第弐話 白沢家
第弐話 白沢家
龍神川を越えて、歩くこと十五分。
目の前に山が迫ってきたとき、ようやく目的地が見えた。
古びた、しかしとんでもなく大きな屋敷。
それを大きく囲う、低い三段の石垣。正面の門前には、二本の桃の木が、まるで門のようにアーチを描いている。
変わらない。
俺の記憶にある、白沢家の屋敷そのままの姿。
近づいていくと、桃の木のそばに、一人の男の姿が見えた。
「あ、父さま」
雛がつぶやいた。
鷲鼻に、奇麗に整えられた口髭。切れ長の瞳の、壮年の男。
見覚えがある。若干髪に白いものが混じっているが、間違いなく俺の伯父。白沢家当主、白沢義盛だ。
「よく来た、佐鳥。大きくなったな」
顔をほころばせながら、義盛伯父はうなずく。
いまにも抱きつかんばかりの様子だったが、それを自重するように、門前から動かない。
自らの態度が不審を与えていると察したようで、伯父は苦笑混じりに口ひげをいじりながら、自らを弁護しはじめる。
「すまんね。本当は抱きつきたいくらい嬉しいんだが、厄介なもんで、“禊の儀”を行う人間には、わしは触れられんし、家にも上げられんのだ」
「――父さま。その説明はわたしの役目です」
すまなそうに言う義盛叔父を咎めるように、雛が口を挟んだ。
意外に鋭い声。俺が驚いていると、雛はこほん、とかわいい空咳をした。
それから、あらためて俺に向き直り、ゆっくりと、掬うように手を差し伸べてくる。
「サトリちゃん。じゃあ、“禊の儀”のために留まってもらう白沢の別宅に、案内するね」
笑顔で言う彼女の手を、そっと握る。
手品で遊び過ぎたせいだろう。雛は手が本物かどうか、疑うように感触を確かめる。
その様子が、どうにも無作法なものに見えたらしい。義盛伯父が不安そうな様子で、口を開く。
「本儀では、礼法を外してくれるなよ」
心配そうな様子の義盛伯父を背に、雛に手を引かれるまま、進む。
石垣の中段を左手から回り、裏手の小道を歩いていく。
十分ほども歩いただろうか。
山が間際に迫り、影の濃くなってきた林道の先に、なつかしい屋敷が見えてきた。
本宅よりいくぶん小さいものの、屋敷と呼べる広さの、古い木造建築。
白沢家別宅だ。子供のころ、両親と一緒に泊った、そして雛ともよく遊んだ思い出の屋敷だ。
「なつかしいな。この別宅も」
「そうだね」
しみじみつぶやくと、雛も嬉しそうに同意した。
敷地に入ると、庭地のあちこちから思い出がこぼれてくる。
「あ、あの柿の木、まだあるのな。昔よく登ってたやつ。おっ、この枯れた手水、“王様の椅子”だ。飛び石の欠け、これも覚えてる。なつかしいなあ」
「よく覚えてるねえ」
「一番覚えてるのは、お前といろいろ遊んだことだけどな、雛」
「ふぇ――えええええっ……」
見る間に、雛の顔が真っ赤になった。
思いもよらぬ好反応だが、からかったつもりはない。
雛とはこの別荘を拠点にして、野山を走り回ったものだ。
その思い出は、いまも俺の胸の中にしっかりと残っている。
そう言えば。思いだす。
当時父や伯父に「絶対近づくな」と言われていた場所が、いろいろとあったことを。
あらためて考えれば、それもこの化粧町の風習に絡む、禁忌のようなものだったのかもしれない。
「あ、ごめん、ちょっと待っててっ」
赤面を誤魔化すように、雛は言い置いて屋敷の中に入っていく。
「おーい、雛! 入っていいのかー!?」
「ちょっと待っててーっ!」
と、庭さきに留め置かれて、待つこと十分ほど。
ふたたび玄関から出てきた雛を見て、思わず息をのんだ。
白装束。
いつか見た。夢でも見た、昔の雛。
それが、そのまま大きくなったような。
