7話「夢と愛と蕎麦とうどんと」
1
一人でカラオケに行かないのは、歌うことにそれほど情熱を燃やせないからだ。
一人で遊園地に行かないのは、乗り物で遊ぶことにあまり魅力を感じないからだ。
だけど一人で外食にはよく行く。それはご飯を食べることがとても好きだからだ。沙穂にとって一人で行動する基準というものは、その程度のことだった。
沙穂は週に三度くらいの頻度で外食をしていた。友達と一緒に楽しくお喋りをしながら食べるのも好きだが、一人で黙々と味を噛みしめるのも悪くはない。その瞬間だけは食事という行為に対して、とても真摯な気持ちでいられるような気がする。
日本食、イタリアン、ファーストフード、洋食屋。ジャンルは何でも構わない。足の向くまま、気の向くまま、その日の気分で沙穂は店の暖簾をくぐる。混んでいるか空いているか、人気店かそうでないかは関係がなかった。完全に直感だ。自分の食べたい物を食べる。遠慮もいらない。だから沙穂は一人で外食をすることが好きだった。
その日、沙穂は駅からほど近い場所にある、小さなうどん屋を選んだ。なぜうどんかと問われれば理由など無いと答える。朝から心がうどんのリズムを刻んでいたのだから仕方がなかった。注文して待っている間も、湯気に混じった粉の匂いと、天ぷらを揚げる音が腹の虫を刺激する。沙穂は四人掛けのテーブルを一人で陣取った。他に客はいないので気にする必要もなかった。店内はこぢんまりとしていて、昔ながらのお店といった内装だったが、清潔で店主の生真面目さがあちこちから滲み出ているようだった。
「いらっしゃいませ。どうぞ」
エプロンを着た中年の女性がお冷とおしぼりを運んできてくれた。髪を赤いヘアゴムで束ねており、いかにも小さな定食屋のおばちゃん、というような風貌だ、沙穂は軽く会釈をしてそれを受け取り、メニューをざっと眺めたあとで注文した。女性は目元に皺を寄せて微笑み、注文内容を繰り返して厨房に消えていった。
そして待つこと二十分弱。沙穂の前に温かい天ぷらうどんが姿を現した。梅雨の雨に濡れて冷え切った体にはぴったりだった。沙穂は火傷をしないように、ふぅふぅと息を吹きかけながら、夢中になってうどんをすすった。
「お客さん。いい食べっぷりだね」
側に誰かが立ったのに気付いて顔を上げると、丸顔の中年男性が顔を綻ばせていた。格好からしておそらく店主だろう。黒ぶちのメガネをかけたその表情はとても優しそうだ。
「はい。とっても美味しいです。初めて来たけど、本当に」
「そう言ってくれるのは、お客さんだけだよ」
店主は寂しげに笑うと、客のいないテーブルを眺めた。海老の天ぷらを箸で掴みながら、沙穂も隣の席に目をやる。蛍光灯を照り返して光るテーブルが、かえって物悲しさを助長しているようだった。
「ずっとうどん屋になりたくて、女房と二人で日本一のうどん作ろうと夢見て頑張ってきたけど。もう限界かなって思ってるんだよね……」
「ははぁ」
注文を取っていった中年の女性のことを頭に思い浮かべながら、沙穂はうどんを口の中で転がすようにして噛む。
「そろそろ店じまい、考えてるんだ。いつまでも夢見てばっかじゃいられないしさ」
天ぷらを口に運ぶ。噛むと、じわりと衣の旨味が舌の上に広がった。もう一つ噛むと、今度は身の詰まった海老が口の中で弾けた。うどんも天ぷらも、それこそこれまでの十九年間に食べた中でも一、二を争うくらいに美味しかった。だから、もうこれが食べられなくなるかもしれないと思うと残念ではあったが、しかし店主を励ます気にもなれなかった。
店主も悩み、悶え、考えたうえでそのような結論を出したに違いない。それを今日、初めて店に入ったような小娘がただ感情に揺り動かされるままに「そんなこと言わないで続けてくださいよ」と言うのは、何かひどく失礼な気がした。店主のうどんに対するひたむきで真面目な、熱い気持ちを十分に感じ取っていたから尚更だった。
だから沙穂は味の濃い汁を、どんぶりに口をつけて飲んでから「うどん、美味しいですよ」とだけ言った。その返答が正解であったかは分からないが、店主はにっこりと笑って「ありがとう」と頭を下げた。その背後ではおそらく店主の奥さんであろう、先ほど入店の挨拶をしてくれた女性が立っていて幸せそうな表情を浮かべていた。
2
二週間後。午後六時四十分。空気は七月特有の湿り気があり、肩にナナメ掛けしたショルダーバッグの、ベルトが触れている部分が汗ばんでくる。
指場名物である瓶の形をした噴水の前。そこのベンチに沙穂は腰かけていた。周囲では誰かを待っているのだろう人々が柱に寄りかかったり、同じようにベンチに座ったりしている。この場所は絶好の待ち合わせスポットとして、町の人々に親しまれていた。
沙穂は駅の方をちらりと窺ったあとで、膝の上に広げた教科書に目を落とした。『幼児指導論』のレポートの締め切りが迫っていた。大事な部分に赤ボールペンで線を引きながら、頭の中で構成を組み立てていく。すると突然、バッグの中から低い声が聞こえてきた。
「おい、相手はまだ来ないのか? 何もこんな暑いところで勉強をせずとも良いだろう。勉強は午前中、涼しいうち、静かなところでするのがよろしいと聞いたことがある!」
「なんか先生みたい。そんなことどこで聞いたの?」
