8話「決闘者がやってきた」
1
トイレから戻ると、部屋の中が思いのほか油臭いことに気付いた。すぐに換気扇を回す。スイッチを入れるとぱたんと音がし、シャッターが開いてプロペラが動き始めた。
沙穂は手を念入りに洗うと、鼻歌を口ずさみながらシンクの隣にある白いテーブルの前に立った。テーブルにはクッキングペーパーを敷いた皿があり、その上に不格好なドーナツが六つ並んでいる。沙穂はそれらを眺め、たまらず頬を緩めた。
「よっし。これであとは詰めるだけかなぁ」
好きなものくらいは自分で作れるようになりたいと思い立ち、本を片手に試行錯誤をしたとっておきのドーナツだ。レシピに載っていたものよりも甘党向けにアレンジした。見てくれはあまり良くないが、食べて喜んでもらえる自信はあった。
プレゼント用の小さな箱にドーナツを全て詰めてしまうと、薄桃色の便箋を手に取った。中に手紙が入っていることを今一度確認し、スティック糊を使って封をする。それを先ほどの箱にセロハンテープで軽く貼りつければ完成だ。
「できた……」
箱を眺めていると何だかとても幸せな、満ち足りた思いになった。にやにや笑いが止まらず、自然と鼻歌が唇から漏れてしまう。そんな至福の時間に突然、玄関のチャイムの音が入り込んできた。
部屋中に甲高い音が鳴り響くと、沙穂の胸に焦りと歓喜の入り混じったような感情が急激に膨らんでいった。慌てて壁の時計を見ると、六時を三十分ほど過ぎている。彼が訪れたとしてもまったくおかしくない時間だった。沙穂はハンガータオルを使って手を拭くと大声で返事をし、急いで玄関に向かった。
「お待たせっ……」
浮ついた気持ちを隠すこともできず、弾んだ声を発しかけて、しかし沙穂は途中で口を噤んだ。女の一人暮らしだ。当然のことながら、沙穂はいつでも玄関の鍵は忘れずに閉めるようにしている。客人の知らせがあっても、不用意にドアを開けないように心がけていた。そもそもまだ沙穂はドアにたどり着いてさえいない。
それなのに。
部屋の内側。ドアの前。フローリングの床に、誰かが立っていた。
沙穂は背筋に寒気が走るのを感じた。心臓がぎゅっと縮こまり、足を止める。
一人暮らしの部屋に不法侵入している者がいる。その事実だけでも恐ろしいのに、加えて、そこにいたのは人間ではなかった。それは二本の足で立つ巨大な昆虫だった。
顔は蟻かコオロギのようであり、エメラルドグリーンの目と額から生えた長い触角、さらに強靭そうな顎をもっている。体を隠すように黒いケープを羽織り、両手には白い手袋をはめていた。右腕には円形の盾を装備している。足には汚れたスニーカーを履いていた。
そしてもっとも沙穂を圧倒させたのが、その身長だった。見上げるほどに高い。おそらく二メートル近くある。少し猫背で常に身を屈めるようにしているのが、逆にその長身を印象付けているようだった。突然変異を起こした昆虫という万が一の可能性を除けば、それは明らかにデスメアードだった。
怪物が部屋の中に入り込んでいる、という事実に沙穂は恐怖よりもまず困惑を覚えた。頭の中で今日の出来事を素早く思い返して見る。間違いなく玄関の鍵は閉めたはずだ。抱えていた買い物袋を一旦床に置き、それからわざわざ施錠したのを覚えている。
「おいお前、ライバルを知っているんだろ? 早く出せ、今すぐにだ!」
呆然としていると、いきなり怒鳴りつけられたので沙穂は慌てた。急にそんなことを言われても、すぐに答えることなどできない。それにライバルの存在こそ知っているものの、居場所までは分からなかった。沙穂が精一杯首を横に振ると、長身のデスメアードは長い足を使ってさらにこちらに近づいてきた。何だか怒っているということは、その表情や足取りから明らかだった。
「おい、くだらねぇ嘘をつくもんじゃねぇ。てめぇがライバルと知り合いなのはもう把握済みなんだよ! それともなんだ、俺を嘘つき呼ばわりすんのかよ、あぁ?」
「そ、そんなこと滅相もございません……」
たどたどしく非礼を詫び、沙穂は後ずさる。だが壁に背中をぶつけてしまい、すぐに逃げ場を失った。長身のデスメアードは沙穂の頭上に片手を付くと、覆いかぶさるようにして顔を寄せてきた。息が吹きかかるほど間近で睨まれ、沙穂は凍りつく。心をなぶられるような閉塞感に今にも気を失ってしまいそうだった。
「正直なことを言えよ、知ってるんだろ? 奴を。早く出した方が身のためだぜ?」
耳元で囁かれると、心臓がどきりと跳ねた。頭の中が白濁するほどの恐怖に体が震える。
「何とか言えよ、てめぇ。さもないと……」
「さも、ないと……?」
ようやく喉から出てきた声は、か細く、消え入りそうなものだった。長身のデスメアードは沙穂から顔を遠ざけると、口端を上げ、不気味な笑みを浮かべた。
「さもないと今からこの家でカレーを作り始めるぞ。にんじんたっぷりのやつをなァ!」
数秒、何とも形容しがたい沈黙が部屋の中に流れた。
自信満々に言い放った長身のデスメアードを穴が開くほどに見つめ、その言葉を頭の中で何度も再生させ、それから沙穂はずるずると壁に背中を擦りつけるようにして床にへたり込んだ。
2
しばらくの間、沙穂は床に座り込んだまま、デスメアードがどこからか取り出した野菜を包丁で手際よく切り、次々と鍋で煮込んでいくのを眺めていた。しかしカレー粉を入れる段階になってハッと我に返り、急いでキッチンを出た。寝室に行き、押し入れを開く。カラーボックスの上に置かれたブレザーを手に取り、両袖を持って広げ、ばさばさと埃を落とすように振り回す。
