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6話「君の夢、食べちゃうぞ」

 そのウッドフローリングの床には夢の欠片が散らばっていた。

 大学の講義室を思わせる階段状に配置された長テーブルと、数式の書かれた巨大な黒板が目を引く。ここは『金成塾』という中高生向けの塾だった。全国的に展開していて、テレビのコマーシャルなどでもその名前を耳にする機会は多い。指場校はスーパーマーケット『スーパー青柳』に隣接した、比較的駅に近い場所に建てられていた。

 今の時間は休憩時間のようだ。教室内に講師はおらず、生徒たちの喋り声でひどく騒がしい。『金成塾』は教室ごとにコースが分かれているが、ここは受験を控えた中学三年生を対象にした『高校受験コース』の教室だった。

 夏休み前の教室に通う生徒は大きく二つに分けられる。まずは現状に切迫感を覚えている、または塾にいる時間だけは勉強に集中しようと決めている生徒だ。彼ら彼女らは休憩時間でもテキストに視線を落として難しい顔をしている。

 もう一方は現状を楽天的に考えている、または惰性で塾に通っている生徒だ。成績の下落、またはこれまで遊びまわっていたことを理由に親に無理やり通わされているような者もこちらに含まれる。こちらに属する者たちは、わずかな休憩時間を最大限謳歌しようと大声をあげて友達同士ではしゃいでいる。

 全体の比率は3対7といったところだろうか。しかし時間を追うごとにその比率は変動し、年明けにでもなれば前者が後者を上回るだろうことは火を見るより明らかだった。

 チャイムの音が休憩時間の終わりを告げる。はしゃいでいた生徒たちは渋々と自分の席に戻っていく。席に座ってテキストと睨めっこをしていた生徒たちも、顔をあげ、教壇の方を見た。

 それから五分ほどして教室のドアが開いた。教室内はまだ生徒たちの声でざわついていた。いつもの光景だ。チャイムが鳴り、教室のドアが開き、講師が黒板の前に立っても、まるでそうすることが自分の使命であるかのように、お喋りを止めない生徒は多い。講師が咳払いをし、話し始めるとようやく彼らは口を閉じるのだった。

 だが、今回ばかりは少し様子が違った。

 ほどなくして一人、また一人とお喋りを止め、それから十秒もしないうちに教室内は静寂に包まれた。生徒たちは皆口をぽかんと開け、唖然とした表情を浮かべている。

 ドアをくぐり、教室に入ってきたのは講師ではなかった。そもそも人ですらなかった。

 純白の仮面で覆われた顔には目や鼻はなく、三日月を横に倒したような形の裂け目が刻まれている。首は少し長く三十センチ近くある。全身の色は青みがかった白で、皮膚はざらざらしている。さらに体のあちこちには奇妙な幾何学模様が描かれている。両肩とつま先からは生物の牙のような突起物が伸びている。

 人としての特徴を残しながらも、明らかに人から外れたそれは怪人だった。怪人は「うふふ」と愉しげに笑うと、困惑し、恐怖する生徒たちをぐるりと見渡した。

「新鮮な夢の匂いがするぞ。うふふ……いいねぇ。さあて、お楽しみの時間だ」

 怪人が少年のような声を発すると、その顔の裂け目から、先端の割れた真っ赤な帯が現れた。舌はだらりと垂れさがり、振り子のように左右に揺れている。生徒全員の目が、魅入られたかのようにその動きを追っていた。

 そして不思議なことがおこった。教室にいるおよそ三十名の生徒の体内から艶のあるナスが次々と飛び出したのだ。ナスは白い光に包まれながら生徒たちの頭上に浮き、生徒たちはまるで魂を抜かれたかのように、虚ろな目をしている。誰一人として言葉を発することのない教室内は、不気味な静けさに包まれていた。

「うふふ。今日は豊作のようだね。さーて、煮て食おうか焼いて食おうか……」

 怪人が唾を呑みこんだその時、あまりに唐突に周囲の景色が塗り替わった。フローリングの床は荒野に変わり、天井は消えて灰色の空が頭上に広がる。色とりどりの飴玉が空中を飛び去って行った。生徒たちはまるで倉庫にしまわれたマネキンのように並び立っている。やはりその表情には誰一人として生気がなかった。

「バッルバルー!」

 鈴の音が跳ね、雄叫びが響き渡る。突然現れた漆黒の戦士、ライバルは怪人目がけてとび蹴りを繰り出した。

 つま先に胸を穿たれ、怪人は後ろに押しやられる。着地したライバルは左手首を軽く振ると、深紅の目を輝かせて構えた。

「君がライバルかー。ということは、僕が次の標的に選ばれたというわけかい?」

「バルッ!」

「……そっか。それは残念だ。だけど僕はここで死ぬつもりはないよ」

 怪人が右手を前にかざすと、青い衝撃波がライバルを襲った。ライバルが横に跳ぶと、地面が水飛沫とともに砕け散る。怪人は最前列に立つ男子生徒に顔を向けた。すると次の瞬間、怪人の顔がまるで粘土をこねるようにぐにゃぐにゃと変質し始め――やがて目の前の男子生徒と同じ顔になった。男子生徒はゆっくりと頭をあげ、虚ろな表情のまま自分と同じ姿をした存在と向き合う。

「ライバルをここで引き留めて。そうすれば受験に合格できる。楽しい高校生活が待ってる。女の子にもモテモテだよ!」

「楽しい高校生活が待っている。受験にも合格できる。女の子にももてもて……」

「ああ、その通り。欲しいでしょ? ならちゃんとしなくちゃ。自分を信じるんだ」

「ちゃんとしなくちゃ。自分を信じろ……」

 怪人が喋りかけると、男子生徒は操られるように口を動かし、復唱する。その目が赤い光を灯す。やがて男子生徒はライバルに顔を向けた。そして早歩きで接近し、いきなり殴りかかる。「バルッ!」と声をあげ、ライバルは背後に跳んだ。

