1話「彼の名前はライバル」
とても素敵で楽しい日常。だけどみんな狂ってる。
「こちら現場です。大変な事件が起きました。血塗れになった人たちが倒れています!」
マイクを握る女性リポーターの、切迫した声が響く。
巨大な瓶の形をした噴水。バスのターミナル。並び立つビル。歯医者の看板。青に変わる信号機。そして――助けを請う人々の呻きと、鳴り響くサイレン。
普段は長閑な駅前の景色が、今や惨劇によって赤く塗りつぶされていた。
「今、救急車で搬送されているのは女性のようです! 幼い子どもも担架に乗せられています!」
赤いランプを回転させた救急車とパトカーが、ガードレールに沿ってずらりと並ぶ。あたりには惨劇の起きた現場を一目見ようとする野次馬で人だかりができていた。
「なにがあったんだ?」
野次馬の中から一際大きな声があがる。それは浅黒い肌をした中年の男のものだった。携帯電話のカメラで現場を撮影していた青年が振り返り、ここぞとばかりに答える。
「通り魔らしいっすよ、通り魔。何人か刺されたって」
青年の言葉を証明するかのように、野次馬の前を救急隊員の運ぶ担架が通り過ぎていく。人々の目が一斉に、この事件の被害者の方に向けられた。
乗せられているのは、小さな男の子だった。おそらく四歳か五歳くらいだろう。ボーダー柄のTシャツはおびただしいほどの血液で染まっていた。顔は青白く、唇は紫色をしており、瞼は固く閉じられている。微かに呼吸をしているようであったが、それも時間の問題であるように思えた。
彼の手には最近テレビで放映されている特撮ヒーローの、ソフビ人形が握られていた。余程大事にしていたに違いない。その小さな手は、何があっても離さないことを誓うかのように人形を固く包み込んでいた。
鈴の音が聞こえる。
それは小さなリュックサックを担いで担架の少し後を歩く、警察官から発せられていた。リュックに付いている鈴の付いたお守りが、警察官の歩みに合わせて揺れ、音を鳴らしているのだ。
お守りに書かれた文字は『交通安全』だった。神様は車の事故からは男の子を守ってくれたものの、それ以外の不運には手が回らなかったらしい。仕事の不徹底を恥じるかのように、鈴の音はどこか密やかに鳴り響く。
「で? 犯人はどうしたんだ、犯人は。捕まったのかよ? そっちの方が大事だろうが」
担架が救急車の中に運び込まれていくのを眺めながら、先ほどの男がしゃがれた声を発する。青年は救急隊員たちが集まっている場所を指差した。
「あの……あれ、らしいですよ」
あん? と低い声をあげ、男は爪先立ちになる。
救急隊員たちの中心には、高校生と思われる少年が血塗れで横たわっていた。傍らには血で濡れたナイフが落ちている。少年の目は見開かれたまま空を射抜き、その唇は上下をわずかに離したまま何も語ることはなかった。
それから三年後――
1
遠い空から、哀愁漂うピアノのメロディが降り注ぐ。一日の終わりを連想させるその音色は町中に綿々と広がっていく。
この町では朝六時から夕方六時までの間、二時間おきに様々なメロディが流れてくる。朝六時はバイオリンによって奏でられる荘厳な音楽、昼の十二時は甲高いサイレンと、時間帯によって鳴らされる音は様々だ。この町に住んでいる人々のほとんどは、なぜこれほど頻繁に、町に音楽が鳴り響くのか知らずに生活をしているらしい。だが知らなくとも済むことはこの世にたくさんあるもので、人々はそれを当然のものとして、まるで地球が生まれた時から存在したとでも思っているかのように、日々を過ごしているようだった。
夕刻を奏でる音が響く駅前には、学校帰りの中高生の姿が多く見受けられた。駅を臨む小さな広場には、巨大な瓶の形をしたユニークな噴水がある。指場町のことが以前旅行雑誌に載った際、この町を象徴する物として紹介されていたのも、この噴水だった。とにかく巨大で目立つし、駅から出た時に分かりやすいということもあって、待ち合わせ場所として多く使われている。役所もそんな需要を考慮してか、噴水の前には数台のベンチが設置されていた。
銀林沙穂も、この場所をそういう意図で利用している者の一人だった。
沙穂は噴水前のベンチに座り、駅の出口をじっと見張っていた。螺子の緩んだレッドフレームのメガネを指で押し上げながら、中高生たちの集団の中に目を光らせ、待ち人の姿を探す。だがそこに目的とする顔を見つけることはできなかった。
ため息を零し、膝の上に広げていた大学の教科書に再び視線を落とす。まだ購入してから一月しか経っていないその本には、汚れ一つなかった。今年の春に高校を卒業し、四月に大学に進学したばかりなのだからそれも当然だ。もとより沙穂は書物の類を大切に扱うタイプだった。服の裾がズボンから中途半端にはみ出しているのは良くても、本が汚れているだけはどうしても許せないのだ。
