プロローグ
『どうしてだろう……』
遠藤はじめはつぶやいた
人通りも絶えた東京世田谷区の閑静な住宅街、時間は深夜零時を過ぎている。駅へ向かう大通りを外れた裏通りの路地裏には誰もいない時間だ。部屋の明かりもつけずに二階の窓を全快にして夜の冷気を部屋に入れる。その後で、家の前の路地を照らす街灯を見るのがはじめの日課だった。
誰も通らない道に、まるでスポットライトの様に存在する街灯は、いつも彼の目に眩しく映る。
いつもの疑問が頭に浮かぶ。誰も通らない路地を照らす街灯……あの無意味な街灯は何を照らしているのか、そして何故、これ程、自分には眩しく見えるのだろうか……
小学校三年生まで暮していた茨城ではいつも星を見ている少年だった。東京に越してきた直後、東京では星が見えないと大声で泣き、両親を困らせた事をふっと思い出した。
はじめは、思い出を振り払う様に窓とカーテンを閉めた。
『ご飯置いておくわね』
ドア越しに母親の美津子が声をかけるが、返事もしないでパソコンの前に座るはじめ。この部屋の明かりといえばパソコンのモニターから漏れるわずかな明かりだけだった。
彼の一日はこれから始まる。
夜に目覚め、街灯を見た後は、必ず特定のサイトを閲覧する。そこでは見ず知らずの人々が他人には無意味な悩みを意味ありげに語り続ける。
自殺志願者達が意見交換をするサイト、いわゆる自殺サイトだ。
はじめはこのサイトを見るのが好きだった。死にたいわけでも、死にたいほどの悩みがあるわけでも無いが、ここに集まる人々は、おおむね人に優しい。
『まただ……』
モニターに映る言葉に反応したのだ。
モニターに映る「KYOUKAI」の文字。
その「KYOUKAI」という言葉を目にする様になったのは三週間程前で、これが何を指すのか、どんな意味なのかをはじめは知らなかった
『最近良く見るな……』
「KYOUKAI」に関する書き込みを手際良く絞り込んでゆく。
『KYOUKAIに出会って人生が変わった』
『KYOUKAIに感謝』
『KYOUKAIは全てを否定し、全てを肯定してくれた』
『KYOUKAIは無意味だ』
賛否両論の書き込みを見て宗教かと思い、これ以上の検索を止めようとした時、ある書き込みにリンクが張ってある事に気がついた。
『君はKYOUKAIを知っているか?』
はじめがモニターに向かって話しかける。
『知らないから調べているんです』
書き込みをクリックすると、モニターに文字が浮かぶ。
『君はKYOUKAIを知りたいか? YES OR NO』
『……なんだかなぁ』
癖になっている独り言を呟きながら、「YES」をクリックする。「ピッ」っと音が鳴り、次の質問が現れる。
『君はKYOUKAIに行きたいか?』
再び「YES」をクリックするはじめ。そのまま違うサイトに飛び、文字が画面を埋め尽くす。
『WELCOME TO KYOUKAI』
文字が画面から通り過ぎると、はじめのパソコンが勝手に動き始める。
『あれ?何?ウィルス?』
パソコンのCPUがフルに動き、ネットから強制的に情報を取り込んでいる。はじめは必死に防戦のためキーを叩くが効果は無い。
『クソ、なんだよこれ、やられた……バックアップいつ取ったっけ……』
完全に諦めて、パソコンの電源を引っこ抜こうとした時、「ピーピー」と再び電子音が鳴り、モニターに新たな質問が浮かんだ。
『ええっ?何?どういう事?セーフって事?』
画面に映る質問にはこう書かれている
『質問 1 君には大事な人がいた? YES OR NO』
『何これ……質問?めちゃくちゃ怪しいじゃん』
はじめはモニターの前で座り直し、少し考える。椅子の上で二・三回くるくると回転した後、モニターに真顔で問いかける。
『どうして過去形なのさ』
過去形で書かれている事に突っ込みを入れながらも、はじめはYESを選択。
質問は続く……
『質問 2 猫より犬が好き?』
『くだらないなぁ……』
口ではそう言いながらも、はじめの顔は笑っていた。会話をしている様な感覚が感情を高揚させていた。
選択は「YES」。質問は続く。
『質問 3 秘密は墓まで持って行くタイプ? YES OR NO』
『質問 4 人生に野心は必要? YES OR NO』
『質問 5 次に生まれ変わるなら男? YES OR NO』
『質問 6 殺したい程にくい奴がいる? YES OR NO』
『この質問は現在進行形ですか……』
はじめは夢中で質問に答えてゆく。
やがて質問が15を過ぎた時、文字だけだった画面に映像が映し出される。
それは、ありふれた部屋に一人の女性がいる映像だった。女性は落ち着かない様子で部屋の中をウロウロと歩き回っている。
『なんだろ……』
画面の女性はダボダボのワンピースを着ている。画面の右下には「池田静子 27歳」との文字。
ネットアイドルと言うには平凡な容姿と微妙な年齢を不思議に思う。
女性は時々、携帯を手に取ってメールしたり、部屋をウロウロしたかと思うと突然インターホンに耳をつけて外の様子を伺ったりしていた。
その奇妙な行動を不信に思い、しばらくは気にして見ていたが、特に変化も無い垂れ流しの映像なので、すぐに飽きてしまった。
画面の映像とは無関係に質問は続いている。次が30問目だ。
『質問 30 殺さなければならないなら身内より他人? YES OR NO』
『どっちも無理でしょう……でも……強いて言うなら……』
「NO」を選択。
