第陸話 影仏の洞
第陸話 影仏の洞
奥の居、黒沼家。
化粧町の最南端、龍神川と御山に囲まれた、広大な沼沢地を抱える奥の居。
その最奥に屋敷を構えるこの家は、川上原白沢家と肩を並べる、化粧町の二大名家のひとつだ。
「奥の居は、黒沼家の領域だ。妄りに入ってはいかん」
亡き祖父にはそう教えられた。
それは大家同士の無用な争いを産まぬための、古来の約定か。
あるいは単純に、奥の居に広がる沼沢地が危険だから、釘を刺されていただけ、なのかもしれない。
白沢家と黒沼家自体は、昔から通婚が進んでいて、ごく近い親戚関係なのだと聞いた覚えがある。
当代でも、義盛伯父や父の妹にあたる人が、黒沼家に嫁いでいるはずだ。
「黒沼繭」
そう名乗った少女は、だから雛や俺にとって、いとこになる。
雛と似た印象を受けたのも、ならば当然なのかもしれない。
それにしても、あの少女は何なのだろう。
黒沼家にも、白沢家の領域を侵すな、という教えはあるはずだ。
にもかかわらず、平然と、彼女は白沢の奥座敷まで入ってきている。
ひょっとして、あの狐面を被っているのは、そのあたりを誤魔化すためでは、とも思う。
「ちゃんと考えないと、選べなくなるよ……佐鳥ちゃん?」
彼女の、去り際の言葉を思い出す。
いったい、なにを選べなくなるというのか。
俺の目の前に、どんな見えない選択肢が提示されているというのか。
どうも気に入らない。
考えを推し進めるにつれ、正体不明の不安がこみ上げてくる。
なにか禁忌に触れているような。菩薩の手に、そうと知らずに落書きしているような、そんな感覚。
真実はまだ、闇の中にある。
しかし、答えを求めずにはいられない。そう仕向けたのは、間違いなくあの少女、黒沼繭だった。
彼女は俺に何を望んでいるのか。
はたして俺をどこへ導こうというのか。
その奥に潜む感情は、好意なのか悪意なのか。
顔を見せない、狐面の少女。俺にとっては彼女自身が謎だった。
「“禊の儀”四日目。川上原白沢家の影仏の洞に参っていただきます」
俺は、その意味を考えざるを得なくなった“禊の儀”を続ける。
雛や義盛叔父に対する義理のためでも、いままでのような単なる好奇心のためでもない。真実に、近づくために。
◆
影仏の洞と呼ばれる洞窟は、白沢家からそれほど遠くない山際に存在する。
“影仏さま”が存在するそこには、白沢家当主と、当主が家訓に則って認めた人間でなければ侵入を許されない。
幼いころ、祖父義雅から特に念を押して「近づくな」と言われていた場所だ。
別宅を出て、一度本家のほうに戻る。
屋敷の前には、来た時と同様、門前に立つ義盛伯父の姿があった。
敷地に入れないのは、穢れを避けるためか。
しかし、なぜここまで徹底的に穢れを避けるのだろう。やはり、なにか明確な理由があるのだろうか。
「“禊の儀”。男。青峰佐鳥。御伽人、白沢の雛。よっつ。影仏の洞に参らせ給わん」
「“禊の儀”よっつ。影仏の洞。白沢家当主、白沢義盛。参拝を許す」
二人のやり取りは、親子のやり取りとしては妙にかしこまって見えるが、儀式の最中だ。こんなものだろう。
伯父の許可を得ると、屋敷の石垣の中段を、来た方とは逆――右回りに進み、山手へ向かう。
本宅の後ろには、広大な野原が広がっている。
すべて白沢家の土地だ。一部は畑や花を植えるなどして活用されているが、ほとんど遊んでいる。
別宅からもそれほど遠くないため、よく遊び場として使っていた。
それを突っ切って行くと、小さな沢にぶつかる。龍神川に合流するらしいこの小沢を遡っていくと、目的地に着くらしい。
沢沿いの道を、奥へ奥へと進む。
人工物はすでに目に入らない。強いて挙げるなら、獣道かと錯覚するような、道とも呼べないこの小道だけだ。
完全な自然。
一体いつから、このような光景が続いているのだろう。