額に浮かぶ汗を拭いながら、そうやって明日の予習をしていると突然軽やかな音楽が流れ出した。沙穂はスカートのポケットを叩き、それからハッと思い出して、ハンドバックに手をかける。中を探り、ぴかぴかと青い光を発する携帯電話を取り出した。
画面には待ち人の名前が表示されていた。沙穂はそのまま画面を見つめ、様々な想像を巡らせた後で通話ボタンを押し、携帯電話を耳に押し当てた。
「あの、もしかして、もういる?」
沙穂が喋りだす前に、受話口の向こうから急いた声が聞こえてきた。それは大人と子どもの狭間を彷徨っているかのような少年の声だった。
「あれ? 待ち合わせ六時じゃなかったっけ?」
隣に立つ時計塔を下から覗きこみながら、記憶を頭の中から掘り起こす。
「うん、そうなんだけどさ。ごめん。補習が長引きそうでさ。今日いけないかも」
少年の声が申し訳なさそうに言う。沙穂は首を傾げる。
「へぇ、珍しいね。数学?」
「うん、そう数学。因数分解とか、そういうやつ」
「因数を分解するんだよ。この間、ラジコン分解してたじゃん。あれと同じだって。グリスを駆使するんだよ、グリスを」
「数学はあんな簡単なものじゃないって。それに分解にグリスは使わねぇし。そもそもあれラジコンじゃねぇし」
「そっか、そうだっけ。じゃあまぁ、別に明日でもいいし。全然気にしてないから大丈夫だよ。ドーナツ食べて帰るからさ。補修ならしょうがないし」
「本当にごめん。埋め合わせはちゃんとするから。じゃあそろそろ休憩終わるから切るよ。また電話するから! 絶対するから!」
「うん、ドーナツ食べて待ってる」
沙穂が全てを言い終える前に、ぶつり、と音をたてて通話は切れた。携帯電話を閉じると時計塔を見上げ、それから教科書をハンドバックの中に無理やり突っ込んだ。待ち人が来ないのなら、この場所に長居する必要はない。沙穂は汗でぬめるメガネを顔から外し、手の甲で目の辺りをごしごしと拭った。
「そういえば私も苦手だったもんなぁ……数学」
独り言を零し、それから携帯電話をスカートのポケットに入れて、ベンチから立ち上がる。ハンドバックを片手に大きく伸びをしてから、側に停めておいたシルバーフレームのママチャリにまたがった。
2
馴染みのドーナツ屋に寄り、そこの店長と盛り上がっているうちに、気付けば外はすっかり薄暗くなってしまった。
自転車に乗る前に携帯電話を開き、時間を確認しようとしたが、どのボタンを押しても画面は真っ黒なままだった。おそらく充電が切れてしまったのだろう。
「……まぁ、仕方ないよね。充電切れなら、しかたないよ」
携帯電話を閉じながら呟き、自分を納得させ、これから電話を掛けてくれるであろう相手に心の中で謝罪する。家に帰り、充電し直す必要があった。
都会であればネオンが輝き、道は人で溢れ、まだ賑わっている時間帯なのであろうが、どちらかといえば田舎に属する指場町にはもはや人影すらまばらだった。等間隔に並んだ外灯が、黙々とアスファルトを照らしている。周囲には静寂が降り、時折車の走行音が遠くから聞こえてくる以外は、物音一つ響くことはなかった。
沙穂ちゃん、と背後から声がかけられたのは、ドーナツ屋から一キロ程進んだところにある畦道でのことだった。
沙穂はその時、自転車で風を切りながらドーナツランドのテーマを口ずさんでいたので、一瞬反応が遅れてしまった。そういえば何か声が聞こえたぞ、と思い、ブレーキを掛けて振り返ると、見知った顔の少女がこちらに手を振りながら走ってくるのが見えた。
「あ、なっちゃん。おつかれ!」
肩に触れるくらいまで伸ばした黒髪。パープルフレームのメガネ。小柄で、身長は沙穂の肩くらいまでしかない。白い薄手のワンピースがよく似合っていた。
彼女の名前は宮本奈々。沙穂はその名前を崩して、なっちゃんと気軽に呼んでいる。沙穂と同じ大学に通う一年生で、学部こそ違うものの、授業が重なることが多いので、気付けば一緒にご飯を食べる程度には仲良くなっていた。
「お、おつかれー」
息を切らせた奈々は、両膝を掴んで背中を曲げ、しばらく呼吸を整えてから顔を上げた。そして沙穂の顔を間近で見るなり、「あ」と声を漏らす。
「あれ、沙穂ちゃん。メガネかけてる。目、悪かったんだ」
「いかにも。拙者、普段はコンタクトなのでござる!」
沙穂が答えると、奈々は大きな目をさらに開いた。
「えっ。なにそれ、武士?」
「今日お昼に大河ドラマ見ちゃってね。かっこよかったよ。私、将来は幼稚園の先生と武士を兼業しようかな……それはそうと、なっちゃんもこっちの方に家があるの?」
「うん。おばあちゃんの家に居候なんだけどね。このへんお散歩してたの。沙穂ちゃんもうち、この辺? 一人暮らしって前に言ってたよね」
沙穂はもう一度、いかにも、と自転車を降りながら返事をした。会話を交わしながら、どちらともなく歩きだす。藍色の闇の中からその姿を眩ませたまま、蛙の鳴き声だけが聞こえてくる。何気なく空を見る。頭の上には星が点々と散らばり、その中心には色の薄い月が浮かんでいる。実に穏やかな夜だった。喧騒とはほど遠く、空気の色は澄んでいる。
