9話「ライバルとの再会」
1
「おい小娘、バーに行くぞ」
そうブレザーに声を掛けられたのは昼過ぎからのバイトを終えて帰宅し、夕飯の準備でもしようかと、キッチンでにんじんを切っていた時のことだった。あまりに突然の誘いだったので沙穂は包丁の刃先をにんじんに押し当てたまま、数秒固まってしまった。
「バーって、あのお酒飲むバーのこと?」
「そうだ。チョコバーじゃないぞ。それはそうと、一体何をやっているのだ」
「あ、うん。カレー作ろうと思って。昨日のやつは子犬ちゃんが毒見だって持って行っちゃったじゃん。でもあの匂いを嗅いだらどうしても食べたくなっちゃって。だから」
昨晩の話だ。
ジノと名乗る、沙穂の部屋に二度も不法侵入を果たしたデスメアードが作り残していったカレーは、鍋の中で実に食欲を誘う匂いを発していた。つい最近、中毒性のあるうどんを食べさせられそうになった経験上、見知らぬ怪人が作った物を口にしては危ないという意識は働いていたが、そんな自制心など取っ払ってしまいたくなるほどに、そのカレーはとても美味しそうだった。
捨てるのも勿体ないし、一口くらいなら――不意にそんな考えが過り、カレーに浸かったままのおたまを手にしようとしたところを、ブレザーに見られた。ブレザーは沙穂の軽率な行動に激しく怒り、「こんなものを食べて腹が痛くなったらどうする! これは俺様と仲間たちで食らう! お前は手を出すな!」と声を荒らげると、鍋ごとカレーをどこかに持ち去ってしまったのだった。
「というかあの時は何も言わなかったけど、子犬ちゃんに口も友達もないじゃない。結局カレーどこやったの? やっぱり捨てた?」
「貴様! 口がないのは認めるが、俺様にだって仲間くらいおるわ! 寂しい奴みたいな言い方は止めろ! 俺様は孤高と孤独を愛しているが孤立してはいない!」
「そっか。それで何だっけ。バー? 行くの? いきなり何で?」
沙穂はそこでようやく、にんじんと包丁を置いた。テーブルの上に乗って喋っていたブレザーはぴょんと床に跳び下りると右袖を肩の上から、左袖を脇腹から後ろに回し、背中で両袖の先端を重ねるようにした。ストレッチをするようなポーズだ。なぜいきなりそんなポーズを取ったのかは、相変わらず意味が分からない。
「ククク……バーはバーでもメアードバーだ。我が主はおそらくそこにいる。会いに行くぞ。それがお前の望みならな」
「ライバルが……」
沙穂は瞠目した。先ほどまで、ブレザーが乗っかっていたテーブルに視線を向ける。そこにはお菓子の積まれた籠に混じって、ケーキを入れるような小さな箱と、角の焦げた『交通安全』のお守りが置かれていた。
2
バーに行くのは初めてだった。それも当然だ。サークルの飲み会などで酒を呑んだ経験こそあるが、沙穂は未成年だった。それに高校を卒業して、何か月も経たないような大学生が入るようなところではない気がした。自分で稼ぐことのできる大人が仕事帰りにふらっと立ち寄る場所。それこそがバーに抱く沙穂のイメージだ。
ブラウスにスカート、そして腰にブレザーを巻きつけた格好で案内されるがままに町を歩く。斜め掛けしたショルダーバッグに財布やお守りをしまい、白い箱を入れたビニール袋を右手に提げた。箱の中には昨日渡せなかった、手作りのドーナツが収められている。今日こそは渡せるといいなぁ、と胸を弾ませる。またライバルに会えるのだと思うと、自然と気分も高まっていった。
個人商店がずらりと立ち並ぶ午後六時過ぎの商店街は、ひどく閑散としていた。半分くらいの店がシャッターを下ろし、開いている店もどこか活気に乏しい。帰宅ラッシュなのか、自転車や徒歩で道行く高校生やサラリーマンの姿は多く見られるものの、店の前で足を止める人はほとんどいない。国道沿いの賑わいとは雲泥の差だった。店の脇に貼られている『犯罪から女性を守ろう!』とイラスト付きで書かれたポスターも、どこか虚しさを誘う。ウィンドウケースの中に閉じ込められた一昔前の洋服が、町に漂う退廃的な空気を象徴するかのようだ。
寂寥感溢れる町中から、さらに人気のない裏道に入る。開いている店が存在するかも怪しい、薄暗い道を早足で進んでいく。足元を煌々と照らす外灯の明かりだけが道しるべだ。空にはまだ夕陽が輝いているはずなのに、なぜこうも鬱屈とした闇が広がっているのか不思議に思う。やがて、次第に道幅は狭くなっていき、いよいよ周囲の音さえも遠いものに感じられてきたところで、ブレザーが「ここだ」と低い声を発した。
沙穂は足を止めた。目の前には寂れた小さな店が建っていた。窓には分厚いカーテンが敷かれ、営業しているようには到底思えない。看板が見当たらないため、店の名前も不明だった。ペンキの剥がれたドアにはオープンともクローズドとも記されていない。まるで店を含むこのあたりの空間がごっそり、時間から置き去りを食らってしまったかのようだ。
「おい、いつまでぼうっと突っ立っている。さっさと入るぞ」
荒れ果てた外装を見上げていると、業を煮やしたとばかりにブレザーは沙穂の腰から解かれ、地面に着地した。沙穂は店に一歩近づき、年季の入っていそうなドアを今一度、上から下まで眺めた。
「でも、ここ本当にやってるの? なんか廃墟みたいなんだけど」
「当たり前だろう。とにかく開けて入れ。そうすればお前は全てを理解するはずだ」
「ははぁ」
半信半疑のまま、ドアノブに手を掛ける。深呼吸を一つし、思い切ってドアを開ける。中に足を踏み入れ、そして沙穂は背後でドアの閉まる音を聞きながら立ち尽くした。