教科書から目を外さずに、沙穂は声をひそめて答える。どうやら沙穂の独り言を装った返事もバッグからの声も、周囲にはとりあえず聞こえていないようなので安心する。
「ククク、昔の話だ。わけあって、高校生とは縁があるのでな」
「まぁブレザーだし……これで何も関係ない方が驚きっていうか」
沙穂はバッグの中をそっと覗き込む。そこには綺麗に折り畳まれたブレザーが軽く身を揺らしているという、奇妙な光景が待っていた。沙穂は周囲の様子を窺い、小声で訴える。
「というか、外では静かにしててよ。あんまりうるさくすると醤油かけるからね」
「ククク、醤油だけは勘弁だ。汚れが落ちないからな」
「だったら黙る。普通のブレザーはもっと無口なんだから」
「案ずるな。お前が部屋に客人を招いた時、一度でも俺の存在がばれたことがあるか? いいや、ない! こう見えても、俺は雰囲気を読むのが得意なのだ。任せておけ」
「それならいいけどさ」
「ククク、俺様の隠された四十六の力のうちの一つ、『ブレザー・スリープモード』を発動すれば、身をひそめることなど他愛もない。聞きたいか、その威力。理屈としては――」
「何でもいいよ、静かにしててくれるなら」
「おい、沙穂ちゃん」
ひそひそ声で会話をしていると、突然声を掛けられた。視線を上向かせると、目の前に少年が立っていた。沙穂は教科書を閉じると表紙を上にしてベンチの上に置いた。
「あれ、いつからいたの?」
「そりゃあ、今からだろ」
背中にはストライプ模様のリュックサック。緑色のポロシャツに七分丈のジーンズを履いている。耳と額をすっきりと出した黒の短髪で、利発そうな顔立ちをしている。眉は細く、今は難しい問題を前にした時のように中央に寄せられていた。
「どうしたの、変な顔して。反抗期?」
「何のだよ。悪かったな、変な顔で。……酔ったんだよ、電車、揺れるから。最近知ったんだけど、運動したあとだと高確率で、酔う」
「あら、そりゃあお疲れ様。酔った時にはいいものがあるよ。それがこれ」
沙穂はショルダーバッグの中を探り、個別に包装された小さなドーナツを取り出した。少年は大きくため息を吐き、目を眇める。
「普通、酔った人にドーナツなんか渡すかよ」
「私は渡すよ。だってドーナツが大好きだから。別に食べないならいいけど」
少年の顔を見上げながら、顔の横でドーナツを揺らす。少年は何か言いたげに口をもごもごとさせている。沙穂が微笑むと、彼は気恥ずかしそうに目を逸らした。
「……食べる」
口を尖らせながらもドーナツを受け取るこの少年の名前は水城角平。水城はみずき、ではなく、みずしろ、と読む。ちなみに下の方の読みは、かくへい、だ。沙穂は名前を崩して、かっくんと呼んでいた。
「そういや、何読んでたんだよ。教科書?」
角平はベンチに置いてある教科書に目を止めた。沙穂はそれを手に取ると彼に渡した。
「うん。レポートの提出日近いから」
「そっか。沙穂ちゃんも頑張ってるんだ」
どこか嬉しそうにしながら角平はドーナツを持ったまま、教科書をぱらぱらと捲る。沙穂は腰を上げると、スカートの裾を整えた。
「まあね。かっくんの方はどう? 何かやりたいこと見つかった?」
俺には夢がない、と角平はよく自嘲する。聞く話によると、彼はこれまでの人生の中で将来の夢というものを持ったことがないらしい。彼が今通っているのも普通科の高校だった。三年の間に何かやりたいことが見つかった時、自由が利くようにと普通科を選択したそうだが、一年と三か月が経った今でもどうやら見通しは立っていないらしい。
「全然。そんな簡単に見つかるもんじゃないって。これでも長年探してるんだから」
「部活を活かせばいいのに。テニス。ラブラブデュース! って叫ぶのカッコいいじゃん」
「テニスはそんな奇声をあげるスポーツじゃないし、ラブラブ言うのは審判だよ」
「じゃあバイトは? ボウリング場だっけ。ストライクされるだけの簡単なお仕事です」
「俺はピンじゃねぇし、受付だし。それに別にボウリングは好きで始めたバイトじゃない」
角平が差し出してきた教科書を受け取り、腰を屈めてバッグの中に入れる。角平は深いため息を空に浮かべると、「まぁ」と沙穂を正面から見つめてきた。
「まぁ、あと三年になるまで半年あるし。気楽にやるとするよ」
「そうだね。とりあえず今は腹ごしらえしようよ。お腹空いたでしょ? 私は空いた」
「俺も空いた。食うなら麺類がいいな。何かこの辺にいいとこある?」
「麺ならあるよ! 銀林沙穂ご贔屓のうどん屋さんが、このへんに!」
「マジか。沙穂ちゃんおすすめかぁ、楽しみだ。じゃあそこ行こうぜ」
角平は唇の片端だけを上げるようにして笑む。沙穂は彼の腕に抱きついた。角平は照れくさそうにそっぽを向きながらも、指を絡めるようにして手を握ってくれる。彼の手は少し汗ばんでいたが、不思議とその湿り気が心地よかった。
3
駅に自転車を停めて、うどん屋に向かう途中、ブレザーは自負していただけあり、まるで単なる衣類であるかのようにバッグの中で沈黙を貫き通していた。なかなかやるじゃないか、と感嘆するのと同時にその心遣いを嬉しく思う。あとで存分に感謝の言葉を伝えようと誓う。
駅前からおおよそ十分ほど歩いたところで、目的地とする建物は現れた。角平と話しながらだったのであっという間だった。耳鼻科医院と文房具屋に挟まれた黒塗りの外観。掲げられた看板には『かわかみ』とあり、入り口の周辺には「うどん」と書かれたのぼり旗が立っている。
