第拾壱話 籠の鳥
第拾壱話 籠の鳥
朝、目を覚ます。
湿った空気が、鼻孔をくすぐる。
いつもより湿気が濃い。起き出して、縁側に出る。
白い世界が、外に広がっていた。
「これは……」
時期外れのひどい霧。
手を伸ばすと、指先がぼけて見える。
しばらくそうしていると、居間から人が出てくる気配があった。
「おはようございます、旦那様」
近づいてきて頭を下げたのは、お手伝いの少女、梅だ。
このひどい霧の中でも、生真面目な顔はまったく崩れていない。
「――朝餉の準備が整いましたので、いまお呼びしようと思っていたところです」
「ああ、ごめん、すぐ行こう……しかし、ひどい霧だな」
「そうですね。化粧町は霧の深い土地柄ですが、この季節にこれほど深い霧は、記憶にありません」
そろって居間に向かいながら、話す。
話しながら、振り返り、霧に向かってもう一度手を伸ばす。
――この霧は、俺にとって悪い卦じゃないな。
心の中で、そうつぶやいて、踵を返した。
朝食は、ご飯と油揚げの入ったみそ汁。
ほうれん草の白和えに、生卵、火でさっとあぶってパリパリにした海苔と、焼き鮭。
“禊の儀”が終わったからだろう、魚が入っている。喜ばしいことなのだが、どうも素直においしいと思えない。
――雛の料理、本気でツボだったからなあ。
しみじみと考えながら箸を進めていると、お手伝いの少女が、唐突に口を開いた。
「今朝は顔色がよろしいですね。失礼ですが、昨日は死人のようでした」
当然だろう。
信じていた、しかも惚れた女に裏切られたのだ。平気なはずがない。
だが、すでに覚悟を決めた。やるべきことを正面から見据えて、そこから逃げるつもりはない。顔色が戻ったのは、それだけ腹を据えたからだろう。
「そういえば、俺の携帯は? 儀式のあいだ、預かっててもらったんだが」
「お嬢さまより、旦那様が携帯電話を所望された時にと、言伝を預かっております……“駄目だよ”と。
もとより旦那さまの携帯電話は、お嬢様が持ち出されていますので、梅ではどうにもなりませんが」
さりげなく尋ねたが、先回りされていた。
雛にしてみれば当然の備えだろう。こちらにしても、取り戻せればもうけもの、程度の話。
「梅は」
考えていると、少女が口を開いた。
実直な瞳は、まっすぐこちらを向いている。
「――梅は、お嬢さまには幸せでいて欲しいと願っています。旦那さまは、お嬢様が不満なのですか?」
その問いは真摯で、まっすぐで。どこか乞うような。
だから俺も、本音を口にする。
「いや。俺も、雛には幸せになって欲しい。でも、雛は――そう思ってないんじゃないか?」
「お嬢さまが?」
「ああ……雛は、俺と幸せになりたいんじゃなくて、いっしょに不幸になりたいと思ってる。そう感じた」
しばらく、無言で視線を交わす。
ややあって、少女はくるりと首をひねると、口を開いた。
「旦那さまは、お嬢さまを幸せにするおつもりですか?」
「ああ。当然だ」
それが一番重要だというような、明快な問い。
それに対して俺もまた、まっすぐに答えた。
◆
食事の後、梅とともに本宅へ向かった。
着せられた羽織袴は、人生の大事をあらわすようだ。
時刻は九時を迎えようというのに、霧はまだ晴れない。
それでも多少は晴れてきた視界の端に、列をなす車群があらわれた。
位置的に、白沢家本宅の裏庭。
だとしたら、客人の車だろう。見える範囲で、すでに二十台は止まっている。
それを横目に見ながら、三段になった石垣の中段を通り、本宅の正面に回り込む。
すでに多くの客が集まっていた。
梅いわく、その多くが川上原の住人ということだ。
彼女が俺のことを「白沢本家の新婿様です」と紹介すると、みな喜色を隠さず、「おめでたい」と祝福してくる。
笑顔に影はない。
純粋に白沢家の祝事を喜ぶ。
あるいは新たな人間を迎え入れる喜びにあふれている。
だから。
もし俺が雛を、そしてこの化粧町を裏切れば、この好意はたやすく反転するだろう。
無限の喜びを反転させた、無尽蔵の怒りと憎悪を、迷いなく叩きつけてくるだろう。
当たり前のように、そう思った。
「――おお、佐鳥、待っていたぞ!」
屋敷に入ると、広間で客の応対をしていた伯父、白沢義盛が出て来て、上機嫌で手招きする。
「伯父さん」
「こら、これからは義父ちちだろう」
「すみません、いきなりで慣れていないもので」