店内は沙穂の予想以上に狭かった。座席はカウンターにしかない。しかも五人も客がくればそれだけで窮屈になってしまいそうだ。照明を落としているためか、中はひどく薄暗い。薄橙色の光が暗闇の中で揺れている。色々な種類の時計が壁一面に飾られ、よく見るとそれらは全て別々の時間を刻んでいるのだった。
沙穂が身を固くしたのは、もちろん店全体を覆う異様な気配に圧倒されたこともあったが、それ以上に、カウンターで酒を呑んでいる客たちによるものが大きかった。
「メアード、バー……」
そう。ブレザーはこの店を『メアードバー』と呼んでいた。その意味をここにきて、沙穂はようやく理解する。店内には四人の客がいたが、その中に一人たりとも人間はおらず、全員漏れなくデスメアードだった。デスメアードたちも沙穂に気付くと、一様にぎょっとした表情を浮かべた。
客たちの間に小さなどよめきが起こる。「まさか人間が」「どうして」といった言葉が会話の端々から聞こえてくる。なんだかひどく場違いな、気まずい雰囲気だ。助けを求めて足元に視線を落とすと、ブレザーは腕組みの姿勢でこちらを見上げていた。
「クク、随分と鮮烈なデビューを飾ったようだな。羨ましいぞ」
「……あんまり嬉しくないけどね」
ブレザーの袖に手首を掴まれ、店の奥に引かれていく。一番奥の席が空いているようだったが、そこにたどり着くまでにはデスメアードたちのすぐ横を通らなければならなかった。視線が首筋や背中に突き刺さるのを感じる。足を速めようとしたところで、いきなり腰を上げたデスメアードが目の前に立ちはだかったので、沙穂は驚いて立ち止まった。
「ふぅ! こんばんは、とてもキュートなお嬢さん。この店は初めて? 玉ねぎは好き?」
軽薄な口調で話しかけてきたそのデスメアードは、Tシャツにジーンズという恰好だけ取り上げると一見、人間のような姿をしていたが、ラベンダー色の肌をもち、顔には鼻も口もないのに、大きなサングラスをかけていた。後頭部には弁髪が揺れている。
顔を寄せながら、そのデスメアードは掌に載せた玉ねぎをなぜか差し出してくる。困惑する沙穂の前で、ブレザーはカウンターの上に跳び乗った。手近にあったグラスを袖で掴むと、中の酒をデスメアードの顔面に浴びせる。
「寄るな貴様! こいつは俺の小娘だ。ネギは家で食らっていろ!」
「てめ……おい、なにしてくれてんだチビスケ! ネギまみれにされてぇのか!」
「クク、究極の闇に歯向かうとは救い難い愚民だな! その貧弱な野菜で何ができる!」
「あんだと? 馬鹿にしてんのか、俺と玉ねぎを!」
一瞬即発の空気に巻き込まれ、沙穂はおろおろと見ていることしかできない。ふと、背後に気配を感じて振り返ると、また別のデスメアードがこちらに歩みを寄せていた。
「おい、ネギナシボーイ。ここは楽しく酒を呑む場所だ。ナンパも喧嘩もご法度だぞ」
頭部があるべき場所にヒマワリが咲き、胸部に顔のある怪物だ。彼は柔らかな物腰で二人の間に割って入ると、サングラスをかけたデスメアードの肩を叩いた。
「ルッカートさん……でも、こいつが俺に酒を!」
「自分から引くことも時には大事だよ、ネギナシボーイ。まずは玉ねぎをしまうんだ。その野菜はお嬢さんには少々狂暴すぎる」
ルッカート、と呼ばれたヒマワリのデスメアードが胸の顔を綻ばせる。ネギナシボーイというのはどうやらサングラスのデスメアードの名前らしい。ネギナシボーイは不服そうではあったが、ブレザーを強く睨んだ後で席に戻っていった。
「失礼したね。ブレザー君に人間のお嬢さん。驚いただろう?」
「いえ……どうもありがとうございました」
沙穂は軽く頭を下げる。すぐ横でブレザーは不遜に鼻を鳴らした。ルッカートはにんまりと厚い唇を緩めると、なぜか右足を沙穂の方に少し出した。足先にはぎざぎざの線が刻まれ、甲には黒い丸が描かれている。
「みんな人間が珍しいんだ。彼も少々気は短いが、悪い奴ではない。怖がることはない。ゆっくりしていくといい」
ルッカートがほんの少しだけ身じろいだ、ように見えた。その目に昂揚が宿る。唇から息が漏れたように聞こえた。その足が一センチほど、さらに前に出される。
沙穂が眉を寄せ、首を傾げたその時、入り口のドアが開かれる音がした。店内にあるすべての目が一斉にそちらに注がれる。沙穂も振り返った。そしてあっ、と心の中で呟いた。
鈴の涼やかな音色が空気を震わす。踏み入れた足は夜の色よりもさらに濃い黒。小柄なであるにも関わらず、圧倒的な迫力を全身に従えている。
ライバルだ。沙穂の腕の中で光の粒となって消えた戦士が、再び現れた。斧で切り裂かれた傷はもちろん、それ以外の負傷の跡も、まるでなかったことのように塞がっている。
唾を呑みこみ、心を落ち着ける。ライバルに声を掛けようと口を開く。だが、沙穂の声がライバルに届くことはなかった。それ以上のざわめきが店内に爆ぜたからだ。
デスメアードたちはライバルを見るや否や、慌てふためき始めた。その表情は皆一様に、恐怖に染まっていた。耳を劈くような悲鳴をあげる者もいれば、何度も転げそうになりながら出口に駆けていく者もいる。ネギナシボーイも血相を変えて椅子を蹴とばし、助けて助けてと喚き散らしながら、店から出て行ってしまった。
ライバルは逃げていく客たちを一瞥するだけで、何の興味も関心もなさそうに出口への道を黙って開ける。しかし、動揺する客たちの中で唯一、ルッカートだけは落ち着いたものだった。彼は「やぁ、ライバル君。よく来たね」と気軽な調子で手を上げると、ライバルに近づいていった。
