5話「対決! 学校の怪談!」
1
「疾走する人体模型?」
沙穂がそう訊き返したのはパイプ椅子に腰かけ、足元に積まれた商品に値付けをしていたときのことだった。小学生の男の子たちが、まるでマジックショーを間近で観ようとする観客たちのように沙穂の周りをぐるりと取り囲んでいる。奇妙なことを口にしたのは彼らのうち、浅黒い肌をした小柄な少年だった。
「そっ。マジ速いらしいんだよ。追いつかれたら体中の皮膚を剥がされるんだって」
「そんなのより十三階段の方が怖いよ。知ってるか? 昼間は十二段しかないのに、夜になると増えてるんだぜ」
「体育館の裏にある三本杉の方がやべーよ。木が三角形の形に三本立っててさ、前にその木と木の間をくぐった人が、三年後に病気になって死んじゃったっていうぜ。そういうリアルなの苦手なんだよ」
口々に喚く少年たちを眺めながら沙穂は首を傾げる。値付けの器具をテーブルに置いた。
「それってもしかして、学校の怪談ってやつ?」
ここは市内で最も大きなデパート『WON‘s』の一角にある、ささやかなおもちゃ売り場だった。特撮ヒーローのアイテムから流行りのカードゲーム、ゲームソフトまで揃っており、平日の夕方だというのに賑わっている。中でもカードゲームの対戦用に置かれた三台のテーブルは連日大盛況であり、現在も席は全て埋まっていた。
沙穂は数ヶ月前からこのおもちゃ売り場でアルバイトをしている。生活費が必要であるという理由もあったが、幼稚園の先生になるためには、現代の子どもが興味を示すものを知っておくことは大切だろうと考えたからだった。店長の他にはパートのおばちゃんが数人しかいない、気楽な職場である。一番年の若い沙穂はおばちゃんたちからも可愛がられ、またカードやゲームソフトを漁りに来る子どもたちからもそれなりに慕われていた。
「私のときもあったよ、そういうの。学校の七不思議。帰り道にね、出るんだよ……開脚前転するキャミソール姿のおじさんが」
「それは多分違うよ、おねーちゃん! その人は帰りの会で先生が気をつけましょうって注意するタイプのやつだよ!」
「それにうちの学校は七不思議なんて、そんなチンケなもんじゃねぇ。なんと六十三不思議もあるんだぜ? どうだすげーだろ!」
「え、多くない? というか語呂悪くない?」
確かに凄いけど、と沙穂は印字の失敗したラベルを指でこねくり回しながら感嘆する。それだけあったら把握するだけでも大変だろう。
「しかも一年ごとに増えてるらしいよ。おれが五年のときは四十九って聞いたし」
「ロボットに超絶変形するジャングルジムとか、インターネットを駆使する自堕落なメリーさんとか、今年作られたシリーズだよな、確か」
おそらくこの背の高い馬面の少年は『駆使』とか『自堕落』とかいう言葉を意味さえ分からず、ただ聞き伝えられたままの語感だけで口にしているのだろうな、と沙穂は予測した。だが彼らぐらいの年齢ならばそれは普通のことだ。波浪警報や台風一過という単語を正しく理解できている小学生がどれほどいることだろう。
「でもさぁ……最近怪談、減ってね?」
浅黒い肌をした少年が眉を顰めてそんなことを言った。一瞬、妙な静けさに場が包まれ、それからいきなり少年たちは口々に騒がしく喋り始めた。
「そうそう! ここ最近急に減り出したよなー」
「あ、やっぱりそうなの? みんなも思ってたんだ?」
「当たり前じゃん、あんなのおかしいだろ。呪いだよ呪い。学校が怒ってるんだよ」
「でも減ってるんだから、おれたちにはいいことなんじゃないのかなぁ。だって怪談こえーじゃん。増えるよりはいいよ」
「減ればいいってもんじゃないだろ。何で急に減ったのか考えろよ。おれが思うにはさ、怪談よりももっとこえーのがいてさ、そいつが怪談を食ってるんだよ。怪談が尽きたら食われるのは、俺たちの番だぜきっと」
餌に群がる池の鯉のような勢いで会話する少年らを、沙穂は黙って見ていた。
怪談が減っている、とは聞き慣れない表現である。そもそも怪談というものはそれほど容易く増減してはいけないもののような気がした。増えた減ったではなく、人に覚えられているか、忘れられているかでその存在を測るものではないのだろうか。
「なになに? 減ってるって、どういうこと?」
事情が分からずに沙穂が尋ねると、少年たちは一斉にこちらを見た。そして互いに目配せをし合ってから、馬面の少年が「さほのためにおれが説明してやるとさ」と口を開いた。実に生意気な子どもらしい、恩着せがましい態度だった。
「六十三不思議の中に、『夜な夜なプールで泳ぐ口の裂けた子ども』っていうのがあんの。これも結構見た人が多くて、有名な話なんだけどさ。でもこの前の水曜日に学校来てみたらさ、プールが醤油漬けになってんだよ。もう、真っ黒に」
「醤油! なにそれ。なんで? それじゃ泳げないじゃん口の裂けた子ども。刺身じゃあるまいし。……あ、分かった。子どもの正体はホンマグロだったんだね!」
「そんなわけねーだろ! おれたちを馬鹿にすんな!」
「排水溝はコンクリートで固められてたんだってさ。だから今年はプール使えなくなるかもしれないって先生言ってたぜ。プール楽しみだったのに、残念だよなぁ……」
「あと木曜日には学校中のピアノも全部壊れちゃったんだ。何で音が鳴らないのか分からないんだって。これも怪談話に『夜な夜な勝手に鳴り響くピアノ』っていうのがあって。だからこの噂も消滅、ってわけ。新しいピアノがきても、そんな感じにならないだろうし。音楽会の練習してたところだったから、女子なんか泣いちゃう奴とかいてさ。大変だよ」
「あと、ベートベンの絵に眉毛が落書きされてたりね。おかげで全然怖くなくなったけど」
「……それももしかして、『苦笑いするベートベンの肖像画』とかの噂があったりしたの?」
