第拾弐話 けしょうまち
第拾弐話 けしょうまち
外に飛び出す。
庭先には、深刻な様子で出発を待つ、客人たちの姿。
驚きの表情を向ける彼らに構わず、正面門まで一直線に駆ける。
「みなの衆! 佐鳥を取り押さえろっ!!」
義盛伯父の号令が飛ぶ。
一瞬にして、全員目の色が変わる。
俺を捕えんと動きはじめた彼らの表情には、ひとかけらの迷いも浮かんでいない。
――怖いな。
身震いする。
相手は百人近い。
町の名士だ。みな若くはないが、それでも顔色を変えて襲いかかってくる怒涛のごとき人の波には、恐怖を覚えずにはいられない。
実際。
この状況では、十歩先へ進むことすら困難だ。
数の暴力。まともに行って門まで到達する可能性は、情けなくなるほど低いに違いない。
――だが、勝算はある!
心の中で叫びながら、俺は群衆に突っ込んでいく。
化粧町の人間は迷信深い。
山鐘楼が鳴った時の反応を見れば、それは瞭然。
だから、初めて出会った時の白沢雛のように赤谷仁のように。
「うわあぁっ!? 首が!?」
「首が落ちたっ!?」
「ひえええっ!?」
――いとも簡単に騙される。
仁少年にも使ってみせた、首が落ちる手品。
羽織が崩れないように、シリコン素材で固定して、身をかがませる。
準備さえ万全なら、むしろ簡単な部類のマジックだが、それも技量次第で真に迫る。
山鐘楼が鳴って、その後現れた首なし男。
ふいを突かれた化粧町の男たちは、のけぞるしかない。
その隙を縫うように、逃げる。
門を出た。すぐさま左手に折れて、三段になった石垣の、中段を走る。
目指すは裏庭。薄くなった霧の中を、首を元の位置に戻しながら全力疾走。
裏庭に出た。
すでに備場の人間は、ほとんど出車している。残っているのは数人程度だ。
「――おうい、備場の衆! そいつを捕まえてくれえ!」
後ろから、声が投げかけられる。
我に返った男たちが、追いすがってきたのだ。
しかし、遅い。
とっさに反応できないでいる備場の衆を尻目に、一直線に奥へ、奥へ。
全力疾走でトップスピードに乗った人間を、なんの準備もなく立ち止まっていた人間が、そうそう捕まえられるものではない。
彼らが戸惑いながらも追いかけだした時には、俺は裏庭を駆け抜けている。
向かう先は――
「くっ、御神所に行くつもりだ! 誰か車を出せ! 御神所に入られる前に捕まえるんだ!」
「無理だ! 道が細すぎて軽トラでも通れん!」
「追いかけても無理だ! さきに御禁所に入っちまう!」
「おい、誰か、白沢の御当主に! 独断じゃ入れん!」
――白沢家影仏の洞、ではない!
