第参話 くらまし地蔵尊
第参話 くらまし地蔵尊
初めて化粧町を訪れたのは、はて、いつのことだろうか。
とにかく俺が覚えているものの中で、もっとも古い記憶というのが、古ぼけたあの白沢家別宅であり、そこで出迎えてくれた同い年の少女の姿だ。
年のころは、五、六歳といったところ。
嘘のように整った顔立ちの、名のある職人の作った人形細工のような美少女だった。
「佐鳥ちゃん。いとこの雛ちゃんよ。挨拶なさい」
「ぼ、ぼくは佐鳥。よろしく」
母に背中を押され、おっかなびっくり、この触ると壊れそうな少女に挨拶すると、少女――雛はちょこんと頭を下げた。
「わたし雛。よろしく、サトリちゃん」
「ちゃん付けはやめてよ」
「でも、おばさまがサトリちゃんって……」
「母さんはいいんだよ。でも雛ちゃんはだめだよ」
「なんで? ずるい」
理由など単純だ。
きっと同い年の美少女に、子供扱いされているように感じたから。
だから理由を問い、こくりと首をかしげる雛に、結局満足な答えを与えられなかった。
そのせいで十何年も経った今に至るまで、俺は彼女から“サトリちゃん”などと呼ばれ続けている。
それからどれくらい、雛と遊んだだろう。
父はこまめに帰郷する人ではなかったし、「怖い髭のおじいさん」だった祖父が死んでからは、さらに足が遠のいた。
それでも、帰郷のたびに雛とは顔を合わせ、化粧町の野山を駆けまわった。
雛は、そのお人形のような外見に似合わず腕白で、しょっちゅう体にすり傷を作っていたし、それを見た母に「女の子をこんなに傷だらけにして」などと、よく怒られたものだ。
最後に会ってから六年。雛は十八歳になっている。
大人と言って差し支えない年齢となった彼女が、ひとつ屋根の下で、俺のために食事を作っている。
「サトリちゃーん。朝ごはん、出来たよー」
テーブルに肘をかけ、待っていると、奥から雛の声。
むずがゆいような、嬉しいような。
そんな感傷を覚えて、思わずほほを掻く。
さて、この感情をどう処理したものだろうか。
◆
「“禊の儀”一日目。まず、備場のくらまし地蔵尊に参っていただきます」
朝食の後、しばし。
かたづけを済ませ、白装束に着替えてきた雛が、例のかしこまった調子で言った。
「備場か……けっこう遠いな」
頭の中に化粧町の地図を描き、つぶやいた。
化粧町は、四方を山に囲まれ、その形はおおむねトランプのダイヤ型をしている。
ダイヤの上方頂点が境峠で、そこから南に向けて中央付近まで走っているのが、この町唯一の舗装道路。
ダイヤの左、ふたつの辺の、それぞれ中央から中央、南から北に“つ”の字を描いて流れているのが龍神川だ。
この“つ”の字で囲われた地区が、白沢家のある川上原だ。
そして備場があるのは、右上辺から舗装道路にかけての地域。
白沢家別宅からの距離は、おおよそ8キロメートルといったところか。
「どうやって行くんだ? 車か自転車?」
「ごめんだけど、歩いて行かなくちゃいけないの」
「うえ……ま、歩くの嫌いじゃないし、いいけど。雛もついて来てくれるのか?」
「うん。というか、わたしが先導して行くから。“御伽人”って、そういう役なの」
雛はそう言って、にっこりと笑った。
◆
龍神川を越え、舗装道路を北に向かって歩く。
真夏の太陽が、じりじりと肌を焼き、うだるような暑さで、アスファルトから靄のようなものが立ち昇っている。
「……暑いな、雛」
朝、儀式の段取りということで、湯に浸かってから白装束に着替えての強行軍である。
迂闊なことに、上がってから水分を取り忘れた。雛がお弁当と水筒らしきものをリュックに入れていたのを思い出し、求めたのだが、「儀式が済むまでは駄目」だと言うことで、これはなかなかに厳しい。