沙穂が言い当てると、子どもたちは一斉に頷いた。冗談めいた顔をしている者など一人もおらず、皆、その目に不安げな光を宿していることが沙穂を動揺させた。
2
おねえちゃん、と声をかけられたのは着替えを終え、デパートから出ようとしていた時のことだった。時刻はちょうど六時をまわったところで、一日の終焉をイメージさせるもの哀しいピアノのメロディが町の空を覆っていた。
徐々に夏に近づいていく空気は熱気を孕んでいる。外はまだ明るかった。アスファルトに射す光の加減は、昼間三割、夕方七割といったところだろう。駐輪場も兼ねたデパート前の広場は混雑しており、目の先に伸びる国道は帰宅する人々で渋滞をおこしていた。
沙穂は始め、自分が呼ばれていることに全く気が付かなかった。先ほど子どもたちから聞いた、あまりに掴みどころのない奇妙な話について考えていたし、人ごみには小さな子どもが母親を呼ぶ声が色々な場所から聞こえてきていた。
顔を上げると、一メートルほど前方で、ランドセルを背負った少年が立ち止まって沙穂の方を見ていた。緑色の野球帽を被った丸顔の男の子だ。足元をみれば茶色いローファーを履いている。左胸に付けた名札には『宇野薫』と名前がある。小学四年生くらいだろう。彼が「おねえちゃん」とホッとしたように言ったことで、沙穂は先ほどから呼ばれていたのが自分であったことにようやく気付いた。
「あの……もしかして、私?」
振り返り、周囲をきょろきょろと窺ってから沙穂は自分の顔を指さした。宇野少年は軽く顎を引くと、「おねえちゃん、ライバルのお友達なんでしょ?」と当然のように言った。
沙穂は言葉を失い、立ち尽くした。まさか買い物客で溢れた午後六時のデパートの前で、あの怪人の名前を他人の口から聞くことになろうとは予想だにしていなかった。
「ライバルが今どこにいるか、分かる? ここに呼べるの?」
困惑する沙穂に、宇野少年はさらに言葉を重ねた。一歩近づき二歩近づき、手を伸ばせば触れられる距離まで歩み寄ってきた彼の表情は固く、切実なものが感じ取れた。
「……ううん。私には居場所までは、分からないけど」
沙穂は宇野少年の言葉を頭の中で咀嚼するようにしてから、ようやく返答した。実際、ライバルがどこから来てどこに去っていくのか沙穂はまるで知らなかった。ブレザーに話を聞けば判明するかもしれないが、この場ではそう返事をする以外になかった。
宇野少年は沙穂の答えに悲しげな目をした。顔を伏せ、暗い顔で「そうなんだ……」と呟くと踵を返して行ってしまった。
「あの……ちょっと、あなた!」
喧騒に紛れていく黒のランドセルを沙穂は慌てて追いかけた。だが、あまりにも突拍子のない展開に頭も体も追いつけず、ほんの数秒であるが立ち尽くしていたのが悪かった。
小さく、寂しげな背中は行き交う人々の波に呑みこまれていった。そして歩道を走ってきた自転車に轢かれそうになっている間に、沙穂は彼を見失ってしまった。
3
家に帰ると塵から戻ったブレザーがカーペットの上に座り、テレビを観て爆笑していた。
座っているといっても単なる上着であるブレザーに下半身はないので、床に寝そべり、胸から上を起こしたような姿勢だ。誰も着ていない服が独りでに動いて、しかも生活を送っているという異様な光景だが、沙穂はもう慣れていた。
ブレザーは「ククッ……クハハハハーッ!」とアニメに出てくる悪の幹部のような哄笑をあげている。テレビの中では最近よく目にするお笑い芸人が、派手なリアクションをとりながら、プールに落下していった。
「ただいま」
「あぁ、おかえり」
簡単に挨拶を済ますと沙穂は持っていたトートバックを床に置き、冷蔵庫からペットボトルのコーラを取り出した。蓋を開けながらリビングに戻ると、ライバルの位置を知ることができるのかブレザーに早速尋ねてみた。
「なんだ、藪からエクスカリバーに」
ブレザーは脇腹のあたりに皺をたっぷりと寄せて振り返ると、妙なことを言いながら妙なポーズを取った。扇風機の風に煽られ、その裾がばさばさと音をたてて揺れている。
「エクス……なにそれ。子犬ことわざ?」
「ククク、邪悪な意思に満ちたことわざだ。骨厄、と書く。『ことぅわざぁ』だ。『デッドマン・カラミティ・スペル』とルビを振る。そんなことより俺が主の居場所を知ることができるか、だと? それに対する答えはこうだ。できるといえば嘘になるし、できないといえばそれもまた嘘になる」
「ややこしいなぁ。日本語で説明してよ、犬語じゃなくて」
「ククッ。これは日本語だ。小娘向きに分かりやすく説明してやるとだな、俺は主の居場所を察知することはできない。だが我が主が他のデスメアードの気配を察知したことを、察知することならできる」
うーんと沙穂は唸った。やはりこのブレザーの話はややこしいというか、まどろっこしい。コーラで喉を潤しながら腰を下ろす。テレビはコマーシャルに切り替わっていた。
「つまりライバルが敵を見つけることができれば、居場所を察知できるってこと?」
「まぁ、そういうことだ。簡単に言えば我が主と俺の感覚は同期しているということだな。だから今は俺も主の居場所を知ることはできない。戦いが始まれば、すぐにでも分かるのだが。そうなればこちらから連絡を取ることさえ容易いがな」
「ふぅん。なんか面倒臭いんだね」
それからさらに沙穂はライバルの存在を知る少年についても話した。ブレザーは特に驚いた素振りもみせず、「まぁ、そんなこともあるかもな」と袖で襟元を撫でながら言った。
「俺たちは夢の搾りかすだ。だから大抵の人間はデスメアードと出会ったことを夢の中の出来事のように認識してしまう。ククク……だが例外もある。お前自身がその証明だろう? お前は我が主のことを現実のものとして捉えていられた。だから同じような人間がいても何らおかしいことはないな」
「そうなんだ。ねぇ、デスメアードってこの町に結構いるの? たとえば小学校とかにも」