「沙穂ちゃん、ドーナツ好きなの?」
いきなりそう尋ねてくる奈々の目は、自転車のカゴに入っているビニール袋に注がれていた。しかし袋は無地で、特に店名などは記されていない。
「よく分かるね。ドーナツだって」
「うん。そのお店、駅前のだよね? 私も何回か行ったことあるよ。色んなドーナツがあって楽しいよね」
奈々は丸い顔をさらに丸くして笑う。どうやら彼女とは好みが合うようだ。賛同者の出現に、沙穂はたまらなく嬉しくなった。
「うん、うん! ここのドーナツは絶品なんだよ。ドーナツマニアの私も思わず絶賛だね」
「そうなんだー。私、チョコミント味の奴が好きなんだけど、沙穂ちゃんは?」
「私はやっぱりクラシックだね。あ~でもチョコもいいなぁ。迷っちゃう。何でもいいや」
「そっかあ。本当にドーナツ好きなんだね」
奈々はうんうん、と納得したように頷く。それからしばらくは、歩きながら美味しいドーナツについて意見交換を交わした。彼女とこんなにまとまった話をするのは、これが初めてだった。きっといい友達になれそうだ、と沙穂はその丸顔を見つめながら確信する。
会話を弾ませていると、あっという間に時間は過ぎ、気が付けば家まであとわずかというところまできていた。
「そういえばさ、沙穂ちゃん。昨日、このへんで人が倒れてたの知ってる?」
話が途切れたタイミングで、奈々がそんなことを切り出してきたので、沙穂は眉間に皺を寄せた。瞬時に記憶を探るが、そもそも今日はあまり耳に新しい情報を仕入れていないことに気付く。
「そうなの? テレビとかでやってた?」
「あ、ううん。そんなに大きな事件とかじゃないから。ニュースではやってないと思う」
「そうなんだ」
「うん。石像公園知ってるでしょ? あそこで男の人が意識不明になってて、救急車を呼んでさ、大騒ぎだったんだって。おばあちゃんが言ってたんだ」
「ほほう」
その公園のことならよく知っている。先月に授業の一環でレクリエーションをやったばかりだった。
「まぁ、おじさんらしいから。仕事の疲れとかかもしれないね。私も細かいことは分からないや」
こめかみのあたりを掻きながら、奈々は困ったように笑う。その表情が沙穂は好きだった。なんだがひどく懐かしいような気がして、気持ちがほんわかする。小学校の先生になることが夢と話していたが、彼女にピッタリな仕事だと沙穂は思った。
「そうかもしれないね。おじさんのことはよく分からない」と沙穂も微笑を浮かべて返す。
夜空には相変わらず、無数の星がちかちかと瞬いていた。
3
「ドーナツ~、ドーナツ~、酒のつまみはゴンザレス~」
「え、なにそれ。どうしたの?」
会話に間が生じたので歌を口ずさむと、奈々はレンズの向こうにある目を丸くした。
「ドーナツランドのテーマ! 知らない? 九時から教育テレビでやってる、愛と裏切りの群像劇」
「う、うん。知らない……かな」
「見たほうがいいよ。ドーナツの素晴らしさを、私はあの番組から学んだの」
そんなことを話しているうちに畦道を抜け、先ほど話題に出た石像公園もとっくに通り過ぎてしまった。やがて少し傾斜のある、直線の道に出ると「あそこに見える曲がり角を曲がれば、うちだよ」と奈々は前方を指差して教えてくれた。
「へぇ。ご近所さんじゃん。初めて知ったよ。もう少し真っ直ぐ行けば、私の住んでるアパートなんだけど」
「え、そうなの? あー、それは近いね。今度遊びに行っていい?」
「いいよ、いいよ。それで一緒にドーナツランド観ようよ」
「あ、うん。面白いの?」
「ネズミのドリッキーがね。可愛いんだよ。ちくわが大好きなの」
「そこはドーナツじゃないんだ……」
曲がり角までたどり着くと、一旦、そこで二人は立ち止まった。向かい合い、沙穂は手を振る。奈々もまた小さな体を精一杯主張するかのように、体全体を使って手を振っている。
「じゃあね、沙穂ちゃん。また明日授業でね!」
「うん。ばいばいー」
奈々は背中を向けて去っていく。遠ざかるその姿を見送った後で、沙穂は自転車にまたがった。あと数百メートルもすれば、住んでいるアパートが見えてくる距離だ。そういえば携帯電話の充電が切れたままだったのを思い出して、さらに自分に電話がかからないことを不安に思う人がいることに気付いて、沙穂はペダルを漕ぎ出そうとした。
しかし踏み出そうとした足を、不穏な気配が絡め取る。
「えっ……」
慌ててあたりを見渡す。気付けば夜の色に混じって、周囲を紫色の膜のようなものがうっすらと包み込んでいた。その空気の色はひたすらに不穏で、抜き差しならぬ事態を沙穂に伝えているようだった。
「なにこれ……」
胸に不安が去来する。いても立ってもいられなくなり、沙穂は自転車を降りた。その場に停めると、曲がり角まで急いで引き返して奈々の後を追う。
息を弾ませながら必死に足を動かすと、やがてその目にこれまでの経験、観測、そのあらゆる全てを裏切る、とんでもない事態が飛び込んできた。