「起きて子犬ちゃん! 事件だよ事件!」
「うーん……コロちゃん……」
「コロッケの夢見てる場合じゃない! カレーが虫でライバルなの!」
「うぅぅん、あと五時間……」
「何を言ってるの、もう夕方の六時だよ! 起きる時間だよ!」
沙穂は文字通りブレザーを叩き起こすと、引きずるようにして居間に連れて行った。戸の陰からキッチンを覗き込む。空っぽの胃袋を刺激するような、カレーの匂いが部屋中に充満していた。長身のデスメアードは火にかけた鍋を、おたまでゆっくりとかき混ぜていた。片腕を腰にやり、わずかに首を傾げながらカレー粉を継ぎ足している姿は何だか様になっていて、外見とのちぐはぐさが滑稽なほどだ。
「なんだあれは。デスメアードのようだが、ここで何をしている」
ようやく目覚めたブレザーは手から離れ、沙穂の肩にばさりと乗っかった。不審そうに袖をはためかせている。
「カレー作ってるみたい。にんじんいっぱい入れてたよ。シーフードもたっぷり」
「そんなことは匂いで分かるわ! 俺が聞きたいのは、なぜ見知らぬデスメアードがこの家でカレーを作っているのかということただ一点のみだ! それ以外は些細な問題よ!」
「あ、ちょっと!」
沙穂の制止を振り切ってブレザーは居間から飛び出すと、白いテーブルの上に着地した。右袖を前に突き出し、左袖を脇腹に当て「おい貴様!」と長身のデスメアードに向けて啖呵を切る。デスメアードは手を止めると、腹立たしそうに虫の顔をくしゃりと歪めた。
「あ? なんだてめぇは」
「ククク……俺様の名は、究極の闇を司る子犬、ヘルブレイダー・メアード! 残念ながらここは俺の縄張りだ。勝手な行動は慎んでもらおう!」
一体いつからここはあなたの縄張りになったんだと言いかけたが、状況が状況なのであえて見守ることにする。見知らぬ怪物を相手に平然とはったりをかます、その背中には確かに頼りがいがあった。デスメアードは珍妙なポーズを決めるブレザーを不審そうな目で見ると、鼻を鳴らしておたまから手を離した。おたまは鍋の形に合わせて螺旋状に、柄の先端だけを残してカレーの中へ吸い込まれていった。
「おもしれぇ。ならば俺はこう名乗らせてもらうぜ」
ケープで手を拭うとブレザーの方に体を向け、立てた親指で自分の顔を指す。にやりと笑うその表情はブレザーに負けず劣らず不遜だった。宝石のような瞳が蛍光灯の光を反射して、眩い輝きを帯びている。
「俺は煉獄の闘志を抱く決闘者、デュエル・メアード! 他の奴にはジノと呼ばれている」
「ジノだと?」
「あだ名みてぇなもんだ、気にすんな。それより縄張りと知らず入っちまって悪かったな。だが長居をするつもりはねぇ。そこの奴がライバルの居場所を教えてくれれば、すぐにでも出ていく」
長身のメアード、ジノは沙穂を睨んで舌打ちした。沙穂はびくりと体を震わせ、戸の後ろに引っ込むと片目だけでキッチンの状況を窺うようにした。
ブレザーは「なるほど」と呟きながら振り返り、沙穂を見た。それから暫し考えるような仕草をみせたあとでジノの方に向き直った。
「ククク……なるほど。だがあんな得体のしれない小娘に頼るというのか、煉獄の闘志を抱く者よ。ライバル・メアードの居場所なら俺が知っているというのに」
「なんだと?」
ジノの目が見開かれる。ブレザーは左袖を襟の後ろに回し、右袖で左脇腹を押さえた。ストレッチをしているようなポーズだが、本人としては格好つけているつもりなのだろう。
「ククク……案内してやってもいいぞ? まぁ、信じるかどうかはお前次第だがな。小娘の戯言に付き合うのも、また一興だろうしな。どうする? 決めるのはお前だ」
ブレザーの思わせぶりな発言にジノは悩んでいるようだった。沙穂とブレザーとを交互にきょろきょろと見比べる。そうやって固唾を呑んで見守っていると、ジノはやがて顔をあげ、コンロの火を止めた。
「……いいだろう、案内しろ。ただし嘘だったらただじゃおかねぇぞ」
「馬鹿め。つくならもっとマトモな嘘をつく。なぜなら俺は究極の闇だからだ」
ブレザーはくるりと沙穂を振り返ると、「じゃあ俺は行ってくる。七時から始まる『君とお笑いハッピーズ』を録画しておけ。絶対に逃すなよ」と忠告した。床に降り、裾を引きずるようにして玄関に向かう。
「う、うん。分かった……その、ありがとう」
「礼は不要だと言ったはずだ。お前を守るのは俺の使命だからな」
こちらを見ることもなく、ブレザーは恬淡とした調子で言う。ライバルをここに呼ぶよりも、相手が望んでいる以上、敵を沙穂から引き離す方が先決と判断したのだろう。その配慮に沙穂は感謝すると同時に、何だか申し訳なく思った。
ジノはどこからか取り出したウィスキーボトルの中に、おたまを使って器用にカレーを注ぎ込んでいる。そしてボトルの中身がいっぱいになってしまうと蓋を固く閉め、ケープの中にしまった。
「少しだけ残ったから、あとは好きにしろ。俺のカレーはうまいぞ。保証してやる」
「は、はい。……どうも」
ジノは鍋に蓋をすると、ケープを翻した。なぜカレーを作ったのかまるで意味が分からないので、感謝するべきか怒るべきなのか、それとも脅えるべきなのか反応に困る。
