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赤壁戦後の孫劉関係の再考 ――なぜ2人は争うことになったのか――  作者: えいの


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第4章:益州領有による力関係の逆転と「名分」の爆発 ―― 麾下統制システムの崩壊と三国鼎立の必然性

前章までにおいて、初期の孫劉同盟とは名ばかりの虚構であり、その実態は孫権を宗主とする非対称な主従関係であったことを論証した。「借荊州(貸与論)」という外交的軛くびきによって劉備の「公的執政権」は私的債務へと貶められ、孫夫人の「下嫁」と武装侍女という物理的檻によって、劉備は文字通り孫氏の監視下に幽閉されていた。

しかし、この極限まで圧縮された屈辱と、内側に秘められた「漢室復興(正当な統治)」へのマグマは、決して消滅したわけではなかった。この強固な従属体制は、劉備という類稀なる英雄の器量と、天下の地政学的変動によって内側から打ち破られることになる。本章では、劉備の益州平定がもたらした両陣営の致命的な力関係の逆転、それに伴う孫権の統制システムの完全崩壊、そして「正当性(名分)」と「武力支配(実力)」の正面衝突が引き起こした凄惨な決裂(関羽の死と夷陵の戦い)が、いかにして三国鼎立という歴史的必然へと結実していったのかを総合的に考察する。

4.1 益州平定がもたらしたパラダイムシフト ―― 「実力」と「名分」の融合

建安十九年(214年)、劉備は劉璋を降し、ついに益州(現在の四川省一帯)を平定した。これは劉備個人の軍事的成功にとどまらず、後漢末期の政治力学を根底から覆す決定的なパラダイムシフトであった。

諸葛亮が『隆中対』で「天府の国」と称賛した広大かつ肥沃な益州を手に入れたことで、劉備は流浪の生涯において初めて、他者に依存しない独自の強大な経済基盤と、数十万の兵を養うに足る人口を獲得したのである。さらに、四方を険しい山脈と長江の激流に囲まれた益州の地形は、外部からの軍事的干渉を容易に許さない絶対的な天然の要塞であった。

この益州領有が意味した最も重大な歴史的事実は、劉備が「孫権の軍事的傘下(防衛線)」から物理的かつ完全に脱却したことである。前章で述べた孫夫人という「内なる脅威」は劉禅奪還事件を機に既に排除されており、今や劉備は孫権の「麾下軍閥」でも「借用者」でもなくなった。漢朝由来の「正当な執政権(名分)」のみを抱きしめて耐え忍んできた劉備が、ここにきてついに、それに相応しい国家規模の「強大な実力」を兼ね備えたのである。名分と実力が融合した瞬間、孫権が圧倒的な優位性をもって構築していた「宗主と藩属」という初期孫劉同盟の前提条件は、音を立てて完全に崩壊した。

4.2 「貸与論」の崩壊と孫権の焦燥 ―― 恩恵から領土要求への変質

劉備の自立と強大化は、孫権の外交論理、特に「荊州貸与論」の性質を根本から変容させざるを得なかった。

劉備が麾下の小軍閥であった時期、孫権の「貸与」は「我が孫呉の防波堤として、子分に最前線の土地の管理を任せる(恩恵を与える)」という、宗主としての余裕と傲慢さを孕んだニュアンスを持っていた。しかし、劉備が益州という別個の国家規模の地盤を確立した今、事態は一変した。

劉備にとって江陵を中心とする荊州は、もはや「孫権からの借り物」などではない。「劉表から正当に託され、自力で平定した自国の領土」であり、何より「益州と連動して中原の曹操を討つための、絶対に手放せない国家の生命線(前線基地)」へとその戦略的価値を昇華させていたのである。

一方の孫権からすれば、この事態は国家存亡の危機に直等した。もはや自らの統制下にない巨大な独立勢力(劉備)が、自国の喉元である長江中流域(荊州)を占拠し続けているのである。ここに至り、孫権の「貸与論」は、上位者からの恩恵という余裕の仮面を剥ぎ取られ、「かつて従属していた時期に貸した土地(自国の正当な財産)を直ちに返還せよ」という、対等な国家間における剥き出しの領土権の主張、さらには生存の恐怖に裏打ちされた悲鳴へと変質したのである。

4.3 湘水分割の欺瞞と「正当な執政官」の爆発(漢中王即位)

この認識の決定的な断絶は、直ちに軍事的緊張となって表れる。建安二十年(215年)、孫権は劉備に対して長沙・零陵・桂陽の三郡の返還を要求した。劉備が「涼州を手に入れたら荊州全土を返す」と実質的に拒絶したため、孫権は呂蒙に命じて武力侵攻を開始する(湘水分割の危機)。この時は曹操の漢中侵攻という外部の軍事的圧力が働いたため、劉備側が譲歩し、湘水を境界として荊州を東西に分割する和議を結んだ。

しかし、これは一時的な妥協に過ぎず、両者の決定的な破局を先送りしただけであった。なぜなら、劉備はその後、さらなる「実力」の頂きへと登り詰めるからである。

建安二十四年(219年)、劉備は天下の要衝である漢中の攻防戦において、宿敵・曹操の軍勢を正面から打ち破るという歴史的快挙を成し遂げた。この勝利をもって劉備は「漢中王」を自称する。漢中王への即位は、かつて漢の高祖・劉邦が漢中から天下を統一した故事に倣うものであり、劉備が「漢室復興の大義(名分)」と「曹操を打ち破る軍事力(実力)」の双方において、天下の頂点に立ったことを宣言する行為であった。

