、混戦の中でも無傷とはいかなかったであろう。
用心深く陣営をすべて確認し終わると、ようやくここでサグサワルは剣を背中に戻した。
驚くべきことに、この男はたった一人で敵陣を攻略したのである。
「貴公という男は……!」
敵陣の奥から、エルレイスが姿を現した。
その後ろには、先程まで鎖に繋がれていたスヴァルトの将兵たちが見える。
エルレイスはサグサワルの指図に従い、戦闘の混乱に乗じて捕虜たちを救出していたのだ。
「敵兵の目を引くだけだと言っていなかったか?まさか全滅させてしまうとはな」
「結果的にそうなっただけだ」
「貴公に釘を刺されるまでもなく、助太刀に入る暇もなかったぞ」
スヴァルトの将兵たちは皆、ガシアン陣営の惨状を目の当たりにして言葉を失っていた。
「凄まじい……」
「いったい、あの男はどういう……?」
「恐ろしい男だ」
エルレイスは兵士たちの疑念や雑念を払うために、手をパン!と打ち鳴らした。
後方に敵を残してきた以上は、安堵するにはまだ早いのだ。
「皆、余計なことは今は考えるな。動ける者は馬を集めてこい。いつまたガシアンの追撃部隊が現れるとも知れない。この場は早々に立ち去るぞ!そして、この橋を落とす。要領は心得ているな?」
「は、はいっ」
「よし、急げ!」
エルレイスの張りのある、凛とした声に兵士たちは我を取り戻し、全員が手際よくその指図に従った。
彼女はそれを見ながら、サグサワルの横にそっと寄り、耳打ちした。
「右の手首をやられていることを忘れていた。威勢良く手を打ったから、今ものすごく痛いぞ」
そう言って彼女は少しばつが悪そうに笑った。
サグサワルも珍しく口の端を上げたが、それが果たして笑っているものかどうかは判別しがたいものだった。