やがてブレザーに先導されてジノは去っていった。まるで嵐が駆け抜けていったような気分で、沙穂は空っぽになった部屋の中で呆然と立ち尽くす。
「ライバル……」
沙穂はテーブルの上に置いたままの、ドーナツの入っている白い箱を見やる。便箋の隅に小さく書かれた『ライバルへ』の文字を、沙穂は穏やかではない気持ちで見つめた。
3
荒涼とした地にサンマの群れが突き立てられ、飴玉が宙を飛び交っている。灰色の空の下に広がるのは、あまりに奇妙で理不尽で不安定な景色。それがライバルの所持する世界、メアード空間だった。
ライバルはこの空間に自分が敵と認めたデスメアードを閉じ込める。そうして逃げ場を失った敵を容赦なく、確実に仕留めるのだ。今回、ライバルに狙いを定められたのはカラマレオン・メアードというデスメアードだった。まるでカバの腹から人の足が生えたような姿をしており、背中から大量のキノコが生えている。尾は細く長い。顔の半分は隻眼によって占められ、口は蝶のようにストロー状になっていた。
「バルバルーッ!」
ライバルはとんぼを切ってカラマレオンの前に着地すると、胸のあたりの位置にある敵の顔面に膝蹴りをくらわせた。さらに頬を間断なく殴りつけ、最後に回し蹴りを決める。地面を転がったカラマレオンは短い手足で必死にもがき、ようやく起き上がった。
「冗談だろ。イヤホンのコードを絡ませていただけなのに、殺されてたまるものか!」
「ラライッ!」
意気揚々と駆けるライバルに、カラマレオンは背中のキノコを伸ばして反撃する。だがライバルは走る速度を全く緩めずに接近すると、スライディングでキノコをかわし、敵の腹の下に潜り込んだ。
「バールゥゥッ!」
ライバルは腰に捻りを加えて、カラマレオンを上空に蹴りあげた。さらに左手だけの腕力を使って素早く立ち上がると、強烈なアッパーを顎に入れる。灰の空に悲鳴が響き渡り、数秒後に落下の衝撃で大きく世界が揺れた。
「ぐぅ……そんなぁ~」
「ライッ! バルッ!」
ライバルの胸の目が身じろぐように開き、その左手が赤く燃え上がる。静かに息を整え、カラマレオンに向けて死の一撃を見舞おうと動き出そうとした、その時――
「てめぇがライバルか」
突然、世界を貫いた自分と敵以外の声に、ライバルはハッとした様子で振り返る。すると黒いケープを羽織い、左手にブレザーを掴んだ長身のデスメアードが、ライバルに向けて歩みを寄せていた。ライバルの目の前で足を止めると、嘲るように鼻を鳴らす。
「なんだ。強いっていうからどんな奴かと思っていたが……随分チビだな」
「バル……」
現れたデスメアードは二メートル近い背丈をもっていた。ライバルの身長は百五十センチに届かないので、二人の身長差は五十センチ近くあることになる。傍から見ると、まるで大人と子どもが向き合っているようだ。
「案内ありがとうよ。助かった。お前がいなけりゃここにも入れなかったからなァ」
デスメアードはブレザーを背後に放り投げた。ブレザーはひらりと地面に降り立ち、脇腹のあたりをくの字に曲げて謝罪する。
「我が主よ、許してくれ。こうするしか思いつかなかったのだ」
「さあ。自己紹介といこうかライバル。俺の名はジノ。俺より強い奴を求めてここにやってきた」
ジノはにやりと笑み、自分の右手の中指を軽く噛むと、その手をライバルに向けて差しだすようにした。
「お前が次の標的だ。さぁ、ライバル。デュエルの時間だぜ!」
「バル……!」
ライバルは息を呑む。だがそれはジノが突然決闘を申し込んできたからではなかった。
ジノの背後に、こっそりと逃走しようとするカラマレオンを見つけたからだ。ライバルはちらとジノの方を窺うと、いまだ赤く燃えたままの拳を振り上げ、足元を力強く叩いた。
「なにっ!」
景色を白一色に覆うほどの砂煙が巻き上がる。虚を衝かれたジノの横をライバルは駆け抜けると途中でブレザーを拾い、カラマレオン目がけて突進していった。カラマレオンは自分の死を刈り取ろうと迫る鈴の音に、ぎょっとなって振り返ると走るスピードを速めた。
「くっそ! 時間稼ぎくらいはできると思ったのに! ぬか喜びさせやがってぇ!」
「バルゥウウウッ!」
ジノはケープを翻して砂埃を払うと、自分を無視して敵を追うライバルの姿を認め、怒りの形相を浮かべた。
「おい待てよこら、ふざけんな……待てや!」
長い足を駆使して大地を蹴り、飛ぶように走る。荒れた地の上で、ライバルとの距離は見る見るうちに縮まっていった。
4
時計が夜八時の訪れを無言のうちに告げる。あれから一時間半経つが、ブレザーはまだ帰ってこない。沙穂はテレビをつけたまま、座椅子に寄りかかってうつらうつらとしていた。今日は早朝から講義があって疲れていた。じっとしていると強烈な睡魔が襲ってくる。
「……ライバル、今日は会えるかな」
目の前にある食事用の小さなテーブルの上には、ドーナツの入った箱が置かれている。現実と夢との間をまるでボートに乗って湖面を揺れるかのように、ぼんやりと行き来しながら沙穂はそれを見つめ、思考の中に身を委ねる。
ライバルに手作りのドーナツを渡したいので、もし今日、居場所が分かったら会わせて欲しい。昨晩、そんなお願いをするとブレザーは二つ返事で了解してくれた。
ドーナツを贈ることには日頃の感謝を伝えたいという意味合いももちろんあったが、それをきっかけとして、ライバルともっと親睦を深めたいという理由の方が大きかった。
