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赤壁戦後の孫劉関係の再考 ――なぜ2人は争うことになったのか――  作者: えいの


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第2章:「荊州貸与論」の実態と名分剥奪のメカニズム ―― 「公的執政権」から「私的債務」への転落

第1章において、劉備が「劉表の託付(摂)」と「劉琦の擁立」という儒教的・法的なプロセスを経て、漢朝の地方統治機構における正当な執政官(荊州牧)としての地位を確立した経緯を論証した。本来であれば、この強固な「名分」を持つ劉備こそが荊州の主権者として振る舞うべきであった。しかし、現実の歴史は全く逆の軌跡を描く。名分を持たないはずの孫権が「荊州の貸与者」として上位に立ち、名分を持つ劉備が「借用者」として平伏するという、極めて歪な従属関係が構築されたのである。

本章では、正史『三国志』に記録された劉備の「都督荊州」の要求と、それに対する孫権・魯粛の「借之(これを貸す)」という対応を歴史的転換点として位置づける。そして、孫権がいかにして劉備の「公的な執政権」を「私的な債務関係」へとすり替え、彼を対等な同盟者から麾下の軍閥へと引きずり下ろしたのか、その外交的抑圧と名分剥奪のメカニズムを解明する。

2.1 「求都督荊州」の屈辱 ―― 名分が実力に跪いた瞬間

建安十四年(209年)、劉琦の死を受けて劉備が群下から「荊州牧」に推戴されたのと同時期、荊州の戦略的要衝である南郡(江陵)は、一年余りに及ぶ激戦の末に周瑜率いる孫呉の軍勢によって制圧されていた。ここに、劉備の「名分」と孫権の「実力」が地理的に激突することになる。

劉備は自らの立場を確固たるものとするため、重大な決断を下す。自らの軍事基盤を離れ、孫権の本拠地である京城(現在の鎮江市)へ単身赴いたのである。この時の劉備の目的について、『三国志』呉書・魯粛伝は次のように決定的な一文を記している。

「後備詣京見権、求都督荊州、惟粛勧権借之、共拒曹公。」

(のちに劉備が京城へ詣でて孫権にまみえ、都督荊州を求めた。ただ魯粛のみが、これ(荊州)を貸し与えて共に曹操を防ぐよう孫権に勧めた。)

ここで劉備が求めた「都督」とは、特定の区域における諸軍を統括・指揮する最高権限を指す。前章の論理に従えば、劉備はすでに「荊州牧」であり、荊州全域の軍事指揮権は当然に彼に帰属しているはずであった。にもかかわらず、正史は劉備が孫権に対してその権限を「求めた(乞うた)」と明記している。

この「求」の一字には、後漢末期の政治力学の残酷な現実が凝縮されている。劉備は、自らが保持する漢朝由来の「公的な名分」だけでは、江陵を武力占拠する孫権の「軍事力」を排除できないことを認めざるを得なかったのだ。つまり、劉備の京城訪問と「都督荊州」の要求は、事実上、自らの公的権威を一時的に棚上げし、実力者である孫権の「私的な承認(追認)」を仰ぐという、極めて屈辱的な臣従儀礼に等しい行為であった。

2.2 「借(貸与)」への論理的すり替え ―― 暴力的なレトリック

劉備の「都督(軍事指揮権の公認)」という要求に対し、孫権の陣営は激しく紛糾した。呂範や周瑜は劉備を危険視し、そのまま京城に軟禁するよう進言した。その中で、ただ一人魯粛のみが劉備の要求を受け入れるよう主張するが、その際の論理は、劉備の公的権威を認めるものでは決してなかった。魯粛は荊州を「借之(これに貸す)」べきだと説いたのである。

この「借(貸与)」という言葉の選択は、単なる外交的妥協ではなく、孫権側による巧妙かつ暴力的な「名分剥奪工作」の核心である。

「土地を貸す」という行為は、貸与者(孫権)がその土地の絶対的な「所有権」を有しているという前提の上にしか成り立たない。

劉備のロジック: 「私は劉表・劉琦の正当な後継者(摂政)であり、荊州牧である。ゆえに、この地の軍事指揮権(都督)を私に属するものとして公的に認めてほしい」

孫権(魯粛)のロジック: 「誰が正当な後継者であろうと関係ない。現実に血を流して曹操を追い払ったのは我が孫呉の軍である。ゆえに、この土地の所有権は私にある。その私の土地を、お前に『貸して』やろう」