立ちすくむ奈々の小柄な後姿が、見えてくる。彼女は見るからに脅えていた。
奈々の前には痩身のシルエットが佇立していた。それは全身をぴったりとビニール製のタイツで包んだ、明らかな変質者だった。
「なっちゃん!」
沙穂は声の限りを尽くして叫んだ。その大音量は夜闇に膨らみ、破裂して広がる。奈々がこちらを振り返った。同時に変質者もまたその大きな二つの目で、沙穂のことを睨んできた。
背筋が凍りついた。心臓が跳ね、恐怖が足の底から這い上がってくる。
変質者のあまりにも白すぎる顔には、目しかなかった。鼻も口も耳も眉毛もひげも、通常、人間の顔にあるべき部品がことごとく欠落している。唯一存在する瞳のパーツが沙穂の姿を捉えた。沙穂はまるで金縛りにあってしまったかのように、指一つ動かすことすらできなくなった。
――化け物だ。沙穂は直感として勘付く。それは間違いなく、人とは別の生き物だった。
「今宵の獲物は女子二人か……俺の縄張りでメガネをかけるとは、いい度胸だ」
人のシルエットを纏った怪人が声を発する。それはまるで、首筋を爬虫類の舌で舐められるかのような不快感を帯びたものだった。
次の瞬間、沙穂は肩を突き飛ばされた。驚く間もなく、目の前がぼやけていることに気付く。慌てて両手で顔を覆い、そこに先ほどまでかけていたメガネがないことを知った。
「メガネに死を」
ぐしゃ、と何かが潰れるような音がする。振り返ると、背後に怪人が立っていた。両手には色鮮やかな破片を持っている。覚束ない視界の中でも、砕けたレンズやフレームの破片から、それがつい数秒前までメガネだった物であることは理解できた。右手は沙穂のもので、左手にあるのが奈々のものだ。
その直後、奈々の口から悲鳴があがった。彼女は地面に崩れ落ちると、まるで体の一部を傷つけられたかのようにもがいた。やがてその体はあまりにも唐突に、動かなくなる。
「なっちゃん!」
足元をふらつかせながらも、沙穂は奈々に駆け寄った。奈々の前に慌てて屈みこみ、その顔を覗き込んで、「ひっ」と悲鳴をあげてしまった。
奈々の見開かれたままの目は、何の感情も映していなかった。頬は病的なほどに白く、ぐったりと人形のように横たわる姿には生気がまるでない。頬を叩き、名前を呼びかけるも全くの無反応だった。
沙穂は自分の頬が冷たくなるのを感じた。ベッドに横たわった小さな体が脳裏を過ぎる。細かく震える手で、慌てて奈々の手首を掴む。気付けば呼吸は荒くなり、今にも意識が揺らいでしまいそうになる。
だが彼女の手首から確かな鼓動が跳ね返ってくることを認めると、崩れ落ちてしまいそうになるほど安堵した。奈々はまだ生きている。それが分かっただけでも、沙穂にとっては十分すぎるくらいだった。
「なるほど。そっちの娘は、昔からメガネだけを使ってきたようだな」
怪人は顎を指先で撫でるようにしながら、得心のいったというような態度をみせる。沙穂は恐れを呑みこみ、その白皙の顔を睨みつけてやった。
「どういうこと? なっちゃんに一体なにを!」
「簡単なことだ。メガネしかかけてこなかった人間がメガネを砕かれたとき、その人間は『メガネキャラ』というアイデンティティーを喪失し、自己の崩壊に導かれるのだ。その少女は、もはや廃人と化したというわけさ!」
「そ、そんな!」
沙穂は愕然とする。この怪人の言っていることはよく分からないが、奈々が危険な状態であるということは一目瞭然だった。沙穂は少しも動かない友達を改めて見下ろす。あまりの事実に頭も心もついていかない。
「そんな……」
「だがお前はコンタクトレンズとメガネを併用しているから、自己を保っていられたのだ。素晴らしい! そんなお前にとっておきのプレゼントをやろう!」
怪人は沙穂を指差し、不敵に嗤った。その表情には口も皺もなかったが、ほくそ笑んでいるだろうということはその陰険な眼差しを見れば明らかだった。
呆然としているうちに沙穂は怪人に肩を掴まれ、そのまま道路に押し倒された。背中を強く打ち、呼吸を詰まらせる。馬乗りになってきた怪人は右手の人差し指と中指を立てると、その指先を沙穂の目にかざした。
「コンタクトレンズに、愛を」
力強く、高らかに怪人は叫び、鋭く指を振り下ろす。
沙穂は怪人の体の下でアスファルトを引っ掻き、無我夢中でもがくと、怪人のわき腹を強く蹴り飛ばした。怪人はバランスを崩し、その指は沙穂の顔の脇を掠める。沙穂はビニール人形のような感触を押しのけると、地面を這いずるようにしてその場から離れた。
怪人は外灯の下あたりまで転がった。沙穂はカーブミラーを掴むと、息を切らせながら体を起こした。同時に視界が大きく揺らいだ。
さらに足元が大きくふらつく。バランスをうまく取ることができず、右側にそびえていた壁に強く頭をぶつけた。
「えっ、なになに? なんなの!」
額を押さえ、目に涙を浮かべながら沙穂は悲鳴をあげる。そして怪人の動きを確かめようと、周囲に目を向けようとして――驚愕した。