 男子生徒は中学生離れした機敏な動きで追いすがってくる。繰り出される回し蹴りや右フックを、ライバルは必死でかわし、受け止める。その様子を怪人は楽しげに眺めていた。その顔は元の純白の仮面に戻っている。

「相手をしてあげなよ、ライバル。遊んでいる間に僕は僕の夢を果たすけどね」

 怪人の左手が光に包まれる。その手で宙を鋭く薙いだ。すると空間が切り裂かれ、何もない場所に裂け目が出現する。ライバルは男子生徒の猛攻を受けながら歯ぎしりをした。

「惜しいねぇ。残念だけど、僕にメアード空間は効かないよ」

 生徒たちの周囲を浮いていたナスが動き出し、怪人のもとに集まっていった。怪人は二十数個のナスを両手に抱えると、空間の裂け目に半身をうずめた。

「うふふ……じゃあね、ライバル。みんなの夢は美味しくいただかせてもらうよ」

 怪人は嘲笑すると、ライバルのメアード空間から脱出した。ライバルは追いかけようとするがそれを赤い瞳をした男子生徒が阻む。デスメアードが相手なら拳を振るうこともできるが、人間相手となればそういうわけにもいかなかった。男子生徒はライバル蹴り飛ばした。床に背中を強く打ち付けたライバルは立ちあがると男子生徒から距離をとり、苦しげに呻きながらメアード空間を解除した。

 空が消え、荒涼とした大地が失せ、元の教室が帰ってくる。教壇には怪人はもちろん、講師の姿もまだない。しかしそこにいる生徒たちの表情は一変していた。

 彼らはテキストを机の上に投げ捨てると、「なんでこんなところにいたんだろ」「意味ないよな、こんなとこいたって。時間もったいねー」「おい、カラオケでも行こうぜ。勉強なんか無駄だよ無駄」と口々に漏らし、教室から次々に出ていく。入れ違いに現れた講師は目を丸くして彼らを引き留めようとするが、彼らの足が止まることはなかった。

 後にはライバルを襲った男子生徒だけが残った。唖然と教室内を見回す講師と二人で困惑している。先ほどまでの騒がしさが夢のようだった。

ライバルは外から窓ガラスごしに、教室内を眺めていた。校舎の陰に隠れ、くんくんと鼻をひくつかせる。しかし先ほどの怪人の気配は察知できないようだった。

「バルッ……!」

 悔しげに呻き、ライバルは校舎を拳で叩く。その表情は悔恨の情に歪んでいた。


 空に星がぽつぽつと現れる頃、沙穂は白塗りの建物の前に立っていた。隣には友達の宮本奈々もいる。三十個以上メガネを持っていると豪語する彼女は、今日は青い水玉模様のフレームのものを掛けていた。それもまた彼女によく似合っている。

「ここかー。思ったより小さいんだね」

「うん。私、ライブハウスってはじめて! なんかわくわくするね!」

 建物の入り口に貼られたポスターを見つめ、奈々は目を輝かせている。

 国道から一本外れた、車がすれ違えないほど細い通りにライブハウス『VERSUS』はあった。こぢんまりとした建物で、周りにはコンビニとイタリア料理店、ラーメン屋がぽつりぽつりとあるだけだ。二人は今、このライブハウスの前に立っていた。

「私はフライドポテト三兄弟以来かな……」

「フライド? なにそれ」

「そういうバンドがあってね、格好いいの。フライドポテト三兄弟のドラムはサニーレタスでね、ギターはプリン・ア・ラ・モードなの」

「そ、そうなんだ……」

 そうなんだよ、と返事をしながら沙穂は腰に巻いた黒い上着の袖を軽く引っ張った。その上着がびくり、と軽く震えたように見えたのはけして目の錯覚ではない。沙穂は雨で気温が下がることを考慮して一枚余分に着てきたが、やはり持て余して、しかし手に持っているのも邪魔なので仕方なく腰にそれを巻いているという風に周囲から見られなければならなかった。万が一にも、このブレザーが独りでに動き回り、自分の意識を持って喋るなどと悟られてはならない。

 約束は覚えてるよね、という意味をこめて二度、三度と上着の表面を指先でなぞる。上着は了解を示すように袖をぶらぶらと揺らした。

「大変だよ沙穂ちゃん! もう始まってる!」

 ポスターに書かれている開始時間を見て、奈々は素っ頓狂な声をあげる。開始は七時からだ。沙穂が腕時計を確認すると、確かに時間をもう過ぎていた。

「ああ。大丈夫だよ、なっちゃん。こういうところは出入り自由だから。ローラの出番はもうちょい先だしね」

 ローラ・クヌーガは沙穂の友達だ。奈々とも顔なじみである。大学のサークルを通じて出会い、すぐに仲良くなった。その名前から分かるようにヨーロッパ系の外国人だが、日本語を片言で喋ることができ、日本のことにも詳しい。彼女は学校外でバンドを組んでいるらしく、ライブをやるというので今日は招待されたのであった。

 今日のイベントには八組のバンドが参加するらしく、ローラの出番は八時半からだった。時間にはまだまだ余裕がある。入り口付近には参加者なのか客なのか分からないが、大勢の人がたむろしていた。国道沿いを歩いていそうなサラリーマンみたいなのもいれば、顔のあちこちにピアスをつけた、ちょっと近寄りがたいようなのもいる。