「ククク……大量廃棄社会だからな。破れた夢ならそれこそ無限にあるだろう。特に学校なんかには集まりやすいんじゃないか? 特に小学生くらいの時期なんか、思い出のほとんどは学校に関することだろう? 行き場をなくした夢も集まるさ」
ククク、とほくそ笑むブレザーを脇に置いて、沙穂はげっぷをした。再びコーラを口に含みながら、アルバイト先で子どもたちが話してくれた学校の怪談について考える。ひとしきり『怪談が減った』話をしてくれた後、勇敢で好奇心に満ちた少年たちは「俺たちで怪談の謎を解き明かしてやろうぜ」だの「呪われた学校を救おう」だの盛り上がり、夜の学校に忍び込む計画さえ立て始めたが、沙穂はそれを止めさせた。長テーブルを叩いて怒声を発すると、周囲の目が一斉に自分に注がれたので、とても気まずい思いをした。あの時のことを思い出すと、今でも頬が熱くなる。
しかし沙穂はどれほど恥を掻こうとも少年たちを全力で止めなければならなかった。この町で暗躍する怪物の存在を知る者として、それは使命だった。さすがにこの町で生活している以上、「夜は絶対出歩くな」とも言えないし、それにこの町に住むすべての人に注意を呼びかけようなどという大それた考えももっていない。
ただ自分の手の届く範囲――自分と仲良くしてくれる人や、関わった人、知り合った人くらいはなるべく危険から遠ざけたいと思う。ライバルのように怪物と戦う力を持たない、ただの女子大生に過ぎない沙穂にできることは限られているが、それでも自分のできることはやりたかった。
少年たちは「先生なんて怖くねーよ」「もしかして、さほ、お化け信じてんの?」「なにも危なくねぇよ。みんないるんだから。なぁ?」と口々につよがりを言ってきたが、沙穂はそれを一蹴した。「もし学校に忍び込んだりしたら、ドーナツを鼻の穴にねじこんでやる! そしてみんなのカードを破壊する! 物理的に!」と激怒すると、ようやく彼らは大人しくなった。そして夜の学校には近づかず、怪談に不用意に関わったりしないことを約束してくれた。あとは彼らを信じるしかない。
沙穂は部屋着に着替えると、昼に作ったスパゲティの残りをレンジで温め直し、ブレザーの隣に座って食べながら一緒にテレビを観た。お笑い芸人がたくさん出ているバラエティー番組をやっていて、彼らが何かするたびに隣でブレザーが「クハハ、喜劇!」と叫びながら笑い転げた。
テレビに目を向けながらも、沙穂の心は別のところにあった。視界に映る映像がことごとく上滑りしていくかのようだ。デパートの前で出会った不思議な少年の寂しげな、諦めを帯びたあの目が、胸にこびりついて剥がれない。少年の名札を思い出す。そこに描かれていた校章は、怪談が減っているという噂の小学校のものだった。
――おねえちゃん、ライバルが今、どこにいるか分かる?
「……やっぱり、気になる」
沙穂が立ち上がると、ブレザーは胸のあたりを反らすようにして沙穂を見上げてきた。
「ククク……ああ。俺も気になっていたところだ。あの芸人の頭、絶対にカツラだな」
「そんなことはどうでもいい! 子犬ちゃん、学校行くよ。夜の学校。学校の怪談!」
「階段がなんだって? 急にどうした。血迷ったか小娘」
沙穂は不審げな態度をとるブレザーを片手で引っ掴むと、それを羽織って部屋から飛び出した。外に出る直前で気が付き、部屋に引き返してテレビと扇風機の電源を切ってから、改めて玄関のドアを押し開く。「なんだ! どうした! なにがあった!」と騒ぐブレザーの喚き声と、漂ってくる獣臭さを無視してアパートの階段を駆け降りた。外はすっかり藍色の闇によって鎖されていた。
4
午後八時三十五分。小学校の前にたどり着くと、沙穂は息を切らせながらたどたどしくブレザーに事情を説明した。夜闇にそびえたつ校舎は不気味な迫力を背負っている。まるで地から這いずり出た悪魔の影のようだった。静寂に侵された灰色の空気が、学校に漂う薄気味の悪さを助長している。門のすぐ側には大きな切株があり、何の変哲もないそれもなんだか恐ろしいものに思えてくる。
空を仰ぐが、月は見えない。煙草の紫煙のような雲が暗闇に浮かんでいた。
「なるほど。学校の怪談がデスメアードとは……ククク、なかなかいい発想じゃないか」
「他のところなら単なる都市伝説で済むけど、この町じゃそういうわけにはいかなそうだしね。実際にお化けはいるし。うるさくて獣臭いブレザーとか」
「それは最悪だな。ククク、一度お目にかかりたいものだ」
沙穂は飴色をした校門の前に立った。周囲に人気はない。外灯の光が沙穂の影をアスファルトに縫い付けている。
「それに怪談が減っている話も気になる。先生も警察もいたずらで済まそうとしているみたいだけど。もしかしてそれもデスメアードの仕業かも」
「ククク、メアードを減らすメアードか。まるで我が主のようだな」
背中のあたりからブレザーの笑い声が聞こえてくる。その意見には沙穂も同感だった。だが、この学校に潜む者の正体はライバルではないだろう。彼はこの町の人々を守るために戦っている。どんな事情があろうとも、プールを醤油漬けにしたり、ピアノを壊してまわったりするようなことはしない。
「あの男の子も、この学校に夜な夜な現れる何かの正体を知っていて……だからライバルの居場所を知りたがったのかもしれない」
全ては沙穂の憶測でしかないのだが、あながち間違っていないような気がした。橙色の光に頬を打たれた宇野少年の切実な表情が、沙穂に確信を抱かせていた。
「子犬ちゃん、ライバルの居場所が分かったら連絡入れといて。ここに来てくれるように」
「ククク、もう連絡済だ。まぁ戦闘中だろうから、到着がいつになるかは分からないがな」
このブレザー、意外に仕事が早い。感心したその時、沙穂は門にほんの少し、隙間が生じていることに気付いた。戸締りを忘れたのだろうか? 悪戯が連続して起きているような学校で?