奈々も、ローラも、角平も、ライブ会場にいた人々やうどん屋の主人も、みんなデスメアードに遭遇していながら、全てが終わってしまうとその後は、自分を救ってくれたヒーローのことも、襲ってきた化け物のことさえも覚えていなかった。沙穂だけがライバルやブレザー、そしてライバルに倒されていった者たちをずっと頭に留めていられた。
ブレザーは沙穂のことを特異体質と言う。人間がデスメアードのことを現実のものとしていつまでも認識していられるのは、本来ありえないことらしい。沙穂自身もなぜ自分がこんな力をもっているのか見当もつかない。だからこの町の人々を救ってもらっているお礼をし、ライバルと関係を築いていくのは自分に与えられた使命のような気がした。
しかしそんな思いを抱く一方で、沙穂の胸にはある嫌な予感が去来している。ある日突然力を失い、他の多くの人々と同じようにライバルのことを忘れてしまうのではないか、という不安だった。力を得た理由も原因も不明である以上、そんな日が絶対に来ないとは、けして言い切れない。もしライバルとの関係にタイムリミットがあるのだとしたら。もし魔法が切れてしまう瞬間が刻一刻と迫っているのだとしたら。ライバルのことを覚えていられるうちに、繋がりを深めておきたい。デスメアードのことを忘れてしまう人々と会う度に、そんな気持ちが大きくなっていた。
その時、沙穂は突如、自分の背後に立つ気配に気が付いた。振り返ると、電気の消えたキッチンの闇を背負い、長身のデスメアード、ジノが立っていた。
「おい。お前、ちょっと俺に誘拐されろ」
沙穂は悲鳴をあげかけたが、伸びてきたジノの手がそれを封じた。
「悪いことをしてやる。そう騒ぐなよ」
口を掴まれ、そのまま床に押し倒されて沙穂は頭の後ろを強くぶつける。必死にもがくが肘や踵が床に擦れるだけだ。ジノは腕一本で沙穂の動きを完全に封じていた。見下ろしてくるその表情は怖いくらいに強張っており、視線には憤りと疲労がこもっていた。
5
どんな理由があってのことか全く把握できないが、とにかく沙穂はジノによって連れ去られた。白い壁によって囲まれた広場。足元の地面は赤茶色をしており、土ではなく人工的に作られた素材で覆われているようだった。柔らかくもないが、固くもない。妙な感触が肌に伝わってくる。壁の向こうには階段状に設置されたベンチがずらりと並んでおり、さながら観客席のようだった。頭上には雲ひとつない、爽やかな空が広がっている。
ここがおそらく、ジノのメアード空間なのだろう。この広い空間の中に沙穂とジノ以外の気配はなかった。カツン、カツン、と甲高い音が先ほどから等間隔に聞こえてくる。先ほどから中腰になったジノが木の板に釘をトンカチで打ちつけているのだった。
「あの……何をされているんでしょうか」
沙穂は両手を鉄の鎖で後ろ手に縛られ、地面に転がされていた。足は自由なので立って逃げることもできるのだろうが、メアード空間から逃げられずにもがくデスメアードたちをこれまで何度も見てきた経験上、そんな気持ちは起きなかった。下手に抵抗をみせて、今よりもっと酷い目に合わされるのも馬鹿馬鹿しい。
「十字架を作っている。そこにお前を縫い付ける。人質っぽいだろ? 昔アニメで見て、一度やってみたかったんだ。付き合えよ」
「はぁ、そうですか……」
ジノは全く作業の手を休めることなく、淡々と説明してくれる。恐怖も徐々に薄れ、嘆くことさえもうくたびれて、沙穂はため息を零した。
「悪いな。だがお前に危害を加えるつもりはねぇ。ライバルさえ来てくれれば、すぐに解放してやる。うちに帰ってドーナツでも食って寝な」
「是非そうしたいけど。でもライバルに会って、どうするつもりなんですか?」
ジノは釘を打つ手を止め、沙穂のほうに目をやった。その口元が楽しげに歪む。
「戦うのさ。何人ものメアード共から聞いたぜ。奴が一番強いってな」
「それがデスメアードとしての、夢?」
「ああ。そうだ。俺は戦うために生きている。強ぇ奴に挑戦することが俺の生きがいだ」
ジノはトンカチを地面に置くと、突然立ち上がった。彼に目の前に立たれると、視界がすっかりと塞がれてしまう。
ジノはケープを片手で捲り上げた。その下に隠されていた玉虫色の筋肉と、腰に巻かれた黒いベルトが顕となる。ベルトには携帯電話を収めるのにちょうどいいサイズのケースがずらりと備わっていた。全部で六つか、八つある。中には携帯電話ではなく、様々な色をした金属製の板が差し込まれていた。
「俺は負けた奴の技を奪うことができる。この板に吸収してな。これだけじゃねぇぞ。家に帰ればもっとある。ここにあるのは自慢のものだけだ」
勝者の証らしいその板を、ジノは自慢げに見せびらかす。沙穂はその眩い輝きに目を眇めながら、ふと気になることがあって恐る恐る尋ねた。
「あの。気分を害さずに聞いてほしいんですけど、もし負けたら……」
「俺に勝つほどの力の持ち主だ。それはもう、強大な力を手に入れることができるだろうぜ。そういう取り決めだ。まぁ、負けたことはねぇし、これからも負けるつもりはねぇがな」
ジノは特に不機嫌になった様子もなく、ケープの内側からウィスキーのボトルを取り出すと蓋を捻った。腰に手を当て、ぐいと傾けるその中身は沙穂の家で作っていたカレーに違いない。いつからカレーは飲み物になったのだ、と指摘したくなるが黙っておいた。