「でもまぁ、とりあえず中に入ろっか。他のバンドも見てみたいし」

「そうだね。私、この『アクアマリーン』ってやつが気になってるの。全員女の子なんだって!」

「私は『コンブツユ・スター』かなー。全員、海苔の佃煮なんだって」

「……佃煮? 男とか女とかじゃなくて、佃煮? えっ、待って。人ですらないの?」

「だってパンフレットにはそう書いてあったよ。メンバーは全員海苔の佃煮だって。熱いよね。どうやって楽器持つんだろう」

「そうなんだ。音楽の世界は無限大だっていうけど、本当なんだね……」

 奈々は釈然としない顔をする。沙穂は入り口のドアに手を掛けた。中に入ると小さなエントランスが迎えてくれる。楽器を持った人々がところどころで集まり、何かを話したり楽器の練習をしたりしている。狭いスペースは大勢の人でごった返していた。

 奥に両開きの扉があり、その向こうでイベントが行われているらしい。扉の前にはTシャツを着た女性がいて、客からチケットを受け取っている。

「サホ! ナナ! キテくれたんダネ! ウレシー!」

 受付に足を踏み出そうとすると、突然名前を呼ばれた。顔を向けると、そこには大きく手を振りながらこちらに走ってくるローラの姿があった。彼女はなぜか――真っ赤な、それは色鮮やかな陣羽織を着ていた。

「ローラ! なにその服……侍みたい!」

「イエス! サムライ・ロックでござるー。イエーイ!」

 ローラは両手を上げ、くるりとその場で回ってみせる。羽織はとても厚そうで、室内とはいえ六月の気温の中ではひどく暑そうだった。

燃えるようなブロンドの髪に、青い瞳、高い鼻。そんな正真正銘、西洋顔のローラが和服を纏っていると、どうしてもどこかチグハグに映る。しかし満面の笑顔で、まるで明るさを振りまくようにポーズを取るローラを見ていると、不思議なことにそれが彼女のために作られた衣装のように思えるのだった。

「なるほど。ナイスちょんまげ!」

 沙穂が親指を立てるとローラはにんまりと頬を緩め、同じように右手を突き出した。

「Oh! ナイスチョンマーゲー!」

「え、なにその挨拶。私聞いたことない!」

 眉を顰め困惑する奈々をよそに沙穂はローラと手を握り合い、互いの健闘を讃える。その後でローラは奈々の方を向くと、自分の喉元のあたりにある奈々の頭を軽く撫でた。まるで大人と子どものようだ。

「ナナもナイスチョンマゲ―! ナナはいつも小さくてベリーキュート!」

「ロ、ローラちゃんも大きくてかわいいよ! 今日は頑張ってね。応援してるよ!」

 奈々が胸の前で拳を固め、顔を上向かせるとローラは一瞬、驚いたような顔をしてからにっこりと笑みを浮かべた。

「On、サンキュー! オウエン、とってもウレシイ! チカラデル!」

 ローラは感激した様子で奈々の手を握り、ぶんぶんと振り回す。そのあまりの勢いに小柄な奈々はバランスを崩し、転びそうになっている。最後にぶん、と腕を横に薙ぎ払うようにして手を離すと、ローラは沙穂に向けて親指を立てた。

「キョーはタノシンデいってよ! じゃあレンシューあるから、またネでゴザルー!」

「うん、またねー。ござるー!」

 嵐のように過ぎ去る、とはこういうことを指すのだろうか。ローラはくるりと背を向けると、走って行ってしまった。騒がしく自分だけの世界を展開するだけして去っていくのはいつものローラで、すごく彼女らしい。彼女のそんな奔放なところが沙穂は好きだった。

「なっちゃん、大丈夫? 生きてる?」

「う、うん生きてる……いつものローラちゃんだ。服、可愛かったね」

「すごくサムライだったね。いいなー。私の家にもブレザーじゃなくて、陣羽織が来れば良かったのに……」

「なんだと!」

 奈々のものではない、けして聞こえてきてはならない声が抗議する。沙穂は腰に巻いた上着の両袖を力いっぱい引っ張った。「ぐえー」と野太い悲鳴があがる。

「ブレザー? なにそれ」

「ううん、こっちの話」

 周囲が騒がしかったため、奈々にはばれずに済んだようだ。沙穂はよろめく奈々の体を片手で支えた。ローラはと目で追うと、部屋の隅の方でバンドメンバーらしき人たちと合流している。ケースに入ったベースを仲間から受け取り、はち切れんばかりの笑顔を浮かべる彼女の横顔はとても輝いて見えた。

「……ローラね、前に言ってたよ。バンドで成功して、ここよりももっと大きなところでやるのが夢なんだって。今日はそのための第一歩なんだって」

「そっか。だから応援してるって言ったとき、嬉しそうにしてたんだ、ローラちゃん」

「まぁね。でも夢を応援されて嬉しくない人はいないよ、多分」

「うん、そうだよね。私だって嬉しいもん」

「私もそう。やっぱり、夢を叶えるってすごくエネルギーを使うことだから。だから支えてくれる人がいるとやっぱり違うよ。一人より二人、二人より三人」

 沙穂は幼稚園の先生、奈々は小学校の先生。進む道は違うけれど、大きな夢を抱いていることに変わりはない。だが夢は必ずしも希望を生むわけではない。時には絶望に突き落とす引き金にもなり得る。