「今日は遅かったじゃないか。さぁ、呑もう。またおごってやる。心配ない、金ならある」
「バルゥ!」
ルッカートに頭を撫でられるライバルは、とても嬉しそうだ。だが体を店の奥に向けたところで沙穂と目が合うと、彼は表情を明らかに強張らせた。
「バッ、バル……!」
「……ライバル、本当に、また会えて」
こうして改めて対面できたことを思うと、それだけで感極まってしまう。緩もうとする涙腺を瞬きで阻止する。震える声でさらに言葉を口にしようとした、その時。
「ラッ、ライライ!」
ライバルはルッカートを跳ねのけ、店の外に飛び出していってしまった。
「えっ、ラ、ライバル!」
「ライバル君! どうした、待つんだ! ……マスター、勘定はつけておいてくれ!」
体勢を戻したルッカートがすぐさまライバルの後を追う。沙穂も続こうと足を踏み出しかけたところで、突然声を掛けられた。
「お待ちください。もしや、あなたがライバルの言っていた……」
沙穂は前につんのめるようにして体を制止させた。カウンターを挟んだ向こう側に立っていたのは三角帽子とロングコートに身を包んだ、魔法使いのような装いの怪人だった。ブレザーはその姿を目にするなり、「マスター、随分遅い登場だな」と偉そうな口を叩く。
「マスター……」
沙穂は思わず呟いた。ブレザーの言葉から察するに、このデスメアードこそがこのバーのマスターなのだろう。マスターは頬まで裂けた口を惜しみなく見せつけ、会釈をした。その丁寧な態度に、沙穂も今さらながらおずおずと頭を下げる。
3
席に着くなり、まずマスターは「さて、飲み物はどうなさいましょうか?」と尋ねてきた。それがこれまでの常軌を逸した展開に似あわず、いかにもバーらしいやり取りだったので沙穂は当惑する。ラミネート加工された一枚のメニューを眺め、りんごジュースを注文した。店には申し訳ないが、酒を嗜むためにこの店に来たわけではなかった。
ジュースはすぐに運ばれてきた。お通しとのことで提供された山盛りのピーナッツを、二、三個手に取る。ブレザーに視線を送り、彼が頷くのを確認してから口の中に放り込んだ。ブレザーの前にはコーラの注がれたグラスが置かれており、彼はごくりと唾を呑む音を鳴らすと、右袖を半ばあたりまでコーラの中に浸した。
「あなたの話はヘルブレイダーから聞いています。なんでもデスメアードのことを記憶できるとか。本当ですか?」
「はい。よく分からないですけど……珍しいって、聞いてます」
「そうですね。あまり前例がないのは確かですかね。まぁデスメアードには未だ明かされていない謎は多い。そんなこともあるのかもしれませんね」
マスターのハスキーボイスを耳にしながら、沙穂はジュースを舐めるようにして飲んだ。あれだけ騒がしかった店内も今や、沙穂とブレザー以外に客の姿はない。重なり合った分厚い針の音と、微かに聞こえてくるクラシック音楽が店内の静寂を打ち消している
「あの、マスターはライバルのことをよく知ってるんですか?」
「ライバルと? そんなこともありませんよ。私は店主で彼は客。それだけです。まぁ他のメアードよりは交流はあると思いますが。彼が来店するだけで、店には閑古鳥が鳴く有様ですから」
「やっぱり、ライバルってあんまり好かれてないんですね……」
ブレザーから以前聞いた話と、これまで遭遇したデスメアードの反応から予想はしていたが、あれほどまでに忌避されているとは思わなかった。まだ何もしていないライバルにデスメアードたちは脅え、助けを請い、一目散に逃げていった。あの光景を思い出すと、沙穂の胸はじくじくと痛みだす。不安を伴う、嫌な感覚だった。
「まぁ、歓迎する者はほとんどいないでしょうね。デスメアードの命を奪えることも恐ろしいが、その本当の脅威は対象が不特定なところにある。デスメアードである限り、誰もがライバルに狙われ、殺される可能性があるということです」
「でもライバルって、人間に危害を加えるものだけを狙ってるんじゃ」
「失礼ですが、お客様。自分の行動が人間にとって悪なのかそうでないのかなんて、我々には判別がつきません。デスメアードは自分の夢に忠実なだけです。メアードは夢から生まれ、夢に生きる、ただそれだけの存在。そこに正邪などありませんよ」
ジノの言葉を思い出す。デスメアードと人間は分かり合えない。相互理解などできず、過度の接触は不幸しか生まない。あのメアードはそう断言していた。マスターの説明を聞いた後では、その言葉の真意をうまく呑みこむことができる。
「私に言わせてもらえば、彼は自然災害みたいなものでね。彼の前では自分の夢が正しいか悪いかなんて関係ない。決めるのは結局、ライバルなんですよ。そこのところを分かっていない連中が多い。自分の夢の正当性だけを主張しようとする。竜巻や地震を相手に自分の行いの良さを告げたところで、どうにもならないでしょう?」
「災害……」
「彼には悪意というものがない。だから恐ろしいんです。純粋すぎるんですよ、彼の夢は」
沙穂はピーナッツもジュースも手にすることを忘れて、マスターの話に聞き入った。ブレザーも無言でコーラを啜っている。確かに自分をデスメアードに置き換えれば、ライバルの恐ろしさは理解できる。マスターの言っていることも的を射ている気がする。
だが、沙穂は人間だ。ならば人としての視点が、ライバルとの付き合い方があるはずだ。
沙穂はジュースで舌を湿らすと、椅子に座り直した。カウンターの上で両手を組み、真っ直ぐマスターを見つめる。
「あの、マスターは人間とデスメアードが仲良くできると思いますか?」
