4話「ライバル・ハンター」
1
指場町には北から南にかけて、それなりに大きな国道が通っている。
片側二車線の中央分離帯が備わった道路で、道沿いにはスーパーマーケットやファミレスやコンビニなどが並ぶ。この辺りで一番大きな、八階建てのデパートもこの通りに面していた。
今の時刻は午後七時過ぎである。帰宅ラッシュも落ち着き始め、車の通りも徐々に減ってきた、そんな時間帯だ。空気は夜の色を帯び、町に一つ、また一つと光が灯っていく。道に広がった水たまりがその明かりを照り返し、滲んだ光がアスファルトを染めていた。
だが、美しく幻想的な光景を踏みにじるかのように。
それは日常を砕きながら、国道を突っ走ってきた。
「てやんでぇ! どけどけい!」
エンジン音を唸らせ、道路を激走するそれは車でもバイクでもなかった。ましてや人や動物でもなかった。
それは、一個のタイヤと赤い布だった。
普通自動車に使用されているサイズのタイヤに、赤い布が被さっている。それが軽自動車やワゴン車やトラックやバイクに混じって国道を走っているのだった。
一見すると、それはただタイヤが転がっているようにしか見えない。だが急カーブを美しい弧を描きながら曲がり、赤信号になると規則正しく停止線の前で止まることから、そのタイヤに意思があるのは明白だった。しかもタイヤがどんな走り方をしようと、その表面から布が落ちることはない。
「待ってろぃ、ユリコーン。今日こそお前の仇を討ってやるからなぁ!」
信号が青に変わった瞬間、まるで銃声を耳にした徒競走の選手のように、タイヤは停止線から前に飛び出していく。
しかし威勢が良いのは初めだけだった。数分も経たぬうちに、その奇妙なタイヤは次々と周囲の車に追い抜かれ、あちこちからクラクションを鳴らされることになった。
2
銀林沙穂は銭湯が好きである。
というわけでもない。だが、嫌いではなかった。
そもそも家族と一緒に暮らしていた高校時代までの日々の中で、銭湯に出かける機会はほとんどなかった。一度か二度、母親に連れていってもらった記憶があるくらいだ。その記憶さえ幼い頃のものだった。
しかし一人暮らしをすることになった今、沙穂は週に一度くらいのペースで銭湯に通っている。借りているアパートの風呂には追い炊き機能が付いていないため、湯船を張るのが割と億劫なのだ。それでも週に一度くらいはお湯にゆっくりと浸かって、疲れを癒したいので、それならばせっかくだから銭湯に出かけようという気持ちになるのだった。
そして今日もまた、沙穂は銭湯にいる。沙穂の行きつけの銭湯は、家の近所にある『紅の湯』だった。入館料は三百円という安さで、もう二百円プラスすればバスタオルとタオルも借りられる。脱衣場にはマッサージチェアも置かれており、肩が凝ったときなどはなかなかに重宝するのだった。
様々な思いを頭に浮かべながら湯に浸かる。少しのぼせてきたところで上がり、浴場から出て、自分の衣類が入っているコインロッカーを開ける。
着衣を終えたところで洗面台の前に行き、ドライヤーで髪を乾かして、タオルを頭に巻いてから脱衣場を出た。出口のところで小さな女の子とすれ違い、「ドーナツのお姉ちゃんー!」と手を振られたので、いつも通り「ゴンザレスー」と返しておいた。だが普段に比べ、覇気に乏しいのが自分でも分かった。
体はすっきりしたものの、胸の内には粘ついた澱のようなものが残されたままだった。頬が火照るのはお湯に漬かったせいだけではない。汚れた血液がこめかみのあたりに昇りつめていくようだ。カウンターの前に置かれたソファーに腰を下ろすと、沙穂は大きくため息をついた。風呂に入ってここまで気分が晴れないのは始めてだった。
――お前、そんなことでやっていけると思っているのか?
