朝、輪切りにしたバナナをグラニュー糖とバターで熱する
ぼくは朝食によくバナナを食べる。朝食を食べる頻度自体がそんなに多くはないから、よく食べるといってもせいぜい週に一回か二回程度なのだけども、自分の体感としてよく食べているなあと思う。何かと体にいいらしいのだ、バナナを食べるのは。確かにそんな気がする。水っぽくもなくぱさついてもいない、刺激的な味ではないし、でもまろやかすぎるわけでもない。中庸というか、ただそこにあるだけなんだって気がする、あの食べ物は。自分の存在を声高に訴えようなんてしない。うん、なるほど、体にやさしいのもうなずける。
昨日の学校はなんだか大変だった。大雨のせいだ。ぼくら三年生の教室がならぶ一階は、昨日の記録的な豪雨のせいで、床が水浸しになった。もともとここらは浸水しやすい土地なのだ。ぼくらA組はそこまででもなかったけれど、廊下の逆側のD組では、くるぶしくらいまでの高さまで水が浸かって大変だったようだ。高校生特有の自己主張の強いどよめき声が、こちらの教室にも響いてきた。
昨日の雨とは打って変わって、今朝の天気は清々しかった。なんだかほんとにいい気分になれるタイプの晴天だった。ぎらぎらしすぎず、それでも太陽が臆することもなく。なのでぼくはバナナを炒めた。フライパンをコンロにかけ十分あたためてから、少量のオリーブオイルとバターを入れた。油をフライパンの上に広げた後で、輪切りにしたバナナを敷く。その上からグラニュー糖をさらさらとふりかけて、しばらくした後ひっくり返した。そうして皿に炒めたバナナを移して、テーブルに持っていった。今日は学校には行きたくないなと思いながら、バナナを食べた。とてもいい気分だった。
テーブルの上に置きっぱなしだったスマートフォンが音を立てた。通知画面に目をやると、さやかから川を見に行こうよとメッセージが届いていたので、ぼくはいいよと返事を返した。昨日の大雨でぼくの家から自転車で15分ほどのところにある仲糸川は氾濫直前だったそうだ。水量を増した仲糸川は、うねり、風にあおられ、波をたてながら堤防をのり越えようとした。一夜明けても水量はまだだいぶ多いだろうが、そんなに危険なほどではないと思う。ぼくは残った二切れのバナナを一口で食べきった。
さやかとは近所の矢杯公園で待ち合わせした。せいぜいが幼稚園の園庭ほどの広さしかない、広場と名乗ったほうがいいほどのちいさな公園だ。
「ねえ、ひさしぶりだね、あの川行くの」とぼくの自転車の後ろに乗ったさやかが言った。「そうだね、ちっちゃい頃はたまにいったけどねえ」ぼくは後ろを振り向かずに言った。真っ正面には土色の地面と、のび放題の雑草が目に入るだけだった。この辺は住宅街を外れるとすぐに田舎道になる。
「あのね、昨日あれおもいだしちゃった。一緒に見たじゃんあのアニメ、憶えてる?」ぼくの背中をつねりながらさやかが言った。「え、なに? なんてやつ?」「いやー、タイトルは憶えてないんだよ。ほら、大雨がふって、パンダの親子と女の子がベットを船にして、街を漕いで行くやつ」
「あー、あれか」思い出した。なにかそういうアニメをさやかと一緒に見た気がする。最後のシーンは、ダムの入り口に吸い込まれようとする、パンダか女の子かを、女の子かパンダかが助けようとするものだったはずだ。思い出した気になったが、細かい所はあやふやだった。
「それでね、この街もねこのまま水浸しになって、私は本棚を船にして漕いで、どこか行きたいなってずっと考えてたよ」さやかがまたぼくの背中をつねりながら言う。そろそろ痛い。
「あー、いいねいいね。そのときはぜひぼくも水夫として雇ってもらいたいですな」ぼんやり前を見つめて車輪を漕ぎながらぼくは言う。もう仲糸川が目の前に見えてきた。
「えー、お前体力ないからなあ、どうしよっかなー」そういいながらさやかはまたぼくの背中をつねった。
