わたぬきには生きられない世界
屋上からは、爽やかな空の青、雲の白。校舎に咲くキブシの淡黄色は勿論の事、丘の上にあるという校舎の好立地と相まって、商店街の街を彩る枝垂れ桜の淡い紅色。そして、街路樹の緑。様々な風景を見ることが出来る。
時刻はもう午後3時ごろになっていた。
俺が屋上へ行くと、黒田が言っていた通り、木藤加奈子一人が待っていた。
「ふふふ。ついに来たわね。綿抜!」
そう言って、俺をズビシッと指差す。
どういう意図をもって、その行為をしているのかは全くもって不明であったが、木藤加奈子は非常に楽しそうであった。何よりである。
ただ、それに付きあっている暇はない。俺は、木藤加奈子が何をしたいのか、まだわからないのだ。
「何か、自信満々の御様子だが、今から一対一のこの場所で、どんな面白い嘘で俺を騙してくれるのかな?」
俺が屋上に来ることになったのは、もとを辿っていけば、木藤加奈子の「嘘をつく」宣言があったからだ。まずはその話題を持ってくることで、突破口を開く。
「今から騙すというよりも、綿抜はもう既に、私たち、いえ、私の術中に嵌まっているのよ。」と木藤加奈子は高らかに宣言した。
「さっきは、後ほどとか言ってたくせに。術中に嵌まっているとか言われても、全く意味がわからないな。」
実際に俺は自分が今、どういう状況に立っているのか、よく把握していなかった。
「流石、四月馬鹿ね。」
「何故、騙されていないのに、馬鹿にされるの?」
意味もなく罵倒されるのは理不尽だと思う。
まあ、木藤加奈子という人間がもともと理不尽であると言われれば、それまでの話だが。
「まず、綿抜。あなたの名字に問題があるわ。」
「どういうこと?」
いつものことだが、本当に何を言っているんだろうか、こいつは。
「綿抜の名字の由来。今日の朝、自分で答えていたわよね。」
「ああ、答えたよ。四月一日は衣替えで着物から綿を抜く日でした。だから、『四月一日』と書いて、わたぬきと読む。綿抜も漢字は違うけど、成り立ちは同じ。」
これは、今日の登校中にした会話とほぼ同じ流れだ。
「そう。しかし、昔の風習では四月一日に綿を抜いていたかもしれないけれど、例えば、綿抜。あなたが今着ているシャツ! 何製ですか?」
「いきなり、何なんだよ。」俺はシャツのタグを見た。
「綿100%だな。」
タグに書いてある通りに答える。湿気のひどい日本において、綿製品は必須だ。
「そう!現代社会において、風通しがよく、汗が乾く綿製品は必須。そして、それは綿抜真。あなたにとっても変わりないということが今証明されたわ。」
「おう。だから、どうした?」
証明というほど、大袈裟なものかはわからないが、綿製品が俺にとって必要なものであることは間違いないだろう。
「あなたは綿製品を生活に欠かすことなんて出来ないの。綿抜きには生きられないの。」
「そ、そうだな……。」
なぜ、木藤加奈子はこんな言い換えをするのだろう。というか、俺の名前が綿抜だからといって、どれだけ、綿に拘っているのだろう。
「なのに、あなたの名前は綿抜。『綿抜きには生きられない』のに、名前は綿抜。これは本当に矛盾しているというか、自らのライフスタイルを完全に偽っているわ。」
木藤加奈子の話は論理が飛躍しすぎてついていけない。
「それはそんなに大事じゃないだろ?」と、つっこむ。
「いいえ。大事よ。細かいことと思うかもしれないけれど、そういう細かいところこそ、大事にしていかなければいけないの。」
「いや、木藤さん?『細かいことは気にしない』っていうのが、木藤の口癖だよね?」
「私は細かいことを気にしなくてもいいの。でも、綿抜は気にしなくてはいけないの。」
「完全にダブルスタンダードじゃないか!」
ここまで酷いと、話し合い自体が成り立たないじゃないか。
「細かいことは気にしない。ようするにね。私が言いたいのは、この世の中は綿抜には生きて行くのは厳しい。綿抜には生きられない世界なのよ。」
「はあ。それはさっきも言ってたんじゃない?」
「いいえ、私が言いたいのは、この世の中は綿抜、つまり、『綿抜真には生きられない世界』ということよ。」
「まさかの俺個人の批判ですか!」これは思わずつっこまざるを得ない。