「そうだねえ。この白装束もけっこう分厚いし……」
「薄いと汗で透けるもんなあ」
「ふえ? やだ、サトリちゃん。へ、変なこと言わないでよ」
俺の一言に、雛がとっさに身を庇う。
――ああもうコイツほんとにかわいいなあ。
などと心の中では悶えているのだが、さすがに言葉に出すのは自重。
表情には出てないと思いたい。
「……それにしてもサトリちゃん。都会育ちなのに、けっこう歩くの、大丈夫なんだね」
「言ったろ? 歩くのは嫌いじゃないって。大体、俺は画家の爺さんが絵を書くのに付き合って、しょっちゅう山登りしてたんだぜ? 軽トラ下駄がわりにしてる田舎の大人なんかより、よっぽど歩けるさ」
「へええ。すごいなあ」
そんな言葉を交わしつつ、一時間とすこし。
俺たちは、ようやく目的の場所にたどり着いた。
それは、奇妙な風景だった。
見渡す限りの田園風景。そのただ中に、ラクダのコブのような盛りあがりが七つ。それを橋渡しするように、蛇行する細い道が付けられている。
最も近いコブの下に、一人の男が立っていた。
麦わらTシャツ姿の、見るからに農家といった風情の、壮年の男だ。
「御当人」
雛が声をかける。
「御伽人」
男がしゃんと背筋を伸ばして、礼をした。
雛はそのまま男に歩み寄り、同じく一礼する。
「“禊の儀”。男。青峰佐鳥。御伽人、白沢の雛。ひとつ。くらまし地蔵尊に参らせ給わん」
「“禊の儀”ひとつ。くらまし地蔵尊。御当人。武藤俊英。承った」
たがいにはっきりとした口ぶりで、ともすれば挑みかかるような調子だ。
自然、威圧されながら、俺は促す雛に付き従い、この奇怪な小道に入りこんだ。
雛に従い、なだらかなこぶを登る。
頂点に立つと、下からは見えなかった盛りあがりの上部がみえた。
七つ瘤のまんなか。もっとも大きいものの上に、三つの影が見える。
よく見ればそれは地蔵だった。
――あれが“くらまし地蔵尊”か。
雛は無言で進む。
コブを下り、ふたつ目のコブを登っていく。
上まで来たところで再び目に入った地蔵の影。それを見て、俺は目を疑った。
「地蔵が、ふたつに?」
三つだと思っていた地蔵の影が、どう見てもふたつになっている。
「ふしぎでしょ?」
ごく小声で、雛がつぶやいた。
いたずらっぽい瞳。極上の芸を披露している時の、手品師の表情だ。
――なにか、仕掛けがあるんだな。
考えながら、雛に従い、なお歩く。
小道は大きく蛇行して、三つ目の盛り上がりにたどり着いた。
「……なるほどな」
今度は、見える地蔵の姿が六つになっている。
三度目にして、俺はようやく不思議の全貌を掴んだ。
「蛇行する道。そして丘と地蔵の配置……それが仕掛けの種か」
「さすがだね、サトリちゃん。手品が上手いだけのことはあるね」
雛は小声で、感心するように言った。
「ああ。盛り上がりを作ることで、お地蔵さまが視界に入るポイントを限定し、蛇行する道で絶妙な角度に調整する。そして地蔵はジグザグに配置されている。だから真横から見れば二体に、斜め45℃から見れば三体に、真正面から見て六体に見えるってわけだ」
「正解。立つ場所によって、お地蔵さまが姿をくらます。だからくらまし地蔵尊っていうの」
と言ってから、雛は眉を顰めて見せた。
「――でも駄目だよ。ここは神域で、これは神様の起こす不思議なんだから、軽々しく謎解きしちゃ。いまの、武藤のおじさんなんかに聞かれたら、怒られちゃうよ」
「武藤って、ああ。さっきの御当人とかっていう」
「うん、御当人。それぞれの神域を保守管理する当番みたいな役割かな。このくらまし地蔵尊では、備場の大人が年替わりで当番してる」
「そうなのか」