◆
考えてみよう。
青峰佐鳥は追われている。
この場だけで百人近く。時間がたてば町中の人間に追われるだろう。
そんな状態で、「町の人間が容易に入って来れない場所」に篭もる意味はあるか。
――無い。
すこし考えればわかることだ。
だが。全力で、迷いなく、一直線に神域へ向かう。
そんな姿を見て、俺がとっさにそこまで考えていると気づく人間はいるだろうか。
状況もよかった。
霧はまだ薄く残っている。
すこし距離が空けば、俺が途中で密かに走る方向を変えたことなど、容易に気づけないだろう。
だから、相手の心理の虚を突けた。
幼いころの記憶をたどりながら、草むらをかき分け、木々をくぐって向かった先は――白沢家別宅。
――常識的に考えて、羽織袴に足袋での逃走などあり得ない。
万全の逃亡を図るなら、まずは服と靴の確保が最優先だ。
だから。そこから目をそらすために、追手を別方向へと誘導したのだ。
割り当てられていた部屋に入り、着替えを漁って、あたりの気配を探りながら、外に出る。
別宅で、着替えと最低限の荷物を選別するのに要した時間は、約五分。逃走開始からは二十分弱。
まだ追っ手は川上原白沢の御神所に、入ってすらいないだろう。第一関門突破、といったところだ。
――だが、そろそろ化粧町各所に、俺の捜索依頼が回っていると思った方がいい。
脳内に化粧町の地図を描く。
最短の逃走経路は、このまま白沢本家の屋敷の横を通って舗装道路まで出て、そこから北へ一直線。境峠まで走り抜けるルート。
所要時間は走って二時間。
だが、そこまでの要所に、おそらく見張りが配される。
優先する場所は、白沢本家、川上原一帯。川下原に向かう龍神川の橋すべて。舗装道路南端にあるバス停。そして境峠。
近場の要所は、すでに人が向かっていると思った方がいい。
だから、俺が逃げるのは――南。脱出とは逆方向。川上原と奥の居を隔てる、人を寄せ付けない、深い山林地。
――だが、道は……ある。
別宅を出て、その道を探す。
生い茂った草に隠れるように、それはあった。
別宅の南側、そびえる山林へと登ってゆく小道。
町の南へと繋がっているであろうそれは黒沼繭が、赤谷仁が、白沢家の目を盗んで別宅に近づくことができた、奇術のタネ。
途中張ってあるロープをくぐって奥へと進んでいく。
しばらくして、遠くふもとで、数人の声が聞こえてきた。
間一髪。
もう五分、もたついていれば、捕まっていたに違いない。
手荷物を最小限にとどめたのも正解だ。
バッグと着替えが残っていれば、俺が別宅に寄った事実を悟られるのが遅くなる。
羽織袴だけは、どこに隠してもバレる可能性を否定できないため、やむをえず持ってきたが。
――まだ、捜索の中心は白沢家の御神所周辺だ。
音を立てないよう、慎重に進みながら、考える。
これから連中は、川上原を封鎖して、中をしらみ潰しにするに違いない。
だから、その間に。
比較的警戒が緩い南側、奥の居方面から龍神川を渡る。
そうすれば、第二関門も突破だ。すべての橋を押さえられる前に龍神川の外に出られれば、そこは包囲網の外。行動の制約は、飛躍的に軽減される。
それを確信し、ふもとから十分距離をとってから、山道を駆けだす。
祖父に連れられ、野山を駆け回った経験に感謝しながら、走り抜けて。
「――きた。どんぴしゃ」
広がった視界に、山鐘楼のある御山が入る。
手前には龍神川。橋は目の前、人の姿はない。
右手に奥の居の沼沢地を見るその場所に、民家はない。田舎万歳だ。
橋の下にも、人の姿はない。
息を殺し、左右を慎重に確認しながら、橋を渡る。
「第二関門……突破」
口の中でつぶやきながら、にじんだ汗をぬぐった。
霧はまだ晴れない。奥の居が近いこの近辺では、とくに霧が深い。
そろそろ11時だ。この時間になっても一向に晴れない霧を不思議に思いながら、同時に感謝する。
