第1話「コンプラ担当、異世界へ」
元コンプラ担当の主人公が異世界に飛ばされ、
剣も魔法もなく、契約書と帳簿と公開報告書で国を変えていく話です。
戦闘より書類で戦います。
派手な必殺技は出ませんが、不正は是正します。
「理不尽な職場で働いたことがある人」
「悪い大人が痛い目を見るのが好きな人」
「頭脳戦・制度戦が好きな人」
このあたりに刺されば、きっと最後まで楽しんでもらえます。
全40話・3部構成で完結済みです。
最後まで安心してお読みください。
───
時計の針が午前一時を回っていた。
是永誠は、オフィスの蛍光灯の下でモニターを睨みつけていた。大手商社・東和通商のコンプライアンス部。深夜のフロアには誠以外、誰もいない。
「……取引先への不適切な接待、社内規程違反が三件。利益相反の疑いが二件。内部通報の処理が未了のものが七件」
呟きながら、報告書を打ち込んでいく。これが是永誠の日常だった。三十二歳、独身。趣味は社内規程の読み込み。友人には「お前の人生、コンプラに食われてるぞ」と言われるが、本人にその自覚はない。
曲がったことが、ただ許せないのだ。
デスクの上には、缶コーヒーの空き缶が三本と、付箋だらけのコンプライアンス・マニュアルが置かれている。マニュアルは会社支給のものだが、誠が独自に書き込みを加えすぎて、もはや原型を留めていない。後輩には「是永さんのマニュアル、もう聖典ですよね」と言われたことがある。褒め言葉だと思っている。
「しかし、この件は根が深いな……」
画面に表示された通報内容に目を細める。海外支社での不正会計疑惑。現地法人の経理担当者が、取引先との間で架空発注を繰り返している可能性がある。
誠はキーボードを叩きながら、頭の中で関係図を組み立てていく。誰が承認し、誰が黙認し、誰が利益を得ているのか。不正の構造を解きほぐすのは、パズルに似ている。嫌いではなかった。
——いや、正直に言えば好きだった。
仕組みの歪みを見つけ、正す。それが是永誠という人間の存在意義だと、本人は半ば本気で信じている。
「……よし」
最後の一文を打ち込み、保存ボタンを押した。報告書のタイトルは『海外支社における不正会計疑惑に関する調査報告(第一次)』。我ながら堅い。だが、コンプライアンスとは堅くあるべきものだ。
保存ボタンを押した瞬間だった。
モニターが、白く光った。
「……は?」
画面がホワイトアウトしたのかと思った。だが違う。光はモニターの枠を超えて溢れ出し、デスク全体を包み込んでいる。蛍光灯がバチバチと明滅し、缶コーヒーの空き缶がカタカタと振動した。
「故障か? いや、これは——」
椅子から立ち上がろうとした。だが身体が動かない。光が足元から這い上がり、全身を覆っていく。視界が真っ白に染まる。
意識が遠のく寸前、是永誠が最後に考えたことは——
(この残業、勤怠つくかな)
その手には、会社支給のノートPCとコンプライアンス・マニュアルが握られていた。
───
目を開けると、空が広がっていた。
夜空ではない。見たこともないほど鮮やかな、夕焼けの空だ。二つの月が、重なるように浮かんでいる。
「…………」
誠は仰向けに倒れていた。背中に硬い石畳の感触がある。ゆっくりと上体を起こすと、周囲の光景が目に飛び込んできた。
中世ヨーロッパのような街並み。石造りの建物が並び、通りには露店が連なっている。行き交う人々の服装は、明らかに現代日本のものではない。革の鎧を着た大男。フードを深く被った老婆。そして——耳の尖った、明らかに人間ではない者たち。
「……何だこれ。夢か?」
頬をつねる。痛い。
「夢じゃない、と」
状況を整理しようとする。これは是永誠の得意分野だ。事実を一つずつ確認し、論理的に分析する。
一、深夜残業中にモニターが光った。
二、気がついたら見知らぬ場所にいる。
三、周囲の文明レベルが明らかに中世。
四、空に月が二つある。
五、人間でない存在がいる。
六、手元にはノートPCとコンプライアンス・マニュアル。