ひょっとして平安の昔にさえ、このような光景があったかもしれない。そう思えてくる。
「そういやさ、雛、黒沼も古い家なのか?」
歩きながら、ふと、湧きでた疑問を、雛に投げかける。
「そうだよ。昨日話したでしょ? 白沢家初代近盛さま。黒沼家の初代泰盛が近盛さまの弟なの」
「へえ」
「化粧町が今の形なったのは、このふたりの兄弟の代でみたい。だから、町の歴史ではかなり重要な人」
人の行き来が多いし、いまでも一番近い親戚だしね。
そうつけ足してから、雛はこくりと首をかしげる。
「でも、なんで急に黒沼のことを?」
「いや、“禊の儀”の七つの神域について考えてたんだけどな」
考えながら説明する。
黒沼繭が白沢家別宅を毎夜尋ねてきていることは、どうも言わないほうがいいように思われた。
「――川上原白沢家、奥の居黒沼家。ほかの御当人のひとたちと違って、この二家だけ、はっきり家として関わってる感じだったから、気になったんだ」
理由としては十分だろう。
雛も納得した様子でうなずいた。
「なるほど。そういえばそうだね」
「いま気づいたのか?」
なんとなくそう聞くと、なぜか雛は急にあわてだした。
「いやいや、そりゃわかってたけどね? なんて言うか、化粧町の重要な儀式にこの二家が関わってるのは、当然だから、あらためて言われると、そういえばそうだな、と思っただけなんだよ馬鹿じゃないよ」
どうやら、自分が馬鹿だとは思われたくない様子。
弁解に納得はいくし、別に雛が馬鹿だとは思っていないのだが、あわてる様子がなんだか馬鹿っぽくてかわいい。
「まあ、領主さまだからなあ」
「昔の話だって」
つい弄ってしまいたくなる衝動に耐えつつ、無難に納得して見せると、雛は照れたように返してくる。
「……そういえば、この儀式とか、七か所の神域とかって、どれくらいの歴史があるんだ?」
「分からないよ。ただ、今日行ってもらう影仏の洞が開かれたのは、確か初代近盛さまの晩年だったはずだよ。黒沼の泥仏さまも同じぐらいだね」
◆
目的地が見えた。
ずっとたどってきた、小沢。
それを吐き出している、大人が三人、横に並んで通れそうな、大きな洞窟だ。
この辺りになると、川床が白い。
天然か、人工か、白石が敷き詰められているのだ。
「これが、川上原の白沢。この辺り一帯の地名、それと白沢家の名字の由来だよ」
苔むした洞窟の口から流れる、清浄な水。
真夏の光を照り返して、白沢はきらきらと輝いている。
緑が濃い。それは山の暗さを受けて、俺の目にはより深く鮮やかに映る。
――じいちゃんが好きそうな風景だな。
俺を育ててくれた、画家である母方の祖父を思い出す。
あの人がこんな場所を見つけたら、大変だ。すぐに画材とキャンバスとありったけの食糧を抱えて来て、最低三日は動かないだろう。
「さあ、サトリちゃん。入ろうか」
考えていると、雛に声をかけられる。
彼女は裸足になると、宝石のように光る白沢に足を浸した。
あらわになった足首が、妙になまめかしくて、どきっとする。
「大丈夫。そんなに尖ってないから、痛くないよ」
ためらいを別の意味に捉えたのか、雛はそんなことを言ってくる。
動揺をごまかすように、俺は裸足になって白沢に飛び込んだ。
洞窟の中は、当然だが暗い。
雛は、あらかじめ用意していたのだろう。蝋燭を取り出すと、マッチで火を灯し、蝋燭立てに刺して明かりを確保した。
蝋燭の朧な光のなか、水流に逆らうように奥へ。
緩やかに折れ曲がる洞窟を進んでいくと、ほどなくして、光が見えた。
「おお」
光の源を認識した俺は、歓声をあげた。
ドーム状に広がった洞窟。その天井から、滝がキラキラときらめきながら、薄いヴェールのように流れている。
その、中心。
きらめく滝の中に、影がある。
それは、まるきり仏像の姿をしていた。
裏に仏像があるわけではない。