「ふむ」
マスターは顎に手をやると、少し考えるような素振りをみせた。沙穂は固唾を呑んで見守る。ジュースを全て体内に吸収し終えたブレザーは、沙穂の顔をじっと見上げていた。
ほどなくして、「そうですね」とマスターは声を発した。
「面白い、しかし難しい問題だ。ウィスキーでも舐めながら談義したいくらいのね。だけど一つだけ言えることがあります。少なくともライバルは、あなたのことを大切に思っているということです」
「ライバルが私を……?」
「ライバルはあなたに感謝している。それは間違いありません。だが一方でこうも考えている。あなたを自分の夢に巻き込みたくないと。自分のせいであなたの夢が潰えてしまうことを恐れている。だから、必要以上の接触を避けているのだと私は思います」
それは沙穂にとってあまりに予想外の意見だった。目から鱗というやつだ。しかしそれが本当なら沙穂を見るなり、店から飛び出していってしまったことにも説明がつく。ライバルは自分のせいで沙穂がジノに捕えられたことを引け目に感じているのかもしれない。
ライバルの事を何も知らない。だからこれ以上の関係を築けないと嘆いてきたが、そんな優しい理由があるとしたら……悲観するようなことなど、なかったのかもしれない。
「ククク……俺様も同意見だ。俺は主からお前を守るように言いつけられた。主の周りに危険があるのは本当だ。そんな場所にお前をやすやすと連れて行くことはできないからな」
少し前に、ライバルに対する復讐の念を燃やし、襲い掛かってきたデスメアードがいた。それにジノのようにライバルに挑もうとする者もいる。あんなような連中と、ライバルは何度も遭遇し、その度に戦ってきたのだろう。確かにそこに沙穂がいてもどうにもならない。かえって邪魔になるだけだ。だからライバルの判断はおそらく正しい。
「……そっか。でも、だったら私はどうすればいいのかな……」
愛があるだけでは駄目なのだ。他者を想うからこそ生じてしまう壁もある。これからどうするべきか、沙穂は悩んだ。まだ半分以上中身の残っているグラスをじっと見つめる。
そこに新たにジュースが注がれた。視線を上げると、マスターが微笑みを浮かべていた。
「しかし、ライバルにとってあなたの存在は必要なんじゃないかと、私は思いますけどね」
さらにブレザーのグラスにもコーラを注ぐ。沙穂はマスターの両手が機械でできていることと、その手首に時計がたくさん巻かれていることに気付いた。
「ライバルを理解するものは少ない。いえ、ほとんどいないと言っていいでしょう。特にデスメアードにはね。だが、あなたは人間だ。人間ならそれができる。ひょっとしたら、デスメアード同士が分かり合うよりも事は簡単なのかもしれません」
「人間だから、できる……」
「知っていますよ。ライバルのお守り、あなたが届け、渡してくれたとか。嬉しかったと思いますよ。あなたがライバルに助けられたこと以上に、彼はあなたに感謝している」
沙穂はマスターの手元に目をやりながら、彼の言葉を胸の中で何度も反響させた。ここに来て良かったと思った。胸の内からふつふつとわき上がるものを感じる。どうやら沙穂の抱いた夢は、夢のままで終わらずに済みそうだ。
「子犬ちゃん」
「ククク、あぁ分かってる。来る途中に見えた公園だ。俺はここで待っていよう。俺様の夜はこれからだからな」
ブレザーは袖をひらひらと振る。沙穂は頷き、自分のジュースを一気に飲み干した。
「ありがと子犬ちゃん。マスター、ちょっとライバルに会ってきます。また帰ってきますからお勘定はその時に」
「どうぞ、ごゆっくり。またお二人で来店されることを楽しみにお待ちしております」
マスターは軽く頭を下げる。沙穂はお礼を言って立ち上がると、数十分前のライバルと同じように店から飛び出していった。ショルダーバッグの中にしまったお守りの鈴が揺れ、人気のない道に、ちりんちりんと音が響く。
4
夕闇と薄闇が溶けて混じった空の下。駅の近くにそびえる雑居ビルの屋上に、並び立つ影が二つ。人のものではない異形のシルエットは、紫色の肌にサングラスをかけたネギナシボーイと、大きく咲いたヒマワリの下に顔のあるルッカートだった。
「びっくりっすよ。まさかあんなところでライバルに会うなんて、ツイてねぇよなぁ」
「あの店はライバルの御用達だからね。酒好きの君なら知っていると思ったが」
「マジで! じゃあもうあの店行けないじゃん……あー、また違うところ探さなきゃ。カタストロフィ・メアードの店にすっかなぁ。あそこ料金馬鹿高だから、行きづらいんだけど」
ネギナシボーイは愚痴を漏らしながら、右手に持った缶ビールを傾ける。どうやらこのデスメアードは飲食するときだけ、サングラスの下方に丸い穴が生じるらしい。一方でルッカートはライターを取り出すと、二本目の煙草に火を吐けた。
「それにしてもルッカートさんすげぇよなー。ライバルとあんなに仲良さ気に話せるなんて。よく怖くないよ。俺なんてあの鈴の音を聞いただけでびびっちゃうぜ?」
「良い関係を作っておいて損はない。それが大人の付き合いさ。特に奴に関してはね」
煙草の先から紫煙をくゆらせながら、ルッカートは町を見下ろす。駅前の通りにはまだ人通りも多い。眼下を過ぎ去っていく人々を眺めながら、ふぅとため息を零した。
「それにしても、ハリケッシングな光景だった……」
何かを思い出すかのようなルッカートの呟きに、ネギナシボーイは首を傾げる。ルッカートは堪えきれずといった様子で含み笑いを浮かべると、それから振り返った。