「あぁ、やっぱり戦いの前にはこいつだな。生き返るぜ」
ぷはぁと息を吐き出し口元を手で拭うと、彼は改めて沙穂を見下ろした。ボトルに蓋を閉め、ケープの中にしまい直す。
「そういやお前、ライバルとはどういう関係だ。人間のくせにどこで知り合った」
ジノのあまりに突飛な質問に沙穂は何と返したらいいのか迷った。自分とライバルの関係が一体どういうものなのか、沙穂自身もいまいち分かっていなかった。
「なんというか……ライバルには何度も助けられて、救われて、私は感謝してて。そういう、関係です。改めて言うと難しいですけど、そんな感じの」
「随分お気楽だな。そういえばお前は俺たちのことを覚えていられるそうじゃねぇか。そんな奴もいるんだな。驚きだ」
「はい……自分でもよく分からないんですけど」
沙穂が答えると、ジノは鼻を鳴らした。そして沙穂の前に屈みこみ、「一つ忠告しておくがな」と言いながら顎を掴んできた。そして無理矢理自分の方を向かせてくる。手袋ごしでも伝わってくる皮膚の固さに沙穂は息を呑んだ。
「妙な力を持っているからといって、俺たちにあまり関わらない方がいい。人間とデスメアードは分かり合えない。分かり合えるわけがない。俺たちはおっかねぇんだ。関わっても不幸になるだけだぜ?」
そう断言するジノに、沙穂は反論できなかった。人間とデスメアードの間にある繋がりの危うさをこれまで何度も思い知らされてきたからだ。沙穂自身、ライバルとの関係を問われてもはっきりとした答えを用意できなかった。ライバルが沙穂のことをどう思っているのかも知らない。だから『分かり合えない』と主張されても、それを覆すだけの材料がなかった。それが歯がゆくて、悔しい。
「俺たちはな、夢のためなら何でもする。まぁ自分勝手な奴らさ。人間に俺たちのことが理解できると思ってんのか?」
「で、でも」
「でもも何もねぇだろ! ライバルと関わったから、こんな目にあってるってことを忘れんな。お前を殺せばライバルが出てくると知れば、俺は躊躇なくそうするぜ」
ジノはさらに手の力を強める。顎の骨が軋み、沙穂はたまらずうめき声をあげた。
その時、視界の隅で瞬く光と、降り立つ足音を沙穂は目と耳で捉えた。ジノも気づいたらしく、二人で一斉に同じ方角に顔を向ける。そこには両足で着地し、それからゆっくりと顔をあげ、赤々と輝く双眸でこちらを睨みつける漆黒の戦士――ライバルの姿があった。
袖を通さずにブレザーを羽織っている。ジノは沙穂から離れると立ち上がった。
「来たな、強き者よ。待ちくたびれたぜ!」
「バルッ」
ライバルは沙穂をちらりと見やると肩のブレザーを掴み、投げ飛ばした。ブレザーは宙を舞うようにして移動し、沙穂の体に被さった。
「子犬ちゃん」
「無事か小娘! 悪かったな、来るのが遅くなった」
「ううん。大丈夫。来てくれただけでも嬉しい。ライバルも連れて来てくれて……」
沙穂の両手を拘束している鎖を外そうとするブレザーを、ジノは興味深げに眺めていた。そしてまた鼻を鳴らすとライバルの方に顔を向け、「王子様気取りかよ。てめぇは処刑人だって聞いたぜ」と彼を揶揄した。ライバルは無言のまま片足を前に踏み出し、臨戦態勢をとる。その瞳にこめられた揺るぎない闘志を感じ取ったのだろう。ジノは口笛を鳴らした。
「まぁ、いい。お前と戦えることを嬉しく思うぜ、ライバル。さぁ」
ジノは手の中指を噛むと、続けてその手をライバルに向けて差し出した。
「デュエルの時間だ!」
「バルウウウウッ!」
ライバルの雄叫びが決闘場の中に響き渡る。動いたのは同時だった。ジノは跳躍し着地すると、その長い足から回し蹴りを繰り出した。ライバルは身長差をうまく利用して屈み込み、敵の懐に素早く潜り込む。その小さな体を精一杯使って、鋭いアッパーを放つ。
だが、その拳はジノの右手に装備された円形の盾によって弾かれた。すぐさま飛び退くライバルに、ジノの蹴りが追いすがる。ライバルは両腕を顔の前に構えると空中で攻撃を防ぎ、受け身をとった。両足での着地音が妙な重みをもって空間に響き渡る。
「はっ、この程度か? がっかりさせんじゃねぇぞ!」
「バル!」
ライバルは手を宙で払うようにすると、助走もつけずに高く跳び上がった。そして体操選手のように空中で一回転すると、左足を突き出し、ドロップキックの構えをとる。対するジノは軽く片足でジャンプすると、その抜群のリーチを活かして、打点の高い蹴りを放った。ライバルとジノの足が中空でぶつかり合い、衝撃波が周囲に拡散する。ライバルは大きく突き飛ばされて地面を転がり、ジノもバランスを崩して後ずさる。すぐさま起き上がり駆け出すライバルの前で、ジノは静かに息を吐き出すと装備する盾に左手を添えた。
「なるほどいい闘志だな、お前。なら俺も滾らせてもらうぜ!」
さらに力強く撫でるようにすると、円形の盾は回転を始める。すると白色の靄がジノの右腕を包み、靄が晴れた時にはその手に一振りの戦斧が握られていた。
柄が短く、先端に突起の生えた取り回しの良さそうな武器だ。刃の色は黒く、握り手の部分にはゴム製のグリップテープが巻かれていた。ジノは斧で肩を叩くとライバルに急迫し、一気呵成に攻めたてた。横に縦に振り回される斧をライバルは最小限の動きでかわすと、タイミングを見計らって前方に飛び出した。