「……まったくもう、うるさいなぁ」
煮え切れない思いを声に乗せて吐き出すが、虚しく空気を震わすだけに留まった。耳に入ってくる老若男女、種々雑多の声に嫌気が差してしまい、席を立つ。こんなところに来てなんだと自分でも思うが、今夜は一人になりたかった。
外はほどよく蒸しており、銭湯帰りにはうってつけの気温だった。少なくとも湯冷めはしないで済みそうだ。丸めたバスタオルと今日一日身につけた下着類とで、丸く膨らんだトートバックを自転車のカゴに入れると、孤独な夜道に向けてペダルを漕ぎ出した。銭湯の前は仕事終わりのサラリーマンや、高校生の集団でごった返していたが、畑や田んぼが視界のほとんどを埋めるようになってくると途端に人気はまばらになった。
まるで、世界に自分以外いなくなってしまったかのような孤立感が、心を蝕む。まるで肩に重たいものが乗っているようだった。
穏やかな風が髪をすき、耳元を過ぎる。普段は後ろで縛っているため、髪を下ろしていると、いつもとは風の感触が違うような気がした。この風の色を感じる時、沙穂は銭湯に行ったという気分になる。
その時、沙穂は目の前に誰かが立っていることに気付いた。ブレーキを掛け、自転車を停める。闇の中から現れたのは。
「あなたは……」
「バルバルー」
額に輝くVの字の触覚に、口を覆う金属製のマスク。真紅に燃える瞳と黒に染まった体躯。腰にぶら下げた『交通安全』のお守り。外灯の淡い光の下に浮き上がった怪人――ライバルはブイサインをすると、ぴょんぴょんとその場で飛び跳ねた。
「ラッイライー!」
そんな無邪気な仕草を見ていると、何だか自然と頬が緩んだ。ふふ、と笑みを零してしまう。なぜ沙穂が笑っているのか分からず、ライバルは首を傾げ、不思議そうな顔をした。
3
「はい、これ。気に入るか分からないけど……」
近くにあった自動販売機で缶コーヒーを二本買うと、一本をライバルに差し出した。ライバルは首を傾げ、意味が分からないという風に見つめてきたが、沙穂が微笑んで頷くとようやく受け取ってくれた。
沙穂とライバルは公園のベンチに並んで腰掛けた。十センチ程度、間を開けて座る。
三つくらいの遊具が点々と設置されている猫の額ほどの公園で、昼間は幼い子供とその母親が遊んでいるのをよく見かける。だが夜の園内は不気味なほどの静けさに満ちており、清廉な空気さえ漂っていた。遠くから聞こえてくる救急車のサイレンも、どこか別の世界のもののように聞こえる。ライバルが肩の触れあえる距離にいるという事実が、沙穂から現実感を剥奪していた。
「ブレザーの子犬ちゃん、元気にしてるよ。何か今日はどっか行っちゃったけどさ。よく分からないけど、いい子犬だよ」
「バルバル」
ライバルは握りしめた缶コーヒーをしげしげと眺めていた。底を覗き込んでみたり、表面を指で弾いてみたり、ラベルを凝視したりしている。まるで生まれて始めて見たものにただならぬ興味を示す、幼い子供のようだ。
沙穂はライバルの手から缶を取り上げると、プルタブを開いた。ぷしゅ、と空気の抜ける音がして、コーヒーの芳しい香りが鼻孔を刺激する。
「はい、どうぞ。美味しいよ」
「バル……」
缶を手渡すと今度は中を覗き込み、匂いを嗅ぎ始める。そして危険なものではないことを悟ったのだろう。ライバルの口を覆っていた金属製のマスクが横に割れ、そこにわずかな隙間が生じた。そういう仕組みになっていたのか、と一人感心する沙穂の前でライバルは缶を傾け、黒い液体を隙間に流し込んだ。
そして吹き出した。それも漆黒の霧がかかるほど盛大に。
「バ、バヒュン!」
激しく咳き込み、「バルゥ……」とうめき声のようなものを漏らしながら、ライバルは哀しげな目を向ける。どうやらコーヒーが苦すぎたらしい。砂糖が多く入っているものを選んだつもりだったが、口には合わなかったようだ。涙目になっている。
「ごめんごめん! コーヒーみたいな体の色してるから、つい大丈夫かと……」