その事実に行き着いた瞬間、沙穂は頬がスッと冷たくなるのを感じた。そして気付けば門に手を掛け、押し開けていた。鉄製のいかにも重たそうな門は何の滞りもなく、学校の敷地内への侵入を許した。
「……まさか、もう中に誰かが……」
嫌な想像が過り、沙穂は門をくぐり抜けて校庭に足を踏み入れた。ブレザーが何か耳元で言ったような気がしたが、すでに遅かった。
校庭の土を踏んだその時、沙穂は背筋に強烈な寒気を覚えた。空の色も周囲の景色も、どこか暗澹とした色を纏っているように見える。校門を境界として、別の世界に訪れてしまったかのようだった。
「うわあああああああっ!」
そして困惑し、戦慄し、後ずさろうとする沙穂の鼓膜を――子どもの叫び声が貫いた。
5
校舎の方から聞こえてきた男の子の絶叫は、沙穂の心の底からある映像を掘り起こさせた。それは随分昔、沙穂がまだ幼稚園に通っていたか小学生にあがっていたか、という頃の思い出だった。
白い壁があり、天井があった。薬品の臭いが漂っていた。目の前には揺りかごのような小さなベッドが置いてあり、中には赤ん坊が眠っていた。
赤ん坊は壁や天井と同じくらい、白い顔をしていた。赤ん坊は声をあげなかった。呼吸さえしていなかった。その団子のような鼻や、花弁のような唇が動くことはなかった。その真ん丸な可愛らしい瞳を、もう二度と見せてくれることはなかった。
母親の唸るような叫び声が耳を劈いた。父親が耳の側で何かを囁いてくれた。その言葉の意味を、まだ幼かった沙穂は理解できなかった。
――ねぇ、お母さん。死んじゃったの?
沙穂は我に返ると、校舎に向かって走り出していた。日中、子どもたちによって十分に踏み固められた地面は足裏に確実な感触を跳ね返してくれて、とても駆けやすかった。
「おい、小娘。今度はどうした! 我が主を待たなくていいのか?」
「そんなこと言ってられない……だって子どもが、子どもの叫び声が!」
「落ち着け、デスメアードがいる可能性が高い! そうなればお前のほうが危険だ!」
「幽霊でもなんでもいい! 危険な目にあってるのに、放っておけるわけない!」
ブレザーの忠告を無視し、沙穂は向かって左側にある玄関に近づいた。両開きのその扉も、鍵は開いていた。周囲に音が漏れることも気にせず、がむしゃらに押し開くと、校舎の中に侵入した。両側にはずらりと下駄箱が並び、明かりのないリノリウムの廊下にはさらに薄気味の悪い闇が広がっていた。煌々と光を放つ非常口の誘導灯が、さらにその闇の濃度を深めているように思える。
「……やはりな。この学校にはメアード結界が張られている。それも複数のだ」
「結界? 空間とは違うの?」
「メアード結界は空間とは違い、景色が変わることはない。世界が移り変わることもな。だがここは間違いなく異空間ということだ。ククッ……普通ならお前が侵入した時点で、警備会社に連絡が行っているはずだからなぁ」
「ってことは、やっぱりここにもデスメアードが……」
沙穂は土足のままあがりこむと、周囲をきょろきょろと窺いながら廊下を進んだ。コンタクトレンズの怪人によって強化された視力のおかげで、暗がりの中でもぼんやりとそこにあるものの輪郭を捉えることはできたが、それでも子細な部分は分からないので足取りも慎重になる。「どこ? 助けにきたよ! どこにいるの!」と校舎内に声を響かせながら前に進んでいく。机も椅子も怪談も蛇口も小さくて、まるで全てが作り物のようだった。
その時、どこからかガラス戸を蹴とばしたような、ドン、と鈍い音が聞こえた。「おい、何か聞こえたぞ!」とブレザーが声を荒らげたことで、沙穂は遅れてその音に気付いた。立ち止まって耳を澄ますが、何も聞こえない。少し進むと、図画工作室と廊下を挟んで向かい合っている半開きのドアに目がいった。そこは男子トイレだった。
「あそこ……」
沙穂は唾を呑みこみ、呼吸を整えると、トイレのドアを一気に開け放った。
うわっ、と声がした。沙穂もうわっ、と絶叫した。中にいたのは涙目になり、脅えた顔で沙穂を見上げる宇野少年だった。やはり緑色の野球帽を被っており、名札も胸に付けたままだ。彼はタイルの敷き詰められたトイレの床に尻もちをつき、目を見開いてこちらを見ていた。だがやがて目の前に現れたのが沙穂であることに気付いたのか、脅えた様子は徐々になくなっていった。
「おねぇちゃん? なんでここに」
「良かった……本当に、良かった……」
目の周りは真っ赤に腫れているけど。尻はおそらく湿ってしまっているけど。それでも無事な少年の姿を見た沙穂は、へたへたとその場に座り込んだ。緊張が一気に解け、安堵が両肩にのしかかってくる。一度はすでに殺されている可能性さえ思い浮かべたのだ。
「クク、なるほど。こいつがお前の言っていたライバルを知る少年か」
ブレザーが愉快そうに呟く。沙穂は宇野少年の手を取った。逆の手で頬を撫でてやる。掌に温もりが伝わってくる。それは命の温もりだった。彼の指先からは命の鼓動が伝わってくる。それがたまらなく愛おしい。
「生きててくれたんだ……殺されて、なかったんだ。良かった、良かった……」
目頭が熱くなり、胸の中は激しく震えている。今にも泣きだしそうになる沙穂だったが、その時、突然ドアの軋む音が聞こえてきたので素早く顔をあげた。宇野少年の背後にある洋式便座の個室のドアが内側より、ゆっくりと開かれていく。
