第拾話 雛
第拾話 雛
雛は笑う。
狂ったように。
しかし無邪気に。笑い続ける。
雨が、肩を濡らしている。
その事実をまるで他人事のように感じながら、考える。
この身の震えは、雨の冷たさからか、それとも、目の前に居る少女に対する恐怖からか。
すでに繭は居ない。
ただ朱塗りの傘だけが、そこに残されている。
「どういう、ことだ」
かすれる声を無理やり絞り出す。
「説明しろ。雛」
「わからない? じゃあ教えてあげるよ。サトリちゃん」
ひどく、うれしそうに。
少女はほほ笑む。いつもの雛と変わらない笑顔。
だが、その奥に潜んでいる感情のうねりが、声に出ている。
俺はそれが、怖くてたまらない。
「“禊の儀”は、サトリちゃんを、わたしのお婿さんとして迎え入れるための儀式なの」
雛は夢を見るように言った。
あの狐面の少女、黒沼繭にも聞いた。
だけど、不可解でもある。それを秘密にする意味がわからない。
たしかに再会前に「結婚の儀式をしよう」などと言われれば、ためらっただろう。
でも、実際雛に会えば、その上でちゃんと相談してくれれば、絶対に嫌とは言わなかった。
「なぜ、黙っていたんだ。いや、なぜ、騙すようなことを」
「ねえ、サトリちゃん。わたし、サトリちゃんが大好き」
問いには答えず、雛は唐突に好意を告げた。
戸惑いながら、俺も応じる。
「俺もだ。だから、こんなことしなくても、いずれ」
「そう、いずれ。自由にいろいろな土地を飛びまわった、その後で……ねえ、サトリちゃん、知ってた? わたしが、サトリちゃんのそういうところが――大っ嫌いだったって」
「雛?」
吐き捨てるような雛の言葉に、思わず声をかける。
雛はかまわず独白を続ける。
「わたしはサトリちゃんが大好き。でも、同じくらい大嫌い。だって、サトリちゃん、自由なんだもん。
ずっとこの町に囚われて、行きたいところに行けない、自由に出歩くこともできない、そんなわたしにとって、自由なサトリちゃんは憎らしかった。どこへでも行けるその羽を叩き折ってやりたかった。わたしと同じ籠の中の鳥にしてやりかった!」
一息に吐き出して、雛は荒い息をついた。
着ている白装束は、すっかり雨に濡れてしまっている。
気圧され、立ちつくす俺を尻目に、雛はなお言葉を続ける。
「“禊の儀”を済ませた以上、サトリちゃんはわたしの夫として――二度と、化粧町から出られない。一生わたしと、この囲われた天地で添い遂げるの」
少女は語った。
愛おしげに、しかし、憎々しい様子で。
そんな雛に、恐れを感じながら。俺はからからに乾いた口を開く。
「化粧町から、出られない? どういうことだ?」
「掟があるの。白沢家の当主になる人間は、化粧町を離れてはいけない。絶対に。なぜなら――」
言いかけて、少女はかぶりを振った。
「逃げられないよ。逃げれば、化粧町三千の人間が、あなたを追いかける――だから、サトリちゃんはずっと、ここに居るんだよ?」
ねばつくような口調で、雛は言った。
その白い手が、蛇のように、腕に絡みついてくる。
抵抗できなかった。
いきなり叩きつけられた悪意を消化するのに、時間が要った。
その間に、赤い塗り傘を拾い上げ、少女はそれをふたりの頭上に差し上げる。
「相合傘だね」
無邪気な喜びを口にする雛の声も、耳に入らない。
彼女の手に引かれるようにして歩きながら、瞳はただ崩れてしまった化粧町の残滓を映していた。
◆
「おふたりとも、お帰りなさいませ」
呆然自失のまま白沢家別宅に戻ると、見知らぬ少女が出てきて、いきなり頭を下げられた。
頭巾に割烹着姿の、物堅そうな少女だ。年のころは、雛と同年代。
「お手伝いの梅ちゃんだよ。わたしが居ない間の家事とかをお願いしたの。わたしはこのあと、明日の準備で本家に戻らなきゃいけないから」
「使用人の梅です。旦那さま、よろしくお願いいたします」
雛が説明すると、少女は丁寧に頭を下げた。
「明日の……?」
「うん。明日の、お披露目の儀式の」
「結婚式の披露宴と考えていただければ結構かと。町中の名士が集まる大きなものになる予定です」
ふたりの説明をうわの空で聞いて。
言われるままに、濡れた白装束を脱ぎ捨て風呂に入って。
無邪気な笑みを浮かべて本家へと戻る雛を見送って、俺はただ放心していた。
放心したまま、夜を迎えて。
天を仰ぎながら、俺は縁側に座って考えていた。
俺は雛が好きだ。
まんまと騙されたのに。
悪意をもってこの化粧町に閉じ込められたというのに。
それでも、俺は。白沢雛という少女を、嫌いになれない。
あの無邪気な笑顔を、くるくるとよく動く瞳を、サトリちゃんと甘えるように声をかけてくる彼女を、嫌いになんてなれない。雛が結婚しようというのなら、いまでも喜んでうなずける。