「娘の我儘を押しつけたようで、悪く思っていたが……腹を決めてくれたか」
こういう言い方をするからには、伯父はなにもかも承知だったのだろう。
こっそり相談くらいはして欲しかったが、それを止めたのも、おそらくは雛か。
「ええ。腹を決めました」
俺は伯父の顔を真正面から見つめて、言葉を返す。
そう、俺はすでに腹を決めている。
ただし、伯父の思っている腹とは、すこし違うけれど。
それにしても人が多い。
差しで込み入った話は、やはり出来そうにない。
「御当主様、すみません。お嬢様がお待ちです」
「ああ、すまん。佐鳥、雛のところへ行ってやってくれ」
梅は伯父にことわると、俺の羽織の裾を引いて、奥へと誘う。
広間の上座には、小さな舞台が出来ていて、その上に、雛がすまし顔で座っている。
白無垢姿の雛は、見惚れるほどきれいで。
だけど、泣き笑いのような表情を、隠しきれずにいた。
目が合ったが、視線を逸らされる。まるで俺に言葉をかけられるのを避けるように。
糾弾されることを、怒りを向けられることを、恐れているのだろうか。
苦笑しながら、花嫁と肩を並べ、堂々と舞台に座る。雛は、わずかながら、おびえるように身をすくめた。
「宴の最初、みなさまが集まったところで、挨拶を求められるかもしれませんが、基本的には、ここに座って挨拶を返してお酒を飲むだけです」
説明してくれた梅は、そのまま台所へ向かった。
台所で獅子奮迅の働きをしているというお久さんの、手伝いのためだ。
川上原の奥様方も総出になって今日の準備をしているのだが、それでも手が足りない。そう言われて納得できる混雑ぶりだ。
「佐鳥、こちらが川下原の自治会長の――」
来客はますます増えていく。
この様子では裏庭も、すでに満車状態だろう。
そんなことを考えながら、ときおり伯父が連れてくる化粧町の名士に挨拶を返す。
挨拶を交わす人が増えるたびに、この化粧町に縛られてゆく錯覚を覚えずにはいられない。
籠の鳥。
雛がそう言った気持ちがわかる。
因習を、理不尽なしきたりを、当然のように思う人間の、好意の檻に、雛は囚われているのだ。
彼らにとってのあたりまえが、彼女をどれほど苦しめているか、わかりもせずに。寄ってたかって彼女を好意の檻に閉じ込めた。
誰も悪人などいないのだ。
だからこそ……救えない話だ。そう思う。
「――みな、本日は我が娘と婿のために集まりいただき、感謝する」
頃合いになって、義盛伯父の挨拶が始まった。
広間には、すでに百人を越える人間が集まっている。
その中には、“禊の儀”の御当人の幾人かや、黒沼家当主、黒沼繭の姿もあった。
「知っての通り、先日、娘雛を御伽人に立て、“禊の儀”が執り行われた。御当人、そして黒沼家当主に置かれては、その助力に感謝し――」
俺は考える。白沢雛のことを。
雛は、別宅に押し込められて育てられたせいか、幼いところのある少女だ。
次期当主として教育を受けてきた。化粧町の奥の人間に接して、伝統の大切さを、伝承のありがたさを、そして郷土に対する愛を教えられてきた繭とは、そこが違う。
だから、雛は憎んでいる。この町のあり方を。
そして、望んでいる。このやさしくて不気味な、小さな世界から逃れることを。
でも、世界が壊れるのが怖いから。でも、たった一人、世界を憎むのは心細いから。
だから、俺を引きずりこんだ。
いっしょに逃げることはできなくても、いっしょにこの町を、憎むことはできると信じて。
――バカヤロウ。
「紹介しよう。わたしの娘婿として白沢家を継いでもらう――」
伯父が俺を紹介しようとした、まさに直前。
鐘の音が響いた。
波のように、動揺が広がる。
そんな中、鐘は鳴り続ける。七色に。
化粧町の危機を七色の音で知らせるという山鐘楼が、まさにその役目を果たしているのだ。
「……おい、山鐘楼が」
「いったいどういうことだ!」
「山鐘楼が! 山鐘楼が!」
混乱が、しだいにパニックへと変わっていく。
それが喧騒と怒号の合唱にかわる、まさに直前。
「静まれいっ!!」
白沢義盛の大喝が、一瞬にして場を鎮めた。
しん、と静まりかえった広間に、義盛伯父が檄を飛ばす。
「白沢家当主として命じる。山鐘楼が鳴った! 危機に備えよ! まず備場の衆は急ぎ戻って変に備えよ! 川上原、川下原の衆はまず備場の衆を先に送り、混雑を避けて順次持ち場につけ!」