かつて孫権の足元(京城)に跪き、軍事指揮権(都督)を乞うた弱小軍閥はもはやどこにもいない。劉備は名実ともに、天下を統べる「正統政府の君主」として覚醒したのである。

4.4 関羽の北上と白衣渡江 ―― 剥き出しの生存本能と名分の衝突

劉備の強大化に呼応するように、劉備の代官として荊州を統治していた関羽が動く。同年、関羽は軍を北上させ、曹魏の最重要拠点である樊城を包囲し、救援に来た于禁の七軍を水没させて降伏させるという絶大な戦果を挙げた。関羽の威は華夏(中国全土)を震わせ、曹操をして遷都を検討させるほどの恐怖を与えた。

しかし、関羽のこの「漢室復興」に向けた輝かしい進撃は、背後の孫権にとって、まさに自国の首を絞め上げる死の宣告に等しかった。関羽が中原へ進出すれば、荊州の軍事力はさらに肥大化する。劉備が「正当な執政官」として天下に覇を唱えれば、漢朝からの公的な名分を持たず、長江の要害のみを頼みに「実力支配」を行っている孫呉の存在意義アイデンティティは完全に否定され、いずれ飲み込まれることは火を見るより明らかであった。

ここにおいて、孫権は曹操と密約を結び、関羽の背後を急襲するという決断を下す。呂蒙による「白衣渡江(商人に扮した奇襲)」とそれに続く関羽の斬首は、後世の倫理観からは「卑劣な背信行為」と非難されることが多い。しかし、本稿の論理的枠組みから見れば、これは単なる裏切りではない。

それは、かつて「借用者」として見下していた劉備が、強固な「名分」と巨大な「実力」を併せ持つ怪物へと成長し、自らの支配体制を飲み込もうとしたことに対する、孫権の**「国家としての生物学的な生存本能」**の爆発であった。名分を持たない孫権が自国を存続させる唯一の方法は、何としても長江中流域(荊州)という「実力(地理的要害)」を完全に掌握し、独自の絶対防衛圏を構築することしかなかったのである。

4.5 夷陵の激突と三国鼎立の構造的帰結

関羽の死と荊州の喪失という悲報に接した劉備の怒りは、単なる義兄弟を殺された私怨の次元に留まらない。それは、劉表の死以来十数年にわたって耐え忍び、血の滲むような努力で築き上げてきた「漢室復興のための正当な執政基盤(荊州)」を、かつて自分を檻に閉じ込めた「名分なき実力者」によって不法に奪われたことに対する、公的な義憤の極みであった。

建安二十六年(221年)、曹丕の簒奪(魏の建国)を受けて自ら皇帝に即位した劉備は、蜀漢の全軍を挙げて呉への報復戦(夷陵の戦い)を挑む。これは、「借用者と宗主」として始まった歪な関係性の、最終的な精算であった。しかし、結果として劉備は陸遜の火攻めの前に大敗を喫し、白帝城において悲運の死を遂げることになる。

この一連の凄惨な破局は、歴史の偶然でも、個人の感情の暴走でもない。第1章から追ってきた「正当性と実力の非対称性」が生み出した、不可避の構造的帰結である。

劉備は「公的な名分」を持ちながら「実力」を欠いたことで、長らく孫権の「麾下」という檻に繋がれた。彼が益州を得て名実を具備した時、それは必然的に、名分を持たず実力のみで割拠する孫権の生存領域と決定的に衝突する運命にあった。

両者の生存戦略と国家の自己同一性が荊州において激突した結果、互いが互いを完全に滅ぼすことはできず、また魏という最大の勢力を前にして単独で覇権を握ることも不可能となった。こうして、荊州の孫呉帰属が確定し、劉備の勢力が益州に押し込められたことによって、魏・呉・蜀漢の三勢力による地政学的な均衡状態が強制的に固定化された。すなわち、三国鼎立の歴史的必然である。

4.6 小括:麾下からの解放と「三国志」の真の幕開け

劉備が益州を平定した時点で、初期の「孫劉同盟」――すなわち孫権を宗主とし劉備を従属的軍閥とする麾下統制システム――は完全にその役割を終え、崩壊した。

そこから夷陵の戦いに至るまでの期間は、もはや「同盟国同士のいざこざ」ではない。独立した二つの巨大な国家機構が、それぞれの生存と覇権、そして「名分」と「実力」の正当性を賭けて、国境線(荊州)を確定させるための血を洗う対等な抗争期であった。

劉備が「借荊州」と「孫夫人の檻」という従属の鎖を引きちぎり、真の自立を果たしたこと。そして孫権がそれに対し、名分を捨てて冷徹な実力行使(武力防衛)に振り切ったこと。この両者の自己解放と衝突こそが、偽りの同盟を終わらせ、後漢という旧時代を完全に破壊し、のちの歴史を彩る「三国時代」という新たな時代の扉を、文字通り血塗られた手でこじ開けたのである。

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