よく観察すれば、ただの奇形な岩だとわかる。
しかしそれが水のスクリーンを通すと、光を受けた濃淡が、丸みを帯びた姿が。完全に仏さまのように見えるのだ。
日のあたる地上まで通じているであろう縦穴と、そこに流れ込む水。そして地形が織りなす、それは奇跡のような光景。
「影仏さまだよ。さ、サトリちゃん。影仏さまの前へ」
影仏さまの滝の前には、テーブルのような岩が置いてある。
そこに燭台を置くと、雛は懐から木札を二枚取りだした。
どちらも裏には細々とした文字が、表にはそれぞれ雛、佐鳥、と筆で書かれている。
これを石の上に奉げると、雛に従い、そっと手を合わせる。
それから一礼して、その場を離れた。
しかし、なぜだろう。
雛を横目で見ながら、俺は考える。
こんな暗がりだからかもしれない。
先程から、どうにも雛が色っぽく見える。
ともすれば襲ってしまいそうな、そんな衝動に駆られる。
まあ、仕方ない。
禁欲五日目だし。雛のこと好きだし。
幸い、水はいくらでもある。すこし頭を冷やすことにする。
「……サトリちゃん、いきなり水の中に倒れ込んで、なにしてるの?」
雛に心配された。
たぶん頭の。
◆
夏の日差しの強い時だ。濡れた白装束も、帰る頃にはほとんど乾いていた。
濡れた布地が足に張り付いて歩きにくかったせいか、ひどく疲れたが。
それから雛に勧められて風呂に入り、上がってから昼食を取った。
その後、居間でごろごろしていたのだが、いつの間にか眠っていたらしい。
――目を覚ますと、雛の寝顔が目の前にあった。
しばらく思考停止。
状況を把握するのに、すこし時間がかかる。
添い寝か。
幼いころ、たしかにやっていた。
だが、それにしてもこの距離はない。
すこし顔を傾けるだけで、唇と唇が触れそうだ。
瞬間的に、灼熱の血が頭に昇ってくるのを感じる。
なんだこれは。
誘われているのか。
行っちゃっていいというのか。
脳内の悪魔さんが一大勢力を築き、理性を蹂躙しつつあるのだが、どうしよう。
というか理性軍が勢力を挽回する要素がこれっぽっちも見当たらない。いやしかし。
精神の綱引きに震える手が、雛の髪に触れた、瞬間。
少女の瞳が、眠たげに開かれた。
目と目が合う。
不思議な間が空く。
手を引っ込めるべきか、どうするべきか、考えていると。
ぼん。
と、音さえ立てて、雛の顔がトマトのように真っ赤になった。
「さ、さささささささ、サトリちゃん!?」
「よ、よう、雛」
俺も、内心の動揺を押さえながら、応じる。
完全には抑えきれなかったが。むしろ全力で漏れてるが。自分で赤面してるのが分かるが。
「……お前も、寝てたのか」
「……う、うん。サトリちゃんが気持ちよさそうに寝てるの見たら、わたしも寝たくなっちゃって」
ぎくしゃくと、錆びついた機械のような動きで起き上がると、なぜかおたがい背筋を伸ばして正座で話す。
「そ、その、サトリちゃん、なにしようと……してたの?」
「いや、うん。かわいい寝顔してるなって思って、思わず触りたくなった」
「ふぇ? いや、その、駄目だよ。駄目じゃないけど。嬉しいけど。でも」
雛はもういっぱいいっぱいだ。
ひたすら百面相してから、思いついたように深呼吸。
「その、サトリちゃんはわたしのこと、か、かわいいって思って……くれてるのか、な?」
こほんと咳払いしてから、雛は上目づかいに尋ねてくる。
耳まで真っ赤になっている彼女に、俺も頭に血が上ったまま正直に答える。
「思ってる。かわいい。ギュッとしたくなる」
「ええ!? その、うれしい、し、いいよ。ギュッとして」
「いや無理」
「ええっ!? なんで!?」
「儀式中。精進潔斎。俺の理性は風前のともしび」
すこしの逡巡の後、意味が理解できたのだろう。
雛の顔が赤くなったり青くなったりして、その果てに。
「はうっ」
彼女はぽてんと転んだ。