「ネギナシボーイ。少し私の夢に付き合わないか? 君にとっても悪い話ではないはずだ」
ルッカートからの突然の申し出に、ネギナシボーイはふふっと声を漏らした。頬を掻き、「やれやれ」とわざとらしく肩をすくめる。
「いいですよ。しょうがないなー ルッカートさんにはお世話になってるからなー」
「なら決まりだ。ちょうどいいことに、他のデスメアードの気配もするしね。今夜はいい日になりそうだ」
ルッカートはにやりと口角を上げ、それからまた視線を町に移した。その暗澹とした眼差しの先には早足で岐路を急ぐ夏服の女子高生の姿があった。
5
全速力で暗がりの町を走っている間、沙穂は誰とも行き会わなかった。もしかしたら物陰や道の隅の方に人がいたのかもしれない。だが、どちらにせよ一心不乱にライバルのいる場所を目指していた沙穂には周囲に気を留めている余裕はなかった。
これまでのこと、これからのこと。後悔、決意。色々な感情がない交ぜになり頭の中でぐるぐると回っている。今、ここでどうしてもライバルと会わなければならなかった。そうでなければまた余計なことを考えてしまいそうだったからだ。
それほど複雑な道ではなかったので、すぐに公園にはたどり着くことができた。『指場第四公園』と石塀に書かれた、本当に小さな遊び場だ。滑り台とブランコ、それに雑草によって支配された砂場らしきスペースだけで構成されている。
園内には錆びついた金属を無理やり動かしているような、悲鳴じみた音が響いている。音のする方角を辿ると、夕焼けに照らされたブランコがゆっくりと、小さく揺れているのが見えた。
「ライバル!」
大声で名前を呼ぶと、ブランコを揺らしていた影が顔をあげた。真紅の瞳にV字の角、銀色のマスク。逆光に照らされていても、見間違えることはない。それはライバルだった。
「バッ、バルゥ!」
ライバルは慌てたように立ち上がると、鉄柵を飛び越え、逃げて行こうとする。沙穂は足を止め、肩で息をしながら「逃げるな!」と力の限りに叫んだ。
びくりと体を震わせ、ライバルは立ち止まった。恐る恐るといった感じで沙穂を振り返る。沙穂は胸に手を当て、呼吸を整えた。全身からどっと汗が噴き出してくる。額から止めどもなく流れてくるものを、腕で拭う。
「ライバル、私はあなたのことを怖がってなんていないよ。だからライバルも私を怖がらないで。どんなに傷ついたって、私はライバルに会えたことをこれからも絶対に後悔なんてしない! 恨んだりもしない! だから!」
言葉が通じているのかは分からない。その意味を理解してくれている確証もない。
しかし沙穂は彼の心に届くように、その胸を貫けるように、ありったけの気持ちを込めた。ライバルは沙穂のことをじっと見つめていた。沙穂もまた無言で見つめ返した。夕陽が二つの影を地面に縫い付ける。暮れなずむ町の片隅で、二人だけの時間が流れていく。
どのくらいの間、そうしていただろうか。ライバルは小さく頭を振ると、沙穂の方に引き返してきた。近づいてくるにつれ、薄闇の中にあった彼の体の子細な部分が少しずつ明かされていく。その全てが明瞭になる頃には、沙穂とライバルは間近で向き合っていた。
「ライバル。これ、日頃のお礼。私が作ったドーナツ。よかったら、食べて」
「……バルル」
ビニール袋を差し出すと、ライバルはおずおずとそれを受け取ってくれる。中を覗き込み、それから沙穂を仰ぎ、恐縮するように顎を引いた。
「それから、これ。大事なものなんでしょ? また落ちてたよ。拾っといたの」
ショルダーバッグの中身を探り、お守りを取り出す。手渡すと、ライバルは驚いた様子で何度も沙穂とお守りとを見比べ、深々と腰を折り曲げた。その姿は何だか滑稽で、デスメアードたちを脅えさせていたのと同じ怪人とは思えず、沙穂は噴きだしてしまった。
「……そういえば、このお守りが私とあなたを繋ぐきっかけになったんだよね。私となっちゃんを助けてくれた時に落として、それを私が拾って返して、それでライバルは私に素敵なボディーガードを付けてくれたんだよね」
「バルライ」
「ライバル、私のことを気遣ってくれてるの、分かってるよ。だけど私はライバルのことをもっと知りたい。もっと仲良くなりたいの。あなたのことを忘れちゃう前に」
開いた手を差しだすと、ライバルはその意味を探るように沙穂の顔を見て、手を見た。微笑みを口元に宿し、彼の求める答えを明示する。
「友達になろう、ライバル。あなたとなら仲良くなれるよ。今よりも、ずっとずっと」
何の感情も映さない、波の立たない湖面のような瞳が沙穂を見上げている。これ以上の言葉はいらなかった。沙穂は心に語りかける。ライバルの気持ちを真っ直ぐに受け止める。
「バルバル……」
ライバルは腰にお守りを付けると、沙穂の指先に軽い力で触れ――そのまま手を握りしめてくれた。沙穂もゆっくりと彼の小さな掌を握り返す。その感触は記憶以上に、温もりに溢れていた。自然に笑みが零れる。するとライバルもまた嬉しそうな声をあげた。
「ラライッ……!」
突然、弾かれたようにライバルは振り返った。周囲をきょろきょろと窺いだす。彼の顔色が変わったことに沙穂は戸惑いを覚えたが、すぐに事情を察した。
「……行くんだね。誰かを救うために」
「バルバル」
ライバルはこくりと頷く。沙穂は全てを理解して彼の手を離した。
「いってらっしゃい。またあのバーに遊びに行くね。だから、手が空いた時にはうちにいつでも遊びに来て。子犬ちゃんと一緒に待ってるから!」