やけに緩慢に。まるで焦らすように。軋む音は尾を引いて、その個室は開放を果たす。
ドアの陰から、腰に巻かれた布が見えた。続けて裸の男の肉体が見えた。さらに鳥の頭が現れた。その肩には灰色の手が乗り、腹部には同じような色をした少年の頭部が埋め込まれている。
その、どこかで見覚えのある巨漢は沙穂の方にぐるりと首を向けると低い声を発した。
「ごきげんよう。トイレの紳士でーす」
沙穂は硬直した。少年も口をぽかんと開けたまま固まった。ブレザーも沈黙している。その瞬間、確実に時間は流動を止め、混濁したものが空気中を漂っていった。
やがて沙穂は我に返ると、立ち上がり、宇野少年を自分の背後に隠すようにした。
「紳士なんて嘘だ! あなたは確かトイレメアード!」
「おい待て誰だそいつは! 私はダブルシー=ステキ=メアード! いちごオ・レとトイレを愛する素敵な紳士さ!」
一か月ほど前、沙穂の住むアパートのトイレに現れ、籠城を始めた変態、もといメアード。ライバルの攻撃をかわし、逃げ延びた怪人が今、信じられないことに沙穂の前にいた。
「しかし学校のトイレもまた趣深いものだな。いちごオ・レがよく合う。シャレオツでハイセンスなこの私にはぴったりな場所だ」
つぶらな目を輝かせながら、ダブルシーは暗い天井を仰ぐ。「なんだこの半裸の変態は」とブレザーが小声で囁くので、「見ての通り、半裸の変態だよ。トイレが大好きな」と沙穂は適当に答えておいた。
「とにかく早くここから出よう! 夜の学校は、やっぱり危ないよ!」
沙穂はとりあえずダブルシーの存在を頭から消し去り、早く宇野少年をこの場から逃がさなければ、と思う。少年の小さな手をしっかりと握り、振り返る。すると昏々と広がる薄闇の中に佇立する不気味なシルエットを見つけた。
見つけて、しまった。
そいつはトイレの前で沙穂たちを待ち構えていた。頭部は開いた本、体は丸くて大きな鏡によってそれぞれ構成された怪人だ。大きな金色のリングを背負い、そこに火の点いた蝋燭が七本、環状に設置されていた。下半身は存在せず、腰からはボロボロの布が垂れ下がっている。両腕は骨格模型のようであり、その腕を足代わりにして体を支えていた。
怪人の頭部の本が捲れ、7とSの組み合わさったような文様の描かれたページが現れる。その見開かれた面が強烈な光を放つと、背後で「うわぁ!」と野太い叫び声があがった。
顔を向けると、ダブルシーが腰を捻ったポーズをとったまま硬直していた。やがてその体は光の粒子と化していく。粒子は一つに集まって青白い球体になると、そのまま怪人の頭部に吸い込まれてしまった。それは一瞬の出来事だった。半裸の怪人がつい先ほどまで立っていた場所には、鬱屈とした空間が広がるのみだった。
「『トイレに住む変態』、封印完了。トイレに怪談話はこれ以上必要ない。なぜこの学校にはトイレの怪談が十三個もあるのだ」
「クッ、こいつは……!」
ブレザーが息を呑む。沙穂は宇野少年がさらに強く手を握りしめてきたことを感じた。その掌は汗で湿り、指先は細かく震えていた。顔は青ざめている。沙穂は彼の肩をそっと抱き、「大丈夫。お姉ちゃんがついてるよ」と声を掛けた。
「子犬ちゃん。こいつメアード……だよね?」
「……あぁ、無論だ。しかもこいつとは因縁がある。俺は先ほどのトイレメアードと同じようにこいつに襲われ……封印された。次に気付いた時には小娘、お前の部屋だった」
「そっか。なるほど。だから、ライバルから渡されてすぐ私に話しかけてこなかったんだ」
沙穂は得心する。ライバルにプレゼントされてからブレザーが話しかけてくるまでには、半月という大幅なタイムラグがあった。そういえば初めて会話を交わした時、ブレザーは「寝起き」という言葉を使っていた。あれは言葉通りの意味だったのだろう。
「こいつの名前はナナモノガタリ。他のメアードを封印する力を備えた厄介なメアードだ」
「これはこれは……『夜道を闊歩するブレザー』ではないか。懐かしい。だがいつの間にか俺の封印から解かれていたとは、まさに予想外」
頭が本でできた怪人――ナナモノガタリは、細い首を右に曲げて男の声を発する。その瞬間、沙穂は激しい悪寒を覚えた。手足が勝手に震え、全身に力が入らなくなる。ブレザーも「クッ!」と苦しげに呻き、宇野少年は悲鳴をあげて沙穂の胸に顔をうずめた。
「だが予想とは得てして覆るもの。事態が動くならば、こちらは機会を窺うまで」
怪人が声を発する度、恐怖が胸の底から滲み出すようだ。その一言一言が、魂を削ぎ取る鋭利なナイフだ。沙穂は足を引きずるように後退しながら、勇気を振り絞って尋ねた。
「あなたが……プールを醤油漬けにしたり、ピアノを壊した、犯人?」
ナナモノガタリは首を左に曲げると、片腕だけで立ち、もう一方の腕を背後に回した。そして何かを沙穂の前に投げやる。床を跳ねたそれは太股で千切れた、人間の足だった。
「ひっ!」
頭から血の気が失せ、擦れた悲鳴をあげる沙穂に、怪人は腕やもう一本の足、胸、腰など次々と人体のパーツを投げてくる。だが数が増えていくにつれ、沙穂はそれらが生身の人間のものではないことに気付き始めた。剥き出しになった血管、剥がれた皮膚、薄橙色に塗られた脳みそ。それはバラバラに分解された人体模型だった。
「……これで『疾走する人体模型』もこの世から失せた。他愛もない。だがこれも運命」