 そんな時に支えてくれる存在がいるといないとでは大違いだ。夢に溺れ、嘆き、苦しんでいる時にこそ、たった一つの声が大きな励みになる。

「……よし、じゃあそろそろいこっか。なっちゃんご贔屓の、女の子ばっかりのやつ。そろそろはじまるみたいよ」

「沙穂ちゃんが好きな、海苔の佃煮ばっかりのやつもね」

 微笑みを交わし合うと、二人で並んで受付に向かった。緑色の扉に近づいていくたび心臓の鼓動が騒がしく跳ねるのを、沙穂は全身で感じていた。


 寂れた商店街の片隅でそのバーは、まるで身を隠すようにひっそりと営業していた。『営業中』の看板はなく、窓には厚いカーテンが敷かれているので傍目には潰れてしまったようにも見える。だが、それがここのマスターの狙いだった。多く客を入れることは眼中になく、店を気に入り、何度も足繁く通ってくれるような常連客を大切にしていた。そのため煌びやかな外観や過剰な宣伝は必要ない。ただ無表情で町の隅に佇んでいるだけで経営は成り立つのだった。

 店内は猫の額ほど、という諺すら誇張した表現に思えるほどに小さく、そして狭い。五人掛ければそれだけで窮屈になってしまうだろうカウンター席があるだけで、他に席はなかった。

 壁には様々な種類の時計が所狭しと飾られている。カチリ、カチリと針の動く音が無数に重なり合い、厚みのある響きを奏でている。よく見れば時計は全て別の時間を刻んでおり、ここにいると今、自分が一体どの時間に生きているのか分からなくなってきそうだ。

 今夜の客は一人だけだった。墨汁で塗りたくったような黒い体。額に掲げたVの字の触覚。ワイングラスになみなみと注がれたオレンジジュースを、憂鬱な表情で飲んでいるのはデスメアードなら誰もが処刑人、ライバルだった。

「お前が来ると、いつも店が暇になる」

 カウンターの奥から現れたハスキーボイスの怪人が、皿に乗ったサンマの塩焼きをライバルの前に置いた。湯気とともに食欲を刺激する香りが立ち昇っている。

「まぁ、そもそも繁盛しない店だ。だから俺はそれほど気にはしていないがね」

「バルゥ……」

 ライバルはグラスを置くと、カウンターに頬を付けて弱弱しく呻いた。怪人はガラス製のティーポットを手に取ると、飲みかけのグラスにジュースをなみなみと注いだ。絵本に出てくる魔法使いのような三角帽子を目深に被り、頬まで口が裂けているこのデスメアードこそこの店のマスターだった。屋内にも関わらずロングコートを着ている。

「らしくない顔をしているな。どうした。夢見ることに疲れたのか?」

「ライラライ」

 うなだれたまま、ライバルは視線だけをマスターに向ける。マスターはティーポットをカウンターの内側に引込めると、コートのポケットからピーナッツを取り出した。

「何でへこたれているのかは知らないが、そういう時は他の誰かに手を貸してもらうのもいいんじゃないか?」

「バル?」

「夢に向かって一人で突っ走るのも悪くはないがね。そもそも俺たちはそういう存在だしな。だけど一人で塞ぎ込んでいるときは、助けを借りるのも悪くない。突破口は案外、そういうところにあるもんだ」

 まぁ、俺はお前に力を貸すつもりはないがね。そう言ってマスターはピーナッツを口に放り込んだ。ぼりぼりと砕く音が狭い空間に響く。店内にはBGMとしてクラシックが流れていたが、音量は小さく、空気に薄く広がって溶けていくようだった。

「バルバル……」

 ライバルは顔をあげると、要領を得ない表情でマスターを見つめた。サンマの湯気が黒い頬を撫ぜる。青い振り子時計がきりのいい時間を知らせる鐘の音を鳴らした。

「俺の顔を見つめてないで早く食えよ。知り合いの漁師が、今朝釣ってきたばかりの新鮮な魚だ。うまいぞ。俺のお墨付きってやつだ」

 マスターは醤油瓶を差し出しながら、にやりと口角を上げる。ライバルはしばらくきょとんとしていたが、やがておずおずと手を伸ばしてその瓶を受け取った。


 ライブ会場は眩暈がするような熱気に包まれていた。

観客たちの唸り声。鳴り響く楽器の音色。暗闇の中で明滅する極彩色のライト。

 畳み掛ける音、匂い、光、熱。その全てが夢心地で、非現実的だ。

この会場にはスタンディングの席しかないようだ。総立ちになった観客たちは両腕を上げ左右に振りながら、体全体を使うようにして飛び跳ね、叫んでいる。まるで集団そのものが巨大な生き物であるかのようだ。遅れて入ってきた沙穂は会場の後ろの方から、まるで催眠術にかかったようにはしゃぐ人々を眺めている。何だか扉を境界線として、別の世界に迷い込んでしまったようだ。

 今ステージで演奏しているのは男性三人、女性三人からなるロックバンドだった。ボーカル、ギター、ベース、ドラム、キーボードに加えて、濃い顔立ちの男がマンドリンを掻き鳴らしているのが特徴的だ。皆、楽しそうに演奏している。見ている沙穂も何だか楽しくなってきて自然に体が動いてしまう。他の観客たちもおそらく同様なのだろう。

 腰に巻いた上着もリズムに乗って袖をばたつかせていたが、沙穂はあえてそれを咎めなかった。他人の腹に巻かれた衣類に気を留める人が、この熱狂の最中に存在するとは思えなかった。それに沙穂自身も体を揺らしていたので、上着の袖がある程度動いていたとしても何ら不思議ではないはずだ。

 細かいことは考えるのは止め、沙穂は周りと一緒になってライブを楽しむことにした。隣では奈々がその小さな体を精一杯に使って飛び回り、絶叫している。「きゃー、糠漬けー!」と意味の解らない奇声を発しているので、沙穂もそれに倣った。