親指をぐっと立て、戦いへと向かう勇姿にかざす。体全体を揺らすようにして頷くと、ライバルもまた親指を立てて返した。
「バルバル! ライバルバルッ!」
踵を返すと、鈴の音を鳴らしながら夕闇に駆けていく。沙穂はその後ろ姿を、手を振って見送った。小さくなっていく背中を見つめながらも、次に彼と会える日がすでに待ち遠しかった。
6
女性の短い悲鳴が、町の至るところから聞こえてくる。蒸し暑いが、風のない静かな夜だ。街路樹の葉は一枚も音を鳴らすことはなく、砂埃が町を汚すこともない。
ひざ丈のスカートを履いた二十代くらいの女性が、颯爽と横断歩道を歩いていく。歩行者用信号が点滅する。他の通行人と同じように、その女性も足を速めた、その時。
まるで見えない手ではたかれたかのように突然、彼女のスカートが大きく捲れ上がった。
女性は悲鳴をあげ、慌てふためきながらスカートを手で押さえる。背後を振り返り、あたりをきょろきょろと見渡す。だが、その光景を車の中から見ていた者なら、女性のスカートが誰の手も借りず、文字通り、独りでに捲れ上がったことに気付いただろう。
不思議な現象に見舞われたのは彼女だけではない。道行く女性たちのスカートが、風もないのに次々と捲れていく。赤面する女性たちに、通りすがった男たちはぎょっとした表情を浮かべながらも、興味深そうな視線を向けている。中には彼女らが公衆の面前で下着を晒したことに昂揚し、そのことをはやし立てる若者の姿もあった。
女性たちの阿鼻叫喚を、すでに店じまいした写真屋の屋根の上から眺める、二つのシルエットがあった。ネギナシボーイとルッカートだ。彼らの周囲には紫色の膜が円柱状に張られており、それで人間たちの目から自分たちの姿を隠しているのだった。その位置からならば表通りから裏通りまで、三百六十度景色が見渡せる。絶好の観測スポットだった。
ネギナシボーイは屋根の上に立ち、双眼鏡を使ってその艶やかな景色を眺望している。ルッカートはあぐらを掻き、腕組みをしながら視線だけを動かしていた。
「うひょー。見てよあの子、大人しそうな顔してあんなに派手な下着はいちゃって! ふふっ、恥ずかしがってる顔もそそるねぇ」
「あまり口うるさくするなよ、ネギナシボーイ。スカート捲りは大人の嗜みだ。静かに観察し、そして心で感じるものだ。それを忘れないでいただきたい」
「さすがルッカートさん! パンツを見ることに関しては右に出るものはいないぜ!」
ネギナシボーイは口笛を吹き、ルッカートはふふんと鼻を鳴らす。彼らの目の先を、丈の短いスカートを履いた、二人組の女子高生が通りかかる。新たな獲物の登場に、ルッカートがそのチェックの布地に視線を向けた、次の瞬間。
女子高生もビルも、車もガードレールも。その全てが灰色の空によって塗りつぶされた。
「な、なんだぁ!」
「これは、メアード空間か……?」
戸惑うネギナシボーイと、冷静に事態を分析するルッカート。対照的な反応をみせる二人の耳を、戦士の雄叫びが貫いた。
「バルウウウウウウウッ!」
背後に立つ気配に、二体の異形は一斉に振り返る。するとそこには闘志を全身に漲らせたデスメアードの処刑人、ライバルが出現していた。
「ラ、ライバルだとォ!」
ネギナシボーイは素っ頓狂な声をあげ、ルッカートの背後に隠れた。ルッカートは冷たい眼差しをネギナシボーイに向けると、体を揺らして払いのけ、ライバルに近づいた。
「やぁ、ライバル君。さっきは見失っちゃってね。突然出て行ってどうしたんだい?」
両手を広げ、微笑みを表情に湛えて、ルッカートは気軽な調子でライバルの肩を叩く。だが次の瞬間、ライバルの拳がその顔面をすかさず打ちのめした。ルッカートはくぐもった声をあげて、褐色の大地に叩きつけられる。ネギナシボーイは「ひいっ!」と悲鳴を漏らし、縮み上がった。
「ううっ、何をするんだ。酷いじゃないかライバル君! 君にどれだけあの店でおごってやったと思っているんだい? あんまりじゃないか!」
「バルバルウッ!」
抗議しながら、腕をついて起き上がろうとするルッカートに、ライバルは鋭い回し蹴りをくらわせた。さらに頭上に生えたヒマワリを掴み、膝蹴りを数回腹に叩きこんでから投げ飛ばす。何かを訴えようとしたその口は、地面に墜落した衝撃によって塞がれた。
「ライッ! バルッ!」
「おい、待ってくれ! 単なるスカート捲りだ。もっともっと凶悪なことをしているデスメアードが近くにいる。本当だ! 私に構うより、そちらに行く方が正しいと思うがね」
だがライバルは聞く耳を持たないようだった。ライバルの足先がルッカートの顔面にめりこむ。捻じれた石柱に背中を打ちつけ、縋るようにして起き上がるルッカードの表情には怒りと焦燥とが入り混じっていた。
「くっ。おい、ネギナシボーイ! 突っ立ってないで手を貸せ。このままじゃ殺される!」
「ええっ! 俺ェ?」
突然の指名にネギナシボーイは自分を指さし、狼狽える。少し迷ったあとで、「くそおっ!」と地団太を踏んだ。右手を横に伸ばすと掌に光が宿り、黒いステッキが出現する。
「ったく、世話の焼けるおっさんだよ!」
握りしめたステッキを一振りし、ライバルに飛び掛かる。だがライバルは振り向きざまに回し蹴りを放つと、石突きが自分の体を衝く前に、相手の脇腹につま先を埋めた。ネギナシボーイは苦悶の表情を浮かべながらも受け身を取って着地すると、ライバル目がけて顔面から燃えるような光を放出した。
「バッ、バルウッ!」
景色が白く滲むようなあまりに強烈な光を浴び、ライバルは後ずさる。そして膝を落とすと、呻き声をあげながら顔をしきりに掻き毟りだした。