人の好さそうな夫婦が経営しているお店。少し寂れてはいるけれど、味はそんじょそこらのものとは比べ物にならない。麺も汁も天ぷらも、その全てが夢と温かさに満ちて輝いている――そこは沙穂のとっておきの場所だった。
そのはずだった。
沙穂は店の前で呆然と立ち尽くした。店の様子が一変していることに気付いたからだ。
順番待ちをするどころか、沙穂の他に誰一人客の姿を見ることのなかった店に長蛇の列ができていた。その列は隣の文房具屋を通過し、さらに三軒隣にある床屋まで達していた。
後ろからスーツを着たサラリーマンらしき二人組みがやってきて、列の最後尾に並ぶ。並んでいる人たちは老若男女様々だった。仕事終わりのような人もいれば、家族連れも見つけることができる。沙穂は角平から離れるとぽかんと口を開けて、その行列を眺めた。
「なに……これ」
「すごい行列だな、この店だけ。沙穂ちゃんが言ってたのここ?」
「うん。だけど三日前に行ったときはこんなんじゃなかった。なんかもっと閑散としてて……だって私以外のお客さんに会ったことなかったくらいだし」
常連を気取ってはみたものの『かわかみ』で食事をしたのは、たったの三回だ。しかし一度も他の客に出会ったことがないのは事実だった。一度目は夕方、二度目は昼、三度目は七時過ぎと時間帯がまばらであるにも関わらず、だ。
それに最後に行ったときには、もう来週には店を閉めると主人は言っていた。だからあのうどんが食べられなくなる前にとこうして角平を連れてやってきたのだが、この短期間で状況は随分と変わってしまったようだ。
「へぇ。じゃあ雑誌とかテレビで紹介されたんじゃね? 沙穂ちゃんすげぇじゃん。先見の明ってやつがあるんじゃないの?」
「うーん。そうなのかなぁ」
何となく納得はいかないが、他の理由も思いつかなかった。沙穂は最後尾に目をやる。目測ではあるが、列の長さから計算すると店に入るのに一時間以上はかかりそうだった。
「どうする、かっくん。並ぶ? 味は保証するけど時間は保証できないよ?」
「沙穂ちゃんと一緒なら俺は何でも構わないよ」
心も腹も、もはやうどん色に染まっている。今更、別の店で食べようという気にはなれなかった。それに突然店が繁盛した理由も知りたかった。店の主人にも挨拶がしたい。日本一の店にしたいと夢を語っていたあの男が、一体どんな顔をしてうどんを打っているのか、想像するだけで胸が高鳴った。
「よし……じゃあ、ここにしよう」
最後尾に回りこみ、角平と二人で並んだ。待っている間に太陽は傾き、やがて山の稜線に埋もれ、空には星がぽつぽつと現れた。景色は藍色に染まり、外灯や店のネオンが夜に光を添える。
沙穂の見立て通り、店には一時間と十五分程度で入ることができた。席に案内されるまでにはそれからさらに三十分ほど時間を要した。客は増えても店の大きさは変わらないのだから、それも致し方ない。先週放映された『ドーナツランド』について角平に熱く語っていると、ようやく空席が生じた。二人掛けのテーブルに向かい合って座る。ほどなくして、見慣れぬ若い男性店員がお冷とおしぼりを運んできてくれた。
「あれ、おばさんは?」
沙穂が思わず尋ねると、男性店員は憂いを示すように眉を寄せた。
「おばさんって、店長の奥さんのことですよね。奥さんなら体調崩しちゃって」
「あらま。いつからです?」
「僕がここに入ったのが一昨日なんですけど、その時にはもう寝込んでたみたいですよ」
ならば沙穂が三日前に来たときには、もう不調の兆しはあったということか。だがそんな感じは受けなかった。いつも通り、ホッとするような表情で彼女は沙穂を迎えてくれた。
「そうですか。ありがとうございます」
「いえ。ごゆっくりどうぞ」
にこやかに頭を下げて男性店員は去っていく。角平は沙穂に顔を近づけてきた。
「何? 店長の奥さん、体悪いの?」
「そんな話聞いたことなかったけど……まぁ、私もそこまで親密な関係ってわけじゃなかったから。持病でもあったのかも」
何せ奥さんと話したのは数えるほどしかない。沙穂の知らない事情は山のようにあったことだろう。頬杖を突き、周囲に視線を巡らす。右隣のテーブルには五十代くらいの夫婦が向き合って座り、夢中でうどんを啜っていた。白い湯気に包まれた顔は幸せそうだ。今日は暑かったので、冷たいうどんを食べている人がどちらかといえば多く見られる。熱い汁に浸かったうどんを頼んでいる客は、むしろ少数派のようだった。
店内は、あたかもそれが当然のように満席だ。それは沙穂の知らない景色だった。三日前まで通っていた店と、ここが同じ場所だとは今でも信じられない。
「日本一美味しいうどんを作るのが、ここの店長さんの夢なんだって。そのために奥さんと二人で頑張ってきたって言ってた」
「へぇ。いいな……愛の二人三脚ってやつだ。憧れるよ、そういうの」
「じゃあ、かっくんも私と二人三脚で頑張ろうよ。レポート書くのとか」
「違う。それは単なる押し付けだ。つか自分でやれよ。高校生にやらせんな」
お冷をぐいと飲み干し、角平は再びメニューに集中し始める。沙穂はおしぼりで手を拭きながら、今度は左隣の席の会話に耳を傾けた。
「ここのうどん、うまいだろ? 俺ここ何日かこのうどんしか食べてないんだよ」
「ああ。マジでうまい。他のと全然ちげぇじゃん。こりゃ並ぶはずだわ」