 しかし、いつだって異変は突然にやってくる。まるで腕のいい泥棒のように足音をたてず、ノックもせず、知らず知らずのうちに日常の中に忍び込んでくるものなのだ。

 ステージの方から大きな物音がしたかと思うと、急に演奏が止んだ。まるでテレビの主電源を落とさず、コンセントケーブルを引き抜いて画面を消したかのような唐突さだった。

 会場は何事かと騒然となる。今の今まで観客たちの心を掴んでいたバンドメンバーたちも、あたりをきょろきょろと窺い困惑しているようだ。

隣で奈々が「どうしたんだろうね」と小声で囁いた。沙穂は眉を顰め、背伸びをしてステージを覗きこみ、状況を把握しようとする。

「やあやあやあ、みんな美味しそうな夢を持っていそうだね」

若い男の声が狭いフロアに反響した。ステージ上に新たな人影が現れる。白色のスポットライトによってその全貌が明らかになると、次の瞬間、会場は凍りついた。

 つま先と肩から生えた鋭い突起。全身に描かれた幾何学模様。顔には目も鼻も口もなく、三日月形の大きな亀裂だけがぽっかりと浮かんでいる。それは明らかに人間とは違う生き物だった。

 コスプレや過激なボディペイントの類ではないことを、沙穂は直感で悟る。同時に腰に巻いた上着が「メアードだ!」と叫びをあげたことで、さらに確信した。ライブに乱入してきたデスメアードは人々が感情を表す前に、その顔面に刻まれた裂け目から赤い帯のようなものを出現させた。帯はゆっくりと、まるで振り子のように左右に揺れた。

 次の瞬間、会場にいた全員がまるで調子を合したように一斉にうなだれた。その体から小振りなナスが飛び出し、頭上に浮き上がる。無事だったのは沙穂だけだった。腰に巻いていた上着が独りでにほどけて離れ、宙を舞い、大きく広がって沙穂の視界を覆ったのだった。それは胸に狼のエンブレムのあるブレザーだった。

 そして沙穂以外は、隣に立っていた奈々もステージ上の演者も、名前も知らない観客たちも、まるで魂が抜けたように頭を垂らしたまま固まってしまった。

 会場は一瞬で沈黙に鎖された。誰も声を発さず、どの楽器も音を奏でることのないフロアはまるで光の届かない深海のようだ。

「危なかったな小娘。あの顔から下がった帯に何か仕掛けがあるらしい」

 ブレザーは沙穂の背後に回り込むと、肩にふわりと着地した。ステージ上に立つデスメアードは顎に手をやり、長い首を傾げた。

「ふぅん。メアードが紛れていたのか。でも人の夢を邪魔しようだなんて、あまりいい趣味じゃないよね」

「ククク……誰からも理解されず、誰からの支配も受けないが俺様のキャッチフレーズだ」

「一体、なっちゃんたちに何を……」

 声を震わせ沙穂が尋ねると、デスメアードは「うふふ」と笑い声をたてた。傍らに立つベースを肩から提げた男の頭上から、ナスを手に取る。

「安心していいよ、殺しちゃいない。ただ夢をいただくだけさ……こんな風にね」

 デスメアードは右手に掴んだナスをその顔面の裂け目の中に放り込んだ。シャリシャリと音が聞こえ、「新鮮な夢は生でもいけるね。醤油が欲しいところだけど」とぼやく。

 すると突然、ナスを取られた男は顔をあげると何かに操られるかのようにベースを体から外し、突然床に投げつけた。けたたましい音をたてて跳ね、観客たちの前に滑り落ちたそれを冷たい目で睨みつけると男は顔をしかめ舌を打った。整髪料で逆立てていた髪を手でくしゃくしゃにして解く。

「……ばっからしい。なんでこんなもんに夢中になってたんだ、俺。くだらねぇ」

 男は鼻を鳴らすとステージの上から飛び降りた。そして周囲の様子も全く意に介さず、観客たちの間を縫って沙穂の横を通り、会場から出て行ってしまった。

 つい先ほどまであの男はとても嬉しそうに、四本の弦をかき鳴らしていた。だが彼の相棒は今や無惨な姿となって床に打ち捨てられている。男の急変した態度に沙穂は呆然とする。そして同時にデスメアードの言っていたことを理解した。

「夢を……食べる」

「うふふ、そういうこと。君のももらいたいけど……その前に、お邪魔虫を何とかしなくちゃいけないよね」

 デスメアードは右手を沙穂に向けてかざした。直後、体を衝撃が襲う。「うわぁ!」と叫んだのはブレザーだ。沙穂はうめき声さえあげられず吹き飛ばされ、壁に背中を強く打ちつけた。

 何が起きたのか分からないまま体を起こす。デスメアードが裂け目から帯をだらりと垂らして、こちらに歩み寄ってくる。沙穂はそこでようやく、自分が何らかの攻撃を受けたことに気付いた。立ち上がろうとして、さらに傷ついたブレザーが側に横たわっていることに意識が追いつく。おそらく沙穂を攻撃の余波から庇ったのだろう。

「子犬ちゃん、また……ダメージ加工?」と途切れ途切れに尋ねるが、ブレザーは苦しげに呼吸をするばかりだ。その様子に沙穂は青ざめた。攻撃を受けた振りではなく、本当に負傷しているらしい。

「くっ……ダメだ。体が……どうやら、あの攻撃。俺にとって、効果抜群らしい……」

「そんなどっかのRPGゲームみたいな……」

 ともかく、ブレザーはこうして見る限り身じろぐことさえできないらしい。細い息を吐くブレザーを暗澹とした思いで見つめていると、耳にデスメアードの妖艶な笑い声が飛び込んできた。恐る恐る、声の方向に顔をやる。