そこで沙穂は思い出し、「そうだ!」とトートバックの中を探った。興味深そうに手元を覗きこんでくるライバルに、取り出したドーナツをかざす。一つ一つ封のされた掌サイズの小さなもので、銭湯に行く前にコンビニで買ったのを忘れていたのだった。沙穂は封を切ると、ドーナツをライバルに渡した。もう一つバッグの中から手に取り、そちらは自分で食べる。柔らかな触感を頬張りサムズアップをすると、ライバルも両手で包むようにして持ったドーナツを、おずおずと口に運んだ。
「バ、バルバル!」
咀嚼したところでぴたりと動きを止め、それから沙穂の方を見た。その表情は驚愕に満ちている。やがて手元のドーナツに目を戻すと、夢中になって食べ始める。どうやらこっちは気に入ってくれたようだ。沙穂は頬杖をついて、ドーナツを貪るライバルを見つめる。その無邪気な姿を見ていると、何だか心がほっこりとしてくる。
「甘くて美味しいでしょ。今度、もっとおいしいの持ってくるね。楽しみにしててよ」
食べかすをべったり口の周りに付けながら少しも残さず食べきると、ライバルは沙穂の手を掴んだ。そして感謝の意を顕すように深く頭を下げる。その謙虚な様子に沙穂はつい、声をたてて笑ってしまう。
「いいよいいよ。助けてくれたお礼。こうして夜道を歩けるのも、あなたがいてくれるからだし……みんなすごく助かってるよ。ありがとう、ライバル」
「バルバル」
「今日はパトロール中なのかな。子犬ちゃんが言ってたけど、人を守ることがあなたの夢、なんだよね?」
「ライライ」
こちらの言葉が通じているのかは分からない。おそらく伝わっていないに違いない。しかしそれでもライバルは頷いてくれた。それがとても心地よい。ペットに話しかけ癒しを求める人の気持ち――もとい、神に懺悔する信者の気持ちに似通っているのかもしれない。
なぜならライバルは沙穂にとっての救世主なのだから。
しかし彼と話していると安らぐと同時に、自分の置かれた状況も浮き彫りとなるよう
で、やはり暗澹としたものが胸のうちに膨らんでしまう。ちょうど光が射せば、また影も色濃くなるのと同じように。
沙穂は空を振り仰いだ。星のない夜の中に、灰色に霞んだ月が浮かんでいた。
「あのね、私にも夢があるの。幼稚園の先生。ずっとずっとなりたくて、今資格をとるために大学で頑張ってるんだけど。お父さんには割と反対されててね。昨日もちょっと電話で言い争いになっちゃって。だって大学に入ってもう何ヶ月も経つっていうのに、お前のそれは夢じゃないとか、そんなことでやっていけるのとか言うんだよ。腹立つじゃん」
「バルバル」
「まぁ、そんなに給料がいい仕事じゃないし、将来性もいまいちだし。私もお金を出してもらってる立場だから、あんまり文句も言えないよ。お父さんの気持ちも分かる。分かるけど……でもなんか、やりきれないなぁって」
「バルライ」
「それにね、お父さんにちょっと言われたくらいで揺らいでいる自分に腹が立つ。高校生のときはもっと頑なでがむしゃらだった気がするんだけどなぁ……私。大学の勉強で現実を知ったからかもしれないけど、私の夢ってこんな程度だったのかなぁって」
高校生のとき、とはいってもたった数ヶ月前のことなのであるが。しかしそれにしても、夢への情熱が薄れているような気がしてならない。苛立ち、惑い、わだかまりのようなものを感じているのは、おそらくそのあたりだった。
その時、沙穂は肩に置かれる感触に気付いた。顔を向けるとライバルが肩をぽんぽんと、優しく叩いてくれていた。真紅の目が優しげな色を湛えて、沙穂を見ている。
「もしかして、慰めてくれてるの?」
「バルライ、ライバル!」
これは『元気出せよ、頑張れ! 女だろ!』とでも訳せばいいのだろうか。ライバルは活気のある声でそう発すると、威勢よく親指を立てた。どうやら沙穂が咄嗟にしたそのポーズは彼のお気に入りになってしまったらしい。
「……ありがとう、ライバル」
現実は何も変わらないけれど。胸につかえたわだかまりは消えないけれど。