喋っているのは三十代であろう男性二人だった。二人は無我夢中でうどんを口に放り込むようにしながら、食べる切れ間に会話をしていた。その様子は必死、と表現するのが正しいだろう。男たちの目は血走っているようにも見え、沙穂は困惑する。
「でもここがこんなに流行り出したの、ここ二、三日前からなんだぜ? 俺、仕事行くのにいつもここの前通りかかるんだけど、人がいるの見たことなかったし」
「へー。なんかテレビで紹介してたかな」
そうなのだ。沙穂が店に入った三日前までは、こんなに盛況ではなかった。つまりそれから一日後、今から二日前に何かがあったと見て間違いはない。
そこまで考えて、沙穂は店の奥にかかった暖簾に目を向けた。男性店員の言葉がどうにも引っかかっていた。主人の奥さんもまた二日前に病床に伏したのだという。これは偶然だろうか。それとも何らかの繋がりがあるというのだろうか。
「うまそうに食うなぁ、隣の人。それで沙穂ちゃんは何頼む?」
角平の声で我に返り、彼の方に顔を向けた。テーブルには沙穂に見やすいように広げられたメニューがある。どうやら注文を尋ねられているらしいと気付くまでに数秒要した。
「あ、うん。私は決めてる。天ぷらうどん」
「へぇ。うまいんだ。じゃあ俺もそれにしよっかな……」
腕組みをし、再びメニューに視線を落とす角平を尻目に沙穂は再び暖簾を見つめる。ここでいくら考えを巡らせていても仕方がない。
角平が呼ぶとほどなくして、先ほどの男性店員がやってきた。「天ぷらうどん二つ」と角平が注文した後で、沙穂は迷った末、意を決して申し出てみた。
「あのすみません。おばさんに一目会いたいんですけど。店長さんと話できますか?」
男性店員は沙穂の顔をじっと見た。それから丁寧に頭を下げた。
「すみません。僕でさえもおばさんとは会わせてもらえないんですよ。身体に障るって店長から固く禁じられていて。それに店長も仕事中は厨房に篭っちゃっているんです」
だから申し訳ございません。そう言ってもう一度、深々と腰を折る男性店員を前に、沙穂はしばしきょとんとしてしまった。
「あ、そうなんですか……」
最後ににこやかな笑みを浮かべ、男性店員は踵を返す。「随分悪いみたいじゃん、奥さん。でもこういうときくらい、店閉めればいいのに。愛の二人三脚だったらさ」と呆れたように口にする角平に同意した。何だかこの店の状況は、ひどくちぐはぐな気がした。あり合わせの布を貼り合わせたかのような違和感が、店の至る所に漂っているようだ。
膝の上に置いておいたショルダーバッグが、まるで携帯電話のバイブレーション機能が作動した時のように細かく震えた。沙穂は手でバッグを上から押さえると、椅子を後ろに引いて立ち上がった。
「ごめん、かっくん。ちょっとトイレ」
「ああ。ごゆっくり」
ひらひらと手を振る角平に見送られ、沙穂はバッグを片手に早足でトイレに向かった。レジのすぐ横にあるドアがトイレに繋がっていることは、すでに知っている。脇目も触れず個室に入るとバッグを開き、中からブレザーを引っ張り出した。
「デスメアードだ……近くにいるらしい」
開口一番、沙穂に襟を掴まれた体勢でブレザーはそんなことを言った。
「我が主もすでに到着している。今、気配を辿っているところだ」
「ライバルが……」
デスメアードがこの店にいる、と聞かされても沙穂はさほど衝撃を受けなかった。妙な気配を、もうすっかり慣れ親しんでしまった闇の住人の足音を、店に入ったときからずっと頭の隅で感じていたからかもしれない。
「この場から早く逃げ出すことだな。ククク……それにしてもメアードに縁のある奴だ」
沙穂は頷いた。ブレザーをバッグに戻し、個室を出る。トイレのドアを開いて店内に戻る。店の中はやはりひどく混雑していて、行列もまだ続いているようだった。
やはり違う、と思う。ここは沙穂の知っている『かわかみ』ではない。主人の夢が叶ったと素直に喜ぶことができない原因は、この何とも言えぬ不気味な気配にあった。
「やっぱりメアードが……」
小声で口走ったその時、沙穂は信じがたいものを見た。
すぐ隣にあるレジでは、茶髪の男性が代金を支払っていた。会計をしているのは男性店員だ。茶髪の男はどこか恍惚とした表情を浮かべ、ジーンズのポケットから取り出したくしゃくしゃの千円札をカウンターに広げて置いている。
その男性に向けて、灰色の触手が突然放たれた。触手はレジのお金がしまってあるところから飛び出し、男の胸のあたりを刺して数秒も経たぬうちにまた戻っていった。店員は何事もなかったかのように会計を終え、男は店から出て行く。目を見開き、呆然と立ちつくす沙穂の耳に、深く胸の底に響くような声が届いた。
「ザウルス~お前、俺が見えるのか?」
沙穂はびくりと体を震わせたあとで、慌てて振り返った。だが視界にはトイレのドアがあるだけだ。「どういたしましたか?」と男性店員がにこやかに話しかけてくる。カウンターの内側から床を這うようにして現れた灰色の触手が、沙穂の足に絡みついた。
「やっ」
「特異体質か、それとも他の何かか。どちらにせよ、ここで逃がすわけにはいかないよな」
悲鳴をあげる時間も、抵抗する余裕も与えられず、足掻くことさえ諦めるような力強さで沙穂はカウンターの方に引っ張られた。その瞬間、周囲の時間は停止し、まるで世界の裂け目に落ちてしまったような錯覚が襲いかかった。