視界に映る何もかもが鮮明になっている。
道路も、景色も、壁も、電柱も、奈々も怪人も、全てが明瞭とした輪郭を持っており、色彩豊かに、その仔細に至る部分までこの目には映るようになっている。それはメガネをかけてさえ沙穂の視力ではこれまで見ることのできなかった世界だった。
「なに、これ……」
沙穂は震える手で自分の顔を撫でる。左目を隠すと今までどおりのぼやけた景色なのに、右目を隠すと鮮明な世界が現われる。一体自分の身に何が起きているのか、やはりすぐには理解することができない。
「気に入ったか? これが俺からのプレゼントだ。お前の目に、特別製のコンタクトレンズをはめこんだ。一生外さなくても良い、素晴らしい品だ。これでお前にメガネは不要となった! お前はもう二度とメガネをかけることはできないのだ」
鮮明な景色に中に立つ怪人は、細かい部分が明るみに出た分、不気味な印象は薄らいでいる。しかしその言葉は、沙穂の心に戦慄を植え付けるには十分すぎた。
「特性? コンタクト?」
頭の中は行き場を失ったネズミのように混乱している。急に胃の辺りに不快感を覚え、沙穂はえずいた。同時にこめかみを刺されるような頭痛も引き起こされる。急激に視力を底上げされたことで体と脳みそが追いつかず、健康に異常をきたしているのだろう。慌てて目をこするが、少しも外れる気配はない。一生外れないコンタクトレンズという響きは、沙穂の心に暗澹としたものを落とした。
「左だけでは不便だろう。今すぐ右の方も装着してやる」
あまりの気分の悪さに、壁に寄りかかったまま身動きがとれず、今にも胃の中のものを吐き出してしまいそうな沙穂に向けて、怪人は指二本を立てる。沙穂は迫る怪人の足音を聴覚に捉える。しかしその体に力は入らず、胸には粘つくような感触が漂う。
その時――
ちりんちりん、と鈴の音が夜道に響き渡った。
「なんだ……?」
怪人が足を止め、周囲をきょろきょろと見渡す。沙穂は恐る恐る顔をあげた。
そして、目を見張る。俯いていたわずか数秒の間に、世界が変貌していた。
空はまるで絵の具で塗りつぶしたかのような灰色で、月も、星もそこにはない。地上には道も、家も、塀も、電柱も、車も、何一つなくなり、寂寞とした荒野がただひたすらに広がっていた。捻れた石柱が墓碑のようにところどころに点在し、無数の飴玉があたりを浮遊している。地面に点々と突き刺さっているのは、頭を突っ込んださんまの群れだった。
「なにこれ……」
沙穂は声をあげる。怪人が襲われているということ自体、すでに不可思議な出来事なのに、そのことさえ一瞬で頭から消し飛んでしまうくらい、あまりにも珍妙な景色だった。ここは地球なのかとさえ思う。全ての法則や常識がこの世界には存在しないように思えた。
ざく、ざくと地面を踏みしめる音が沙穂の背後より聞こえてくる。足音の正体は、またしても別の怪人だった。
湿った風を引き連れながら現れたその存在は、夜よりもさらに黒い体色をしていた。
額にはV字の触覚が生え、その付け根には赤い目が僅かに輝きを帯びている。口には鉄製のマスクがはめこまれ、そこにはアルファベットの『S』が横倒しになって描かれていた。胸には、瞼を固く閉じた目が模様のように刻まれている。
腰に巻かれているのはチャンピオンベルトのようだ。ベルト部分は太く、バックルには金色のメダルがはめこまれている。
その怪人は沙穂たちの姿を認めると、一旦、足を止めた。妙な緊張感が、風に乗って地上を滑空していく。怪人の顔立ちは、コンタクトレンズの怪人よりもさらに表情が読みにくい。そうやってこちらの状況を無言で眺めながら一体何を考えているのか、沙穂には想像することさえできなかった。
「その胸の文様……まさかお前、ライバルか」
世界が変わってしまってからずっと黙り込んでいたコンタクトレンズの怪人が、幾分か上擦った調子の声をあげる。その声音に含まれていたのは、ただならぬ恐怖だった。
「ライ……バル……?」
沙穂は黒い怪人の方を一瞥し、首を傾げる。
「あれが、ライバル……?」
「違うな! そういう意味のライバルじゃない! 俺とあいつは初対面だが、あいつはライバルなんだ! ライバルはライバルなんだ!」
「はぁ……」
さっぱり意味が分からない。沙穂は胃のあたりを押さえながら地べたに座り込み、陰鬱なため息を吐き出した。その発言も不可解だが、それ以上に、この怪人がひどく取り乱し、脅えている風なのが奇妙だった。
ちりん。
またも鈴の音が聞こえた。その音のする方角を求めて、沙穂は首を巡らせる。それとほとんど時を同じくして、黒い怪人が跳躍した。
助走もなく、膝を深く曲げることもなく。足首に少し弾みを付けることだけで、怪人は空を軽々と舞い、沙穂の頭上を通り過ぎて、コンタクトレンズの怪人の前に着地した。
ちりん。
三度聞こえたその音の正体を、沙穂はようやく知った。それは黒い怪人の体から聞こえてくる音だった。怪人の左腰には、鈴の付いたお守りがくくり付けられていた。その表面に記された文字は『交通安全』――それが怪人の動きによって揺れる度、澄んだ鈴の音が夜空に響き渡っていたのだった。
