騎士の誇りと傭兵の意地
ひとまずの追手を振り払ったエルレイスは、自らの危機を救った大男と共に、大樹の陰に馬を寄せた。
「すこし休もう。いいか?」
「……」
男は顎を小さく動かして頷いた。
耳を澄ませてみても、今のところは追ってくる蹄の音は聞こえない。
それよりも、夜通し走らせ続けた己の騎馬が疲れきっていることの方がエルレイスにとって心配の種であった。
尻や膝には、鮮血をにじませた痛々しい矢傷が目立ち、吐く息もいかにも苦しげである。
彼女は労わるように、優しくたてがみを撫でてやり、馬を下りた。
「よく走ってくれたな……さ、行くがいい」
轡と鞍を外し自由にしてやると、馬は足を引きずるように夜の森へ消えていった。
エルレイスはそれを見送ってから、己の命を助けた男へと向き直り、兜を脱いだ。
月光の下に長く美しい銀髪が照らし出される。
「先ほどの御助勢、かたじけない」
彼女はそう言うと、馬上の男に向かって丁重に頭を下げてみせた。
「我が国の傭兵であられたか?恩名をお聞かせ願いたい」
「……サグサワル」
エルレイスは、あらためて男を見た。
月明かりに浮かび上がるその男の姿は、到底、金で雇われた傭兵などという下賤なイメージとは結びつかないほど精悍で堂々としたものであった。
無造作に束ねてある髪は煤けた茶色をしており、あまり手入れはしていないようだが、それでもみすぼらしさは微塵も感じられない。
鋼を穿つかのごとく強固な意志をうかがわせる灰色の瞳と、引き締まった顔立ち。
一際目を惹くのは、筋肉の塊のような褐色の巨躯である。
鎧の下からのぞく腕は息を呑むほど太く、逞しい。
背に負った、男の身の丈ほどもある鉄の大剣は、無骨ながらもこの男にはこれ以上もなく相応しく思えた。
軍人の家に生まれたエルレイスにしてみれば、無骨さは実直さの表れであり、敵を打ち倒すという気概に溢れたその大剣は、小綺麗な装飾を施した貴族の軍刀などよりもずっと好ましいものだった。
「サグサワル……異国の名だな。先程の太刀、あれは凄まじいものであった。感服した。傭兵にしておくには惜しい腕だ」
「御貴殿も素晴らしい技をお持ちであろう。飛燕剣、拝見させていただいた」
「いいや、あれは所詮は貴族の剣、多勢に無勢では児戯に等しきもの……」
エルレイスの薄紅色の唇が、弱々しく微笑んだ。
飛燕剣は敵を倒すことはできても、怯ませることはできなかった。
しかしこの男は、たったの二振りで敵を怯えさせ、追走を断ち切ったのだ。
女の身の限界をまざまざと見せつけられたような、惨めな気分もあった。
「だが、もう十分だ。サグサワル、貴公一人ならばこの森を抜けられよう。馬を放してしまった以上、私はもはや逃げる術を持っていない。かくなる上はこの場にて追手を食い止め、一人でも多くのガシアン兵を道連れにする所存だ」
「……見捨てて行けと言われるか」
「貴公ら傭兵には理解しがたい愚昧であろうが、これが騎士の誇りだ。負け戦に参加させてしまってすまなかったな」
そう言うと、エルレイスは胸元を探って、ペンダントを取りだした。
そのトップには青い宝石があしらわれており、キラキラと月光を反射して美しく光り輝いている。
エルレイスはそれを首から外し、サグサワルに差し出した。
「勝利の報酬には及ばぬかもしれないが、ある程度の価値はあろう。受け取ってくれ」
サグサワルは答えずに、じっとエルレイスの顔を見つめた。
「どうした。遠慮をすることはない。亡き母の形見だが、ガシアンの野良犬どもに奪われるのではあまりに口惜しい。それならば、一時とはいえ轡を並べて戦ってくれた戦友に捧げたいのだ。さ、これを受け取って、早く行ってくれ」
決して相手を金ずくの傭兵と思って安く見ていたわけではない。
むしろ、多くの兵士がそうするように、おそらくは自分の最後の話し相手になるであろうこの男に、自分が生きていたという証、形見を託して死にたいというのが心からの本音であった。
しかし、サグサワルは首を振ってそれを否定した。
「……俺は騎士の誇りなど知らんが……」
溜息を吐くように低く呟いて、サグサワルも馬を下り、差し出されたエルレイスの手を彼女の胸元に押し戻した。
そこには、有無を言わさぬような力強さがある。
「傭兵にも意地というものがある。一度引き受けた仕事は常に命がけで果たす……それが傭兵の仕事だからな」
「よせ、意地などというつまらぬもので命を落とすまいぞ、サグサワル」
エルレイスは言ってから、少し間をおいて笑った。
「フフ……そうか、騎士の面子にこだわる私に言えることではないな」
「……もともと、俺の仕事はこの戦いを勝たせることではない」
「?」
「エルレイス・エッタール。貴殿の命を守り、無事にスヴァルト城へ帰還させること。それが、スヴァルト王とクリスタ王女より請け負った仕事だ。俺はその為に、直々に二人から命を受けてこの戦場へ来た」
「な、なに……!」
エルレイスは絶句した。
一国の王と姫君が、将校の命を守るために傭兵を雇うなどというのは、正に異例のことである。
おそらくはクリスタ姫が、姉とも慕うエルレイスの身を案じてスヴァルト王に頼み込んだのであろう。
エルレイスの出陣を知り、それを強く止めようとした時の、王女の悲しげな顔が彼女の脳裏をよぎった。
「なんと……」
全身が熱くなった。
主君のその破格の温情に感極まり、エルレイスは目を伏せ、涙を抑えた。
「勿体ないこと……」
「良き主を持たれたな」
「……ああ」
「……さあ、俺も仕事をせねばならん。それには、貴殿の協力も必要だ。よろしいな」
「ああ……よし、そういう次第なれば、頼りにさせてもらうぞ、サグサワル」
そう言って目元を拭い、月光の下に微笑むエルレイスの顔は、化粧気もなく、汗と返り血に汚れてはいたが、それでもなお高貴な美しさに輝いていた。
サグサワルもあえて言葉は返さなかったが、力強く頷いた。