「バルバルバルバルバル、バルッ!」
そしてジノの腹部に拳を連打する。四、五発打ち込んだところで脇腹に蹴りを加えると、すぐさま背後に飛びのいた。しかしぐんと伸びたジノの腕が、その退路を断った。
「ライッ!」
「きかねぇな……貧弱だぜ! てめぇの拳は!」
どうやらライバルの攻撃は全て、固い筋肉によって阻まれてしまったらしい。首を掴んで持ち上げられ、空中でじたばたともがくライバルにジノは斧を振りかざす。
ライバルは呻きながらも敵の左手の甲を掴んだ。密着させたまま、その掌から刃を発生させる。刃はジノの手をそのまま貫いた。力が抜けたところをライバルは相手の胸を蹴って離脱し、地面を転がって距離を取る。
ジノは穴の空いた左の手袋を憎々しげに見つめると、口を使って指の部分を引っ張り、手袋を外して足元に捨てた。その下からは骨が浮き出し、筋肉が剥き出しになったような緑色の手が現れる。掌には今の一撃で負ったのであろう、深い傷跡が刻まれていた。
「ちっ。そんなところに武器を隠していたとはな……俺としたことが油断したぜ!」
「バルウッ!」
ライバルは右手を大きく頭上に掲げ、ジノに躍りかかる。ジノはケープを片手でどかすと、ベルトから金属製の板を一枚引き抜いた。群青色に輝くそれを、盾に備わった小さなくぼみに差しこむ。そしてまた盾全体を撫でるようにして回転させると、ジノの前に突然、大きなフラフープのような金色の輪っかが現れた。
雄叫びをあげながら向かってくるライバルの前で、ジノは輪っかをくぐり抜けた。すると次の瞬間、ジノは輪っかごと姿を消してしまった。
「バルバルッ!」
寸前で目標を見失い、ライバルはたたらを踏んで周囲を見渡した。まるで煙と化してしまったかのような忽然とした消え方だった。ライバルも困惑し、辺りを必死に窺っている。
遠くから見ていたのが良かったのだろうか。沙穂は真っ先に敵の姿を見つけた。
「ライバル! 後ろ!」
声に反応し、ライバルは振り返る。消えたのと同じように、ジノはそこに突然現れた。瞬間移動だ、と沙穂は目の前で起きている理不尽な現象を分析する。鍵のかかっている沙穂の部屋にも、この能力を駆使して侵入してきたに違いなかった。
空気を束ねるような轟音を纏って振り下ろされる斧に、ライバルは刃を構えて対応する。刃と斧がぶつかり合ったその直後、鈍い音が響き渡り、そしてライバルの手からへし折られた刃が飛んでいった。
あっ、と沙穂が瞠目した時には、ライバルの小さな体は蹴り飛ばされている。ジノはさらにベルトから今度は赤銅色の板を取り出し、盾にセットされている群青色のものと入れ替えた。盾を回転させると靄が再び斧を包み込む。ジノが斧を突き出すと、その先端からエネルギーでできた光輝く巨大な槍が現れ、ライバルを襲った。
「ラィィッ!」
螺旋状を描く鋭利な切っ先がライバルの体を穿つ。貫かれた傷口が爆発を起こし、よろめくライバルにジノは斧を一閃した。白煙の中から突然現れたジノの攻撃を、ライバルは避けることができなかった。
振り抜かれた刃がライバルの脇腹に突き立てられる。悲鳴をあげるその顔面に、ジノは引き抜いた斧をさらに叩き込んだ。続けざまに放たれた三撃目が胸を裂くと、ついにライバルは体の至るところから光の粒子を噴きだしながら倒れた。
そしてそのまま動かなくなった。全身を投げ出し、虚ろな目をするライバルの顔面にはガラスがひび割れたような深い傷が刻まれている。
「ライバル!」
沙穂は戦士の名前をたまらず叫ぶ。鎖が外れる音と一緒に、背後でブレザーが息を呑むのが聞こえた。「まさか」と呟く声が震えていることが、事態の重さを何よりも表していた。
「もう終わりか? 早く立てよ。まだやれるだろ? てめぇの闘志は折れてねェはずだ」
そんな挑発にも、ライバルは指一本さえ動かすことはなかった。ジノは舌打ちをすると沙穂の方を見た。その口元がいやらしく歪むのを目にして、沙穂は寒気を覚えた。
ジノはこちらに近づいてくると、ブレザーを摘まみあげてどかした。また新たな金属板をセットした盾を回転させ、右手を前に差し出す。するとブレザーの周囲に鉄製の籠が現れ、まるで飼育されているインコのように彼を閉じ込めた。
「なっ、貴様!」
「子犬ちゃっ……うぐっ!」
胸倉を掴まれ、沙穂は先ほどのライバルと同じように体を持ち上げられる。頬に冷ややかな感触が走る。斧を突きつけられていることに気付くまでに、そう時間は要しなかった。
「はっ。いいのかよ、ライバル。こいつが死んじまうぜ? てめぇの力はそんなもんか! そんなところでいつまでも寝てねぇで、俺を早く処刑してみろ!」
恐怖で全身が震える。瞳が震え、涙が出てくる。頬に鋭い痛みが走った。刃を押さえつけている力が強いので寸止めが効かないのだろう。それはジノが本気で沙穂を殺そうとしていることの証明でもあった。
ライバルに出会った時のことを思い出す。鈴の音を響かせ、危機に陥った沙穂の前に颯爽と現れたライバルは瞬く間に怪物を倒し、命を救ってくれた。ライバルは沙穂にとって救世主だった。その気持ちは今も変わらない。何があっても、たとえ分かり合えないとしても、ライバルの存在を失いたくはなかった。
「……バル……」