沙穂はライバルの応援を、思わず涙腺が緩みそうになるほど嬉しく思う。孤独な夜に彼と出会えて良かったと、この巡り会わせに心から感謝した。
それからしばらく、沙穂とライバルはドーナツを食べながら過ごした。どうやら彼はこの三十個入り二百円のお菓子がつぼにはまってしまったらしく、凄い勢いで口に運んでいった。途中喉につかえ、ライバルは慌ててコーヒーを飲み干す。「慌てて食べるからだよ。ドーナツは神聖な食べ物なんだからもっと落ち着いて食べなきゃダメなんだよ」と注意すると、彼は照れくさそうに頭の後ろを掻くので、沙穂は笑ってしまう。
ふと空に目をやる。そこには雲の切れ間から覗いた月が、仄かな光を放っていた。
4
「あれ……」
沙穂は目を見開いた。美しい月明かりに頬を緩めたのも束の間、空を紫色が覆い始めたからだ。慌てて周囲を見やれば、ブランコや木々やシーソーが捩れてぐるぐると円を描き、景色の中に混ざりこんでいった。
この光景をつい最近、見たことがある。これは確かメアード空間に移る時の――
「バル!」
あまりに異様な光景を前に、ライバルは弾かれたように立ち上がる。その表情は険しく、先ほど沙穂を慰めてくれた眼差しはすっかり身を潜めていた。
周囲のあらゆるものが混ざり合い、やがて世界は変転を終える。
白色の壁がぐるりと沙穂とライバルを囲んでいる。頭上を見やればわずかに弧を描いたドーム状の天井があり、黄色の照明がぶら下がっていた。まるで室内野球場のようだ。
ねちょり、という音が足元でしたので沙穂は跳びあがった。靴裏に白いものがこびりついている。その床もまた白一色に染められており、やけに粘性があった。まるでその感触は、焚いたばかりのご飯のようだった。
「ライバル、これって……」
沙穂が言葉を紡ごうとしたその瞬間、目の前を赤いものが過ぎった。さらに衝撃音が耳のすぐ側で聞こえたので、目を向けるとライバルは大きく吹き飛ばされ、床に叩きつけられていた。彼の付けたお守りの鈴が、狂ったように音を鳴らす。
「ライバルッ!」
「やっとお目にかかれたねぇ。ライバルさんよぉ!」
すぐさまライバルに駆け寄ろうとする沙穂だったが、彼の背後に立つ気配に足を止める。そこにはタイヤの上に赤い布を被せたような、よく分からないものがぽつんとあった。だが状況的に見て、沙穂の前を通り過ぎ、ライバルを吹き飛ばしたのはそいつに違いない。白いご飯粒まみれになったライバルは、起き上がると同時に振り返り、タイヤと相対した。
「探したぜ……あんたとずっと会いたかったのよ。さぁ、ではでは俺のメアード空間でやられてもらいましょうかねぇ!」
タイヤは飄々とした男の声で喋る。すでに騒がしくて犬臭いブレザーと出会った後だったので、沙穂はそのことに大して驚かなかった。だがタイヤに覆いかぶさった赤い布が膨らみ始め、それが人の形を形成し始めると声を失った。
やがてそれほど時間を要することなく、下半身がタイヤでできた人型の怪人が誕生する。額からは二本の触覚が伸び、左手が蟹のような鋏になっているその怪人は、真っ黒な口をぐにゃりと曲げた。
「俺の名はエビグルマ・メアード。お気軽にエビグルマとでも呼んでくだせぇ。さて自己紹介も済んだところで……親友の仇、とらせていただきますぜ!」
「バル!」
喋り終え、そして怪人――エビグルマの姿は消えた。次の瞬間、轟音がドームの中に反響し、ライバルの体が宙を舞う。気付けばすぐ目の前にエンジン音を唸らせたエビグルマの背中があったので、沙穂は飛びあがった。
「バル……」
タイヤに跳ね飛ばされたライバルは、よろめきつつも身を起こす。だがその様子はどう見ても満身創痍で、今にも気を失ってしまいそうだった。体のあちこちにヒビが入り、色々な部分がご飯で汚れている。
「バルライッ……バルー!」
それでも片足を引きずるようにして前進しようとするが、いつもの俊敏な動きはなく、ひどく歩きづらそうにしている。その足裏には踏みつけられて伸びたご飯粒が付着し、まるで粘着性のシートのようにライバルの体を床に縛り付けていた。
