港区の女王
東京・西麻布。夜の帳が下りると、この街は巨大な胃袋へと姿を変える。街灯の光さえも、ここでは金の色に変質し、欲望という名の消化液が路地裏まで満たしていく。
路地裏に佇む、看板のない隠れ家バー。重厚な真鍮の扉を押し開き、由紀は「女王」の歩調で店内に足を踏み入れた。
二十五歳。港区という特殊な生態系のなかで、彼女は今、もっとも甘く熟し、同時に芯まで腐り始めた果実だった。
一七〇センチの長身、無駄な脂肪を一切削ぎ落としたモデル体型。緩やかに波打つ茶髪のロングヘアが、歩くたびにフローラルとバニラ、そして隠しきれないアルコールの混ざった濃厚な香りを撒き散らす。纏っているのは、身体のラインを容赦なく強調するヴァレンティノの真紅のワンピースだ。一着三十万円を超えるそれを、彼女はまるで使い捨ての寝巻きのように無造作に着こなしている。
「由紀さん、今日もお美しい。奥の個室、皆様お待ちですよ」
黒服の恭しい一礼を、彼女は視線すら合わせずに受け流す。由紀にとって、この街の人間は「跪く者」か「搾取される者」の二種類しか存在しない。店員は前者であり、今夜の獲物は後者だ。
個室の扉を開けると、安っぽい熱気と煙草の煙が顔を打った。
IT企業の役員だという小太りの男と、その腰巾着のような取り巻きが数人。テーブルにはクリスタル、ベル・エポック――一瓶で十数万から数十万もする泡の瓶が、戦果のように無造作に並んでいる。
「遅いよ由紀ちゃん! 待ちくたびれたよ」
「ごめんなさい、ちょっとパパとの電話が長引いちゃって。……ねえ、怒ってる?」
由紀はあどけない少女のような笑みを浮かべ、標的――IT役員の隣に滑り込んだ。
「パパ」という言葉をわざと出すのは、彼女の計算だ。私は他の男にも求められている、私は高い女だ、と無意識に男の競争心を煽る。
彼女の武器は、その美貌だけではない。「私は安くない」という傲慢さと、「でも、あなたなら特別かもしれない」という錯覚を同時に抱かせる、悪魔的な距離感だ。
由紀は男の腿に、細い指先を這わせた。ルブタンの、鋭利な杭のようなハイヒールが男の足首を絡めとる。
「由紀ちゃん、今日は一段とエロいね」
「そんなこと言う男の人には……お仕置き、しちゃうよ?」
男の耳元で囁きながら、彼女の脳内では冷静な査定が行われていた。
(時計はオーデマ・ピゲ、ロイヤルオーク。靴はベルルッティのスクリット。……推定純資産、五億。顔は下ぶくれのブルドッグみたいだけど、財布としては超一級品ね。今夜だけで、来月の美容クリニック代は回収できるわ)
由紀は男の手を取り、自分の太腿の奥へと導いた。
公共の場に近いこの個室で、彼女は平然と「痴女」の顔を見せる。男が興奮で呼吸を荒くするのを見下しながら、彼女は別の手でスマホを操作し、別のパパへ「寂しいな、明日会いたい」とLINEを飛ばす。
彼女にとって、男は「人間」ではない。彼女のクローゼットを埋めるエルメスのバッグや、六本木を見下ろす高層マンションの家賃、そして日々の退屈を埋めるための「歩くATM」に過ぎない。
「ねえ、次は何を開けてくれるの? 私、もっと酔いたいな。あなたの前で、もっと……壊れたい」
男は鼻の下を伸ばし、次々と高額なボトルを注文する。
シャンパンの泡が弾けるたびに、男の口座から金が消え、由紀の「価値」が証明されていく。彼女にとってシャンパンを飲むという行為は、男のプライドを切り刻み、液体に変えて自分の体内へ流し込む、征服の儀式だった。
宴もたけなわ、由紀の淫蕩さは加速する。
周囲の目を盗み、テーブルの下で男のファスナーに手をかける。男が声を漏らしそうになるのを、彼女は冷ややかな、それでいて情欲を煽る瞳で見つめた。男を支配しているという全能感。それは、どんな高級ブランド品を手に入れた時よりも、彼女の歪んだ自尊心を満足させた。
「……ねえ、ここじゃ物足りないでしょ? 続きは、私の家にする? それとも……」
確信犯的な誘い文句に、男は完全に正気を失う。
由紀は、男が自分にどれほど「投資」したかを秒単位で計算していた。タクシー代として握らされた厚い封筒、プレゼントだと渡されたティファニーの小箱。それらを確認すると、彼女の興味は一瞬で氷点下まで冷え込んだ。
深夜二時。
「急に気分が悪くなったの」と嘘をつき、役員の男を「酔い潰れたゴミ」のようにタクシーに放り込む。
由紀は一人、別のタクシーを拾い、六本木の自宅マンションへと戻る。
家賃五十五万。パパ活の収益と、複数の男から絞り出した「手当」だけで維持している、虚飾の城だ。
オートロックのロビーを、千鳥足になりながらも背筋を伸ばして歩く。コンシェルジュに冷たい会釈を返し、エレベーターの鏡に自分を映した。
鏡の中の女は、完璧だ。一ミリの妥協もないメイク、高いヒール。
だが、部屋の鍵を開けた瞬間、その魔法は解ける。
玄関には脱ぎ捨てられた靴が散乱し、リビングの床には数日前に食べたコンビニ弁当の空き容器が、山をなしている。エルメスのバッグが、飲みかけのペットボトルの隣に無造作に放り出されている。
由紀はワンピースを剥ぎ取るように脱ぎ捨て、全裸になった。
鏡に映る自分の体を見つめる。二十五歳。
「港区女子」という肩書きの賞味期限は、もうすぐそこまで来ている。
ふと、ゴミ箱を覗くと、昨夜別の男と使った避妊具の残骸が、血の気のないピンク色の塊となって転がっていた。
華やかな香水の匂いが消えると、部屋にはうっすらと、湿った生ゴミのような、饐えた生活臭が漂う。
由紀はベッドに倒れ込み、スマートフォンの画面をスクロールした。
「今どこ?」「次はいつ会える?」「お金振り込んだよ」
並ぶメッセージは、金の話か、欲情した男たちの下卑た誘い文句ばかり。愛などどこにもない。だが、由紀もまた愛など一銭の価値もないと信じている。
「……どいつもこいつも、安い男」
吐き捨てるように呟き、由紀は高価なシーツに顔を埋めた。
自分の価値は、男にどれだけ金を遣わせるかで決まる。
男を喰い尽くし、自分もまた、男たちの欲望の中で磨り減っていく。
この渇きが、いつか自分自身の肉体も精神も、跡形もなく焼き尽くすことになるとは、まだ夢にも思わずに。
由紀は、意識が遠のく中で、次の「獲物」のリストをぼんやりと思い浮かべていた。
明日はどの男を地獄に突き落とし、その金でどの美容外科へ行こうか。
腐りきった日常の歯車が、また不気味な音を立てて回り始める。