その時、消え入るような声が聞こえ、そしてライバルの手がぴくりと動いた。それから引きずるようにして顔をあげ、さらに手をついて上半身を起こし――戦士は立ち上がる。ジノはにやりと笑うと沙穂から手を離し、体をライバルに向けた。地面に落とされた沙穂は頬に熱いものを感じ、背中に鈍い痛みを覚えながらもライバルから目を離せなかった。
「ライッ……!」
よろめきながらも両足で地面を踏んだライバルの体が、白い炎によって包まれていく。
「バルウウウウウッ!」
燃え盛る業火の中で身構え、ライバルは真紅の目をぎらつかせるとジノに飛び掛かった。
「そうこなくちゃなァッ!」
ジノは嬉しそうに身震いすると、向かってくるライバルに斧を大きく薙いだ。ライバルは宙返りでその一撃をかわすと、敵の胸部目がけて蹴りを打ち込んだ。着地すると同時にさらに間断なく腹を、胸を、肩を殴りつけていく。下から掬い上げるような斧の軌道を察し、後ろに飛びのいたときには、ジノの全身には焦げた痣がいくつも生じていた。
ジノは片膝を地面に付き、苦しげに肩で息をしながらライバルを威圧的に見つめる。単なる拳での攻撃とは違い、炎を纏った攻撃は筋肉で防ぎきることができなかったらしい。
ライバルの体を燃やし続けている炎は、ぱっくり開いた彼自身の傷口をも焼いていた。そうやって炎で欠損した部位を塞ぎ、瀕死の体を無理やり動かしているのだろう。ライバルは業火に包まれながらも慟哭し、さらに猛攻を加えていく。身を打たれ、その度に反撃するジノの表情はひどく輝いていた。
「すげぇなぁ、てめぇ。自分の体を燃やすたァ。大した荒ぶりじゃねぇか! だが!」
ジノは手に火が燃え移るのも構わず、殴りかかってくるライバルの右腕を掴んだ。止まった標的目がけ、斧を振るう。
「俺の方が数段上だ! 闘志も実力もな!」
ライバルの腹部に掲げられた黄金のバックルが光り輝く。すると左腕を靄が包み、その手にジノと同形状の斧が現れた。ライバルは刃の面で敵の斧を受け止めると脇腹を蹴り、ジノの手から逃れた。
「何だ? てめぇも人の技を使えるのか。しかもサウスポーとは……ますます面白い!」
「バルライッ!」
お互いに斧を振り回し、薙ぎ、ぶつけ合う。どちらも全力で、だからこそお互いに攻撃が当たらない。かわし、刃で防ぎ、その度に甲高い音を響かせ、そして肉薄する。鍔迫り合いのような形で刃同士を擦り合わせながら、ライバルとジノは間近で睨み合った。
「ライライ!」
ライバルのバックルが再び光を放つ。すると足元に輪っかが出現し、ライバルはその中に落下していった。ジノが使った時と同様に直後、輪っかは消滅し、彼も姿をくらます。
「なにぃ!」
「バルウウッ!」
怒号をあげるジノの頭上から、ライバルは現れた。その右拳から光の槍を放つ。ジノは鋭い光条を盾で防ぐと、左手に持ち替えた斧を空に向けて投擲した。手首と肘のスナップだけで力強く投げられた斧は、ライバルの頭に突き刺さった。片目から頬にかけて刃を埋め込まれたライバルは、受け身をとることもできず背中から地面に衝突する。
ジノは盾に新たな板を挿入して回転させると、靄ととともに現れた鉄製の鉤爪を右手に装着した。うつ伏せに倒れ込んだライバルの後頭部目がけ、切っ先をかざす
「これで終わりだ!」
「ライッ……」
だが、ジノは気が付かなかった。ようやく上半身だけを起こしたライバルの目の前に、再び輪っかが出現したことに。そして気付いた時には、ライバルは先ほどとは色の異なる、真紅に染まったエネルギーの槍を左拳から放出していた。
「バルウウウッ!」
ライバルの絶叫が空気を劈く。輪っかは赤の槍を呑みこむとライバルの拳の先から消え、代わりにジノの背後に出現した。その内からライバルの撃った槍が飛び出し、ジノの体を貫く。さらにライバルは振り向きざまに左拳からもう一度真紅の槍を発射し、光り輝く刺突を、今度は正面から炸裂させた。
「馬鹿な、こんな、使い方が……!」
続けざまに打ち込まれた攻撃によって、風穴の空いたジノの腹部から黄色い液体が噴出した。その体は指先、足先から光の粒となって分解されていく。消えていく自分の体を見下ろし、ジノは初めのうちこそ困惑していたようだったが、やがて笑みを浮かべた。その瞼がゆっくりと閉じられていく。
「何だ、俺の負け、か。そうか、もう一度俺は死ぬってわけか……だが、案外悪くねぇ」
ジノは両膝を地面に付いた。少しずつ全身の色合いが薄くなり、粗くなっていく。
「ライバル。てめぇに負けて良かったよ。誇りに思え。俺が認めた……」
胴体が消え、体が消え、口が消え、やがてジノは完全に消滅した。後には黄色い液体に塗れたウィスキーボトルと汚れたスニーカーだけが残された。
敵が砕け散るのを見届けると、ライバルは仰向けに倒れた。沙穂は彼に駆け寄った。
「ライバル!」
彼の身を包んでいた火はすっかり消え、代わりに光の粒子が絶えず散っていく。何だか体の色や輪郭が薄くなっているように見えるのは、けして気のせいではないはずだ。頭に刺さっていた斧はジノの消滅とともになくなっていたが、顔を深々と縦断する傷口は鳥肌が立つくらい痛々しい。沙穂はライバルを抱き起こした。
「こんな無茶して、本当に……」
「バル……」
ライバルは力なく手を伸ばし、沙穂の頬を伝う涙に触れる。彼の大きな瞳は焦慮で染まっていた。こんなに傷だらけになっても、他人の身を案じてくれている。その夢の大きさ、心の大きさに、沙穂は震えが止まらなかった。
「私は大丈夫だよ。だって、あなたが必死で守ってくれたから。ありがとう、ライバル」