ひぃい、と情けない声をあげて、コンタクトレンズの怪人が怯む。黒色の怪人はゆらりと顔を上げると、足を前に踏み出し、敵の脇腹に左拳をねじ込んだ。さらに続けて上段蹴りを顎に叩き込み、そのビニール人形めいた身体を押しやる。
「バルバルッ!」
黒い怪人が叫んだ。その不気味な外見には到底そぐわない、声変わりを控えた少年のような声だった。黒い怪人は足を速めて敵に接近すると、両拳を順々に打ち出し、その胸を鋭く穿った。さらに跳び上がり、ジャンピング・パンチを打ち込む。容赦のない攻撃の連打に、コンタクトレンズの怪人は受身をとることさえできず、荒れた地面を転がった。
「ライッ! バルッ!」
敵を視線で追いながら、黒色の怪人は叫び、身構える。真紅の瞳は、その心に宿る猛々しさを表しているかのようだった。
「ライ、バル……」
沙穂はぼんやりと呟く。目の前で起きている出来事に、頭が全く付いていかなかった。なぜ怪人同士が戦っているのか。単なる仲間割れなのだろうか。様々な憶測が脳裏を巡るが、この異様な状況の中で明確な答えを出すこと自体が不可能であることに気付く。
しかし、分からないことだけではない。コンタクトレンズの怪人が発した『ライバル』という言葉――あれは宿敵とか、競争相手とかそういう意味合いではなく、もしやあの黒い怪人が持つ名前なのではないだろうか。そうなれば、先ほど怪人の放った言葉の意味もおのずと理解できてくる。頭にVの字を掲げた漆黒の怪人、ライバル。沙穂は自分を助けてくれたその怪人のことを、とりあえずそう呼ぶことにした。
「冗談じゃない! まさかライバルに見つかるなんて!」
ぜえぜえと荒い呼吸を吐き出しながら、コンタクトレンズの怪人が身を起こす。その体が白色に淡く発光した。輝きは両肩に突き立てられたスプーン状の突起物に、脈々と流れ込んでいく。
その切っ先から光が迸った。それぞれの突起から放たれた光線は空中で合わさり、一本の太い光条となってライバルの体を貫いた。
「ババッ……!」
さらに第二射、三射が放たれる。熱線を間断なく浴び、ライバルは体の至るところから白い煙をあげ、よろよろと後ずさる。
コンタクトレンズの怪人は右の人差し指と中指を立て、地面を蹴立てた。
「危ない!」
沙穂は思わず叫ぶ。しかしライバルはダメージを受けながらも、頭上から襲いくる存在を視界の隅で認識していたようだ。機敏に動くと、足を大きく振り上げ、つま先で敵の攻撃を受け止めた。薙ぎ払われた怪人は背後に跳び、片足で着地する。しかしその表情に悔恨の色はなく、むしろ思い通りに事が運んだことへの愉悦に染まっているようだった。
「……コンタクトレンズに、愛を」
怪人が呟く。同時に、ライバルに異変が訪れた。
「バッ……バルゥ」
右に大きく体をよろめかせる。その足元は実に不安定で、まるで泥酔しているかのようだ。顔をあげ、前に歩き出そうとするのだが、ひどくよろめき倒れそうになっている。そのうち彼はその大きな目をしきりにごしごしと擦りはじめた。
「まさか……」
沙穂がハッとしたのは、ライバルの姿と今の自分に起こっている不調が、頭の中で重なったからだ。その声を聞いていたのか、コンタクトレンズの怪人は沙穂に顔を向け、高笑いをあげた。
「そのまさかだ。ライバルにもコンタクトレンズを片目だけ入れてやった。お前とお揃いというわけだ! これでまともに動けまい!」
怪人はライバルに近づくと、いきなりその脇腹を蹴り飛ばした。さらに続けて胸を殴る。
「こんなところで死ぬわけにはいかないのでな……まずはこの結界を解いてもらう!」
怪人の両肩のスプーンに光が収束していく。直後、強烈な閃光とともにその先端から熱線が放たれた。
成す術もなく直撃を受けたライバルは、大きく吹き飛ばされ、地面を激しく転がる。
「あっ……!」
その時、ライバルの体から何かが落ちて転がったように見えた。だが、気付いたのは沙穂だけのようだ。怪人もライバル自身も、全く気を止めることはしない。そんな余裕はおそらく互いにないのだろう。
「こんなところで止まっているわけにはいかないのだ」
怪人は飛んでくる飴玉を手で払いながら、歩みを進めていく。
「この町のみんながコンタクトレンズをもっと愛する日まで、俺は夢を諦めない!」
両肩のスプーンに光を灯る。ライバルは上半身を起こした。その二つの目が真紅の光を帯びる。腹部に掲げた黄金のメダルが輝きを放つ。ベルトがまるで酸性の液体を落としたリトマス試験紙のように、赤一色に染まった。
「バルバルバ!」
ライバルはその場で右の拳を固め、その場で前に突き出した。するとそれがさも当然のことであるかのように――拳の先から、白色の光線が撃ち放たれ、怪人の胸に直撃した。
「なん、だと……!」
胸を押さえ、後ずさりながら、怪人は表情を驚愕と動揺に染める。
