1.エリカ
~パート1 エリカ~
年末年始に、私には必ずやらなければいけないことがある。と言っても、そんな大層なことではない。
大晦日の夜に湯浴びをし、歯を磨いて新年を迎える。という、わざわざ言う必要があるのだろうかと思うほどに、日常的なことだ。
何でも私がまだ幼い時、私を抱いて親戚の葬式に出席していた両親に、お坊さんが言ったのだそうだ。
「年が明ける前に、必ずその子の体を清めなさい。そうすれば、その子を悪いものから守ってくれるでしょう」
両親はこの子を守ってくれるなら、とお坊さんの言う通りにした。大晦日の夜に私をお風呂に入れ、歯を磨かせておろしたての寝間着を着せ、新年を迎えた。
それがなんとなく年越しの習慣となって、高校卒業を控えた今もそれは続いている。
特別に面倒なことでもないし、両親から言い聞かせられた通り、これは私にとっての初詣と言うか、良い一年となることを祈る、単なる願掛けだ。
更に今年は大学受験ということで、それが迷信だろうが何だろうが、特に欠かすわけにはいかない。
そのお陰か死に物狂いでやった勉強の努力が実り、大学は無事に志望校へ合格した。
実家を離れ、初めての一人暮らし。勉強にサークル活動。バイトをして仲間達と旅行にも行った。
とても充実した大学生活。どこもかしこも新しいことばかりで、暇潰しには事欠かない。
そして大学二年生になった、冬ーーーー大晦日。
晴れて二十歳となり、飲酒が認められるようになった。
初めてのアルコールは喉を焼き、脳を瞬く間に甘美なしびれで埋めつくした。
仲良くなったサークルの仲間達と部屋で年越しを待ちながら、ふと時計を見上げる。
11時30分ーーーーいけない。と慌てて未開封の寝間着を引っ張り出して、脱衣所へ走る。
先に歯を磨いて服を脱ぎ、頭や体を洗って湯船につかる。
備え付けの防水時計を見れば、11時45分ーーーーああ、良かった。
なんとか間に合ったと、息をつく。
身体にはアルコールが回っている最中で、温かいお湯が眠気を誘う。
1秒ごとに点滅するデジタル時計のランプを見ていると、本格的に瞼が重くなってきた。
こくり、こくり。
ーーーーーろ、起きろ。
船を漕いでいると、頭の中で声がした。
こくり。
ーーーーーこんなに濡れそぼりおって。これでは泥船と変わらんではないか。
不機嫌そうで、高飛車な、聞き慣れない女の声だ。
声は「汚い穢れる、いつもと違う。」と、苛立ったように続けた。
なんだか神経質で、潔癖そうな人だ。
そう思うと艶やかな十二単をきっちり身につけ、長い黒髪をながしたお姫様が頭に浮かび、その顔も神経質そうに目尻をつり上げていた。
実家にある雛人形が怒ったら、こんな顔だろうな。
そう思えるほど、お姫様は毎年お内裏様の隣にいる、お雛様にそっくりだった。
ーーーーーこんな体の器では休めない。早く、早く。
不思議なことに、声が弱々しくなっていくにつれて、頭の中のお姫様も、憔悴したようにやつれていく。
不機嫌そうな声はか細い懇願に変わり、綺麗な着物も薄汚れていく。
長い黒髪はボサボサで頬はこけ、袖からのぞく手と腕は、骨と皮しかないように細い。
ーーーーー消えとうない。消えとうないのです。どうか…………。
泣いているような声は、バシャッと顔が湯船に突っ込む音にかき消えてしまった。
我に返って時計を見ると、0時02分。
日付が変わり、年が明けてから2分後ーーーー生まれて初めて、浴室で年を越したのである。
また慌てて湯から上がり、着替えて手早く髪を乾かす。
初めて約束を破ってしまった。
習慣とは恐ろしいもので、今まで願掛け程度に軽んじていた行為が、破った途端、とてつもなく悪いことをした気分になる。
次いで吐き気がし、冷や汗が浮かぶ。
新年を祝っていた仲間達は真っ青になっている私の顔を見て心配したけど、慣れないアルコールに悪酔いしたのだろうと笑い、すぐに寝ることを勧めてきた。
幸い集まりは私の部屋でやっていたので、言葉に甘えてすぐに寝室に行き、ベッドに倒れ込んだ。
相変わらず気持ち悪い。先程がばがばと水のように酒をあおっていた先輩の姿が目に浮かび、うぷと吐き気が増した。
しかし、それよりも。
手探りで携帯を掴み、突っ伏したまま実家の番号を押して耳に当てる。
「もしもし」
出たのは父だった。いつもこの時期は酒瓶の傍から離れない父が、電話を取るだなんて珍しい。
「お父さん……どうしよう。私、お風呂間に合わなかった……」
大丈夫、そんなに気にすることはないよ。あれはただの願掛けのようなものだから。
そう言ってくれれば、気持ち悪さはともかく、少なくとも罪悪感は消えるはず。
そう願って返事を待っているが、不自然なほど、父の沈黙は長かった。
「………………………………エリカ…………よくも破ったな」
「ヒッ!?」
「よくも、よくもよくも」
「お、お父さん!?」
ようやく返ってきた声は、父のとは思えないほど、怒気にまみれた低い声だった。
父はそのあとも、壊れた人形のように「よくもよくもよくも」とばかり繰り返す。
何度も父を呼びかけるが、まるで私の声が聞こえていないかのように、父は電話口で怨み言を連ねている。
予想外の異常事態に罪悪感は恐怖に変わり、震える手で携帯の電源ボタンを連打する。
うまく打てなかったがそれでも真っ暗になった画面に息を吐き出すと、ふと、背後に人の気配を感じた。
「エリカ」
それは電話口から聞こえた、父のものとは思えない低い声だった。
声も出ないほどの驚きに体は硬直したが、それでもなんとか首を動かす。
ゆっくり、ゆっくりと首だけで後ろを見やると、真っ暗な部屋に、白い顔が浮かび上がっていた。
最初はなんだか分からなかったそれが、両手に握っていた杓をこちらに突き出した時。
ようやくそれが、成人男性くらいの背丈がある、お内裏様の顔だと気がついた。
「裏切り者め」
ーーーー…………どうして。どうして。
頭の中でそう言って両手で顔を覆い、むせび泣いているお雛様。
もはや面影のない薄汚れた姿は、うっすらと消えかけている。
あの時のお内裏様は、怒っていたのか、泣いていたのか、私には分からない。
だけど私がとてつもなく悪いことをしてしまったことは、理解できた。
ごめんなさい。
声にならなかった唇だけの言葉は、誰かが拾ってくれただろうか。
相変わらず頭の中のお雛様は、たった一人で泣いている。
そのキレイな着物のエリカの花、あなたがいつも自慢げに着こなしていて、大好きだったのよ。本当よ。本当なのよ。
またあの毅然とした顔が見たくて慰めても、お雛様は泣いているだけ。
お雛様はいつまでも、泣き止まなかった。
とあるテレビ番組にて。二人のキャスターが、近況について語っている。
「また某アパートで宴会をしていた5人の大学生の内の1人が、急性アルコール中毒で亡くなりました」
「最近多いですね。大学生達の飲酒行為で、病院に運びこまれ……最悪、亡くなる事件が」
「二十歳になって飲みたくなる気持ちは分かりますが、アルコールには危険も伴うものだと、もっと自制心というか、節制を心がけてほしいものですね」
「そうですね~」
エリカの花言葉……休息、孤独、裏切り、etc……