ナナモノガタリの行動はすなわち、沙穂の問いに対する肯定を示していた。トイレの床にはプラスチック製の肉片が山積みになっている。それを見ていると吐き気がした。
「この学校に五十も六十も怪談は必要ない。生き残るのは俺が選別した七つの物語のみ。存在するに値しない雑種どもはこの世から滅してくれよう」
ナナモノガタリは腕を使って移動し、じりじりと沙穂との距離を詰めてくる。沙穂は後退するが、その先は行き止まりだった。磨りガラスの小さな窓こそあるものの、そこから素早く逃げ出すことは困難だろう。
「人間、お前に用はない。その子どもを置いて、ここから立ち去りたまえ」
沙穂は腕の中にいる宇野少年を見下ろした。彼は瞳を震わせこちらを見つめてくる。その縋るような眼差しが、沙穂の心に火を点けた。
怪人が次に狙いをつけたのは、どうやらこの子どもらしい。その理由は見当もつかないが、もはやどうでも良いことだった。子どもが命の危機に晒されている。少年がこんなにも震え、脅えている。沙穂が怪人と対峙する理由はそれだけで充分だった。
「……嫌だ。この子は、私が死んでも守る」
気を失ってしまいそうなほどの恐怖に心を蝕まれながらも、沙穂はナナモノガタリを正面から睨みつける。宇野少年を抱く腕に、自然と力がこもった。
「子どもたちの学校を壊して、みんなを悲しませるような奴に、私は絶対屈しない!」
プール開きを待ち望み、音楽会のために練習を頑張ってきた子どもたちの気持ちをこの怪人は踏みにじった。その楽しみを奪った。どんな理由を並べられようとも、沙穂にとってこの怪人は子どもたちを悲しませ、学校を破壊する悪でしかなかった。
「……この俺を前にして、なんと愚鈍な人間なのか。いいだろう。自ら苦痛の雨に打たれることを望むならば、その願い、成就させてやる」
ナナモノガタリの胴体を構成している鏡の表面に波紋が浮かぶ。そしてまるで水中から跳ねて現れる魚のように、鏡の中から青白い人間の手が二本飛び出した。ぐんと伸び、沙穂に襲いかかる手の先には鋭い爪が伸びている。腕の長さには限りがないようで、現時点ですでに二メートルを超えていた。
沙穂は背中を向け、少年だけは傷つけまいと強く抱きしめる。激しい痛みを覚悟し、ぎゅっと目を閉じて歯を食いしばった。
「……ククッ。この俺様を、忘れてもらっては困るな!」
馴染みのある声が聞こえ、沙穂の首筋を柔らかな感触が撫でた。肩の上に乗っていたものがなくなり、少しだけ体が軽くなる。
直後、けたまましい衝撃音がトイレの中に弾けた。沙穂が首を捩ると、そこには両袖を広げた格好で宙に浮くブレザーの姿があった。ブレザーの体は青い腕の長い爪によって、容赦なく切り裂かれていった。紺色の布地に無残な傷跡が刻まれる。まるで剥いた林檎の皮のように、裂かれた布の切れ端が床に垂れ落ちた。
力を失い、ひらひらと落ちていくブレザーを眺めながら沙穂はようやく気付く。彼は怪人から、沙穂のことを庇ったのだ。
「子犬ちゃん!」
沙穂が叫んだその時、まるでタイミングを計ったかのように世界が変貌した。
個室のドアも、小便用の便器も、手洗い場も、タイルの敷き詰められた床も全てが目の前から消え失せ、代わりに荒れた大地と飴玉が宙を乱れ飛ぶ風景が現れる。まるで大根の葉のように地面から生えているサンマに、ブレザーは引っかかった。
ちりん、と鈴の軽やかな音が響く。それは希望の到来を告げる音だった。
気が付けば沙穂とナナモノガタリとの間に、小柄な漆黒の戦士が立っていた。
「バルバル!」
「ライバル……」
荒涼とした地に舞い降りたライバルは、何の前置きもなしにいきなり左の拳を打ち出した。ナナモノガタリは両手で地面を引っ掻くようにして後ろに跳ぶ。だがライバルはさらに片足で踏み込むと、ナナモノガタリの胴体――鏡の表面に拳の連打を浴びせた。とどめに本のような形をした顔面を殴り飛ばす。捻じれた石柱に背中を打ちつけると、ナナモノガタリは苦悶に歪んだ吐息を漏らした。
「ほう……処刑人の登場とは面白い。だが、これもまた一興だ。あまりにこちらの優勢では芸がなさすぎるからな……」
「バルゥ!」
「あれが、ライバル……来て、くれたんだ」
恐れず敵に立ち向かうライバルの雄姿に、宇野少年が嬉しそうに声を高くする。沙穂は彼の肩を撫でながら頷いた。
「うん。ライバルが来たんだよ。この学校を、あなたのことを、守るために!」
「……さすがにやるものだな。数多の強者たちが敗れてきたことだけはある。褒めてやろう。この賞賛、ありがたく受け取るがいいぞ」
ナナモノガタリの鏡が妖しく輝く。やがて鏡面から青白い手が次々と現れ、まるで縋るようにライバルに殺到していった。二本や三本どころではない。数十本の手が群れを成して標的に伸びていく。
ライバルは深紅の瞳をぎらつかせ、右掌から短い刃を発生させると、自身に向けて伸びてくる不気味な腕たちを一つ残らず手首から切り落としていった。ライバルの体に触れることさえ許されず、それらは切断され、踏みにじられて消滅していく。猛攻の切れ間を狙ってライバルはそのうちの一本を左手で捕まえると、両手で握り締め、根本で繋がったナナモノガタリごと力任せに振り回した。ライバルはその場から動かず、片足を軸に遠心力を使って、まるでコマのようにくるくると回り出す。
「バァアアアルゥゥゥゥウウ!」
「うわあああああっ!」