嘘かと思うほどに透明で、奇麗な少女が、そこにいた。
「来て」
静かな声。
ぎくりとして、誘われるまま、中に入る。
少女はすっと身を引き、膝をついて出迎えた。
別人を見る思いでどきどきしながら、彼女に案内されるまま、ひとつの部屋に入る。
部屋の中には座布団が二枚、相対する形で置かれている。
勧められて一方に座る。雛はもう一方の座布団の脇に立つと、そこで膝を折り、両手を膝の前に揃えて礼をした。
「白沢へようこそ。青峰佐鳥さま」
別人のように、透明で、芯の通った声。
茶化すこともはばかられ、俺は素直に礼を返した。
こちらを向く漆黒の瞳は、深く、深く吸い込まれそうになる。
「まずは、佐鳥さま。携帯電話を」
言葉に、抗いがたいものを感じて、携帯を取り出す。
彼女が手を差し出してきたので、すこしためらってから、その上に乗せた。
雛は携帯を押し頂くと、そっと膝元に置いて、それからこちらに向き直った。
「ほかに、電子機器の類は? 失礼ですが、儀式の間、預からせていただきます」
そう言って、雛が視線をやった先。床の間には、小型の金庫が置かれていた。
その中に、携帯とデジタルの腕時計を放り込み、錠を落とすと、彼女は手に持つ鍵を寄越してきた。
「金庫は、こちらで預からせてもらいます。それでは、これより“禊の儀”の段、説明させていただきます」
雛が金庫を膝脇に置くのを見て、すこし、喪失感。
現代人ゆえ、携帯電話は手足と同じ、あって当たり前のものだ。
それが手元にないのだ。それに、いよいよ儀式とやらが間近に迫ってきている。不安を覚えたとしても仕方がない。
けっして、雛が別人のようになったことに不安を覚えたからでは、ない。
「――儀式は七日。その間に郷内七か所をめぐり、禊をしてもらいます」
「七か所?」
「はい」
不安を押し出すように、声を出す。
質問を許さない雰囲気だったが、雛は存外さっぱりと言葉を返してきた。
「化粧町の要。七つの神域。すなわち――」
ひとつ。備場のくらまし地蔵尊。
ふたつ。龍神川を祀る水の江神社。
みっつ。御山の山鐘楼。
よっつ。川上原白沢家の祀る影仏の洞。
いつつ。二江の北、ホウジ稲荷。
むっつ。西入り谷の崖様。
ななつ。奥の居黒沼家の祀る泥仏様。
雛は、次々と地名を挙げていく。
ピンとくる名前もあるし、知らない名前もある。しかし、共通して言えるのは。
――子供の頃、怖いから行くなと言われてた場所ばかりだ。
神域に、子供が下手に近づかないための、それは対策か。
「七か所を巡る。その間はここに住んでもらいます。夜はけっして出ないでください。御伽人は、わたくし、白沢義雅が孫娘、白沢義盛が娘、雛が相務めさせていただきます」
そう言って、雛は一礼。
顔を上げた少女の顔が、ふいに、ふわっと緩んだ。
「緊張しちゃったよう。息がつまるね」
膝を崩して、いつもの笑顔にもどった雛に、すこしほっとした。
◆
夕飯までの時間を談笑して過ごし、雛の用意してくれた食事を食べた。
胡瓜の白酢和えに、かぼちゃの煮物、茄子の田楽。落とし芋汁に、生姜を使った炊き込みご飯と色どり豊かなのだが、肉気がない。
「ごめんね。ほんとならニワトリでも絞めて食べてもらいたいんだけど、儀式の間は精進潔斎しなきゃいけないから」
いま、雛の口からさらっとニワトリを締めるとか出たのだが、どうなんだ、それと思う。
さすがは田舎、ということにしておくべきか。
「精進潔斎……肉とか食べちゃいけないってことか?」
「それと、お酒も駄目。あと、その、男の人と、女の人の、その」
「オーケーわかった雛。無理に言わなくていい」
要するに、肉食、飲酒、性行為が禁止ということなのだろう。
