闇の獣
どこかで狼の遠吠えが聞こえる。
それは五月の終わりの、雲一つない満月の夜であった。
夏の始まりを感じさせる陽気が続き、日中の間にさんざん熱を蓄えた森は、夜の冷気を追い払うかのように湿度を多く含むねっとりとした蒸し暑さに包まれている。
『ティガロの峡谷』を駆け巡ってきた風が高地に控え目な涼をもたらしているが、それは森の内部までその恩恵を行き渡らせるほどの慈悲深さは持ち合わせてはいないようであった。
この森は『オラービジット』と呼ばれており、新興の軍事王国『ガシアン』と、古代より連綿と続く由緒正しい系譜を持つ王国『スヴァルト』の国境でもある。
オラービジットというのはスヴァルト側の古い方言で『常に日陰の』という意味である。
その名の通り、広葉樹が鬱蒼と茂り、普段は立ち入る者もない森だが、この夜だけは例外だった。
「走破の陣形を取れ!一気に抜けろ!」
おびただしい数の蹄の音が森を揺らし、夜の静寂を踏み荒らしていった。
スヴァルト王国の騎馬兵達が敗走しているのである。
背後から追い立てているのはガシアンの騎馬軍団。
月明かりのおかげで松明を必要としないで済んだのは、馬を駆ることに専念するスヴァルト兵達にとっては幸運だったが、それでも圧倒的な兵量を誇るガシアンの猛追を受け、次第にその数を減らしていった。
矢を射かけられる者、槍に貫かれる者、馬から振り落とされ蹂躙される者。
戦局は、完全に一方的なものになっていた。
世界の中心と呼ばれていた魔法国家『ソルナ・パレス』が謎の崩壊を遂げたのは二年前である。
原因は魔道エネルギーの暴走とも、何者かの侵略によるものとも言われているが、未だに詳しいことは解明されていない。
だが、優れた魔法の力によって繁栄を極めた大国が一夜にして廃墟と化したのである。
このことによって、世界は俄かに戦乱の兆しを見せ始めた。
圧倒的な力を持っていたソルナ・パレスの魔道師兵団の存在によって、絶妙なパワーバランスで保たれていた各国の均衡が揺らいだのだ。
そして、ガシアン王国はその混乱に乗じる形で、いち早く世界へ向け領土拡大を宣言し、その手始めとして隣国スヴァルトを手に入れようと侵攻を開始したのであった。
それを食い止めるため、スヴァルト軍は国境へ兵を派遣し、オラービジットの森を挟んでの戦いが始まった。
この戦いはすぐに多大な兵力を投入するガシアンの有利に傾いた。
その数、八千。
先遣隊としては異例の規模である。
最初から結果の見えている戦ではあったが、開戦時にはスヴァルト側に千人いた兵も、六日目の今では五十騎程度を残すのみだった。
それでもなんとか体制を保ち、波状の陣を組んで敵の包囲を突破しようとしているのは指揮官であるエルレイス・エッタールが誰よりも冷静であったからに他ならない。
「このような状況で冷静でいられるということは有能だということです」
森を一望できる高台にはガシアン王国の将が二人、轡を並べていた。
熊のように体が大きいのはバリラット・ウズラ。
ガシアンでも指折りの武将である。
背が高く、太い首の下では分厚い胸板が窮屈そうに鎧に締め付けられている。
彼は見た目通りの怪力の持ち主で、並みの兵士では持ち上げることも難しい豪大斧を好んで用いていた。
その隣のイクセン・ハイアートは、バリラットとは対照的に華奢で色白、細面の美青年で、今回の作戦にはバリラットの補佐という形で同行していた。
常に冷静で、天才肌ではあるが、その冷たい眼光の奥に隠されている底知れぬ闇は、時として上官であるバリラットをもぞっとさせることがある。
しかし、軍隊を取りまとめることに関していえば紛れも無く優秀な副官であり、彼の打ち出す軍略には非の打ちどころのないほど完璧と思われるものが多かった。
「敵将は恐らくエルレイス・エッタール……」
「その名は耳にしたことがあるぞ。いい女だそうだな?」
「大衆とは戦場にヒロインを求めるものですよ」
白面の補佐官はさして興味もなさそうに言う。
「間もなく捕らえられるでしょう。その時にご確認ください」
「イクセン、俺に六騎貸せ。ここで徹底的に潰す」
「自ら御出陣で?」
「二言は無いぞ。察しろ」
「……わかりました」
「ふふ、見ろ。ここが人生の大事と言わんばかりの陣だな」
「敵も必死なのでしょう」
「必死の敵か!」
バリラットは天を仰いだ。
その肩は、細かく震えているようにも見える。
歓喜の震えである。
「そうだ、必死の敵なればこそ、こちらも存分の戦いを楽しめるというものだ!」
「さもありましょう」
バリラットは馬首を返した。
「では参る!」
「ご武運を……」
言うが早いか、闘争の気迫に充ち溢れた猛将は目の前の崖を駆け下りていった。
イクセンの合図に応じて、精鋭の騎士が六騎、その後を追う。
(……戦場の記念に手柄首が欲しいか?まぁ、勇猛さだけでは戦には勝てんが、目の前の勝利を拾うには十分であろう)
イクセンはバリラットの後背に冷徹な一瞥を向けた。
文官上がりであるイクセンにはバリラットの持つ武人らしさ、言い換えるならば剥き出しの闘争本能が形成する野蛮さ、粗雑さが疎ましい。
教養に裏打ちされた知略こそが、次代の戦争の武器であると考えている彼にとっては、バリラットはまさに化石のような存在なのだ。
勇猛さが何の役に立つ?