孫権は、劉備が掲げる漢朝・劉表以来の「公的な統治名分」を完全に黙殺し、それを「孫権個人の武力に基づく私的な債務関係」へと強引に定義し直したのである。劉備がこの「貸与」の条件を飲んだ瞬間、彼は「漢朝から認められた正当な執政官」から、孫権という宗主に土地の管理を委託された「一介の借用者(店子)」へと、その政治的地位を根本から格下げされることとなった。

2.3 呉の防衛戦略に組み込まれる「傭兵」としての劉備

孫権が「都督」の名の下に劉備に与えた役割も、対等な司令官としての権限では決してなかった。魯粛が「貸与」を提案した真の目的は、正史に「多操之敵、而自樹本(曹操に敵を多く作らせ、我らは自らの根本を樹立する)」と記されている通りである。

すなわち、荊州という曹操の脅威に直接晒される最前線(防波堤)の維持を、呉の正規軍ではなく、劉備という「借り物」の軍閥に肩代わりさせる冷徹な安全保障戦略であった。

当時の呉陣営における劉備への評価は、周瑜が孫権に上疏した策にも如実に表れている。周瑜は「劉備に宮室を建てて美女や愛玩物を与えて骨抜きにし、関羽や張飛といった猛将は周瑜自身が指揮して戦線に投入する」という、劉備陣営の解体と吸収を提案していた(『三国志』周瑜伝)。

周瑜の強硬策(軟禁・吸収)にせよ、魯粛の融和策(貸与論)にせよ、孫呉の首脳陣は誰一人として劉備を「独立した国家の君主」や「対等な同盟者」として扱っていない。彼らにとって劉備は、使い潰すための「傭兵」、あるいは孫呉の天下戦略に奉仕させるための「駒」に過ぎなかったのである。

2.4 劉琦という「緩衝材」の消滅がもたらした直接支配

この非対称な関係性が、赤壁戦直後から顕在化しなかったのは、ひとえに劉琦という「緩衝材」が存在したからである。劉琦が存命であった時期、劉備はあくまで「荊州刺史(劉琦)の客将・輔弼者」として振る舞うことができた。孫権もまた、漢朝の刺史である劉琦をあからさまに属国扱いすることは憚られ、「劉表の遺児への軍事援助」という建前を維持することが可能であった。

しかし、建安十四年の劉琦の死は、この脆弱な外交的建前を完全に消滅させた。劉琦の死によって前面に押し出された劉備に対し、孫権は直接的な宗主権の承認と、自らの戦略的枠組みへの従属を強く迫ったのである。「借荊州」の成立は、劉琦という「公的な名分」の盾を失った劉備が、孫権の「実力」の前に丸裸にされ、麾下として膝を屈した決定的な瞬間であった。

2.5 小括:公的権威の私有化と「鎖」の完成

本章の分析を通じて、「荊州借用(貸与)問題」の歴史的本質が明確になった。それは単なる「領土の貸し借り」ではなく、孫権による劉備の公的権威の私有化と、名分の完全なる剥奪プロセスであった。

劉備は劉表・劉琦以来の「正当な執政官」としての矜持を胸に秘めながらも、曹操という巨大な外患に対抗し、自らの勢力を存続させるためには、孫権が押し付ける「私的な借用者(麾下)」という屈辱的な立場を甘受するほかなかったのである。

しかし、この「貸与」による領土的・外交的な従属だけでは、孫権はまだ安心することができなかった。独立心旺盛な劉備という劇薬を完全に統制するためには、さらに踏み込んだ内政的な干渉、すなわち「血縁」と「物理的威圧」による拘束が必要であった。次章では、孫権が劉備の私生活の核心部へと送り込んだ究極の監視システム――「孫夫人の下嫁」という名の内部統制の実態に迫る。

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