五回もまわったところで、ライバルは手をパッと放した。ナナモノガタリの体は飛んでいき、捻じれた支柱を掠め、サンマの群れを薙ぎ倒して地面に激突する。先ほどのパンチの連打が効いたのだろうか、体の鏡には落下の衝撃で縦に一本ヒビが入っていた。おそらくこれでもう青白い腕を発生させることはできないだろう。砂に塗れ、全身を薄茶色に染めた敵に向けてライバルは歩み寄っていく。途中でちらりとサンマに引っかかったままのブレザーを一瞥し、何かのサインを送るように片手をあげた。
「俺に砂を舐めさせるとは、なかなか味な真似をするではないか。だがあまりにも軟弱。あまりにも浅短。なんだいまの攻撃は、蚊が止まったのかと思い違えたぞ」
「バルバル」
ライバルは焦るでもなく、敵に威圧感を与えることを目的としているかのように、鈴の音を響かせながらゆっくりと距離を詰めていく。ナナモノガタリが骨格標本じみた自前の両腕で地面を踏みしめると、その頭部を形成する本が捲れ始めた。やがて7とSを組み合わせたような文様の記されたページが現れる。
「悪しき魂よ、我の前にひれ伏さん。神の赦しを持って、その根源を灰塵と化す」
ナナモノガタリが呪文をそらんじると、開かれたページ全体が強い光を帯びた。それは先ほどダブルシーを塵に還したのと同じ攻撃だった。「ライバル!」と沙穂は叫ぶが、ライバルに全く動じる気配はない。その視線は相も変わらず真っ直ぐに敵を射抜いていた。
突然、左手の方からやってきた黒い影が沙穂の視界を横切った。風もないのにひらりと宙で翻り、それはナナモノガタリの顔面を覆い隠す。
「我が主よ、いまのうちだ!」
ナナモノガタリの首に袖を回し、その光輝く頭部を全身で包みこんだブレザーが大声を発する。先ほど青白い腕によって攻撃を受けたはずだったが、体には汚れ一つなかった。
「目の前が突然、暗闇に覆われるとは不可思議な。だが視力を失ってもなお、俺の勝利は揺るがない。かかってくるがいい、劣等種め」
顔を黒い布で覆われてもまったく慌てる様子はなく、ナナモノガタリは掌を地に着けたまま腕を後ろに引いた。足はないが、ちょうどブリッジをするような姿勢だ。さらに腰に巻かれている布が捲れ上がり、その下から無骨な大砲が現れる。
「バル……」
ライバルの胸部に備わった目が、ゆっくりと瞼を上げる。右腕が深紅の光によって彩られ、拳の先に瘴気が集まっていく。
「滅びよ、邪悪の権化め!」
「ラアアアイッ……バルゥウウウッ!」
ライバルの拳が唸りをあげた。中空に赤い軌跡を塗りつけたその一撃はナナモノガタリの大砲を砕いた。「ぐあっ」と呻き、よろめく体目がけて、さらにもう一発、今度は敵本体を正面から殴りつける。蜘蛛の巣のようなヒビが走る鏡面をライバルの腕は突き破った。
「ぐ、お……」
「バルウウッ!」
腕を勢いよく引き抜くと同時に、ナナモノガタリの穿たれた胸部から真っ赤な液体が噴き出す。ライバルがくるりと踵を返すと、飛んできたブレザーが彼の肩に被さった。
「まだ俺は、負けてなど、いない」
全身を赤く濡らし、体を支える力もなくなって地面に崩れ落ちながら、ナナモノガタリは擦れた声を発する。そして次の瞬間、その体は光の粒と化して散っていった。
6
こうしてあまりに奇妙な『学校の怪談消失事件』は幕を閉じた。
沙穂は門の側にある切株の前に、宇野少年と二人で立っていた。肩に羽織っているブレザーを数に入れれば二人と一着ということになる。校庭は相変わらず昼間とは別世界のように静まり返り、校舎は暗闇によって切り取られている。
だが来た時と比べて、闇はさらに濃く、夜は深くなっているはずなのに、そこに漂う不気味さは薄まったような気がした。怪奇現象という漠然とした呼び名でしかなかったものが、デスメアードという形をとったことでかえって恐怖を覚えなくなったのかもしれない。
「ライバル、ありがとう」
去っていくライバルに宇野少年は折り目正しく頭を下げ、お礼を言った。ライバルは「バルバル」と言って親指を立てると、夜の町へ足早に去っていった。
「そういえば、さっきはありがと。ごめんね。ちょっと頭に血が昇っちゃって……でも子犬ちゃん、大丈夫? というか体、引き裂かれてなかった?」
ライバルに手を振りながら、沙穂は戦闘中の一幕を思い出す。ブレザーは沙穂を庇い、体を裂かれたように見えた。だが手に取り、目を近づけてみても今のブレザーには傷も汚れも見当たらなかった。
「ククク……ダメージ加工だ。奴を油断させる必要があったからな。ダメージを受けたと敵に錯覚させることなど、俺にとっては容易なことだ。小娘ですら敵に立ち向かっているというのに、俺様が脅えているわけにはいかないだろう? それに礼などいらない。俺はお前を守ることを主に命じられているのだからな。使命を果たしたまでだ」
「えっ。そうなの? てっきり究極の闇を司る捨て犬だと思ってた」
「おい、なんだその憐れな響きは! いいか、俺は忠義を尽くし、小娘を守護し、テレビを観て暮らすために主と別行動をとっているまでだ、覚えておけ! ……それとお前!」
ブレザーは右側の袖を上にあげ、左側の袖で右胸を触るようなポーズを取った。そして宇野少年の方に体を向ける。突然話を振られた宇野少年は目を丸くした。
「言おう言おうとは思っていたことだが……お前、メアードだろ」
「えっ」