「……結論を出すには情報が不足しています」
誰に言うでもなく、報告書のような口調で呟いた。だが、事実四と五を踏まえると、一つの仮説が浮かぶ。
「異世界、という可能性があるな」
口に出してみると、あまりにも馬鹿馬鹿しい。だが事実は事実として受け入れるのがコンプライアンスの基本姿勢だ。都合の悪い事実を無視した瞬間、不正は始まる。
ノートPCの電源を入れてみた。起動はする。だがWi-Fiの電波は当然ない。
「……オフラインですか。まあ、そうですよね」
立ち上がり、スーツの埃を払う。とにかく情報収集だ。そう思い、通りを歩き始めた。
すれ違う人々が、誠をじろじろと見ている。当然だろう。この世界で黒いスーツにネクタイの男は、どう見ても異質だ。
何人かに話しかけようとしたが、言葉が通じるのだろうか——
「おい、そこのお前。邪魔だ、どけ」
「あ、すみません」
通じた。なぜかは分からないが、通じた。異世界転移における言語自動翻訳。理屈は不明だが、これも事実として受け入れる。
通りを歩いていると、前方の広場から人々が流れ込んでいくのが見えた。何かの催しだろうか。野次馬根性ではなく、あくまで情報収集の一環として、誠もその流れに乗った。
そして——足が止まった。
「さあさあ、本日の目玉商品だ! 北方で捕らえた獣人の娘! 若くて丈夫、何にでも使える! 開始価格は銀貨五十枚!」
広場の中央に、木製の壇上が設けられていた。
その上に、鎖で繋がれた少女が立たされている。首には革の首輪。手首にも足首にも枷がはめられていた。少女の頭には獣の耳があり、人間ではないことが分かる。だが、それ以前に——その目に光がなかった。何も期待していない、何も感じていない。そういう目だった。
「銀貨六十枚!」
「七十枚だ!」
「七十五!」
競りの声が飛び交う。広場を囲む群衆は、当然のようにそれを眺めている。眉をひそめる者は、一人もいない。
是永誠は、その光景を見つめていた。
三秒。
五秒。
七秒——。
手が動いた。スーツの内ポケットからコンプライアンス・マニュアルを取り出す。付箋だらけの、もはや聖典と化したあのマニュアルだ。
大股で、壇上に向かって歩き始めた。
頭では分かっている。ここは異世界だ。日本の法律は適用されない。コンプライアンスも何も、そもそも法体系が違う。
だが、是永誠の足は止まらなかった。
——理屈じゃないのだ。
曲がったことが、ただ許せない。それが是永誠という人間だった。
「……ふざけるなよ」
口から、勝手に出た。
理屈じゃなかった。コンプライアンスの知識でも、正義感でもない。腹の底から、熱い何かがせり上がってきた。
「すみません」
声が、広場に響いた。
競りの声が止まる。全員の視線が、場違いなスーツ姿の男に集中した。
「ちょっといいですか」
誠は壇上の横に立ち、競売人の目を真っ直ぐに見た。太った中年の男だ。革のベストを着て、手には鞭を持っている。
「この取引、完全にアウトです」
沈黙が広場を包んだ。
「……あ?」
競売人が眉をひそめた。
「まず、人身売買は基本的人権の重大な侵害に該当します」
誠はマニュアルをめくった。もちろん、異世界の人身売買に関する条項など載っているわけがない。だが、めくるという動作が大事なのだ。形式が、権威を生む。コンプライアンスの現場で学んだことだ。
「加えて、本人の同意なき身体の拘束は不法行為です。この取引に関わる全ての当事者は、共犯として責任を問われる可能性があります」
群衆がざわめく。
「さらに言えば——」
誠は競売人に一歩近づいた。
「この競売に免許や許認可はありますか? 取引記録の保管体制は? 購入者の身元確認は行っていますか? マネーロンダリングの温床になり得る取引形態ですが、監督官庁への届出は?」
競売人は唖然としている。群衆も黙り込んでいる。誰も、何を言われているのか理解できていない。
だが誠は止まらなかった。
「そもそも、この取引における責任の所在が不明確です。売主はあなたですか? 仕入れ元は? この少女が負傷した場合、あるいは死亡した場合、誰が責任を取るんですか?」