「馬鹿な……それは俺の技だ! なぜお前が!」
声を裏返らせる怪人に、しかしライバルは何も応じることはない。ただ「ラライ」とだけ呟くと、左手の人差し指と中指を立て、その指で自分の右目を突いた。
ひっ、と思わず沙穂は声をあげる。あっ、と怪人も目を見開いた。二人が見守る前でライバルは指を眼球から引き抜くと、視線を真っ直ぐに怪人へと向けた。
その勇ましい顔つきに、不安定に足元をふらつかせていた先ほどまでの姿はない。しかし沙穂は、なぜ、とは思わなかった。頭の中には自然とある発想が浮かんでいた。
「コンタクトレンズを、自分の目に入れたんだ……あいつの能力を使って」
おそらくライバルは、敵の能力をそっくりそのまま使用することができるのだろう。先ほど、怪人の技をいとも容易く放っていたのが何よりの証拠だった。おそらく今回の事も理屈は同じだ。ライバルは特性のコンタクトレンズを他者にはめこむ力をも会得したのだ。
さらにライバルは両腕を前に突き出し、今度は両手の先から光線を発射した。
その攻撃は怪人の両肩に備わっていたスプーンを一撃で撃ち抜いた。悲鳴をあげる怪人にライバルは接近する。跳躍すると二本の指を立てた手で、怪人の顔面を殴りつけた。
ぐあっ、と怪人が悲痛を漏らす。ライバルは両足で着地すると、敵の様子を観察するかのように目を眇めた。
「な、なんだこれは!」
怪人は怯えるような声をあげ、大きくよろめいた。石柱に頭をぶつけ、甲高く叫ぶ。両目を掌で覆い、ごしごしと顔全体を拭っている。
「目が……目が、何も見えない! 俺の目! なんだこれは! どういうことだ!」
怪人は狼狽え、我を失っていた。完全にパニック状態に陥っている。しかしライバルは容赦なく、怪人の腹を力強く蹴りあげた。さらに拳を振り回し、何発もその体に攻撃を埋めていく。そして仕上げとばかりに腰を低く構えると、弾けるように前に飛び出し、その顔面を殴り飛ばした。
「ラララバルルッ!」
ライバルの覇気に満ちた絶叫が空を衝く。怪人は、肺の中の酸素を無理やり搾り出されたような音を吐き出し、捻れた石柱に背中をひどく打ちつけた。その頬を、宙を舞う飴玉たちが続けざまにはたき、去っていく。怪人は「あわわわ」と喚き散らしながら蝿でも追うかのように、周囲に向けて無茶苦茶に腕を振り回し始めた。
「俺をもう殴るなー! どこだ、どこだライバル! かかってこい!」
その様子をライバルは数メートル離れた場所から無言で見つめている。だがやがて歩き出すと怪人の前で立ち止まり、左腕を大きく後ろに引いた。
胸に描かれた目の模様が身じろぐように動き出す。その輪郭を細かく震わせたかと思うと、ゆっくりと瞼を上げた。
紫色に輝く大きな瞳が、その下から出現する。それと同時にライバルの左腕が瘴気に包まれ始めた。その翳りを帯びた気配に、沙穂は地獄という言葉を頭に浮かべた。
「ラァィイ……」
ライバルの左手を染めている赤の輝きが、さらにその光度を増す。沙穂は思わず身震いした。それは見るものの心の奥底から、恐怖を喚起させる威力を備えた光だった。
「バルゥウウウッ!」
雄たけびに、怪人が振り返る。だがすでに遅かった。ライバルの打ち放った拳は何の迷いもなく、怪人の胸を一撃で貫通した。
怪人の背からライバルの腕が生える。その手には砂時計が握られていた。ただし中には砂の代わりに黄色の液体が満ちている。おそらく怪人の体内にあったものだろう。砂時計を握る手に力がこめられていく。体を貫かれたまま怪人は絶叫し、手足をばたつかせた。
「やめろ! 俺は消えたくない! やめてくれえええ!」
結果的にそれが怪人の断末魔となった。
ライバルは慈悲をいっさい感じさせない動作で、その砂時計を握りつぶした。彼の手の中に黄色い液体が広がり、指の間から漏れて地面に零れ落ちていく。そして怪人は光の粒子と化していき、やがて塵一つ残らず消滅してしまった。
5
「コンタクトを入れた目にコンタクトを入れたら、そりゃ視界はぼやけるよね。私だって週に五回はその罠にはまっているもの」
「私はコンタクト使ったことないから分からないけど、それは多すぎだと思うよ……」
大学構内の食堂で昨晩の出来事を一言で総括すると、奈々は不安げに眉を曲げた。今日は爽やかな水色フレームのメガネをかけている。それもまた彼女によく似合っていた。
「そういえば今日は沙穂ちゃん、コンタクトなんだね。うん、こっちのほうが馴染みある」
「大学に来るときはほとんどそうだよ。昨日は気まぐれだって」
食堂は学生で賑わっていた。沙穂と奈々は隅の方にある二人掛けのテーブルで向き合っている。大きな窓から見える空は曇っていたが、雨は降り出していない。朝のニュース番組では降水確率六十パーセントと報じていた。
結局あの後、コンタクトレンズの怪人が消滅すると同時に、灰色の空がひしめき、サンマの群れが地面に突き立てられていた景色はかき消え、ライバルも忽然と姿を消した。