しかしその時、現実から振り落とされつつある沙穂の腕を、掴む手があった。顔を上げると、そこには険しい表情を浮かべた角平がいた。彼は沙穂の体を引っ張り上げようとしてくれているようだったが、結局触手の力には勝てず、二人揃って奈落の底に引きずり込まれていった。
4
気が付くと、そこは薄暗い洞窟の中だった。これまで過ごしてきた時間と何の繋がりも関連性も感じることができず、この場所にたどり着いた方法さえも不透明なまま、沙穂はこの奇妙な空間の中に突っ立っていた。
暗いとはいっても視界が塞がるほどではなく、ごつごつとした壁面や、天井から垂れ下がった石筍がはっきりと見て取れる。生ぬるい感触を覚えて足元に視線を落とせば、足首が浸かるくらいの浅瀬が広がっている。水面は夕焼けを溶かしこんだような橙色に薄く輝いており、耳鳴りがするような静寂が広がっていた。
「沙穂ちゃん、大丈夫?」
「……かっくん」
ぴちゃぴちゃと水をはじきながらこちらに近づいてきた角平は、顔を青くしていた。姿を現すや否や沙穂の手を握り、周囲をぐるりと見渡す。
「私は平気。ぴんぴんしてる。かっくんは?」
「俺も何ともないよ。だけどなんだよこれ。俺たち一体何で……」
「どうやらメアード空間に取り込まれたようだな」
背後から落ち着き払った声が、突然聞こえてきたので沙穂は凍りついた。おずおずと振り返るとブレザーが宙を浮き、珍妙なポーズを取っていたので脱力する。
「しかも特定の人間だけを呼び込むとは。この空間の主はかなりの使い手とみた!」
「沙穂ちゃん危ない! おらああっ!」
怒声とともに放たれた角平の蹴りが、ブレザーに炸裂した。「あっ」と沙穂が制止を駆けようとした時にはすでに遅く、すぐ横で小さな水飛沫があがった。
「テニス部が足を使って……」
唖然とする沙穂だったが、角平の目がある一点に注がれていることに気付いて身を固くした。水に沈んだブレザーの方ではなく、全く別の方向をじっと見ているのだ。その表情は固く、瞳には明らかに脅えが浮かんでいた。
沙穂は彼の目線の先を追った。そこには、絡み合う白と灰色の触手によって形成されたベッドが置かれていた。その上に横たわっているのは『かわかみ』のおばさんだった。青白い顔には三日前に会った時のような覇気はなく、その目も唇も固く閉じられている。手足は触手によって、ホチキスの針で綴じられているかのようにベッドに固定されていた。
「ザウルス~ようこそ、俺の世界へ」
ベッドの下から小柄な影が現れる。宙をふわりと浮かぶそれは恐竜の生首だった。
手足も胴体も見当たらない。首には狐色の襟巻が巻かれており、その下から白と灰色の入り混じった触手が、まるで巨大なコンピューターに接続されているコードのように大量に垂れ下がっている。生首はそのつぶらな、しかし人の心をハッと射抜くような迫力に満ちた目で沙穂を睨んでくる。沙穂が後ずさると、一歩前に進み出た角平が沙穂を庇うように生首との間に立った。
「なんだお前ら次から次へと。沙穂ちゃんにそれ以上、近づくんじゃねぇよ」
「そいつは無理だ。その女は俺の存在を知ってしまった。このまま返すわけにはいかない」
爬虫類の口をぱくぱくと動かしながら、生首は大人びた男性のような声を発する。
「一体、おばさんに何を……」
沙穂はつっかえつっかえ、生首に尋ねる。おばさんの上を落ち着きなく、ふわりふわりと舞いながら生首はけたけたと笑い声をあげた。
「だしを取っているのさ。人間からソバエネルギーを吸収し、うまいうどんの汁を生み出すのが俺の夢、それを叶えるだけの力だ。そしてこの女はそのためのベースでな。こうしておけば、匂いにつられて客が寄ってくる。そして一度食べれば、俺のうどんの虜となる」
「まさか……あのうどんには中毒性が」
舌なめずりで答える生首を前に、沙穂は身を固くした。店にいた客の血走った目が頭の中に過る。その時、ざばりと音をたててブレザーが浅瀬から起き上がった。全身から水滴を垂らし、水気を吸った布地はいかにも重たそうだ。
「こいつの名前はソバウドン・メアード。地属性のようだ。……しかしマズイ。実にマズイぞ。俺がいなければ、我が主はこの世界に入って来られない」
苦しげに呻くブレザーの言葉に、沙穂はハッとなる。確かにライバルは敵とみなしたデスメアードを自分の世界に取り込むことはあっても、他のメアード空間に侵入することは沙穂の知る限りでは一度もなかった。
「で、でも、子犬ちゃんならここから出られるよね?」
「ああ。可能だ。まぁここから逃がしてくれれば、だがな」
沙穂は恐竜の生首――ソバウドンに視線を戻す。ソバウドンは沙穂たちの苦悶を嘲るように、宙をくるくると回ったり、跳ねるような動きをみせたりしている。
「何度だって言おう。そいつは無理だ。なぜなら……」
触手のベッドの影から、何か黒い塊のようなものが次々と現れる。それはひとつ残らず宙に浮きあがり、ソバウドンの周囲を漂った。そして現れたそれらもまた恐竜の生首だった。数は全部で六体。顔かたちから色に至るまで、それらは全く同じ外見をもっていた。
「ザウルス!」「ザウルス!」「ザウルス!」「ザウルス~この通り、数では俺が勝っている。お前たちがここから出られる道理はどこにもない! 大人しくうどんのだしになれ!」