「見たかよぉ、俺のフラッシュを! お前の目をもっと痛くしてやるぞ!」
「よくやった、上出来だぞネギナシボーイ! 恩を仇で返すのがどれほど恐ろしいことなのか、私がこの小僧に教えてやる」
ぜいぜいと息を吐くネギナシボーイと、両手で目を覆い、悶えるライバルの傍らでルッカートは空を舞った。背中から四枚の透明な羽根をX状に生やし、それを羽ばたかせている。ルッカートは眼下の敵に向けて目を細めた。するとまるで何かに体をどんと突かれたかのように、いきなりライバルの体が後ろに吹き飛ばされた。
「ラライッ……」
尻餅をつき、立ち上がろうとした拍子に今度は横殴りの衝撃がライバルを打ちのめす。小柄な体は宙を舞い、砂埃に巻かれながら激しく転がった。
「出た! ルッカートさんお得意の見えない第三の腕! スカート捲り以外に使っているのを初めて見たぜ!」
「余計な解説は控えろ、ネギナシボーイ」
ライバルの体が今度は、まるで見えない糸に吊り上げられているかのように空に向けて引っ張られていく。じたばたと手足をばたつかせるライバルを睨みながら、ルッカートはにやりと笑みを浮かべた。
「ライバル、お前のことはよく知っている。お前が真似できるのは、夢を叶えるための能力と技だけなのだろう? 飛行能力のような生まれもっての特性は範囲外だ。さらに」
ライバルの腹部に備わった黄金のバックルが、強い光を放つ。そしてライバルはルッカートを睨んだ。敵から入手した『見えない腕』を彼もまた使用するつもりなのだ。
だが次の瞬間、ライバルの体は地面に向けて真っ逆さまに落下し、そして突然、二人の間で、大きな物同士が正面衝突を起こしたかのような轟音が鳴り響いた。ライバルの『見えない腕』による攻撃を、ルッカートは同等の能力で受け止めたのだ。
「この通り、私は自分の能力を鍛えてある。単なる模倣じゃ到底崩すことなどできんよ!」
ルッカートの開かれた口から、収束した竜巻が吐き出される。直撃を受け、ライバルは石柱に背中をぶつけてもんどり打った。そこにネギナシボーイがステッキを構えて迫ってくる。ライバルはよろめきながらも起き上がり、顔面から光波を放って対抗する。それは先ほどライバル自身が苦しめられた、ネギナシボーイの技だった。
「残念だったなライバル! 俺のグラサンはな、目が痛くならないためにあんだよッ!」
しかしネギナシボーイは構わず光の中を突っ切っていくと、ステッキの先から拳大サイズの火球を撃った。
「バ、バルバル!」
ライバルは咄嗟にかわそうとするが、その体は気をつけの姿勢のまま動かない。『見えない腕』が背後からがっしりと彼の体を掴んでいるのだ。もがくが、腕の力は堅固なまでに強く、火球は身動きのとれないライバルの体を容赦なく打ちのめした。
「バリュゥゥッ!」
「ライバル恨むなら、自分の付き合い下手を呪うがいい!」
ルッカートの口が大きく開かれる。その口内に竜巻が充填されていく。
「そうだ! だから俺を恨まないでくれよな!」
ネギナシボーイは手足を封じられたライバル目がけ、ステッキの先端を突き出す。
「ラ、イ……」
しかし体中のあちこちに傷を負いながらも、ライバルの瞳から闘志は消えていなかった。ライバルは首を捩ってルッカートを振り仰ぐと、顔面から光を破裂させた。
まるで景色を蝕むような光の浸食にルッカートはうめき声をあげ、両腕で顔を隠すようにした。続けざまにライバルはネギナシボーイに顔を向け、紅い双眸を細める。するとネギナシボーイの首根っこを掴んだ『見えない腕』が、空中のルッカート目がけ、その痩身を投げ飛ばした。
二つの悲鳴が空を穿つ。両者は中空で衝突すると、もつれ合いながら落下していった。
「ぐっ、うっ……なんと言うことだ! 邪魔だ ネギナシボーイ!」
折り重なるようにして自分の上に覆いかぶさったネギナシボーイを乱暴にどけると、ルッカートは四枚の羽根をはためかせて再び飛翔しようとした。だがライバルの第三の腕がその足を掴むほうが速かった。力任せに空から引きずり降ろされたルッカートは石柱に叩きつけられる。背中の羽根がへし折れ、散らばった破片の上に彼は転げた。
「くっそ……ライバルめ。なんてこった目が見えない……!」
「バルバル!」
砂煙に巻かれながら、両目を押さえてうずくまるルッカートにライバルは急迫する。軽くジャンプして拳を振り下ろしたその時、座り込んだルッカートの右足だけがまるで独立した生物のように動き、ライバルの拳を止めた。
それだけでは終わらない。足の先端に引かれたぎざぎざの線を境にして、足は横に裂け、ライバルの腕に噛みついたのだった。足の甲に描かれた黒い丸はさながら目のようだ。牙のような鋭い突起が皮膚に食い込み、ライバルは苦痛を漏らした。
「あ、あれは第三の目と第二の口! パンツを覗く目的以外で使っているのを見るのはこれまた初めてだ!」
「喋ってないで早くしろ! 目が見えなくちゃ、第三の腕が使えないんだぞ!」
驚愕するネギナシボーイに、ルッカートの怒号が飛ぶ。ネギナシボーイは「そうでした!」とたじろぐと、ステッキの先端を素早くライバルにかざした。
ライバルの腕を捉えた牙は皮膚を貫通し、もはや引きちぎられるのは時間の問題に思えた。その時、いきなりライバルの全身がまるで、星空のようにちかちかと白く瞬き始めた。煌めきに身を包まれたライバルは振り返ることもせず、右腕だけを背後に向けた。その掌から刃が発生する。刃は白光を帯びながらいつもの二倍、三倍と伸び――迫るネギナシボーイの右腕を貫いた。
「ぎゃああっ!」