思考がオーバーフローを起こして気絶してしまったようだ。
その後。
雛が再び起きたのは夕食前で、それから俺も雛も、意識し合ってろくに話もできない状態。
風呂に入った雛は、早々に寝床に引っ込んでしまった。
――思い切り、踏み込んでしまったが。
寝床に入って、俺はひとり考える。
完全に自覚した。俺は雛が大好きだ。
雛のほうは、どうだろう。少なくとも好意は持ってくれているはずだ。
あの時、“禊の儀”の最中でなければ、最後まで突っ走っていた事は疑いない。
――でも、どうすんだ、俺。まだ学生で、責任も取れないのに。
白沢家の状況は分かっている。
義盛伯父の子供は雛だけで、雛は次の当主確定だ。
雛と結婚するとしたら、俺が入り婿になるしかない。
そうすれば。ひょっとして、雛と同じように、一生化粧町を出られなくなるかもしれない。
――俺、じいちゃんみたいに世界中旅してまわるのが夢なんだけどな。
背中に翼が生えたような自由人の祖父を思い出しながら、天井を見つめる。
それから。冷静に考えると思いきり先走って考えていることに気づいて、俺は枕を抱えて悶えた。
◆
悶々としながら深夜を迎えた俺は、気持ちを引きずったまま、縁側へ出た。
闇の中、狐面の少女はすでに庭先に立ち、俺が来るのを待ちかまえていた。
少女はしばし、無言。
ややあって。
「そういうのもいいけど、考えるのは止めないほうがいいと思うな」
当然のように、彼女はそう言った。
思い切り見透かされた心地になり、しばし絶句。
それから、冷や汗とともに、かろうじて疑問を絞り出す。
「そういうのって、なんだ」
「あなたがいま、頭の中に思い浮かべていること」
くすくすと、笑いながら。
狐面の少女は事も無げに言う。
完全に白旗を上げざるを得なかった。
「今日は、謎かけはしないのか?」
不貞腐れるように問うと、少女はゆっくりと、首を縦に動かす。
「どんな謎かけをするか、もうわかってるでしょ? だから」
問わない。と言ってから、少女は言葉を継ぐ。
「それよりも、昨日、白沢雛に、化粧町の縁起を聞いたって言ったよね?」
「……言ったな」
狐面の少女の問いに、ゆっくりと頷首する。
「白沢近盛と黒沼泰盛の兄弟の話、聞いてる?」
「ああ」
「じゃあ、この二人は双子だった、って話は――当然聞いてないよね」
当たり前のように、少女は言った。
「そうだったのか?」
「ええ。だけど父忠兼はそれを隠し、泰盛を年子の弟としたの」
不安とともに疑問が生じる。
その事実を、雛は知っているのか。
知っていたとすれば、なぜ隠したのか。
「雛はそれを……知ってるのか?」
「それから、平忠兼さまの妻となった藤原の姫君。変じゃないかな? 攫われてから、助け出されるまでに、かなり時間がかかってる。その間、なぜ姫は化物に食べられずに済んだの? 化物の正体は人間だった? それとも本物の姫はとっくに食べられちゃってて、化物が姫に化けて忠兼さまと結婚したの? だったら、その子孫のわたしたちは、ほんとは何者? なぜわたしたちの先祖は、化粧町を外界と隔絶させてしまったの?」
俺の問いには答えず、憑かれたように、矢継ぎ早に疑問を並べ立てる少女。
それから、一息ついて。彼女はただ一言、問うた。
「――なにが本物なの?」
ぞっとする声音。
それから、ふいに彼女の気配が緩む。
「……明日参るホウジ稲荷さま。そこで、自分で感じてくるといいよ」
――この里は、嘘で塗り固められているから。
最後にそう言って、狐面の少女は闇の奥へ消えた。
呆然として、しばらくそこから視線を動かせない。
彼女の様子は、鬼気迫っていた。
そして、ふと気づく。
彼女の居た場所に、紙がくくりつけられた、拳大の石が落ちている。
庭に出て、拾い上げ、紙を開く。
目に入った文字に、背筋が寒くなる。
紙には、強い筆致でこう墨書されていた。
――帰れ。