「惨めだねぇ。だが俺に容赦はねぇでござんすよ!」
エビグルマは自分の頭を指先で小突くと、前方に構えた鋏の先端から真っ赤な光線を発射した。宙を裂く真紅の軌道はライバルを正面から捉える。しかし光線はライバルに到達する手前で、大きく跳ね上がった。顎をピンポイントで貫かれ、ライバルは悲痛の叫びをあげて後ずさった。
「ダメダメ。しっかり海老反りしないと、この光線は避けられねぇのさ!」
エビグルマは発進すると、通りすがりにライバルを鋏で切りつけた。火花が舞い、ライバルの胸に一筋の傷口が刻まれる。くるりと華麗なターンを決め、停止するエビグルマをライバルは肩で息をしながら見据えている。
「バル……!」
ライバルの腹部に巻かれているベルトのバックルが、強い輝きを放つ。それはライバルが、敵の技をコピーする合図だった。その能力を使って彼は多くの怪人たちを圧倒してきたのだ。おそらくライバルは、エビグルマのスピードを入手するつもりなのだろう。
姿勢を低くし構えをとるライバルを、エビグルマは余裕ありげに見ていた。その口元がにたりと歪む。沙穂は嫌な予感を覚えた。そしてその予感は的中してしまった。
ライバルは床を蹴って駆け出そうとした。しかし一メートルも進んだところで、床に足がめりこみ、たたらを踏んだ。危うく前のめりに倒れそうになるライバルを見て、エビグルマは高笑いをあげる。
「あんたの能力は知ってるよ。だが言ったでしょう? ここは俺のメアード空間なのさぁ。このタイヤはスタッドレスならぬコメットレス製でね。米粒の上でもスーイスイってわけなのよー残念!」
エビグルマの左手に黄色のエネルギーが纏われる。そして妖しげな迫力に満ちた鋏を一閃し、ライバルの体を切り裂いた。
「バ、バル……ラ……」
よろよろと後ずさり、ライバルは体から光の粒子を迸らせながら膝を落とした。
「ライバル!」
沙穂は叫ぶと、崩れ落ちたその体に駆け寄った。ねちょねちょと粘り気のある音を発する床に、足をとられながらも必死で進む。その行く手をエビグルマが阻んだ。鋏の開閉を意味もなく繰り返し、左手をカチャカチャといわせている。
「嬢ちゃん、申し訳ねぇがこれは俺とライバルとの問題さ。引っ込んでもらっちゃあ、くれねぇか?」
「引っ込まない! むしろ突き出す! なんでライバルにこんなことを……」
「なぜだって? さっきも言ったはずだがねぇ……敵討ちだよ。俺の大事な親友はこの黒坊主に殺されたのさぁ」
沙穂は「え」と声をあげた。エビグルマがため息をつくと、ちらと背後のライバルを振り返った。
「俺の親友、ユリコーンは頭が悪くって、物臭さで、調子良くって、ロリコンで変態で、そりゃ人様に迷惑もかけたがね。それでも俺にとっちゃあ、特別な存在だったのさ。それを殺されたとなっちゃ、あだ討ちの一つもせんで、怒りはおさまらねぇってもんよ」
ライバルを恨んでいるものは多い――ブレザーが言っていたことをふと思い出し、今更のように実感する。ライバルは同属を相手取り、多くの憎しみを背負って孤独に戦っている。その本当の意味を沙穂は分かっていなかった。知ろうともしなかった。
「デスメアードを殺せるのは、ライバルぐらいのもんだからねぇ。俺はそいつを殺すことはできねぇのさ。だけど、こうして憎しみをぶつけてそいつに分からせなけりゃ、親友も浮かばれんよ」
ご飯粒をつま先で潰し、飛び掛ろうとするライバルをエビグルマは鋏で薙ぎ払った。宙に閃光が散り、ライバルは床を転がる。そして沙穂に向き直るそのあまりに悲しげなエビグルマの瞳に、沙穂は返す言葉を失った。
「夜はまだ長い。じっくりとその体に、報いってもんを刻み込んでやろうかねぇ……!」
エビグルマのタイヤが、ご飯粒を弾き飛ばしながら回転を始める。くるりと沙穂に背を向けたその体からは、空気が歪むほどの憤怒が溢れ出しているようだった。
体に痛々しい切り傷をいくつも作ったライバルは、身を起こすも立ち上がることはできずに膝をついた姿勢でいる。エビグルマは鋏を一度薙ぐと、ライバルに向けて突進した。