「二江と奥の居の衆も同様に、備場の衆が車を出すのを邪魔しないように」
続いて繭が静かな、だが通る声で号令する。
人々は二人の命令に従い、緊張と混乱の余韻を残して、あわただしく出ていった。
「お前たちは、ひとまず待機しておくように」
言い置いて義盛伯父が。それに従い繭も外へ向かう。
繭は去り際に、非難がましい視線を残していった。
明敏な彼女は、察したのだろう。
山鐘楼を鳴らさせたのは俺で、実行犯は、彼女の許嫁、赤谷仁だと。
昨夜、俺のところを訪れた仁は、披露宴をぶち壊しにするという俺の提案に、もろ手を挙げて賛成した。
仁少年は俺のことを憎んでいるが、俺と雛との結婚を邪魔するようなことならば、むしろ喜んでやってくれる。
平たく言えば、俺は仁少年を巻き込んだのだ。
この馬鹿げた世界に風穴を開けるために。
「……サトリちゃんがやったの?」
繭の視線の意味に気づいたのか、雛が、剣呑な視線を向けてきた。
それを跳ね返すように、俺は胸をそらして言う。
「そうだ」
「どうして?」
「……逃げるため」
にやりと、意地の悪い笑顔を向ける。
雛が顔色を変えた。
「いまさら、町中を敵に回すつもり?」
「ああ。そのつもりだ」
悲鳴めいた雛の言葉に、俺は笑って返した。
理解できない、でも言いたげな表情の彼女に、俺は続ける。
「――お前は、怖いんだろう? この町の風習が嫌でも、そこから逃げるのが、怖いんだ」
雛が息をのむ。
図星を指されたような、それでも認めたくないような、そんな情けない表情。
なんとなく、思い出す。祖父、青峰晴峰のことを。
昔、両親が死んで、壊れた世界の中で途方に暮れていた自分。
あのときの俺は、祖父からはこんな風に見えていたのかもしれない。
そう思いながら、にやりと笑う。
笑いながら、俺は祖父晴峰に倣って声をかける。
「俺が教えてやるよ、雛。この小さな世界が絶対じゃないって。外にはもっと大きな世界があるって。誰だってそこへ飛び出せるってことを」
立ち上がりながら、雛に拳を伸ばす。
「来いよ雛。いますぐじゃなくっていい。自分の羽で飛びあがって見せろ。俺が先に飛んで見せてやる。俺がお前に――飛び方を教えてやる!」
「嫌、だ……置いてかないでよ。行くのなら、いっしょに連れてってよ……」
その姿は、飛び方がわからず、巣の中でただ震える雛のよう。
出来れば、いっしょに行きたい。
でも、それでは駄目だ。意味がない。
自分で選ばなくては、雛はまた、別の籠に囚われてしまうだろう。
だから、俺は笑って首を横に振る。
「やだね。自分で飛んでこい」
衝撃を受けたように、雛は呆然と座りこむ。
そんな彼女に背を向けて、俺は外に向かって駆けだす。
「サトリちゃん」
弱弱しい声には、俺を止める力などない。
だから、迷わず駆ける。出口に向かって。羽ばたくために。
そのまま外に出ようとして、足を止める。
玄関口に、一人の男の姿があった。義盛伯父だ。
その面には、かつて見たことのないような、厳しい表情が張り付いている。
「お前の仕業か、佐鳥」
すべてを聞いていたのだろう。深い怒りを含んだ声。
百の人間を圧した迫力が、ただ一人、俺だけに向けられている。
だが。
「そうですよ、義父さん」
俺はまっすぐに視線を返す。
覚悟は、とうに定めている。
「貴様――」
「俺はね、義父さん。許せないんですよ。雛をがんじがらめに縛って病ませた化粧町が、大好きだけど、大嫌いです。だから」
だから、俺は、布告する。
化粧町の権化のようなこの男に。
「雛が自分の羽で飛べるようになるために、俺はこの町の風習と、化粧町すべてに――喧嘩を売ります」
「行かせると思うか? この場にはいまだ百近い人間が居るんだぞ?」
「上等。でなけりゃ雛に、勇気なんてあげられないっ!!」
慎重に背を向けて、それから走りだす。
背後から、つぶやくような声がきこえる。
「昔は父を、古い因習に縋りついた頑固ジジイと罵ったものだが、仁といい、おまえといい……」
聞きとりきれないつぶやきの後、義盛伯父の、雷鳴のような声が背中から飛んできた。
「みなの衆! 佐鳥を取り押さえろっ!!」
屋敷から飛びだしながら、俺は心の翼を広げる。
惚れた女のためだ。怖いものなど何もない。
――さあ、化粧町三千人を相手にした、鬼ごっこの始まりだ!