自慰行為はどうなんだろうと、ふと疑問に思ったが、そんなこと雛に聞けるはずがない。たぶんこれも駄目なのだろう。
しかし、一週間か。けっこうつらい気がする。
などと思いながら、料理に箸を伸ばす。
「美味い」
お世辞抜きにそう思った。
味の加減も具合も、ぴたりとツボを押さえている。
口に合う、とか舌に合う、とかいう表現は、こんなときに使うんだろうか。
「そ、そう?」
「ああ。もろ好みの味だ」
そう言って褒めると、雛はてれてれと自分の頭を撫でながら相好を崩した。
「あ、ご飯、おかわり、要る?」
「欲しい。頼む」
茶碗を差し出すと、雛はそれを丁寧に受け取って、木のおひつに入っている混ぜご飯をしゃもじで掬って丁寧に盛った。
それをきれいに平らげて。
「おいしかった。ご馳走さま」
「お粗末さまです。サトリちゃん。熱いお茶はどうかな?」
「ありがとう。もらうよ」
至れり尽くせりだ。
焙じたてのお茶の香りが鼻孔をくすぐる。
熱々のお茶を、息を吹きかけ冷ましながら呑む。
夏も盛りの時分、陽が落ちたといっても蒸し暑い。
しかし、汗をかきながら呑む焙じ茶は、不思議と心地よかった。
しかし、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる雛がかわいすぎる、とあらためて思う。
ひょっとして、ずっと好きだったのかもしれない。昔遊んでいたあの少女のことが。
「じゃあ、サトリちゃん。食器かたづけとくから、お風呂に入って」
「ひょっとして、まだ五右衛門風呂だったりする?」
「ううん。さすがに今はガスだよ。浴槽は木だけどね」
金をかけてるな、と思うが、しかし純和風の屋敷にステンレスや衛生陶器の浴槽は似合わないだろう。
俺としては、わざわざ火をおこして薪をくべる苦労が省かれた事がありがたい。
「じゃあ、先にもらうよ」
「うん、わたしは後で入るから」
なんだか夫婦みたいな会話だな、と思いながら、風呂場に向かった。
◆
それから。
二人とも風呂に入って、浴衣姿でしばらく談笑し、雛に勧められて早めに寝床に入った。
蚊帳の中に入り、薄い夏布団をかぶって目をつぶることしばし。
どうにも寝付けなくて、縁側に出た。
時間は、時計がないので定かではないが、十時過ぎほどか。
外は暗闇だ。人口の明かりが本当にまばらで、頼りになるのは月明かりだけ。青褪めた闇の中に、満天の星。
――田舎の特権だな。
知った星座を探しながら、銀砂を撒いたような星空に、感動を覚えていた。その時。
柿の木の向こうに、人影を見つけた。
少女だ。
背恰好から判断する。
黒髪に黒装束と黒一色。
その中で、顔を隠す狐の面だけが異様に際立っている。
月下にあってなお漆黒に染まった少女は、妖しくも美しい。
魅入られた。
そんな表現がふさわしい。
息をのみ、どれほどの時間が過ぎただろう。ふいに、背後から雛の声。それで、ようやくにして呪縛が解ける
「ねえ、サトリちゃん」
「――雛。あの子、知ってるか?」
指をさす。
その先に、人の姿はない。
黒装束の少女の姿は、すでに消えていた。
「やだ、サトリちゃん。怖いこと言わないでよう」
幽霊かなにかを連想したのだろう。雛が身を震わせる。
「おかしいな。さっきまで居た気がしたんだが……」
頭を掻きながら、俺は雛にお休みと言って寝所に戻った。
寝床に入りながらも、脳裏には、先程の少女の姿が焼きついている。
――あの、姿。
口の中でつぶやく。
狐面のおかげで顔などわからない。
声すら聞いていない。にもかかわらず、なぜだろう。
俺は、あの少女に。
雛の面影を、感じてしまっていた。