「綿抜を罵倒したいっていうのが、私の希望だからね。」
「そうでした。そうでした。」たしかに、今日の朝、木藤加奈子はそんなことを言っていた。
「そう、そんな、この世で生きて行くことすら厳しい綿抜はね。しあわせで生きていかなければならないの。『わたぬきには生きられない』に、『し』を合わせるとね。『わたしぬきには生きられない』になるのよ。」
ようするに、「綿抜きには生きられない」に「し」を合わせると、「私抜きには生きられない」になると。
ここで、俺はうーんと考え込まざるを得なかった。
綿抜は私抜きには生きられない
木藤加奈子が唐突に放った、この言葉。これはまるで告白のようではないか。
俺は自分の胸が高鳴っていることに気付き、軽く動揺した。何故、木藤加奈子の言葉なんぞに俺が心踊らされなければならないのか。ここは少し冷静にならなければ。
そもそも、この屋上に何のために来たのか考えてみよう。木藤加奈子に嘘をつかれて罵られるため。いや、そうではなくて彼女の嘘を暴き、論破するために、ここに来ているのである。
どうせ、木藤のことだ。
「え、もしかして今のって、告白みたいなものですか?」なんて仮に聞いて見ろ。
「ああ、誤解させちゃってゴメン。私は小悪魔だから、綿抜を浮かれさせちゃっても仕方ないか。綿抜は私抜きでは生きられないほど、非力な虫けらってことよ。私がアンタみたいなのに告白するわけないじゃない。」と鼻で笑われるに決まっているのだ。
大体、俺を騙すことを宣言している人間から、告白されるなんて考えること自体、どうかしている。「四月馬鹿」のトラウマをもう一つ増やすのはまっぴら御免。ここは華麗にスル―するのが、最善の選択肢だ。
「何を言ってるのか、全く意味が分からないんだけど。何の言葉遊びだよ?」
動揺を顔に出さないようにして、俺は答える。よし、完璧だ。
「私がここまで恥ずかしいことを言っているのに本当に察しが悪いわね…。」
木藤加奈子が顔を赤らめる。可愛いなとは思うが、俺は術中に嵌まるわけにはいかない。それに、察しが悪いなどと言われても、何を察しろと言うのだろうか。
「木藤、お前がすごく恥ずかしいというか、ものすごく痛い発言をしているというのには、完全に同意するぞ。それより、お前がつこうとしていた嘘って言うのは何なのか早く本題に入れ。」
小悪魔木藤のたぶらかしに騙されるわけにはいかない。ここは本題である嘘の話に戻さねば。
「……もう、既に本題には入っているのだけれど。」
木藤加奈子はより一層顔を赤らめながら言った。
彼女は本題に入っているなどと言っているけれど、俺からすれば、今までの話はすべて言葉遊びだ。嘘についての話題は全く出ていない。
「入っていないだろう。もしかして、エイプリルフールに『嘘をつく』とか言って、実は嘘をつかないエイプリルフールパラドックスのパターンか?」
黒田よりの受け売りの知識であるが、木藤加奈子の意図を探るために、敢えて切り出す。
「……エイプリルフールコンプレックス?知ってるわ。そんなの当然よ。」
木藤加奈子は狼狽しながら、そう答えた。
「エイプリルフールコンプレックスじゃなくて、エイプリルフールパラドックスだよ!全然知らないの丸わかりだよ!」
「あの、かの有名なエイプリルフールパラドックスを私が知らないわけがないじゃない。いやいや、勿論知ってたわよ。こう何と言うかね……知っているけれど、知らないふりをして、綿抜を混乱させようという……あれ、いわゆる非常に高度な演技というか戦術を私はね。取っているんだよ。そう確信しているよ。……そこのところがわからないようでは、綿抜はまだまだ……半人前なんじゃないかな? 多分、私はそう思うよ。」
木藤加奈子は言い訳というか、いきなり曖昧な表現を多用し始めた。これは、完全にこちらに流れが来たと考えていいだろう。
「完全に混乱してるじゃないか。それで、これから、木藤はどんな嘘をついてくれるんですかね? この一対一の状況で、且つ下校時刻の5時まで大して時間もないのに、難解な嘘をついてネタばらしまで持っていく余裕なんてないと思うけれど。」
俺は完全に勝ったと思った。
しかし、木藤加奈子は俯きながら小声でこう言った。
「……私はもう嘘ついてるよ。」