「ラ、イ」
返す言葉も弱弱しく、ライバルの体は徐々に失われていく。もはや膝から下は虚空に散り、全身の輪郭は空気と同化を始めていた。
「私ね、何度も何度も助けられて。すごくすっごく感謝してる。それが私のためじゃなくて、あなたの夢を叶えるためだって構わない。だって私が嬉しいのは本当だもん。私はあなたに出会えたことを、一度も後悔したことない」
ライバルはじっと沙穂を見つめている。少しずつ、だが確実に軽くなっていくライバルを離さぬように、沙穂はしっかりと両腕に力をこめる。
「だからね。あなたに何度だって会いたい。何度だってありがとうって言いたい。誰がなんと言おうと、それが私の本当の気持ち。だからライバルも」
「ライ、バル」
ライバルは肺の中に溜まった空気を全て吐き出すかのように、声を発した。その顔は笑みを浮かべたかのように見えた。そして沙穂の言葉を全て聞き終えることもなく、必死の呼びかけも通じず、ライバルは空気の中に溶け込むようにして、消滅した。
散り散りになっていく光の粒を、沙穂は掴みとろうと必死で両手を振る。しかし彼の体を作っていたものは指の間をすり抜け、散っていってしまう。無力感に襲われ、顔中を涙で濡らした沙穂の前に、宙を浮く砂時計型の容器が現れた。中には砂ではなく白い液体が入っている。やがて容器は光の球に包まれると、空の彼方に飛んでいってしまった。
「慌てるな。あれは我々の核だ。ダメージを受けすぎて体を保てなくなったのだろう。俺たちはしょせん塵の集まりだからな。そんなこともある」
振り返ると、籠から解放されたブレザーが側に寄ってきた。沙穂は手でごしごしと目を擦ると、光の球が消えていった先に目を凝らした。
「悲観的になるな。核さえ残っていれば明日には元に戻る。メアードはそういう生き物だ」
そういえば以前、デスメアードは死なない怪物だとブレザーが言っていた。それを殺せるのはライバルだけであると。目の前で起きたことに混乱していたので、すっかり頭から抜けていた。沙穂は腕組みをして隣に立つブレザーを見やると、唇を噛み、強く頷いた。
「そっか。そうだよね。また、会えるんだよね……」
心の底に澱のように溜まっていたわだかまりが、小さくなっていくのを感じる。ジノの言葉に受けた衝撃も、ライバルのあの安らかな表情を見た今ではもはや何でもなかった。
どんな関係か答えられないのならば、見つかるまで何度でも出会えばいい。分かり合えるかどうかなんて、それから決めればいい。嘆く必要などどこにもなかった。時が満ちるまで沙穂には迷い、惑い、模索することが許されるのだから。
沙穂は立ち上がろうとして、足元に何かが落ちているのに気付いた。すぐのその正体を察し、拾い上げる。ちりん、と乾いた音が鼓膜を震わせた。
それは『交通安全』と書かれたお守りだった。隅のほうは黒く焦げており、全体的に薄汚れている。沙穂はしばらくそれを見つめると、手の中にぎゅっと包み込んだ。そうするだけで心がほっと温かくなり、救われるような気がした。
周りの景色が揺らぎ、観客席や赤茶色の地面がヘドロのように溶けていく。ジノの消滅とともに、この世界も崩壊を始めているのだ。
「元の世界に還っていくぞ。小娘、お前にとっての平穏の地にな」
沙穂は頭上を仰いだ。あと数秒もすれば、視界に見慣れた景色が広がることだろう。だがここに来る前よりももっと、清々しい気持ちでライバルと向き合えるに違いない。ドーナツを渡す時のことを思うと、それだけで心が弾んだ。
「ライバル。また、明日ね」
お守りを持った腕を空に向けて伸ばす。やがて抜けるような青空は暗闇にとざされ、そうして沙穂とブレザーは元の世界に帰還を果たしたのだった。
※誤字が見つかったため修正しました。
「デスメアード・ファイル」
デュエル・メアード
属性:雷
AP4 DP4
身長:196cm 体重:72kg
【基本スペック】
領域(レベル3。メアード空間を展開する)
引火(火属性のデスメアードから受ける攻撃、または火炎攻撃によるダメージは2倍になる)
再生(一度死んでも、闘志とカレーがあれば翌日に再生できることがある。成功するかどうかは運次第)
【特殊能力】
戦いで勝ったデスメアードの技を一つ奪うことができる。奪った技は自分も使える。
負けた場合、相手に力を与える。対象に向けて決め台詞を言い放つことで特殊能力は発動する。
【DATE】
硬式テニスラケットの成れの果て。闘志燃えたぎる熱いデスメアード。ジノと呼ばれている。より強い者に挑戦することを夢として掲げる。
カレーが大好きで、いつもウィスキーボトルに入れて持ち歩いている。
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カラマレオン・メアード
属性:水
AP2 DP2
身長:130cm 体重:105kg
【基本スペック】
領域(Lv3。メアード空間を展開する)
隠密(自分よりレベルの低いデスメアードには存在を気付かれない)
律動(気分が乗ると攻撃力アップ)
【特殊能力】
半径1キロ以内にあるイヤホンのコードを絡ませる。
【DATE】
断線して捨てられたイヤホンの成れの果て。イヤホンは眠る時、独りでに絡まる習性がある。
しかし事あるごとにそれを解こうとする人間に苛立ち、イヤホンに休息を与えることを決意した。