この霧では、遠くから見られても、俺が誰だかわからないだろう。
なら、民家さえ避ければ、自分が見つかったことを知覚できない、などという最悪の事態は避けられる。
「――とにかく、龍神川からは離れないとな」
橋の周りには必ず人が来る。
避けた方が無難だ。となると、御山の尾根伝いを北へ向かうのが良策だろう。
なにしろ、町の危機を知らせるという山鐘楼が鳴ったのだ。
多くの人間は家に篭もるか、集まって警戒か、あるいは俺が逃走した事実を聞いて、捜索に出るか。いずれにせよ、御山付近は空白地だ。
そこからホウジ稲荷の際を通って北上、くらまし地蔵尊あたりまでは、ほとんど田園地帯なので、霧が続けばそこまでは進める。万一霧が晴れていれば……第二の経路で行くだけだ。
「そういえば、仁は無事なのか」
ふと、山鐘楼を鳴らした少年について考える。
大目玉は確実だろう。それでも俺よりはましな立場だろうが。
俺が捕まれば……よくて一生、座敷牢暮らしといったところか。
そんなことを頭の片隅に考えながら、早足で御山に向かう。
走りはしない。音で異常を知らせてしまうのは、極力避けるべきだ。
どの道、逃走開始から一時間も経っている。
早ければ白沢の御神所に、俺が居ないことも気づかれたころだ。
警戒網を広げ始めたであろうこの時期、目立てば通報の恐れがある。
だから、ゆっくりと、急ぐ。
遠目からはけっして怪しまれないように、早足。
御山の際に達し、そこから北上する。
人には出会わない。だが、ときおり遠くを車が通る音がする。
「……捜索の人間か?」
警戒混じりにつぶやきながら、なお進む。
しばらく行くと、遠くに自動車の、フォグランプの光が見えた。
明かりの数から、車は三台。ときおり光をさえぎる、いくつかの人影が見える。
位置を考えれば、上川原のバス停。
こちらはまだ、気づかれていない。
話し声らしきものが聞こえてくるが、距離が離れているため、拾える言葉は断片的でしかない。
「新婿が逃げた」「羽織姿」「白沢にはいない」「境峠に行った連中」「ひょっとして、川上原から出ている」
単語から予想するに、だいたい想像通りの流れらしい。
すでに境峠は封鎖された。
町唯一の出入り口が封鎖された以上、どんなに他所がざるでも脱出しようがない。
と、普通なら考えるだろう。
だが、別の道は、なくはない。
境峠の際の山道を抜けていくという手もある。
いま考えれば、来る時寝ていて地形を覚えていなかったのは、手痛い失敗だったが。
だが、まあ、いまさら言っても仕方ない。
とりあえず、この場を脱出するのみ。
と、振り返って。
「ふー、すっきりした……」
至近距離に、男の顔があった。
沈黙は一瞬。我に帰るまでもう一瞬。
「わあっ!? い、いた――」
叫ぶ男を突き飛ばすようにして走る。
「おい、どうした!」
「何かあったか?」
「い、いたんだ! 見ない顔だ、白沢の御当主が言っとった新婿に違いない!」
「おい、御当主に連絡だ! 俺らは追うぞっ!」
声を背後に聞きながら、東と思われる方向へまっすぐ走る。
人の目など関係ない。とにかくいまは、逃げること最優先だ。
走る。走る。
今度は靴ばきだ。不案内な場所、霧の中とはいえ、簡単に追いつかれはしない。
「おい、あいつ」
「とまれっ! そっちはホウジ様だぞ!?」
わかっている。
だから行くのだ。
なにしろホウジ稲荷は“影仏の洞”や“泥仏様”と同じ、一般人が容易に入れない神域。急場に追手を撒くのに、うってつけだ。
「待てーっ!」
声が、しだいに遠くなっていく。
早足ながらも、すこし休めたせいで、体力は残っている。
短く息を切らしながら、重くなってきた手足を振り抜いて、ついに目的の場所に到達した。
◆
霧の中、なお暗い。
そんな状態を、どう表現すればいいのだろう、
とにかく、不吉な存在感をもって、その小さな森は存在した。
ホウジ稲荷。
かつて化生谷に棲んでいた化物を封じた神社。