「……何を言ってるんだ、お前は?」
競売人がようやく口を開いた。
「コンプライアンスの観点から、この取引の即時中止を勧告しています」
「こんぷ……何だと?」
「コンプライアンス。法令遵守。もっと平たく言えば——」
誠は、競売人と、群衆と、壇上の少女を見渡して、言った。
「『やっちゃいけないことを、やっちゃいけない』。それだけの話です」
壇上の少女が、初めて顔を上げた。
一瞬——本当に一瞬だけ、誠と目が合った。光のなかった瞳に、何かが灯りかける。助けを求めるような、縋るような——だがすぐに、少女は自分から目を逸らした。まるで、期待してはいけないと自分に言い聞かせるように。
その仕草が、誠の胸を抉った。
だが次の瞬間、競売人の顔が怒りで真っ赤に染まった。
「この野郎——商売の邪魔をしやがって! おい、こいつを引きずり出せ!」
壇上の脇に控えていた屈強な男たちが、誠に向かって詰め寄ってくる。全員、腰に剣を帯びている。
是永誠の戦闘力は、ゼロである。
これは比喩ではない。学生時代の体力テストでは学年最下位。腕立て伏せは三回が限界。走れば息切れ。剣どころか、包丁すらまともに握れない。
「あ、これはまずい——」
腕を掴まれた。太い指が、スーツの袖ごと二の腕に食い込む。もう片方の男が胸ぐらを掴もうとした——その瞬間。
鋭い声が、広場に響いた。
「そこまでだ」
銀色の鎧を纏った女が、剣を抜いて立っていた。
長い金髪を一つに束ね、鋭い碧眼が競売人たちを射抜く。身長は誠とほぼ同じだが、纏う空気がまるで違う。鎧に刻まれた紋章は、何らかの正式な所属を示しているのだろう。その佇まいは、一目で只者ではないとわかるものだった。
「騎士団のエリーゼだ。騒ぎを聞いてきた。何があった」
男たちが即座に手を離し、一歩引いた。この女騎士の名には、相応の重みがあるらしい。
競売人が唾を飛ばしながら叫ぶ。
「騎士様! こいつが突然乗り込んできて、正当な商売を妨害したんだ! 営業権の侵害だ!」
「営業権を主張するなら、その根拠となる規定を見せてください」
胸ぐらを掴まれかけた直後とは思えない落ち着きで、誠が口を挟んだ。
エリーゼの視線が、誠に向いた。碧い瞳が、値踏みするように誠を上から下まで見る。黒いスーツ。ネクタイ。革靴。そして手に持った、付箋だらけの冊子。この世界のどこにも存在しない格好。
「……お前、何者だ。見たことのない身なりだが」
「是永誠と申します。コンプライアンス部主任です」
「……こんぷら?」
「はい。企業や組織が法令や規範を遵守しているかを監視し、違反があれば是正する——まあ、そういう仕事です」
エリーゼの眉がわずかに動いた。理解はしていないが、何かしらの専門職であることは伝わったらしい。
「それより騎士様、一つ確認させてください」
誠は乱れたスーツを正しながら言った。
「この人身売買、この国では合法なんですか?」
「……奴隷売買は、この王国では認められた商取引だ。正規の手続きを踏んでいれば、何の問題もない」
「正規の手続き。具体的には?」
「商務局への届出と、売買契約書の提出だ」
「なるほど。では——」
誠は競売人を振り返った。
「その届出書と売買契約書、見せていただけますか?」
競売人の顔が、一瞬引きつった。
「な……そんなもの、いちいち持ち歩くか!」
「持ち歩かないんですか。つまり、ここにいる買い手の方々は、正規の手続きが完了しているかどうかも確認せずに取引に参加している、と」
誠はエリーゼに向き直った。
「騎士様。正規の手続きを踏んでいれば問題ないとのことでしたが、手続きが踏まれているかを現場で確認する手段がない。これは制度の不備ではありませんか?」
エリーゼが黙った。
それは、答えられなかったのではない。考えたことがなかったのだ。奴隷売買は合法。正規の手続きを踏めば問題ない。そう教わり、そう信じてきた。だが——手続きが本当に踏まれているのかを、誰が確認しているのか?