「連れないなぁ。僕をもっとよく見てよ。見つめ合おう? そして君の夢を食べさせてよ」

 沙穂は表情を引き攣らせ、壁を杖代わりに立ち上がった。すぐ側にローラの姿を見つけた。相変わらず煌びやかな陣羽織に身を包んでいる彼女であったが、その表情に生気はなくまるで石像のように微動だにしなかった。彼女の頭上にも、他の人々の同じようにナスが浮いている。これがローラの夢なのだと思うと胸が痛いほどに強く締めつけられた。

「ローラ……」

「さぁ、僕を見てよ。痛いことはしないよ。ただ君の美味しいナスが食べたいだけなんだ」

 愉悦に満ちた表情でデスメアードは沙穂に迫る。だがそのしたり顔を横から現れた拳が殴り飛ばした。

 不意打ちにデスメアードは悲鳴をあげて転がった。沙穂は言葉を失い、瞠目した。目の前に漆黒の戦士、ライバルが拳を握りしめて立っていた。

 気が付けば、また世界は変転を遂げている。褐色の大地に赤い空が広がる、無窮の大地。そこに魂を抜かれた大勢の人々が場所を移してそのまま並んでいた。

「バルゥ……」

「ライバル。しつこいなぁ、君も。僕は平和主義者だからさ。戦うのは嫌いなんだ。君みたいな戦うことしかしらない野蛮人と違ってね」

「バルバル!」

 ライバルは助走もなしにデスメアードにいきなり飛びかかった。デスメアードは裂け目の内側から赤い帯を出現させたかと思うと、まるで餌を捕食するカメレオンの舌のように射出した。ライバルは右手でそれを受けると左拳を固め、敵の腹に一撃を見舞った。デスメアードは呻き声をあげて後ずさる。棒立ちの観客たちにぶつかり、何人かがボウリングのピンのように倒れた。

「くうっ……やるねぇライバル。だけど君の弱点は知ってるよ? 忘れてないだろうね?」

 デスメアードは右手をかざすと、その掌中から青色の波動を放った。ライバルは咄嗟に横に跳ぶが波動は上下左右に大きく弾け飛ぶ。結果的にライバルは衝撃に薙ぎ倒された。

 その隙を突き、デスメアードは周囲に立つ人々をぐるりと見回した。するとその顔が、まるでパソコンでたくさんの画像をスライドショーで見たときのように、次々と男女様々な人間の顔に移り変わっていった。その中には奈々のものも含まれていた。数十人の人々の顔を渡り歩いた末、もとの裂け目しかない頭部に戻ったデスメアードは鼻を鳴らした。

「さぁ、みんな。ライバルを引き留めるんだ。君たちならできる。自信を持て!」

 デスメアードが叫ぶと、人々は一斉にライバルに顔を向けた。その目は皆、ルビーの輝きのように紅く染まっている。「俺ならできる。自分に自信を持て」とうなされるように呟き、一同はライバルに飛びかかった。

「バ……バルバルゥ!」

 困惑した声を漏らし、ライバルはじりじりと後退する。その小柄な体目がけて何十もの腕が襲い掛かった。

「ライバル!」

 沙穂と同じ年くらいの少年がライバルの腹に膝蹴りを加えた。かと思うと続けざまに髭もじゃの男性が肩を拳で打つ。さらに少女が脇腹に蹴りを入れ、派手なメイクをした女性が持っていたハンドバックで顔面を殴りつけた。

「せーい!」

 意気揚々と声をあげたのは奈々だ。その瞳もまた深紅に染まっていた。奈々は腕を大きく振り上げたかと思うと、掌でライバルの頬をぴしゃりと張った。水面に小石を叩きつけた時のような、激しい音が響いた。

「なっちゃん!」

 沙穂の声も届かず、奈々はライバルの脇腹に蹴りを打ち込む。その顔は明らかに正気でなく、ぞっとするものが背筋に走った。デスメアードに何かされたことは明らかだった。

 成す術もなく袋叩きにされたライバルはたまらず倒れ込んだ。だが人々は容赦なく畳み掛けてくる。蹴られ、掴まれ、もみくちゃにされるライバルを沙穂は信じられない思いで見つめている。

 化け物を相手に全く怯むことなく、比類無き強さを見せつけてきたライバルがまるで子どものようだった。それも相手はただの人間だ。奈々は少なくとも沙穂よりも体力がなく、少し走るだけでぜいぜいと肩で息をしてしまうような女の子なのだ。ライバルが手も足も出ないとは到底思えない。

「手も、足も……」

 金髪の男に顔面を踏みにじられるライバルを前に、沙穂はハッと気が付く。まさかライバルは手も足も出ないのではなく、手も足も『出せない』のではないのか。彼の夢はこの町の人々をデスメアードという脅威から救うことだ。デスメアードは夢に縛られる、と以前ブレザーが口にしていたのを覚えている。まさかライバルはその夢の性質上、人間に手をあげることができないのではないのだろうか。

「まさか。でも、そんな……じゃあライバルは」

 沙穂の予想の正しさを裏付けるように、ライバルは執拗な暴行を加えられている。腰に掲げたお守りの鈴が悲しげな音をたてる。逃げることも声をあげることもできずにいる戦士の姿に、デスメアードは心底可笑しそうに笑いを零している。

「うふふ……さあて。そろそろ僕は退散させてもらうよ、ライバル。お譲ちゃんの夢もいただきたかったけど、僕は危ない橋を渡らない主義なのさ。命拾いしたね」

 デスメアードは沙穂を指さすと、逆の手で大きく空間を薙いだ。すると中空に切り傷のような大きな裂け目が生じる。その隙間からは薄い光に包まれて外の景色が覗いていた。

「そういえば名乗ってなかったよね。僕の名前はヒプノシス。ライバルから逃れ、夢を叶えるデスメアードさ。覚えておくといいよ」

 ヒプノシスの勝ち誇った高笑いを耳にしながら、沙穂は相変わらず人形のように微動だにしないローラを見やった。夢を応援していると伝えたとき、彼女は手放しで喜んでいた。自分の夢を応援されて嬉しくない人間などいない。そしてそれはきっとデスメアードも――ライバルも、同じであるはずだ。