ザウルス、ザウルスとけたたましく叫び、垂れ下がる触手をくねらせるソバウドンの軍勢が一斉に沙穂たちに襲い掛かる。まるで獲物を捕食する海洋生物のように触手が射出され、沙穂の手足や首に絡みついた。呼吸が詰まり、手足が痺れて体に力が入らなくなる。角平が助けに入ろうとするも、やはり触手に掴まり、地面に引きずり倒された。
ブレザーはその薄い体を利用して触手の群れを華麗にかわしていく、だが攻撃を避けるのが精一杯な様子で、ここから脱出する余裕などなさそうだ。触手の切っ先が胸を掠めると、ブレザーは舌打ちをした。
「この状況……やはりあれを使うしかなさそうだ」
擦れつつある意識の中で、沙穂は目に涙を浮かばせながらその声を聞いた。ブレザーは両袖を振り回して自分に迫ってくる触手を弾くと、浅瀬に半身の浸かった角平に近づいた。
「おい貴様、俺を足蹴にしたことは許す。協力してもらおう。究極の闇からの命令だ」
「……なんだよお前、偉そうに」
「貴様に力をやると言っているのだ。欲しくはないか。あの少女を救える力が!」
その切迫した叫びに角平は反応した。ゆっくりと上半身を起こし、彼はブレザーを見た。
「あるなら、そりゃいただきたいけどさ……」
「ならばぐだぐだ言っている暇はない! いくぞ!」
その後、何が起きたのか沙穂には分からない。首の動脈を圧迫されていたことで視界が黒く混濁し、ほとんど意識を失いかけていたからだ。男の唸り声が遠くで聞こえ、脳が回転するような感覚に襲われ、気が付くと沙穂は浅瀬に膝をついていた。
景色が鮮明さを取り戻していく。もう手足や首に触手は巻きついていない。激しく咳込みはしたが呼吸も問題なかった。気配を感じて顔を上げると、目の前に黒い背中があった。
「誰……?」
その謎の人物は腕に噛みついたソバウドンをもぎ取って投げ捨て、腕に巻きついた触手を片手で引きちぎると、沙穂を振り返った。
襟を立てたブレザー風のスーツに、チェック柄のマフラー。頭部は目鼻口にあたる部分は存在せず、狼を象ったエンブレムが顔の中心にでかでかと描かれているマスクによって、すっぽりと覆われていた。頭の上には茶色い毛をした、犬のような耳が生えている。
「沙穂ちゃん……良かった、大丈夫そうじゃん」
「……かっくん?」
沙穂は耳を疑うが、謎の人物から聞こえてきたのは間違いなく水城角平の声だった。飛び掛かってくるソバウドンに回し蹴りを打ち込むと、彼ははにかむように首を傾げた。
『お前はつくづく運がいい。この俺の禁断の姿を目にすることができたのだからな』
「その声、今度は子犬ちゃん?」
マスクの中心部に描かれた狼エンブレムの口がぱくぱくと有機的に動くと、謎の人物の声が今度はブレザーのものに変わった。
「沙穂ちゃん。この姿、どう思う?」
「え? あ、うん。まぁ……いいんじゃない?」
立てた親指で自分の顔を得意げに指す謎の人物に、沙穂は困惑を隠せない。しかもその声や仕草が自分のよく知っている人物のものなのだから尚更だった。
「ザウルス! なんなんだお前は。人間とメアードが融合したとでもいうのか?」
複数存在するソバウドンのうち一体が、鼻息を荒くして問い詰める。謎の人物はソバウドンの方に顔を戻すと、自分の顔の半分を手で覆い隠すような奇妙なポーズをとった。
『ククク、馬鹿め。男子高校生とブレザーが揃っているのに合体以外することがあるか? いや、ない! これこそ四十六の技の一つ。究極の闇を司る征服者、ヘルドリマーだ!』
「……よく分からないけど、そういうことでよろしく」
この場にふさわしくないほど冷静に、角平は言葉を添える。沙穂は唖然とするばかりだ。
「合体なんてそんな……というか、かっくん、いきなりなじみすぎだと思うんだけど」
「そうかな。でもだって、店の前でも言っただろ?」
ヘルドリマーという名前らしい、角平声の謎の人物は、沙穂に手を差しだしてくる。沙穂は少し躊躇ったが、結局その手を握り返した。
「沙穂ちゃんがいれば、そこは俺のいる世界だ。だから何も驚くことなんかないんだよ」
『ククク……豪快だな。だが脅えて使い物にならないよりは、ずっと良い』
二つの人格を併せ持つらしいヘルドリマーは、傍目に見ていると何だかひとり芝居をしているようで、とてもややこしい。彼は腕を引いて沙穂を立ち上がらせると、自分の胸に手を置いた。その掌にぼんやりとした光が宿り、やがて一振りの真っ赤な剣に変化した。
『俺の魔剣、タイブレードだ。あの手の奴には拳は効果が薄い。叩き斬ってやるがいい』
「ああ、分かった。何でもやるさ、数学以外ならな」
噛みつこうとしてくるソバウドンを、真紅の刃で切り裂く。捕縛しようと迫る触手を軽々とかわし、まるでテニスラケットを振り回すように得物を薙いだ。
「ザウザウザウルスー!」
巨大な口から放たれた火炎弾を剣身で受け止める。そして片足で前に踏み込み、タイブレードを突き出す。剣先がソバウドンの顔面を貫通し、野太い悲鳴が薄闇にこだました。
「……危ない! 沙穂ちゃん!」
角平の声が沙穂の名を荒々しく呼ぶ。慌てて身構えると、いつのまにか背後に回り込んでいたソバウドンの触手が沙穂に迫っていた。沙穂が咄嗟に身を引くと、ヘルドリマーは右腰から銀色の鎖を発射した。鎖は沙穂を狙う触手にちょうど絡みつく。それから彼はまるで素振りでもするかのようにタイブレードをその場で大きく振り回すと、刃から迸った黒い衝撃波が触手ごと敵を切り裂き、跳ね飛ばした。