その瞬間、沙穂は見た。ライバルの右の掌から、黒い刃物が突き出しているのを。そしてライバルはしゃがんだままの、さながら短距離走でよくやるクラウチングスタートのような姿勢で、迫り来るエビグルマ目掛けて飛び出した。その速度はエビグルマと同等だった。沙穂はハッとした。
不利なフィールドを走り回る必要などない。初めの一歩さえ踏み出せれば、それだけで活路を見出せる。エビグルマの恐さはもとより、その速度ではない。なにせ沙穂が視認できるくらいだ。スピード自体は大したことはないはずだった。
ライバルが苦しめられてきたのは、走り出しからいきなりスピードを出せるその隙のなさだ。敵は向こうから来てくれる。あとは、タイミングを合わせるだけでいい。
「バァァァルゥゥゥッ!」
ライバルは右手を大きく振り回すと、その刃でエビグルマのタイヤをホイールごと横一閃に切り裂いた。鋏の切っ先がライバルの頬を掠めた。
「なぁ、にぃいいいい!」
タイヤを破壊されたエビグルマは吹き飛び、ライバルの頭上を越えていった。トンボを切り、落下して床を何度も跳ねた後、滑るようにして壁に激突する。鼓膜を破るような衝突音を響かせた赤色の体は、ぴくりとも動かなくなった。
再び世界が溶けだす。壁もドーム型の天井も、足元の白飯も空間に滲んでいく。そして沙穂は元の世界に戻ってきた。
5
砂混じりの地面に蛙の鳴き声。外灯と家の明かりが闇を照らしている。頭上を仰げば薄い雲のかかった空と、また暗く濁ってしまった月がある。メアード空間を抜け出し、夜の公園に戻ってきたことを沙穂は実感する。靴裏で粘ついていたご飯粒も全て消滅していた。
「ライバル!」
傷に塗れたライバルはうつ伏せに倒れていた。沙穂が近づくと顔を上げる。手を差し出すと、少し戸惑うような目をしたあとでしっかりと掴んでくれた。人の温もりとはまた違う、しかし安心するような柔らかさが沙穂の掌に触れる。
「バル……」
沙穂に支えられてライバルは立ち上がると、面目ないとばかりに頭を下げた。それからブランコの方に顔を向ける。そこにはエビグルマが横たわっていた。タイヤを寸断され、無残な姿と化した怪人にライバルは歩み寄る。ちりん、ちりん、とお守りの鈴が彼の足音に迫力を添えていた。
「……仕込み刀たぁ、恐れ入った。あんたやっぱり強いねぇ。さすが処刑人と呼ばれているだけのことはあるってか」
「バル」
登場時の軽妙な態度が嘘のような、掠れた声をエビグルマは発する。赤い体は削れて傷だらけになり、触角は片方千切れ、鋏も半ばから折れていた。胸のあたりの傷口から灰色の煙が噴き出している。
「もうメアード空間を維持する力も、俺にはないようだ。一息に殺してくんない。全て自分の力不足が招いたことだ」
訥々と喋るエビグルマをライバルはじっと見下ろしている。その表情からは何も読み取れない。沙穂は少し遠くに立ったまま、状況を見守った。
やがて――ライバルはエビグルマをそこに残したまま、踵を返した。顔を俯かせ、片足を引きずりながら沙穂の方に戻ってくる。あまりに意外な行動だったのだろう。エビグルマは素っ頓狂な声をあげた。
「お前、一体、どこにいくつもりだい……」
「ライバル……」
彼の考えをひとかけらでも知ろうと、沙穂はライバルを見つめる。ライバルは沙穂に目を合わせて、一度だけ頷いた。指の腹で、腰から下がったお守りを撫でる。
その瞬間、沙穂は彼の思いを理解したような気がした。かつて沙穂が遭遇したメアードたちとエビグルマとでは、大きな違いがある。コンタクトレンズやトイレの怪人、唐揚げ怪人は人間を襲い、だからこそライバルによって粛清された。しかしエビグルマは人に害を与えてはいない。ただ親友を殺された恨みを晴らそうとしただけだ。近くにいた沙穂にさえ、危害を加えることはしなかった。
おそらく――人を守ることを目的とするライバルにとって、自分に憎しみを持つだけのメアードを殺してしまうことはルール違反なのだろう。だから彼はエビグルマにとどめを刺さない。彼は振るう拳の矛先を、けして間違えたりはしない。そこに他者の思いなど介在する余地は、少しもないのだった。