沙穂は耳を疑った。宇野少年に目をやると、彼は悪戯が見つかってしまったという風に頬を掻き、唇を緩めた。
「ばれてたんだ……うん、そうだよ。よく分かったね。おじさん」
「おじさんではない。究極の闇だ」
「ええっ? メアード? この子が、本当に? マジで?」
驚きのあまり、つい口調が乱れてしまう。俯き加減にこちらをちらちらと窺う宇野少年は、どこからどうみても人間の子どもだった。掌には温もりがあり、手首から脈拍も感じることができた。メアードだと言われても、にわかには信じがたい、
「ククッ、マジだ。こいつはノーフェイス・メアード。人間に擬態する能力を持っているのだろう。ククッ、この俺の目はごまかせないがな」
「うへぇ……まさに藪からエクスカリバー」
思わず、『骨厄』を口走ってしまう沙穂の前で、宇野少年は黒い靄に包まれた。ひときわ強い光を発して靄が晴れると少年は消え、代わりに緑色の野球帽と茶色のローファーはそのままに、全身を白いタイツで包んだ小柄な怪人が立っていた。
「おねえちゃん、ありがとう。これで僕もゆっくり、夜の学校生活を楽しめるよ」
ノーフェイス・メアードは身をかがめ、足元の切株を愛おしそうにそっと撫でると、沙穂に向かって頭を下げた。衝撃的な光景を前に硬直していた沙穂はハッとなり、慌てて顔の前で手を振った。
「うん。私、大したことしてないけど。でも、うん。良かった」
「じゃあ、おじさん、おねえちゃん。またね。たまには遊びに来て。もてなすからさ」
「おじさんじゃない、究極の闇だ」
「うん。じゃあね。また会おう」
ノーフェイスは大きく頭の上で手を振ると、校舎の方に駆け出していった。闇に浮かぶ純白のシルエットを見送ると、沙穂はくるりと門の方を向いた。なぜナナモノガタリは宇野少年を狙ったのか、ずっと不思議に思っていたが――少年が怪人に変わった瞬間、沙穂の中でその謎は氷解した。宇野少年もまた、この学校に巣食う怪談の一部だったというわけだ。真相が分かると、何だか胸がすっきりした。大きく伸びをしてブレザーを振り返る。
「……さーて。じゃあ、子犬ちゃん。私たちも帰ろっか。もう真っ暗だし」
「ククク……あぁ、そろそろチェックしているドラマの始まる時間だ。間に合うといいが」
「あ、『鶏と卵のランデブー』だっけ。あれ面白いよね。見よう見よう」
会話をしながら、沙穂は学校の門をくぐり抜ける。敷地の外に出ると元いた世界に帰ってきたかのようでホッとした。
空に月はない。スプレーで灰色のペンキを吹き付けたような雲が漂っている。
沙穂は校舎を振り返った。その威容は、まるで地から這いずり出た悪魔の影のようだ。
そして沙穂は見た。校庭に置かれたジャングルジムが甲高い音をあげて独りでにバラバラになり、まるで見えない手が操っているかのように組み上がっていくのを。そして全長三メートルほどのロボットに変形したジャングルジムは、バックパックから煙を吹き出し、夜空に飛び去って行った。
「……風流だなぁ」
生ぬるい風が髪を梳く。沙穂は立ち止まると目を細め、空の彼方に消えていくジャングルジムロボを見送った。
※誤字があったため修正しました。
「デスメアード・ファイル」
ナナモノガタリ・メアード
属性:火
AP1 DP3
身長:110cm 体重:45kg
【基本スペック】
領域(Lv2。周囲に結界を形成することで、外部からの侵入を防ぐ)
威圧(自分よりレベルの低いデスメアードを怯ませる)
恐怖(相手の防御力をダウンさせる。また人間に強烈な恐怖を与える)
【特殊能力】
デスメアードを封印する。対象を選び、頭部から発する光を浴びせることで能力は発揮される。発動の最中に他のデスメアードによって割って入られた場合、効果はなくなる。また勝手に封印が解けてしまうことも稀にある。
【DATE】
かつて理科室に置かれていた姿見の成れの果て。学校の怪談があまりにも多すぎることに腹を立て、自分の選別した七つの怪談以外を全て滅ぼそうとする。選民意識が高く、傍若無人な性格。彼の最大の敗因は、切り札を温存しすぎたことだろう。
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ノーフェイス・メアード
属性:天
AP1 DP1
身長:135cm 体重:40kg
【基本スペック】
領域(Lv2。周囲に結界を形成することで、外部からの侵入を防ぐ)
変換(メアドリンを消費することでダメージを回復する)
愛想(3割の確率で敵の攻撃力は0になる)
【特殊能力】
人間に化ける。ただし帽子と靴を脱ぐことはできない。
【DATE】
学校に通うことに憧れた大木の成れの果て。小学生の男の子に化けて夜の小学校に出没し、『いるはずのない生徒』という怪談話になっている。
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ジャングルカイザー・メアード
属性:雷
AP5 DP6
身長:320cm 体重:200kg
【基本スペック】
領域(Lv1。物音などを周囲に気付かれにくくする)
腐食(水属性のデスメアードによって受けるダメージは倍になる)
飛行(空を飛ぶことができる)
【特殊能力】
ジャングルジムへの変形能力。
【DATE】
ロボットへの変形に憧れたジャングルジムの成れの果て。夜な夜な変形し、町の空を飛び回っている。