「……そっか、きっとそうだよ」

 沙穂はいまだに動かないブレザーを見た。それから拳を握りしめる。

「子犬ちゃん。せっかく助けてくれたのに、ごめん!」

 危険だとは思わなかった。無謀だとも考えなかった。躊躇や理路整然とした思考など置き去りにして、沙穂はライバルの元に駆けると、彼を今にも蹴り飛ばそうとする少年に全体重をかけた体当たりをくらわせていた。

 バランスを崩してよろける少年の尻を蹴り、さらに足元に刺さっていたサンマを引き抜いて、叫びながら振り回す。ライバルを囲んでいた人々は、あまりの剣幕に驚いたのか一斉にばらけた。

「いまだ、ライバル!」

 地面に片膝をついた姿勢でライバルはきょとんとしていたが、状況を把握したのか小さく頷くと、人々の間を前転でくぐり抜けてヒプノシスに突っ込んだ。

「バァアルウッ!」

「……いい加減、うざいよ!」

 ライバルの拳をヒプノシスは腕で防いだ。続けざまに鋭い突起の生えたつま先で蹴ってくる。ライバルは右の掌から刃を発生させると、刀身で突起を受け流した。

「バルライ!」

 さらに腰を低くし、片手を地面に着いた格好で左足を大きく振るう。強烈に胸を衝かれたヒプノシスは後ずさり、右掌を前方にかざした。

 ライバルもくるりと受け身をとって起き上がると、相手と同じように掌をかざした。青い波動が両者の手から一斉に迸り、中空でぶつかり合って弾ける。そんな攻防を二度、三度と繰り返したあとでライバルは片足を踏み込み、刃を袈裟がけに薙いだ。火花を散らし、ヒプノシスは短く呻いて吹き飛ぶ。ライバルは刃を振り上げた姿勢で、さらに敵に追いすがった。

 その姿を横目で見つつ一方で沙穂も、ライバルに向かおうとする人々を相手取り孤軍奮闘していた。

「そりゃあっ!」

 サンマの尖った鼻先を地面に引っ掻け、砂埃をたてる。怯んだ人々に両手に掴んだサンマをがむしゃらに振り回した。背中が鈍く痛むものの歯を食いしばって我慢する。傷つきながら戦うライバルを見ていると、多少の痛みは堪えられた。

 土気色の煙によって塞がれた視界の中から、奈々が飛び出してくる。そのメガネのレンズには細かい砂がびっしりと貼りついていたが、彼女の足取りはしっかりとしていた。

「沙穂ちゃんどいて! 私、先生になるの! だからライバルを倒さなきゃ!」

「なっちゃん……」

 瞳を爛々と輝かせる奈々を前にすると、一瞬足が竦んだ。しかし沙穂は強く拳を握りしめ、精神統一をする時のようにスッと息を吸い込むと、顔の前で手を合わせた。

「なっちゃん、ごめん!」

 うりゃあ! と沙穂は叫びながら頭を前に振った。そうして強烈な頭突きを顔面に炸裂させた。がつんと鈍い音が響く。奈々の顔からメガネが飛び、彼女は悲鳴をあげて倒れた。

「ごめんね。この埋め合わせは、ちゃんとするから」

 沙穂はもう一本、サンマを引き抜くと襲ってくる人々を二刀流で攻めたてた。なるべく怪我を負わせないよう配慮しながら、彼らの足を狙う。標的を追うことしか意識のない人々は足を引っ掛けられるとあまりに容易に転げ、次々と地面に折り重なっていった。

「ライバル……」

 沙穂は額の汗を拭うと、漆黒の戦士の方に顔を向けた。

 ヒプノシスの顔に生じた裂け目から赤い帯が射出される。その速度は先ほどとは比べものにならなかった。黒い翳りしか残さない速さで放たれた一撃は、ライバルの胸や腰、足を確実に射抜き、彼の動きを奪っていく。

「バル……」

「うふふ……このまま大根下ろすみたいに削り取ってあげるよ」

 愉快気に笑いながら再び帯を打ち出してくるヒプノシスに、ライバルは腹の前で手を構えた。するとその掌で青い波動が破裂し、ライバルの前方を覆う障壁となって敵の攻撃を防いだ。思いがけない技の使い方に、元々の使い手であるヒプノシスは息を呑んだ。

「まさか、そんな使い方……それは僕の技なのに!」

 苛立ちを吐き捨て、何度も攻撃を繰り返すが結果は同じだった。その鋭く速い帯による攻撃はもう一度としてライバルに通ることはなかった。青く広がる波動越しにライバルの目が赤く光る。ヒプノシスはぶるりと体を震わせると、棒立ちになった人々の方を見た。

「……ちっ、なら人間どもにまた催眠をかけて」

 ヒプノシスの顔の裂け目から帯が垂れ下がる。だがその時、ライバルの腹部に備わった黄金のメダルが燃えるように輝いた。

「バァルゥゥゥ……」

 ライバルは刃の生えた右手を顔の横に構えた。その背後にヒプノシスが帯を高速で射出するイメージが重なる。長い帯も顔の裂け目も持たないライバルは技の速度と力だけをコピーし、自分の持ち得るもので代用したらしい。

「バルゥ!」

 ライバルが右手を力強く前に押し出すと、刃は根元から外れて飛び、まるで弾丸のように宙を切り裂いてヒプノシスの顔面を貫いた。裂け目を真正面から穿たれ、刃によって切断された帯がびちゃり、と液体の滴るような音をたてて足元に落ちる。地の底から響くような悲鳴をあげるヒプノシスの前で、ライバルは胸の目を開いた。