「バァァルッウウッ!」
刃を引き抜き、さらに腕を百八十度回転させて、ルッカートの右足を太股から切り落とす。怯む隙さえ与えず、流れるような動作で光刃を敵の脇腹に押し当てる。
「バ、止めろ、ライバル! やめろおおおっ!」
「ライィィッ!」
ルッカートの制止に耳を貸す素振りすらみせず、ライバルは腕を振り抜いた。刃はルッカートの胴体を真っ二つに切り裂いた。数秒の間を空けて、寸断された体から白い液体が噴水のように迸る。もはやその口からは命乞いの言葉さえ吐かれることはなかった。
「うああああっ!」
粒子となって散り散りに消滅していくルッカートを目にし、ネギナシボーイは絶叫を残して逃走する。ライバルは彼の背中を一瞥さえしたが、追うことはしなかった。その体を包んでいた煌めきは、ルッカートが空気に溶けてなくなった頃にはすでになくなっていた。
荒れた地面と灰色の空が失せ、元通りの町並みが戻ってくる。ライバルは皮膚一枚でかろうじて繋がっている右手を逆の手で抑えながら、ある一点を鋭く睨んだ。新たな標的の気配を察知したのだろう。お守りの鈴を揺らし、ライバルは町の空を駆けていく。彼の夢に満ちた夜はまだまだ終わらないようだった。
7
沙穂はブレザーを腰に巻き、家路を辿っていた。ライバルと会話を交わした公園を通り過ぎ、メインストリートに入る。八時を過ぎた商店街に人の姿はなかった。右手に提げた青いビニール袋の中をそっと覗き込む。中にはアルミホイルに包まれたサンマの塩焼きが入っている。
「おみやげまでもらっちゃった。また行きたいな、あのバー。マスターもいい感じだし」
「ククク……気に入ってくれて何よりだ。良かったな、主と話せて。それでこそ、ここに連れてきた甲斐があるというものだ」
「うん、ありがとう子犬ちゃん。あのタマネギから庇ってくれたとき、かっこよかったよ」
「ふん。当然のことだ。それにああいう軽薄な輩はどうにも好かないのでな」
「……ねぇ。もしかして照れてる?」
「ば、馬鹿なことを言うな。俺様が照れるのは、世界が終わりを迎えるその時だけだ!」
強がる姿が何だかいじらくして微笑ましくて、沙穂は感謝を込めて袖のあたりを軽く撫でてやる。「あらそう」と笑うと、ブレザーはふんと鼻を鳴らし、体を小さく震わせた。
沙穂は星の瞬く空を見上げる。あれから一時間程、店で待ったがライバルは現れなかった。しかし、もう寂しくはなかった。ライバルと心が通じていることを確信できたからだ。今頃、自分の夢のために町中を駆け回っているはずだ。そんな彼を応援できる自分を誇らしく思う。これからのことを考えると、それだけで胸が弾んだ
「じゃあ、帰ってレポートやろう。ライバルが頑張ってるんだもの。私も頑張らなきゃ」
「ククク……ならば俺は昨日レンタルしてきた映画を観るとしよう」
「あー、いいなぁ。レポート終わるまで待っててよ。あれ私も観たかったんだから」
「ふん。借りたのは俺だ! 観るタイミングは俺様が決めるのが当然だろう」
「私のお金とカードで借りたくせに……そうだ、今度一緒に映画行こうよ。コマーシャルでやってた奴。モモンガの。観に行きたいって言ってたじゃん」
くだらない話を交わしながら、寂れた町を一人と一匹で歩く。そこには難しい言葉など要らなかった。ライバルとだってそうだ。どんな関係なのか、と問われればもう沙穂は何の迷いもなく答えることができる。それはとてもかけがえのないことであるはずだった。
「デスメアード・ファイル」
ルッカート・メアード
属性:天
AP2 DP3
身長:158cm 体重:60kg
【基本スペック】
領域(Lv1。物音などを周囲に気付かれにくくする)
飛行(空を飛ぶことができる)
成金(攻撃力、防御力をダウンさせることで、メアドリンの劣化を回復することができる)
【特殊能力】
空気を束ねて形成した「見えない第三の腕」を駆使する。睨んだものを対象にとるため、視覚を封じられると使用できなくなる。
【DATE】
扇風機の成れの果て。強い風を発生させる力はあるのに、気に入った女性のスカートさえ自由に捲れない自分の限界に苛立っていた。
デスメアードとなった今、女性のスカートを捲り、パンツを見ることだけに能力を活用することを決意する。
紳士的な物腰だが、中身は変態。いかにして上手く女性のスカートの中を覗けるかだけを常に考えている。
自称「デスメアード界の貴族」
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ネギナシボーイ・メアード
属性:火
AP2 DP1
身長:171cm 体重:50kg
【基本スペック】
領域(Lv2。周囲に結界を形成することで、外部からの侵入を防ぐ)
逆上(怒ると攻撃力アップ。ただし命中率は下がる)
同調(他のデスメアードのパラメーターが上昇した時、自分のものも上昇する)
【特殊能力】
女性の涙を受け止め、悲しみを吸収することができる。
【DATE】
人間の女の子と酒が大好きなナイスガイ。おたまの成れの果て。
生前、女性たちを泣かせる玉ねぎに怒りを燃やし、デスメアードとなって玉ねぎを粛清しようとするが、玉ねぎの成れの果てであるグルムリン・メアードと戦ううちに友情が芽生え、それから玉ねぎのことが好きになった。そのため「女性の涙をこれ以上見たくない!」という本来の夢を思い出し、そのために生きることになる。しかし完全に女性の味方をするわけでもなく、あくまで泣かなきゃいいや程度であるため、女性が嫌がることでも平気でやる困った奴。