世界が変転したのと同じように、世界が元に戻るのも一瞬だった。気付けば沙穂はいつもと変わらぬ夜の街角に佇んでいた。
奈々はほどなくして意識を取り戻した。怪人の言ったことがでたらめだったのか、それともあの怪人がいなくなったから彼女は目覚めることができたのか、それは定かでないが、それでも奈々がこうして再び元気な顔を見せてくれたことは事実だった。
奈々は怪人に出会い、襲われたことは覚えていないらしい。本人は貧血で倒れたと思い込んでいるようだ。メガネは倒れた拍子に地面に落ちていたのを、沙穂が踏んで壊してしまったことにした。謝ると、彼女はあっさりと許してくれた。メガネは三十個以上持っているから構わないと言う。「メガネ武士だね」と沙穂が褒めると「メガネだけど。武士ではないよ」と指摘されたので、なるほどと感心したものだった。
「私、すぐ倒れて迷惑かけちゃうの。今回も沙穂ちゃんに迷惑かけちゃった。ごめんね」
テーブルを挟んで向かい側に座る奈々は、眉をハの字に曲げ、顔の前で手を合わせた。沙穂はテーブルの上から、いちごクリームの入ったドーナツを手に取るとそれを齧った。
「武士の情けでござる」
「立派でござった。ご恩と奉公でござる」
奈々が武士の口調を真似て笑う。沙穂もふふ、と笑みを漏らした。
それにしても呆気ないほど簡単に日常に帰ってこれたな、と沙穂は改めて昨日のことを思い出す。今では怪人に襲われ、ライバルによって助けられたことが夢の中のことであったかのように感じる。口の中に広がるドーナツの味を懐かしくも思わない。一日欠かさず食べてきた、側にあって当たり前の食べ物だ。
「じゃあ、次、講義あるから。そろそろ行くね」
奈々は口元をハンカチで拭うと、トートバックを手に取りながら席を立った。
「その次は一緒の講義だよね。今日はいっぱいあって大変だけど、頑張ろうね」
「うん。またなっちゃんが貧血になったら助けてあげるからね」
「ありがと。そうならないように、私も頑張って鉄分摂るね」
それから一言、二言、会話を交わしてから奈々は手を振り、食堂から出て行った。沙穂は彼女の背中が見えなくなるまで手を振り、それからふと目を細めた。
しかしあの出来事が、あの荒唐無稽な世界が、けして夢でなかった証拠を沙穂は持っている。テーブルの上に載せていたハンドバックを胸の前に引き寄せ、中を探る。指に引っかかったものをそっと引き上げた。
『交通安全』――そう記された青いお守りは、ライバルが腰に付けていたものだ。彼が去ったあとに道に落ちていたのを、拾ったのだった。
沙穂は薄汚れたそのお守りを、両手で大事に包み込んだ。
ちりん、と鈴の音が小さく、掌の中で響く。
これを持っていればまたいつか、自分を助け、奈々を救ってくれた、あの黒い怪人に出会えるのではないか。そんな期待を掌にこめる。もう一度会って、改めてお礼を言いたい。また出会える日まで、このお守りを大切に預かっておこうと思う。
沙穂はドーナツの入っていた紙袋をくしゃくしゃに丸め、腰を上げた。途端に体がふらつく。椅子の背もたれを咄嗟に掴み、バランスを取った。
「おっとっと……やっぱり、まだ慣れないなぁ」
ホッと息を吐いた後で、右目を隠し、厨房のカウンターを見る。それから左目の瞼を撫でた。つい忘れていた。昨日のことが夢でない証拠が、もう一つ、あった。沙穂は何度か瞬きをし、眩暈が収まるのを待って足を踏み出す。
町にサイレンが響き渡る。今日も指場町に、いつもと変わらぬお昼の時間がやってきた。
※誤字が見つかったため修正しました。
「デスメアード・ファイル」
ライバル・メアード
属性:天
AP3 DP2
身長:148cm 体重:53kg
【基本スペック】
領域(Lv3。メアード空間を展開する)
回帰(二日酔いにならない)
破棄(デスメアードを殺すことができる)
【特殊能力】
他のデスメアードの特殊能力・技を受けることにより、同じ能力・技を10分間のみ自分も使用することができる。ただし身体的特徴や基本スペックなどは再現することができない。
【DATE】
人間に害を与え、町の平和を脅かすデスメアードを殺してまわっている。「ライ」と「バル」しか喋れない。
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ニレンズ・メアード
属性:雷
AP2 DP2
身長:166cm 体重:35kg
【基本スペック】
領域(Lv2。周囲に結界を形成することで、外部からの侵入を防ぐ)
解析(相手のパラメーターを見ることができる。視力限定)
呪詛(死んでも相手に与えた特殊能力の効果は継続される)
【特殊能力】
自分、相手の目にコンタクトレンズを装着させることができる。装着した者の視力は格段に上昇し、また、外れることもない。
【DATE】
1日で使い捨てられたツーウィークコンタクトレンズの成れの果て。メガネを憎み、人々にコンタクトレンズを布教しようとする。
普段は冷静だが、アクシデントに弱い。