質問は延々と続く『質問 56 世界はいつか変わると思う?』『質問 62 差別をしている?』など、軽い質問だけではなく中には重い質問も用意されている。
画面の女性は時々、ドアのインターホン越しに誰かと会話している様だが、音声は無かった。
質問が90問を越え、はじめが疲れを感じた頃、突然アラームが鳴り、画面には最終質問の文字が浮かび上がった。質問数は99になっている。
質問を見たはじめの瞳孔が収縮する。そこに浮かんだ文字は、彼が頭の中でいつも自分にする質問をしていた。
『質問 99 自分は狂っていると思う? YES OR NO』
画面に文字と同時にデジタル数字が浮かび秒数をカウントダウンしている。30秒あった制限時間が既に20秒を切っている。一瞬の10秒が過ぎてもはじめは動けないでいた。
15秒、ようやくマウスに手を伸ばす。
10秒、カーソルをNOに合わせる。
5秒、後はクリックするだけのはずだった。
『タイムオーバー』の文字が画面に浮かんでいる。はじめは選択できなかった。何故この質問だけに時間制限がされていたのかはわからないが、ひどい疲れを感じていた。
ここまで質問に答えてきたことが無駄になるのかもしれないと思うとかなり残念な気持ちになるが、選択しないと言うのも選択だと思う事にした。この質問にだけ時間制限がついていたのだから、こういった選択も許容されるだろう。
本当の事を言えば、彼自身は自分を「狂人」とは思っていない。しかし、他人にはどうであるかはわからなかった。母が自分を「引きこもり」だと思う様に、他人は自分を「狂人」と言うかもしれない。しかし、自分には「引きこもり」という自覚も、「狂人」の自覚も無い。それどころかまったく違うという確信もある。それでも「NO」をクリックできない自分は、やはりどこかおかしいのかもしれないとも思う。
いや、やはりおかしいのだ。自分の奇行に気付けない事が「狂人」という事ならば否定は出来ない。さっきの質問は「YES」にするべきだったと思った
『ふぅ』と軽く息を吐き出しながら、何らかのリアクションを待つはじめ。
モニターには『タイムオーバー』の文字と相変わらず挙動不審の女が映っている。
しばらくすると、文字が消えて女だけがモニターに映し出された。女はしばらく不安そうに部屋をゆっくり歩き回っていたが、何かを決断した様に突然ドアに近づくと何かを操作した様に見えた。しかし、それはカメラの死角になっていてはっきりとは解らない。女がドアから離れるとドアが開き、男が入って来る。女が部屋に男を招き入れたのだ。
『ん?』
はじめはモニターに注意を払う。部屋にいる男女の関係に違和感があったからだ。自ら男を部屋に入れたにも関わらず、女は硬く腕を組み、男と一定の距離を保っていた。その距離は二人の心理的な距離と言える。女の緊張がモニター越しに伝わって来る気がした。
『大丈夫かな……』
はじめは手を口元に当てて真剣な眼差しで経過を見守っている。
二人は何かを話している様だった。男は雄弁で笑顔を絶やさない。話しの内容は解らないが、女の警戒心が徐々に消えてゆくのが解った。硬く組んだ腕を下げ、顔には安堵の笑顔が浮かんでいる。何かを取ろうとしたのか、女が後ろを向き、男に背中を見せた。その瞬間、男がいきなり女に襲い掛かり、隠していたナイフで女の首すじを刺した。その動きは驚く程素早く、正確だった。
『うわっ……』
はじめは思わずのけぞった。
刺された女が、右手で必死にナイフの柄を掴む。男は女を羽交い絞めにして、抵抗できないようにしておいてから、力まかせに首に刺したナイフを引き抜いた。首から血が噴出する。それでも女は羽交い絞めにした男の腕を掴んだまま、自分の流している血などお構いなしに暴れていた。
画面を食い入る様に見つめるはじめ、口元に手を当てたまま動けないでいる。
画面の男の顔が血に染まり、女が糸の切れた操り人形の様に突然動かなくなると、映像は途切れた。
『……なんだよ……これ……』
目の前にした映像はとてもリアルに感じられた。映像自体がというわけではない。最近のCGを駆使した映画ではもっと良く出来たものもある。しかし、女の感情と行動を演技と判断できなかった。力尽きた時の無防備な倒れ方も異常に思える。警察に届けるべきかどうかを考えていると画面に再び文字が浮かび上がった。
画面一杯に文字が浮かんでいる。
『これから来られる?』
はじめの首すじに冷たいものが走る。
『……冗談じゃない……あれ?選択肢は?』
呟くはじめの後ろで声がする。
『無いよ……』
『え?』
振り返ると同時に首に小さな痛みを感じた。慌ててその手首を掴む、太い男の手首だ。さっきの女の哀れな末路が頭をよぎる。必死に抵抗を試みるが、気がついた時には映像の女と同じ体制になっていた。首に巻きついた相手の腕を振りほどこうとすると、男の顔がはっきりと見える。サングラスで表情は読めないが口元は笑っているのがわかった。
その三日月型に湾曲した口元に激しい怒りを感じ、女が最後に見ていたのも自分を殺した人間の顔だったと思うと、あの激しい抵抗に共感する事ができた。
さらに腕に力を入れようとした瞬間、首にヒンヤリとした感触が広がって行く。広がりと同時に体の全ての力が抜けてゆく。
自分は死ぬのだと思いながらサングラスをかけた何者かを見つめると男が手にした注射器を見せた。自分に突き刺されたモノはナイフではなく注射器だと知った直後、はじめは意識を失った。