「悪いけど、沙穂ちゃんには指一本触れさせねーよ」
頭上高くまであげた腕をまるで地面に叩きつけるように力強く振り下ろす。今度はスマッシュだ。ソバウドンたちはいくつもの悲鳴を轟かせながら水の中に墜落していった。
『少年、右手で空間を掻くがいい。ここから出るぞ!』
「掻く? よくわからないけど……」
ヘルドリマーは剣を左手に持ち替えると、右手を縦に振り、宙を引っ掻くようにした。すると闇が剥がれ、空中にぽっかりと穴が生まれた。
その裂け目の向こう側から。
「バルゥゥウウウウ……」
沙穂にとっては耳馴染みのある、正義の雄叫びが聞こえてきた。
「ライッ! バルッ!」
ソバウドンが生み出した世界に漆黒の戦士、ライバルが乱入する。彼は右手に掴んでいた恐竜の生首を水面に叩きつけると、力一杯踏みつぶした。陶器が割れるときのような甲高い音がくぐもって響き、細かな破片が飛散した。
「ライバルだと……ザウルス! まさか、この世界にまで!」
『おお、まさか主の方が来るとは。ヘルドリマーにはそんな力もあったのか……』
「ライバル!」
水中から顔を覗かせたソバウドン、ブレザー、沙穂が三者三様の反応を見せる中、ヘルドリマーを纏う角平だけが無言で、何かを推し量るかのようにライバルを見ている。ライバルもまたヘルドリマーに視線を向けると、小さく顎を引いた。
「まさか俺の分身を全て殺したというのか? 足止めにもならないとは……。ならば!」
触手のベッドの陰から、加勢すると言わんばかりにまたしてもソバウドンたちが現れる。今度は五体、六体というレベルではない。軽く数えてもゆうに十体は超えていた。
「ザウルス~俺たちの総攻撃でぶちのめさせてもらおうか!」
「バルゥ……」
強気に言い放つソバウドンを前に、ライバルの腹部が強烈な光を発した。黄金のバックルが薄闇を吹き飛ばすような、力強い輝きを放つ。
「ライッ、バルッ!」
そしてライバルの残像が彼の右側、左側に現れたかと思うと、それらは直後に実体化した。さらにその現象は二回、三回と繰り返され気付けば、体の色から、腰にぶら下げたお守りから、細かい部分に至るまで全く同じ姿をした大勢のライバルが並び立っていた。
「バルッ」「バルッ」「バルルッ」「バルッ!」「ライバル!」
「ザウルス」「ザウルス!」「ザウルス!」「ザウルス~俺を相手に数で攻めようとはな!」
大勢の生首たちと、ライバルの集団とが正面から激突する。それは眩暈のするような光景だった。まるで複写したかのように、全く同一の外見をもつ者の集団だ。さらにそれが双方ともなれば惨憺たる有様だった。見ている側としては、どちらが優勢なのかも把握できない。たくさんのライバルが右の掌から伸びる刃を振るい、ほぼ同数のソバウドンたちが炎を吐き、触手を放つ。いくつも重なったお守りの鈴の音が、けたたましく響く。
「沙穂ちゃん、行こう。今のうちにここから出よう」
水中から復帰したソバウドンたちを鎖と剣でいなすと、ヘルドリマーは沙穂の手首を掴んだ。沙穂は『かわかみ』のおばさんのことが気にかかった。彼女をここに残していくのは抵抗がある。何とかならぬものかと振り返り、そして沙穂は目を丸くした。
触手のベッドの傍らに、いつの間にか男が一人立っていた。その丸顔に黒縁のメガネは間違いなく『かわかみ』の主人だった。
主人は切迫した表情を浮かべていた。いつもの優しげな笑みはそこにはなかった。「やめてくれ、やめてくれよ! そいつらがいないとダメなんだ! 俺の夢がもう少しで叶いそうなんだ!」と今にも泣き出しそうな声で喚いている。さらに沙穂のことを見つけると縋るように手を取り、両膝を地につけて拝むようにした。
「お願いだ。あいつらを止めてくれよ。俺たちにはあの恐竜たちが必要なんだ! 妻だってそれを望んでるはずだ! だから、頼む!」
「おじさん……」
顔をくしゃくしゃに歪めて懇願してくる主人を、沙穂は自分でも驚くほど冷めた気持ちで見つめていた。これまで主人と交わした言葉、その表情の全てが粉々になり、虚空に散っていく。沙穂は心に強烈な喪失感のようなものを覚えた。妻と二人で夢に向かって走り続けている男は、もう沙穂の中に存在しなかった。
隣に立つヘルドリマーは何も言わず、主人を見下ろしている。だがその手に力がこもるのを沙穂は掌で感じていた。
「ザウルス! そうだ。あの男には俺が必要なんだ。奴の夢のために俺たちは客を招いてやったんだぜ? 朝になればあいつは俺たちのことを忘れるんだ。女も今のところは元に戻る。まだ平気さ。だからよ、夜くらい夢をみせてやろうぜ?」
「……うるせぇよ!」
側に寄ってきた饒舌なソバウドンを殴りつけ、バランスを崩したところを剣で切り裂くと、ヘルドリマーは主人の腕を乱暴に掴みあげた。そのまま浅瀬に力づくで引き倒す。
「その手で沙穂ちゃんに触れるな。あんたが叶えられる夢なんて、何もない。あんたもこいつらと同じ悪魔だ!」
ヘルドリマーは冷たく言い放つと、一体何が起きたのか分からないというような表情を浮かべている、全身びしょ濡れの主人を一瞥した。それからライバルの猛攻から逃れてこちらに迫ってくるソバウドンの群れに体を向ける。
『ククク、雑魚どもめ。まだ力の差が分からぬとは笑止! 退散前に薙ぎ倒してやるか』