雛にあわせて小声で会話しながら、四つ目の盛り上がりを登る。
至近に、地蔵の姿が見えた。
古ぼけた地蔵だ。
そのわりに苔ひとつないのは、手入れが行き届いているからだろう。
六体の地蔵は、ジグザグに並んで、ただ南の田園風景を見つめている。
青々とした稲穂がまっすぐに並び立ち、そのはるか向こうに小さな森があった。
妙な雰囲気の森だ。
奥に見える山からも孤立した、小さな森に見える。
にもかかわらず、ひどく暗い。見ていると、なぜか不安な気持ちになってくる。
「雛、あれ」
「サトリちゃん。先にお参り」
「すまん」
雛に注意され、頭を下げる。
六体並んだ地蔵に線香をあげ、雛に従い順に拝んでいく。
すでに供え物がしてあるのは、御当人が用意したのだろう。
拝み終わってから、地蔵の前の踏み石に、なぜか鳥居の紋が刻まれてるのに気がついたが、それよりもまず、あの森のことが気にかかる。
「で、雛、あれなんだが」
「指さしちゃダメっ!」
南の森を指差そうとして、雛にはたき落とされる。
「あそこは“ホウジ稲荷”様。駄目だよサトリちゃん。御神所を指さしちゃ」
驚いた。
雛はひどく真剣な表情で、そのなかには淡いおびえさえ見える。
俺が基本的に神仏もお化けも信じない性分で、軽く扱ってしまったが、雛にとってはひどく無礼なことだったのだろう。
反省する。
俺が無神経だっただけで、雛が大切にしているものを踏みにじるつもりはなかったのだ。
「ごめんな、雛」
「あっ、謝るのはわたしにじゃないよう!」
顔を真っ赤にして両手をワタワタさせる雛。
その様子に、俺の深刻な表情は、数秒と持続しなかった。
◆
それから。
くらまし地蔵尊の小道をぬけ、出口側の御当人に挨拶を済ませると、雛は一日目の儀式の終了を告げた。
そこから北にすこし歩いて、屋根つきの休憩所で昼食をとり、その後、また歩いて帰宅。三時過ぎのことだった。
しばし休憩。
歩き続けだったので、そこそこ疲労がたまっていたらしい。
雛が切ってきてくれたスイカを、縁側で肩を並べて食べながら、風鈴の音にしばし耳を傾ける。
夕方。雛に勧められ、早めに入浴して汗を流す。
汗を流してさっぱりした後、雛が台所に入ったので、配膳を手伝い、食事。
その後は、手品用に持ってきていたトランプで、ヒマつぶしに雛で遊んだ。
あらかじめ手品用だと言っているのに、カードに目印がついているのにも気づかず、顔を真っ赤にして勝負を挑み続ける雛。
「むー、サトリちゃん、もう一回!」
そんな彼女の様子がかわいすぎて、ついタネ明かしを引っ張ってしまった。
だからまあ、イカサマを知った雛が拗ねて早々に寝所に引っ込んでしまったのは、全面的に俺が悪かったのだろう。
そして深夜。
ふと予感に駆られて、俺は縁側へと向かった。
庭先には、やはり、と言うべきだろうか。昨日の黒装束の少女が立っていた。
顔にはやはり、狐の面。
闇の中、無言でたたずむ少女からは、どこかこの世のものとは違う、異質なものを感じる。
「……来たんだ」
ふいに、少女の方から声がした。
彼女の声だと気づくのに、一呼吸を要した。
静かで、透明な声。初めて聞くはずの少女の声は、なぜだろう、どこか懐かしい。
「キミは、誰だ?」
「謎かけ、しましょうか」
質問など耳に入らなかったように、狐面の少女は言葉を投げてくる。
「なにを」
「――」
問いだけ投げかけて、少女は闇の中へと姿を消した。
俺はその場で立ち尽くし、言葉の意味を考える。
少女はこう言った。
「くらまし地蔵は、なにをくらませるの?」
決まっている。
くらまし地蔵自身だ。
雛から教えてもらった知識で心中、答えたが、しかしそれは少女の求めた答えではない気がした。