だけど、俺には夢がある。
世界を見たい。広い地球を飛び回って、いろんな人間に交じりたい。
壊れた世界の中で掴んだ、祖父晴峰が教えてくれた、それは俺の飛び方であり、夢。
その夢も、このまま雛と結婚すれば。化粧町という名の閉じた世界に閉じ込められては、叶わない。
――だけど、俺は……あきらめたくない。
天に向かって、拳を差しのばす。
闇に染まった空には、なにも見えない。
その虚空を、俺は握りしめた。
そこになにもないなんて、知っているのに。
◆
ふいに、闇が濃くなった。
そう感じて、庭先に目をやる。
そこに居たのは、白装束の少女。
目を見張るような冴えた黒髪に、優しく整った顔立ちは、見間違えようがない。
「佐鳥ちゃん」
――雛。
一瞬、そう言いかけて。
それから苦虫を噛む思いで口を開いた。
「本当の顔はそれか、黒沼、繭」
とたんに、少女の纏う空気が変わる。
目じりや口元に残る幼さが、しぐさから騒がしさが消えた。
それだけで、容姿や髪形は瓜二つにもかかわらず、少女は雛とはかけ離れた別人になった。
「なぜわかったの?」
首をかしげる。そのしぐさにだけ、雛の名残がある。
答えなど、明快だ。
「俺が好きなのは雛だから」
はっきりと、口にする。
口にして、不思議と何かが腑に落ちた。
「騙されても、嫌われても、俺は雛が好きだ。だからわかる。雛とは違って、言葉の端から漏れる感情に、通ってくるものがない」
「なるほどね」
少女が苦笑する。
よく考えれば失礼な言い方だが、さして根に持つ様子もない。
しかし、あらためて見れば、やはりふたりは似ている。姉妹なのだから、当たり前といえば当たり前ではあるが。
「顔を隠してた、一番の理由はそれか?」
「一番の理由は、穢れに触れないためだけど……まあ、それと同じくらいには、大事な理由だったかな」
「……白沢雛と黒沼繭が、双子の姉妹だと、俺に悟られないため?」
俺の言葉に、繭は目を細めた。
鋭く、冷たい表情。雛には背伸びしても作れないものだ。
「なぜ、わかったの?」
「雛とお前が語った化粧町の、ふたつの縁起の差。平忠兼の息子たちが実は双子だったこと。藤原の姫と化物の娘との入れ替わり……お前が自分と雛との関係をなぞらえたのか、それとも実際の伝承を雛が曲げたのかは知らないが、どっちにしろ、そこからふたつの事実が浮かんでくる」
指を二本突き出し、俺は説明を続ける。
「雛とお前が双子だってこと。そして二人が入れ替わっていること」
「……あは」
黒沼繭は。
雛と瓜二つの少女は、それまでの厳しい表情を崩して、まるで別人のようにほほ笑んだ。
「やっと察してくれたね。いまさらだけど、まあ、自分で気づいたんだから、許してあげられなくもないかな?」
少女はそう言って、また笑う。
雛のように惹きつけられはしないが、魅力的な笑顔。
「自己紹介しようか。わたしの元の名前は白沢雛。いまの白沢雛の、双子の姉」
胸元に指先を当て、少女はぺこりとお辞儀する。
彼女の言葉が事実だとしたら、入れ替わったのはいつだろう。
俺が雛と出会うより前の話か、あるいは、後の話か。
俺と遊んでいた雛は、いったいどちらなのか。
「――昔話をしようか」
俺の心中を察したのだろうか。
少女は近づいてきて、隣に腰をかけると、語り始めた。
「ちょっとだけ昔、白沢家に、双子の女の子が生まれた。その片方は、慣習にならってしばらく隠されて育てられた。死んだときに入れ替えるために」
「入れ替える?」
「乳児死亡率が高かった昔の名残じゃないかな? 一人の人間として別々に育てて、もし片方が死んだら、何事もなかったように、もう片方と入れ替える。両方ともちゃんと育ったら、その時にあらためて弟や妹としてお披露目する……初代の黒沼泰盛が、弟として紹介されたように」
片方に何かあった時のための、ストックとして育てられる。
考えるだに、ぞっとするような、それは扱いだ
「わたしは“本家の雛”。別宅に住まわされた妹は“離れの雛”と呼んで育てられた。七五三を迎えて別の名前を与えられる予定だったんだけど、妹の場合、それができなくなったの」
「なぜ?」
「わたしたちを生んでしばらくして……母が亡くなったから」
単純な理由だった。
“姉”が生まれて十月を経ずに母親が死ねば、“妹”は生まれようがない。
だから。雛は、あいつは“白沢雛”の予備として、あの離れで育てられ続けたというのか。
雛の様子を思い出す。自由に対する憎しみを、呪いのように吐いた雛。彼女はあの離れで、なにを思い、過ごしていたのか。察するに余りある。