さやかとぼくはよく似ていると思う。これはあくまで個人的な感想であって、ぼくの主観であって、さやかは大きく首を振って否定するかもしれないけれど。とにかく似ているのだ。ぼくらは13歳のときにキャッチャー・イン・ザ・ライを読んだ。さやかが読んだ後にぼくが借りてよんだ。ぼくらはその後数日間、お互いに口をきかなかった。とてもこわかったのだ、ぼくは。ぼくが、ぼくの周りにいる人みんなをひどく軽蔑していて、なんの美しさももたない俗物だと思っていることが、さやかにばれてしまったと思った。そして、さやかもぼくと同じように、自分以外の誰もが、なにもわかっていない思考停止したサルの集まりだと思っているんだろうなと感じた。それに気づいたときさやかと話すのは怖かった。中学校の廊下ですれ違うときなんて、たまったものじゃなかった。手の振り方、足の地面への付け方、唇のゆがませ方、そういった挙動すべてを無駄に意識した。なにからなにまでさやかに見張られている気分だったから。
ぼくがキャッチャー・イン・ザ・ライを読み終えて四日後、さやかはぼくのクラスの教室に来た。ぼくの机の目の前に立って、椅子に座ったぼくの方へ身を屈めて、さやかはぼくにキスをした。その日ぼくらは約束をした。周りの人間をいくら阿呆らしく思ったって、それはいいけれど、ぼくらはぼくら同士でお互いになにかを共有し続けようと。退屈な学校生活の中での楽しみだったり、敷かれたレールの中で転がるやさしさだったり、囲い込もうとするドームに抗う術だったり。ぼくらは約束をした。
「いやー、思ったよりまだ水かさ高いねー」コンクリートの堤防の斜面に座り込み、ちゃぷちゃぷと靴と靴下を脱いだ足をつけながら、さやかが言う。
「まー、昨日の今日だからねえ」この川の水はあまりきれいじゃないんだけどなあと思いながら、さやかの足首を見つめてぼくは言う。
「ねえー、お前も足つけなよー。涼しいよ」さやかが、川面に突っ込んだ足をばたつかせながら言う。嫌だなあと思いながらも、ぼくはサンダルを脱いで、素足を水につけた。
それからしばらくぼくらは互いに押し黙って、さわさわと足を水の中で動かし続けた。ぼくはさやかの足首を見たり、肩まで届く髪を見たり、膨らみかけた胸のあたりを見たりした。今までさやかから女性らしさを感じる機会はあまり多くなかった。それは今でもそうなのだけど、でも時折、ぼくとは違うなにかなんだなって明確に思うときがある。幼い頃は渾然一体と、どちらがどちらか分からない程に、ぼくらはすべてを与え合った。でも、今、川面に水をつけている彼女は、ぼくの理解の範疇を越えた、どこかアイコニックな存在に思えた。川に足を浸ける少女。
「このあと、どうしよっか、午後からでも学校出る?」さやかから視線を引き剥がして、対岸に植わってる桜の木を意味もなく眺めながらぼくは言った。
「えー、やだなー。なんかそういう気分じゃない」さやかは口の端をへんに歪ませて答えた。まあ、そう言うとは思った。さやかはそういうタイプだった。さぼろうと決めたら徹底的にさぼるのだ、そこに妥協は存在しない。
「陽が差す分、昨日よりも暑いね」さやかはそう言って、掬った水を膝頭にぱしゃぱしゃとかけた。
「そうだね」とだけぼくは言った。
ぼくはポケットから煙草をとり出して、ライターで一本に火をつけた。ゆっくりと煙を喉の奥に送った。さやかがこちらに口を突き出してくるので、吸いさしのそれをさやかの口にあてがった。さやかもまた、ゆっくりと煙を肺にいれると、フィルターから口を離した。
悪くない気分だった。さやかと一緒にいるときはだいたいそうだけど、今日は特に。なので、ぼくらは服を脱いだ。まずさやかが川の中に飛び込んだ。続いてぼくが、水の中に自分の体を放った。思ったよりも深さがあって、底に足は着かなかったが、ぼくらは心地よく浮かべたので問題はなかった。不思議と水の冷たさは感じず、また、日差しのあたたかさも水の上では感じなかった。バターの中でうずくまるような、ぼんやりとした感触がぼくらの周りを取り巻いていた。川の流れは心地いいスピードでぼくらをどこかに運んでいった。ぼくらは手をつないで、さあどこまでいけるかなと思って笑い合った。