一度来れば、もう一度来ようとは思えない、不吉で異質な場所だ。
もし、黒沼繭の正体がわからないまま。
あの正体不明な狐面の化生のままだったなら、この状況でも、けっしてこの場所へは来なかっただろう。
だが、彼女の正体が判明して、彼女がもたらす奇妙な惑いは、半ば消えた。そのぶん、ホウジ稲荷への恐れも軽減されている。
――そう。なにも恐れることはない。
自分に言い聞かせながら、不気味の森に足を踏み入れる。
気のせいか、肌が泡立つ。
怖気。
耳鳴り。
“禊の儀”の時の比ではない、おぞましい気配。
だが、追手はじき来る。
まずは森の入口近くの木陰に、持ってきていた羽織袴を吊るして、人がいるように偽装。
――このままホウジ稲荷を横切って、裏手から、抜ける。
不吉な予感をごまかすように、段取りを考えながら、進む。
覚えのある、逆向きの狛犬。しめ縄で何重にも封じされたホウジ稲荷が見える。
寒気がする。
“禊の儀”の時感じたものと同質の。
体が熱い。
肌が、ごわごわする。
まるでゴム製の全身スーツでも着ているような違和感。
――体が、熱い。
しかし魅入られたように、前に進む。
吸い込まれるように、足は社に向かってしまう。
そして、見えた。
ホウジ稲荷の格子扉の向こうから。
ナニモノかが、こちらを覗きこんでいるのが。
からだが。
すいこまれる。
うごかない。
なのにあしがすすんで。
こわい。
とびらのむこうになにかが。
……いる。
したなめずりしながら。
おいでおいでとよんでいる。
――怖い。
その時、鐘が鳴った。
七色の鐘の音。山鐘楼の鐘の音。
魅入られていたと感じ、とっさに走る。
逃げる。逃げる。町の人間に捕まってもいい。
――あれにだけは捕まっちゃいけない!
「おい、また鐘が!」
「山鐘楼が!」
「霧が! 霧が! 前が見えない!」
「何かが! 白い何かが!」
跳んで逃げる。
あそこは怖い。無我夢中で走る。
田んぼの泥がつくのもかまわない。
視界は真っ白。
わずか数十センチ先が見えない。
だが、恐怖が、耐えがたい衝動が背中を押す。
自分がどこへ向かっているのかもわからない。
――とにかく、遠くへ。
それだけしか頭にない。
自分がどんな道を通っているのかもわからない。
だけど気づいた時には。目の前に。六体のお地蔵様が……並んでいた。
――くらまし地蔵尊は、なにをくらませるんだろうね?
ふいに、黒沼繭の言葉を思い出す。
その瞬間。地蔵の口が、三日月をかたどったように見えた。
「ひいっ!?」
四つん這いになって駆けだす。
怖い。見る位置を変えるたび、姿をあらわしたり消したりする地蔵。
それが、振り向けば追ってくるような錯覚に囚われ、泣きながら逃げる。
「うわ、なんだ!?」
「おい! いま、何か通ったぞ!? 新婿じゃないのか!?」
「無茶言うな! この霧だ! なんにも見えねえよ!」
「いや、俺は見たぞ! なにかが頭の上を跳んでいったんだ!」
逃げる。逃げる。
行きついた先には、湖。
水の江神社。そこに住むのは、龍神川の龍神。
光はない。だから、木漏れ日が描く龍神が、出現するはずもない。
だというのに。
霧の中に、光が波打って。
こちらに向かって、鎌首をもたげて。
「うわああああっ!!」
山鐘楼は鳴り続ける。
それから逃げるように、めちゃくちゃに走り回る。
自分がどう逃げたのかも、すでにわからない。だけど、気がつけば。俺は、そこに居た。
さらさらと、沢の音。
足元は、ごろごろとした石。
まるで、三途の川に迷い込んだかと錯覚するような光景。
頭上には、巨大な気配。
いつでも、どこでも、こちらを向いている、摩崖仏。崖様。
そして彼女は。
あたりまえのように、そこに居た。
黒装束。
狐の面。
奥の居黒沼家当主。
入れ替わった双子の姉。
人を惑わす化物のような少女。
奇妙で不気味なおとぎ話の語り手。
――黒沼、繭。