 その左拳がまるで地平線に重なる夕陽のように、赤い輝きを放つ。

「バァルウウウッ!」

 ライバルは跳躍すると煌めきわたる衝撃を、敵目がけて打ち出した。ヒプノシスは無我夢中な様子で、よろけるようにそれを回避する。だがライバルは拳に、さらに青い光を追加した。それは敵から得た力だった。青の波動は拡散し、逃れようとする獲物を確実に捕まえる。使い手や状況を変えようとも、その特性に変わりはなかった。

 空振りした拳から、赤と青の混じった光が放射される。光の渦は混ざり合い、光輪となってヒプノシスの体を追いつめ、切りつけた。

「嫌だ……死にたくない、死にたくない、嫌だ、嫌だ、嫌だ! 怖い! 死にたくない!」

 二色の光はヒプノシスの肉体を蹂躙していく。さながら新聞紙に火をつけた時のように、凄まじい速度で光に呑みこまれていくその体内からまるで血液のように青い液体が流れていく。ヒプノシスはもがき、踊るようにのたうちまわった後で石柱にもたれかかった。

「死にたく、ない……僕は……嫌だ」

 途切れ途切れに発する声は、最後は荒い呼吸によってかき消された。消し炭も残さずヒプノシスは光の粒になって消滅する。同時に沙穂が戦っていた人々も電池の切れたおもちゃのように突然動かなくなり、気を失って地面に崩れ落ちていった。


 交錯する二色の光。腹の底を思い切り突き上げられるような大音量。汗がシャツに吸い付くような熱気。ライブ会場は再び活気を取り戻し、最高潮に盛り上がっていた。

「ローラッ!」

 両手をメガホン代わりにして、沙穂は大声を出す。ステージ上でベースを構えたローラは大きく手を振り、くるりと陣羽織の裾を翻した。

「サァ! まずはイッキョクメ、イクヨ! 『ハイパーサムライロック!』」

 ローラが叫ぶとドラムがリズムを取り、それから破裂するようにギターがベースがキーボードが唸りをあげた。会場が一斉に歓声で包まれる。口元を緩め、頬を赤くして本当に楽しそうに演奏するローラを見ていると、沙穂の胸はときめいた。

 左隣では赤いフレームのメガネになった奈々が、腫れた額を撫でている。彼女には熱狂した拍子に前の人にぶつかって転び、気を失って、その時にメガネが壊れたのだと説明しておいた。彼女はそれで納得してくれたが、沙穂はひっそりと心の中で彼女に謝罪した。

 案の定、彼女やそれ以外の操られた人々、そして夢を抜き取られた彼ら彼女らは、デスメアードが現れてからのことを覚えていなかった。何事もなかったかのようにライブが再開されたときには不気味なものさえ感じたものだが、すぐにそれでいいと沙穂は思い直した。皆、夢を抱きこんなにも強く輝いている。それはとても素晴らしいことなのだから。もうその夢を奪おうとする怪物はいないのだから。

 まだ首のあたりに多少なりとも痛みはあったが、ライバルの助けになれたことを思えば何でもなかった。これで少しはこれまで窮地を救ってもらった恩返しができただろうか。そんな淡い気持ちを抱きながら、沙穂は右隣に目をやる。

 そこにはブレザーの襟を立て、内側に着たパーカーのフードを目深に被った人物がいる。フードと襟の間から覗いた、大きな目は宝石のような美しい赤色をしていた。

 それはライバルだった。いつものように立ち去ろうとする彼を、すぐに他のところに行く用がないならとライブに誘ったのだ。外で見れば変質者のような出で立ちだが、興奮の渦の中にある会場内ではさほど気にならない。ブレザーはまだ少し辛そうだったが、着られるだけならと渋々、沙穂の我儘を承諾してくれた。

 ライバルはマイクを傾けて力いっぱい歌うボーカルを、全身を揺らすようしてドラムを叩くメンバーを、そして汗を迸らせ踊るように演奏するローラを観客たちの隙間から静かに見つめている。沙穂はその横顔に顔を寄せると、会場を見渡した。

「ライバル、これがあなたが守った夢だよ。あなたが守ってくれた人たちだよ」

 通じたのかは分からない。おそらくこれまでの経験からして彼は沙穂の言葉を理解してはいないだろう。しかし沙穂はその言葉を、この光景をどうしても彼に伝えたかった。

 ライバルは沙穂の方を一瞥すると、周囲に視線を運んだ。そして「ライ」と呟き頷くと、再びステージに目を戻した。その横顔は少なくとも沙穂には、満足そうに見えた。

「まだまだいくぜー! ござるー!」

 ローラの上擦った声が会場全体を震わせる。観客たちはそれに答えるように、大声で喚きながら一斉に腕を振り上げた。


遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。巳年ということで爬虫類怪人を出してみました。今年もよろしくお願いいたします。


※誤字があったため修正しました。


「デスメアード・ファイル」

ヒプノシス・メアード

属性:水

AP2 DP2

身長:172cm 体重:50kg


【基本スペック】

領域(Lv1。物音などを周囲に気付かれにくくする)

侵食(他のデスメアードが生み出したメアード結界・空間に出入りできる)

消火(火属性のデスメアードに対して、攻撃力2倍)


【特殊能力】

対象の夢をナスにする。そのナスを食べると対象は夢を失う。また催眠術をかけることもできる。デスメアードには効かない。


【DATE】

洋食店で使われていたフライパンの成れの果て。学生たちが多く集う店で、彼らの夢に満ちた表情を見ているうち、その夢を食べてみたいと思うようになった。享楽的な性格。戦いを好まない。

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