高潔さが戦況を変えるか?
一対一の果たし合いなど言語道断である。
戦場でわざわざ名乗りを上げているような死にたがりには、弓矢で応えてやればいい。
その方がずっと効率が良く、手間も無い。
そう、これからの戦場は何よりも効率を重んじる場所になる。
いかに多くの敵兵を倒すか。
いかに素早く敵の拠点を攻略するか。
そうした迅速かつ効果的な作戦行動をより巧緻で、完成された軍略に組み上げるためには、騎士の誇りや体面など邪魔以外の何物でもないのだ。
イクセンは振り向き、伝令を呼んだ。
「各隊に伝達。バリラット殿が戻られ次第、陣を退き払い、本隊を前進させる。用意せよ!」
「はっ」
(ふん、バリラットがエルレイスの首を持ち帰ろうとも、返り討ちにあおうとも知ったことか……)
時を同じくして――
エルレイス・エッタールは敗走する自軍の殿を務めていた。
器用に馬首をさばいては敵を斬り裂き、走り、また一人薙ぎ払い、走る。
そうして自らが命の壁となり、味方の退路を守る。
(この上は一人の兵も無駄にはするまい……)
それが負け戦に付き合ってくれた兵士たちへのせめてもの返礼であると考えていた。
まだ若年の女将軍ではあるが、名将と呼ばれるに足る人望を築いているのは、彼女のこうした性情によるところであった。
エルレイスはその美しい容貌からは想像もつかぬほどの女傑である。
いかなる時も義に厚く、礼を失さぬというその立ち居振る舞いは騎士の名門と呼ばれるエッタール家の名を汚さぬもので、城内では王女クリスタ・スヴァルトの良き話し相手として貴族達からも一目置かれている。
騎士たちの間でも彼女を慕う者は多く、部隊へ志願する若い兵士が後を絶たない。
剣の腕も申し分なく、剣聖と称された剣術指南役マサミチ・タダのお墨付きである。
特に、抜刀時の剣閃により真空波を飛ばして敵を斬る奥義、『飛燕剣』はスヴァルト王国の数ある騎士の中でも彼女にしか使えない必殺剣であった。
今、また彼女の剣閃が空を走り、追手の一人の胴を切り裂いた。
それでも追いすがってくる敵は多勢。
一人や二人を斬り伏せたところで、怯む気配は全くない。
カチリと剣を鞘におさめたエルレイスは背後をちらりと見やって、静かに心の準備をした。
(我が命運もここに尽きるか……クリスタ様、お許しを……!)
手綱を握る手が強張った。
逃げられぬとあれば、先を行く味方のために、一人でも多くの敵を斬り倒して散るのみ。
女の身とはいえども、武門に生まれた者としての矜持がある。
思えば、父も祖父も不惜身命の誓いを国家に立てながらも、病床に没した。
こうして戦場にて華々しく散る、というのは武人にとっては贅沢な死に様ともエルレイスには思えた。
誇り高き、騎士としての死。
それは微塵も恐怖すべきものではないと、自らに言い聞かせる。
お前が……お前が何よりも恐れるべきは死そのものではなく、死に対して恐怖を抱くことだ!
(よし!ならば――)
自らの結論に、迷いも、躊躇いも無い。
いざ意を決し、追手を正面から迎え撃たんと馬首を巡らせようとした時である。
ズドン!という、地響きとともに、森が揺れた。
(何だ!?)
すると、横合いの木立からである。
もう一度、大地を強く踏みしめる轟音とともに、小山のように大きな、黒い塊が森を割って躍り出てきたのである。
それは息を呑むほど巨大な、漆黒の馬だった。
その圧倒的な存在感は、その場にいた全員にまるで森の闇が質量をもって現れたような錯覚を与えた。
「!」
「エルレイス殿、御助勢つかまつる!」
エルレイスは、最初は馬が喋ったのだと錯覚した。
しかし、すぐにその声の主は巨馬に跨った大男のものだとわかった。
その男は、エルレイスの背丈ほどもある、背中の大剣を抜き、器用に身をよじりながら背後の敵兵をいっぺんに三人も吹き飛ばした。
「むうッ!」
疾走する馬の上で、物量のある得物を振り回すのは非常に難しい。
遠心力に引っ張られ、馬から振り落とされるからである。
だが、その反動に耐えるため、男の丸太のような腕がミシミシと軋んだ。
続いて、返す力でもう一度薙ぎ払う。
「ぎゃあっ!」
再び、三人の兵士が血煙を残して視界から消えた。
「な、なんだ!いったい、どうした!?」
「化け物か!?」
目の前で、あっという間に六人が消えた。
まるで、夜の森が彼らの体を掴み、闇へ引きずり込んだように見えた。
あまりにもその太刀が凄絶だったので、肝をつぶした追手の全員が手綱を引き、馬を止めた。
男はそれを振り返りもしないまま、エルレイスへ向かって叫ぶ。
「敵は怯んだ!このまま駆ける!」
「う、うむ!心得た!」
追手が、突如として現れた漆黒の『死の壁』に恐怖し、怯んだその隙に、前を走る二騎は森の闇へと消えていった。
後には呆然とするガシアンの兵士たちが残されたのみであった。
もはや、その後を追おうとする者はいない。
無理もないことである。
誰が好んで『死』を追いかけるだろうか?
「獣だ……黒い獣……」
誰かが、震える声でゆっくりとそう呟いた。