「――妹は“雛”のまま、離れで育てられた。だから、佐鳥ちゃん。最初にあなたと遊んでいたのは、間違いなく妹だよ。それから十歳の頃。妹は後継のない黒沼の家に迎えられた。だから、そのあと佐鳥ちゃんと遊んでたのは、わたし……だったんだけど、まあ、妹の怒ること。わたしが妹に嫌われたのは、佐鳥ちゃんのせいなんだよ?」
「……じいさんの葬式の時、出会った雛はお前か」
「よく覚えてるね。あのときは見破られないか不安だったけど」
「最初雛だとは思わなかった。でも、周りにそう思いこまされた……それで、お前らが入れ替わったのはいつだ」
「つい最近だよ」
少女は言った。
「“雛”に正式な許嫁をって話になって、そこで佐鳥ちゃんの名前が挙がったものだから、妹の拒絶反応がすごかったの。で、いっそのこと入れ替わろうかって。それで、いまに至るわけ。まあ、“繭”の許嫁だった仁は、無茶苦茶嫌がってたけど」
「……お前は、いいのか」
妹の都合で、コロコロと立場を入れ替えられて、この少女はそれでいいんだろうか。
「別にいいよ」
しかし、少女はこともなげに言う。
「わたしはこの町が好きだし。この町で一生を過ごすのも迷ってない……のは、やっぱり次期当主として白沢で育てられてきたからかな。そのあたり、予備だった妹は自覚薄いみたいだけど。黒沼の叔父さん――父さんも、知識を叩き込むのに手いっぱいで、人格まで矯正する時間はなかったみたいだし」
だからかな。佐鳥ちゃんのこと憧れながら――憎んでるのは。
最後に、少女はつぶやくように言った。
俺は拳を握りしめ、やるせない気持ちを床に打ちつけた。
籠の中の鳥。そう言った少女の思いが、いまさらながらに痛切なものだと知った。
「旦那さま? ご用でしょうか、あ、雛様」
と、床を討った音を聞きつけたのか、使用人の少女が早足で静かに近づいてきた。
とたんに繭は“雛”の表情に戻ると、使用人の少女に向かって申し訳なさそうに手を合わせた。
「ごめん、梅ちゃん。すぐに帰るから、ちょっとだけ見逃してくれないかな?」
「はあ。明日になれば、いくらでもいちゃつけますのに……分かりました。失礼ながら梅はいまから長湯しますので、ごゆるりと」
繭の言葉にそう答えると、彼女は音を立てずに退がっていった。
それから、しばらくして。
「……ねえ、佐鳥ちゃんはどうしたい?」
ふいに、少女が尋ねてきた。
「迷ってる」
俺は正直に答えた。
雛と、夢の板挟みだ。
迷いから、いまだ抜けられない。
「ね、作り話、しようか?」
胸中を察してか、少女が静かに口を開く。
不思議と、慈しむような表情だ。
「昔々、ある化物の村に、化物と人間の間に生まれた娘がいました。少女は化物の中で、それなりに幸せに過ごしてきたのですが、ある時、自分たちを退治しに来た侍に、あろうことか一目ぼれしてしまいました」
それは、彼女が語った化粧町の縁起。
奇妙で不気味なおとぎ話。
「少女は恋に狂うあまり、侍が助けに来た藤原の姫を喰らってなり代わり、父である化物を罠にはめて殺してしまいます」
少女は、空に描かれた物語を読みあげるように語る。
「でも、罰はやっぱり下りました。父は呪いを吐いて死にました。その呪いは村を穢れで満たし、娘は人間の姿を保つことが難しくなりました。
娘は必死で耐えながら、呪いを封じるため、侍の夢枕に立って呪いを封じる神社を建てさせます。でも、娘は呪いを受けたまま、孕んでしまっていました。生まれたのは双子。でも、片方は……人の姿をしていなかった」
最後はぞっとするような声。
しばらくしてから、少女は語り続ける。
「真実を知った侍は激怒し、だけど、それでも娘を斬らず、それどころか愛してくれました。娘が、そして子供たちが人の姿を保てるように、村を清浄にする仕組みを造りはじめて、双子の代でそれは完成しました。七つの神域と外界の穢れを防ぐ境界。これらはその侍の、愛情の産物、なのでしょう」
「……いまのは」
気押されていたのだろう。
俺が問いかけたのは、しばらくしてからだった。
「だから、作り話。佐鳥ちゃんがどう捉えようと自由だよ」
くすくすと笑って、少女は答えた。
結局最後まで、彼女は俺を惑わせる。
それから、少女はすっと立ち上がった。
ふわりと髪が流れ、どこか記憶をくすぐるような香りが漂う。
「じゃあね、佐鳥ちゃん。また明日」
そう言って、少女の姿は闇の奥へと消えていった。
走る後ろ姿が、どこか飛ぶようで、そこだけは幼さを感じる。
少女の残像を、じっと見続ける。
見続けながら、考える。自分がどうすべきかを。
時間が経ち、使用人の少女が風呂から上がってくる。
彼女が睡眠のために奥へと消えたころ、また、闇の中に人影が生じた。
その時には、俺の覚悟は定まっていた。
この化粧町のすべてと戦う覚悟を。