「とどめを……刺さないつもりかい、ライバル。いいか……俺は朝になれば塵になり、また明日蘇る。この傷もリセットされるんだ。あんたを倒すまで、何度でも何度でも襲う……」
エビグルマの声には、理不尽な行動に対する憤怒がこめられていた。ライバルは振り返ると、ひどく疲れ切ったため息を吐いた。そしてゆっくりと左腕を上げると、エビグルマに向かってサムズアップをした。
「バルッ!」
『いくらでも襲ってこい。何度でも倒してやる』――要約するならそんなところだろう。ライバルは前に向き直ると、全身を引きずるようにして歩いた。呆然と立ち尽くす沙穂の肩を叩き、横を通り過ぎていく。鈴の音が、夜に深深と響き渡っていく。そしてライバルは闇に溶け込むようにして消えていった。
「……くそっ」
エビグルマは固めた拳を力なく地面に叩きつける。沙穂は去っていくライバルの背中を呆然と見つめた。少ししてからハッとなり追いかけようとしたが、まるで初めからそこにいなかったかのように、彼の姿は見えなくなっていた。
「ライバル……」
沙穂は彼の抱える夢の大きさに、ただただ圧倒される。
どれだけ罵倒されようとも、憎まれようとも、傷だらけになろうとも。自分の目的だけを、見据えた夢だけを真っ直ぐに遂行していく姿勢に、沙穂はただひたすらに感服する。
「……分かったよ、ライバル。自分の夢、もっと大事にしなきゃ駄目だよね」
他人から何を言われようとも、これが自分の夢だと胸を張れる。その思いを貫き通せる強さ。夜に霞んでいくライバルの背中は、沙穂に大事なことを思い出させてくれた。
沙穂はベンチの上に置きっぱなしにしていたトートバックを引っ掴むと、エビグルマを気にしながらも公園を後にした。あの怪人に対し、この場に及んで声をかけることはひどく野暮なことだ。あまりに不躾なことだ。そのくらい沙穂にも分かっていた。
公園の外に停めておいた自転車の傍らに立ち、携帯電話を取り出す。電話帳から実家の電話番号を呼び出し、深呼吸をした。
これから父親とひと勝負するつもりだった。心のわだかまりを解消するにはそれ以外に方法がない。どれだけ揶揄され、憎悪され、傷だらけになったとしても自分の夢を守る覚悟が沙穂にはあった。もう揺るがないために、忘れないために。
沙穂は自分にライバルの勇姿を重ね、携帯電話を耳に押し当てる。数回呼び出し音が聞こえたあと、母親の声が聞こえてきた。
「お母さん。あのさ、お父さんいる?」
携帯電話を握る手に自然と力がこもる。掌が汗ばみ、心臓が早鐘を打つ。耳の奥では美しい鈴の音が、沙穂を鼓舞するように甲高く鳴り響いていた。
「デスメアード・ファイル」
エビグルマ・メアード
属性:雷
AP3 DP1
身長:130cm 体重:50kg
【察知】
Dクラス。集中すれば付近のメアードを察知できる。
【基本スペック】
領域(Lv3。メアード空間を展開する)
集中(戦いの初めに技の命中率があがる)
追撃(攻撃がクリティカルヒットした場合、さらに追加ダメージを与える)
【特殊能力】
30km/hで走行する。初速からマックススピードを出せるのが魅力。
【DATE】
ドライブに憧れた炊飯器の成れの果て。国道を突っ走ることが生きがい。友情に熱い。
-----------------------------------------------
ユリコーン・メアード
属性:天
AP4 DP2
身長:181cm 体重:68kg
【基本スペック】
領域(Lv1。物音などを周囲に気付かれにくくする)
回帰(二日酔いにならない)
抵抗(相手の攻撃による、ダメージ以外の追加効果を一切受けない)
【特殊能力】
催眠術をかけ、人間の意識を乗っ取る(※ただし5歳以下にしか効かない)
【DATE】
幼稚園児に恋をしてしまった牡馬の成れの果て。そのロリコンさをいかんなく発揮する。お調子者だが憎めない性格。