その問いを、これまで誰も発しなかった。
「……この場での商売は中断だ」
エリーゼは剣を鞘に収め、競売人に告げた。
「正規の書類を揃えて、改めて商務局の立ち会いのもとでやれ。それまでは許可できない」
「そ、そんな! 騎士様、これは正当な——」
「私は中止とは言っていない。手続きを踏めと言っている。お前たち自身のルールだろう」
競売人は何か言いたげだったが、エリーゼの視線に射抜かれて黙り込んだ。周囲の男たちも、渋々ながら壇上から離れていく。
誠は小さく息を吐いた。完全な解決ではない。だが、少なくとも今日、この場での取引は止まった。
壇上の少女は、まだそこに立っていた。鎖に繋がれたまま、こちらを見ている。
「……あの子は」
「一時的に騎士団の保護下に置く。だが——」
エリーゼは言葉を切った。
「制度上、所有者が引き取りに来れば返さなければならない」
「……そうですか」
誠はその少女を見つめた。助けられたわけではない。ただ、一日だけ猶予ができただけだ。
——足りない。
一件の取引を止めたところで、仕組みが変わらなければ、明日もまた別の広場で同じことが起きる。
「来い」
エリーゼが歩き出した。
「どこへですか」
「冒険者ギルドだ。お前みたいな身元不明の人間を放置するわけにはいかない。それに——」
エリーゼは振り返らずに言った。
「お前のその『こんぷら』とやら、もう少し聞いてやる」
誠は、ノートPCとコンプライアンス・マニュアルを抱え直した。
夕焼けの街を、銀色の鎧の背中を追って歩く。石畳を革靴が叩く音が、異世界の空気に妙に馴染まない。
通りを抜け、路地を曲がり、やがて大きな石造りの建物が見えてきた。正面に木彫りの剣と盾の看板が掲げられている。
「ここが冒険者ギルドだ」
エリーゼが扉を押し開けた。
中は酒場のような造りだった。カウンターがあり、壁には依頼書が貼られた掲示板。革鎧や外套を纏った冒険者たちが、酒を飲みながら話し込んでいる。誠のスーツ姿に何人かが振り返ったが、すぐに興味を失ったように視線を戻した。ここでは異質な人間は珍しくないのかもしれない。
エリーゼが受付に声をかけようとした、その時だった。
ギルドの裏口が勢いよく開き、血まみれの冒険者が少女を抱えて駆け込んできた。
「治療師を呼べ! この子が——」
冒険者の腕の中に、ぐったりとした少女がいた。十歳か、十一歳くらいだろうか。魔法使いの外套が赤黒く染まり、顔は蒼白で、意識がない。
ギルドの中が一瞬ざわめいたが、すぐにいつもの喧騒に戻った。慣れた光景であるかのように。
誠の目が、少女の姿に釘付けになった。
「——この子、何歳ですか」
声が出ていた。
冒険者が誠を一瞥する。
「あ? さあ……十一とか言ってたか。こいつ、火力だけはバケモンでな。今日のゴブリン討伐で前線に——」
「十一歳を、前線に」
誠の声から、温度が消えた。
異世界一日目。是正案件、二件目。
先は長くなりそうだった——いや。
これは、長くしていい案件じゃない。
誰かが、責任を取らなければいけない案件だ。
───
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完結済み・全40話。3部構成です。