くるりと手首を返し、ヘルドリマーはタイブレードの切っ先をソバウドンの群れに突きつける。すると黒一色だった全身が、まるでペンキを頭から被ったように黄色く変化した。剣の柄を引くと体の周囲に火花が散り、光の螺旋が刃全体を包み込む。
『ククク。悪しき夢よ、究極の闇の前に跪くがいい! 雷撃のフォーメーション!』
「サンダー・タイブレイク!」
二つの声が重なり、ヘルドリマーはエネルギーの充填した剣を横一閃した。宙を切り裂く衝撃はじぐざぐに走る黄の波濤となって、ソバウドンたちを薙ぎ倒した。
「バル!」「バル!」「バル!」「バルル!」「バルーッ!」
そして――ヘルドリマーの攻撃を浴びたソバウドンたちの行先には、ライバルの集団が待ち受けていた。大勢のライバルたちの左拳が一斉に真紅の閃光を放つ。まるで弾丸のように、もしくは大気圏を貫いて落ちてくる流星群のように、彼らが落下してくるソバウドンに突っ込んでいくとその度に砂煙の中で無数の悲鳴が轟いた。
「やめろーッ!」
視界が赤と黄の光によって埋め尽くされていく中、店主の絶叫が洞窟内に反響する。沙穂はそっと目を閉じ、沸き上がる虚しさを腹の底に封じ込めた。
5
夏の気配が迫る夜の公園には、独特の空気が流れている。何かの始まりを予感させるような胸の高鳴り。何だか理由も分からずそわそわしてしまう。そんな、童心ともとれる気持ちがまだ自分の中に残っていたことを、沙穂は嬉しく思う。
ベンチに座り、木の陰から聞こえてくる蝉の声にぼんやりと耳を傾けていると、腿のあたりに身じろぐ気配を感じた。首を曲げて下を見ると、角平と目が合った。沙穂が微笑むと、彼は頬を紅潮させて向かい側にある自動販売機に視線を移した。
「おはようございます。お目覚めはいかがでしょうか?」
「最悪だ。誰かが膝枕してくれてるせいで。よくこんな恥ずかしいことできるよな」
「じゃあ、止める?」
「……いや、もう少しこのままがいい」
そっぽを向いたまま、角平はぼそりと独り言のように呟く。沙穂もまた煌々と地面を照らしている自動販売機の方に顔を向けた。
「びっくりしたよ。いきなり気分が悪いって言うんだもん。うどん食べそびれちゃった」
「そっか。心配かけてごめん」
時折、遠くから車の走る音が聞こえてくる。園内には通りがかる人もおらず、周囲は静けさに満ちている。静寂に温もりを感じるのはおそらく、膝の上の感触のせいだろう。
「……俺さ、夢見てた。怪物が出てくる夢。なんか分からないけど俺、変身ヒーローになってそいつらと戦ってた。笑っちゃうだろ? この歳になって」
角平はどこか遠くを見るような目をしながら、自嘲するように笑った。沙穂は喉まででかかったものを呑みこむと、彼の耳たぶを指で軽く弾いた。
「そうなんだ。頑張ったね」
「でさ、その怪物を操ってるのがうどん屋の親父なんだよ。怪物と共謀して、奥さんの体を使って夢を叶えようとするんだ。俺、それ見た瞬間、許せないって思っちゃってさ。すっごくむかついた。多分、沙穂ちゃんからあのうどん屋の夫婦のこと聞いてたからかな」
結局、あの後おばさんは病院に搬送され、店主もそれに付き添ったため今日は店じまいとなった。おそらくしばらくは休業となることだろう。店の前でうなだれていた主人の姿は、沙穂の目に焼き付いている。これからは悪夢に踊らされることなくさらに腕を磨き、夢を叶えて欲しいと思う。『かわかみ』のうどんの美味しさは本物なのだから。
「……どんなことがあってもさ、好きな人を傷つけるなんてダメだよ、絶対。そんなの悲しすぎるじゃん。だったら俺、一生夢なんか見つからなくていい。今のままでいいや」
それは角平の本音なのだろう。彼は初めて会った時からそういう人間だった。自分の夢よりも、今、確かにある絆を大切にするという答えはとても彼らしい。
「うん。かっくんがどんな夢を持つか分からないけど。でも私は応援するよ。ずっとね」
沙穂は角平の頭を少し強く、わしゃわしゃと撫でた。睨みつけてくるのを笑顔で受けると、今度は額の生え際を指先でなぞってやる。すると彼はまんざらでもなさそうな表情を浮かべ、沙穂にすべてを委ねるように目を閉じた。そうして絆を確かめ合い、紡ぎ合う時間を、沙穂もまた愛しく思う。
「お腹減ったね。今日は夕飯、うちで食べようよ」
「いいよ。沙穂ちゃんと一緒なら、俺は何でもいいや」
今日は何が食べたいのだろう。胃袋にそっと尋ねてみる。だが答えを聞かずとも、今の自分の体が一体何によって満たされるのか、沙穂はすでに分かっていた。
※誤字が見つかったため修正しました。
「デスメアード・ファイル」
ソバウドン・メアード
属性:土
AP4 DP1
身長:45cm 体重:30kg
【基本スペック】
領域(Lv3+。メアード空間を展開する。選択した対象のみを引きずり込める)
弾性(肉弾攻撃によるダメージを軽減する)
浮遊(宙を浮くことができる)
【特殊能力】
人間からソバエネルギーを吸収し、うどんのだし汁を生成する。だし汁には中毒性がある。
【DATE】
うどん屋『かわかみ』に昔置かれていた、招き猫の成れの果て。鳴き声は「ザウルス」
恐竜の姿をしているのは、「猫なんかじゃ客が入るはずもない。もっと強い動物……例えば恐竜になれたら!」という生前の思いから。
店を愛し、店主のことを気にかけていたがゆえ、かなり暴力的な行動に移ってしまった。自分の姿を人間から隠すことができるが、沙穂には見抜かれた。